老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『人種的に正しい表現』だけでは受け止めきれない『祈り』のために

 作家の浅井ラボ氏がこんな事を呟いていらっしゃいました。

 

 

  

 

 自分は仏教美術専攻で大学を出た人間なので、ちょっと色々考えてみたいと思います。キリスト教の信仰については門外漢なのでキリスト像の表現についてはほとんど触れられないと思いますが、そこから転じて「『人種的に正しい仏像』みたいなものに意味はあるの?」「『人種的に正しい仏像』が生まれたら、自分達の信仰はどうなるの?」という問いは、こう言っては何ですが割と面白いですよね。興味深い。

 

 「人種差別に端を発した問題を面白いとは何事だ」とお叱りを受けるかもしれませんが、そうした現在進行形の諸問題について、ここでは一端脇に置きます。更に、仏像の誕生から細かく説明しようとすると本1冊分文章を書く羽目になるのでザクザク端折ります。もっと言えば自分がこれから書く事は、「こうした学説がある」という様な確かなものではないです。あくまで個人の所感、感想の域を出ないと思って下さい。ただ、このテーマはすごく面白いので、探せば『世界各地の仏像は何人として表現されているのか』というテーマの、きちんとした論文はある筈ですし、卒論のテーマだったという方もいるかもしれません。本もあるかもしれない。何なら自分が読みたいくらいの話なので情報をお待ちしています。

 

 さて、仏陀(釈迦 ゴータマ・シッダールタ)は実在の人物ですが、何せ写真も無い時代ですし、彼がどんな顔をしていたのかという事は、想像するしかありません。最初の仏像が制作されたのは、ガンダーラ仏にしろマトゥラー仏にしろ、彼の死後(入滅後)かなりの年月が経過してからです。釈迦の生没年は様々な説があってかなり開きがありますが、一説には紀元前5世紀から紀元前4世紀を生きた人物とされます。それに対してガンダーラやマトゥラーで盛んに仏像が作られる様になったのは1世紀後半から2世紀頃という事なので、この時点で「生前の仏陀の姿を写し取り、後世に遺す為に仏像を作る」という目的は達成し得ない事になります。そもそも仏像が産まれるよりも前、原始仏教では偶像崇拝を禁止していました。

 

 であれば何を求めて仏像が作られるに至ったかという事ですが、異文化の影響等、様々な理由が考えられます。『神格化』もその理由のひとつかもしれません。例えば仏陀の特徴としてよく『三十二相』と言われたりします。仏陀には、他の人々とは違う32の特徴があるよ」という感じで、経典に記されています。これもひとつの神格化でしょう。

 

 有名なのは『白毫相(びゃくごうそう)』でしょうか。仏像の眉間に点があるアレです。あれはホクロではなく、白く輝く長い毛で、右巻きに収まっているとされ、伸ばすと一丈五尺の長さがあるとされています。

 他にも「手足の指の間に水かきのような膜がある」など、常人にはない特徴があるとされ、仏像でもその様に表現されていたりします。ですが当然の事ながらそんな人間はこの世に存在しません。

 

 ではなぜその様なあり得ない特徴を付与したかといえば、偉大な人物である仏陀を神格化し、常人と区別する為です。またその特徴のひとつひとつに意味を持たせる(例えば「水かきは人々をもらさず救う事のあらわれである」など)事で、仏教の教義を視覚的に理解させる為でもあります。

 

 以前にも書いた気がしますが、「『悟り』とは何か」を言葉で説明したところで、それは目に見えず、手で触れられない『概念』です。人は『概念』を信じられる様にはできていません。あるいは可能だったとしても、困難です。そこで仏像をはじめとする仏教美術『存在感』を利用する事は、言い換えれば『概念』に形を与えて『実在』にしてしまう試みです。

 

