老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

嘱託殺人・尊厳死・安楽死・優生思想が雑に語られる事について

 

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 この問題について書くつもりはありませんでした。

 自分が語るべきなのかどうか悩む問題というのは常にあって、その中でも特に『自分が結論に至っていない問題に口を挟む事』にはためらいがあります。ただ、先日の嘱託殺人の件からこれらの問題があまりにも雑に語られている様な気がするので、自分の頭の中を整理する意味でも書き留めておきたいと思いました。

 

 <父の入院と『尊厳死安楽死』>

 

 先日、父が病気で入院する事になりました。病名は伏せますが軽いものではなく、1ヶ月以上の入院と手術を要するものです。

 父は手術で病巣を切除し、手術後も投薬、服薬で治療を継続しなければならないのですが、先の事は分からないとしても、まだ寛解・完治の望みがあります。ですが、いわゆる『末期』とされる病状の方々の中には、はっきりと『余命宣告』を受ける方もいます。

 

 完治の見込みが無い重篤な病や、重い障がい、治療法が確立されていない難病等を持つ方々について、尊厳死』を認めるか否かを考える時、自分は他人事ではなく「父のこれから」を意識せずにはいられません。もしも父の病気が末期であって、余命幾許もない状態だったとしたら、本人や家族はどうすべきなのか。どんな道を選べるのか。自分の悩みはそこにあります。

 

 一般の人々が軽々しく言う『雑な意見』として、「本人が死にたいなら死なせてやったらいいんじゃないの? 今は薬で安楽死する方法があるんでしょう?」というものがあると思います。でもここには本来「(主に手術などの)患者にとって負担の大きい治療を望まない事」「病気による苦痛を緩和する為の治療(緩和ケア)を受けた上で暮らす事」「一切の治療を拒否する事」「投薬による安楽死を選ぶ事」という様々な選択肢があるはずです。そして、主に体の痛みに対するケアが必要な様に、心に対するケアもあってしかるべきだと自分は思います。

 

 「死にたい」と思った事がある人は多いはずです。自分にもあります。

 

 ただ、こう言ったらお叱りを受けるかもしれませんが、今生きてますよね。皆さんも、自分も。それは「死にたい」という思いが本気じゃなかったからではないはずです。

 

 以前に、本の感想を書いているブログの方で引用した事があるんですが、遠藤浩輝氏の短編漫画で『女子高生2000』という作品があります。その中で漫画家と編集者がこんな会話をしています。

 

「矢作さん 初恋っていつです?」

「あ――? 何じゃあいきなり」

「上手く相手に気持ち伝えられました?」

「いや……別にどうする事もできなかったよ。 最初は皆そんなもんだろ?」

「「死のう」とか思いませんでした?」

「何で思わにゃならんのだ?」

「……俺は思いましたよ」

「でも今生きてんじゃん」

「……」

「……そうっすね」

 

 確かに自分達は死にたいと思った。でも生きている今があるという事は、自分達の心はそれだけ揺らいでいるという事です。不真面目だった訳でも、本気じゃなかった訳でもない。

 

 その『心の揺らぎ』の中で、自分達にとっての『尊厳のある死』とは何でしょうか?

自分にはまだその答えが見えて来ません。

 

 尊厳死安楽死という言葉が雑に語られる一方で、「じゃあ自分達の『尊厳』って何ですか?」という議論がまともに行われているとは思えないという問題もあります。そうした前提となる議論を避けつつ、「安楽死、本人が望むなら別にいいんじゃないですか?」という意見を他人事の様に投げる事も可能でしょう。でもそれって、自分や家族に同じ問題が降り掛かってきた時に、同じ様に言えますか?

 

 実際、入院している父にしても、見舞いに行くと「大変だね」「悪いね」って言うんですよ。その「周囲に対する気づかいや申し訳なさ」が「もう治療はいいんじゃないか、自分はもう十分生きたんじゃないか」という気持ちに変わって行く事はあり得る事だなと思います。自分もそう思う日が来るのかもしれない。もっと恐ろしいのは周囲から尊厳死を選ぼうと思わされる日』が来るかもしれないという事ですが。

 

 

 障がい者の周りにある『善意』が人を殺す日>

 

 一方、自分は社会福祉法人で働く職員です。こんな記事を書いた事もあります。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

   さて、今回の嘱託殺人の件でも、難病や障がいという部分、あるいは逮捕された医師のSNS上での発言と絡めて、「優生思想的だ」「相模原障害者施設殺傷事件の植松死刑囚の思想に通じている」という批判が行われました。ある意味、それは正しい事ですが、自分から見ると優生思想というのは、やはりナチスのイメージが大きいせいか黙っていても警戒される部分が大きいと思います。毒キノコで言えば、見るからに毒々しい色をしたカエンタケやベニテングダケみたいなものですね。(もっともベニテングダケは猛毒ではないらしいですが)

 

 ただ、毒キノコにも「食用キノコによく似た見た目なのに毒がある」という奴がいて、誤食による被害が大きいのはむしろ見た目がしいたけみたいな毒キノコだったりします。それと同じ様に、「一見『善意』に見えるもの」あるいは「本当に『善意』から行われる事」の中に、結果として優生思想や『命の選別』につながるものはあるのだろうと思います。

 

 どういう事か。一般論として書きます。

 

 障がい福祉の現場では、上の記事でも触れた通り、入所施設が足りません。順番待ちの列が長く伸びています。

 

 障がい者本人よりも彼等の事を心配しているのは、その親です。

 「自分が介護できなくなった時、わが子はどうなるのか」という心配は常にあります。彼等にとって一番安心できるのは、信頼の置ける入所施設に子どもを預ける事です。多くの保護者は「自分が死んでも、子どもが入所施設を終の棲家として暮らして行ける」という安心を求めています。そして実際、全国的に入所希望の問い合わせは非常に多いです。住んでいる県をまたいで、遠方からの入所希望もあります。中には悲鳴の様なものもあります。

 

 「高齢で入院中の親の介護と、障がいを持つわが子の介護が重なってしまってどうにもならない。自分にはもう無理だ」

 

 切実な思いは凄く伝わって来ます。緊急性もあると思います。でも自分達福祉施設の職員や、相談支援専門員、地方自治体の福祉課職員は確認しなければなりません。

 

 「入所はご本人の希望ですか?」

 

 ここで二の句が継げなくなってしまう方がいます。例えば重度の知的障がいを持つ方の意思を確認する事の難しさもありますが、本人が入所を明確に拒否している場合、強制的に入所させる事は実質的に不可能です。

 

 『姥捨て山』の様な話だと思う方もいるかもしれません。でも現実問題として、親が亡くなった後に自立して生活して行く事が困難な程の障がいを持っている方の場合、その親が「何とかして自分が生きている間に子どもの受け入れ先を探さなければならない」と思う事は全くの『善意』だと思います。悪意をもって同じ事をする親がいないとは言いませんが。

 

 ここに、安楽死尊厳死の合法化』というものが雑に投げ込まれたらどうなると思いますか?

 

 本人の意思確認が困難な程の重度知的障がい者の親が「自分が死んだらわが子は生きて行けない」と思い、実際に入所先は見付からず、在宅での支援も限界がある中で、子どもにとっての『尊厳ある生』『尊厳ある死』のどちらに救いを求めるか。後者を選ばない保証は無いんですよ。そしてその時、社会制度として、全くの善意にもとづいて『尊厳死』を認め、合法化した自分達は『善意で人を殺す』事になるわけです。

 

 amazarashiの『つじつま合わせに生まれた僕等』の歌詞ではないですが、『善意で殺される人』について、自分達は「そんなつもりじゃありませんでした」って言って許されるんでしょうかね?

 

 善意だったんです。悪気はなかったし、他意もなかったんです。

 ただ目の前で苦しんでいる人が、穏やかに死を迎える『権利』を、自分達は認めてあげるべきだと思っただけで、それは本当に『善意』だった筈なんです。優生思想や、ましてや命の選別などではなくて、彼等の事を何とかしてあげたくて、何とかしなきゃいけないと思って、その苦しみを取り除いてあげたくて、だから自分達は尊厳死を認めたのに。こんなつもりじゃなかったのに。

 

 そう言って涙を流しながらでも、全くの善意からでも、人が死ぬのは同じですが。

 

 少なくとも自分には、まだ尊厳死の是非に結論を出す能力はないと思います。

 だから父の事も含めて『我が事として』考えなきゃいけないし、考えている間は、悩んでいる間は、安易な結論にすがりついてはいけないんだろうと思います。その為には、今すぐ目の前で行われている雑な議論に参加する前に、自分の中でもっとこの問題を煮詰めなければならないんでしょうね。きっと。