 仏像を作る事で、「悟った人の姿とは、この様なものだよ」というひとつの『回答』を目の前に示す事。それは『概念』を『実在』の側に引き寄せる事です。形のないものに形を与えてしまう。そうすれば自分達は『悟り』を見る事も、触れる事もできる。乱暴に聞こえるかもしれませんが、実際乱暴な事です。でなければ浄土をその目で見る為に伽藍配置を徹底的に追求する様な事はしません。

 

 目に見えないもの。その手で触れられないもの。しかし自分達が渇望してやまないものを、何とか手にしたい。この目で見たい。そうした欲求が、数々の芸術や文化を生み出して来ました。それは悪く言えば『欲望』かもしれませんが、自分にはそれが、不確かな希望を『信じたい』という切実な想いの結実であるかの様に思えます。それこそが『信仰』なのではないかとすら思う。そうした意味では、仏像もまた『悟り』や『救い』を欲する人々が残した『祈り』であり『信仰』そのものだと自分は思います。

 

 ですから、何らかの形で「仏陀が生きていた当時の、平均的なインドの人々の顔」というもの復元し、そこから『人種的に正しいであろう仏陀の顔』というものを導き出したとして、その顔を『正しい仏陀の顔』として信仰の中心に据える事が可能かというと、おそらく答えは否です。学術的な面白さはあると思います。でもそれだけでは信仰に結び付かないでしょう。もしかすると今なら髪の毛やヒゲの一本一本までリアルに再現したCGの仏陀も作れるかもしれませんし、実際、既にどこかにはあるでしょうが、それがどんなに人間としての仏陀の顔をリアルに再現していたとしても、『本物』と読んで差し支えないものだったとしても、そこには自分の想いを、『信仰』を投影する事が難しい。自分はその様に思います。

 

 そして自分の想いを投影するという事で言えば、仏像にはもうひとつの役割があると自分は考えます。それは『悟りに至る道標』です。

 

 仏像は悟りを得た人の姿の具現です。それと自分を照らし合わせる事は、『自分の中のブレや迷い』を見付け出す手がかりになります。

 

 北極星の位置を頼りに夜の海を進む様に、揺れ動かない基準点を設けて、その基準と自分とのズレを確認する事。実は仏像でもそういう事が出来るのではないかと自分は思っています。同じ位置から、同じ仏像を鑑賞したとしても、受ける印象が随分違って感じる事はままあるのですが、それはなぜなのだろうと考えると、恐らく『自分の側が変化している』という事だと思います。

 

 迷っていたり、悩んでいたりする時には、自分の中の軸が大きくブレている様な気がします。そのブレは比較対象がない日常生活の中ではあまり感じられないのですが、仏像という揺れ動く事のない軸を持った存在を前にして、その軸を基準に重ね合わせてみると、いかに自分自身がグニャグニャな人間かというのがよく分かります。もっとも人間というのは生きていて、絶えず変化している訳で、仏像の様に微動だにしない軸を持つ事は難しいのでしょうが。

 

 言い換えれば、仏像は『鏡』でもあります。仏像を鑑賞する時、実はそこに自分の姿を投影していて、自分自身を内観している。自分というものを投げかける対象としての仏像があって、その投げかけ、問いかけに対して、言葉ではないけれども『答え』を返してくれる。『悟りに至る道標』と書いたのは、その様な意味です。

 

 そういう対象として仏像を考える時に、仏教が各地に広まって行く中で、その土地の文化と融合し、様々な表情を持った仏像が生まれて来た事は、必然であると言えるのかもしれません。なぜならそれを作る仏師や、信仰の対象として祈りを捧げる人々にとって、自分の祈りを刻むに足る、託すに足る存在としての仏像である為には、それが『人種的に正しい事』よりも、重要な事があるからです。

 

 更に言えば、これから先ももっと表現の幅を持った仏像が、仏教文化が、仏教美術が登場したって良いとすら思います。それが人間として実在した仏陀の姿からどれだけかけ離れた存在に変化していたとしても、そこに人々の祈りがあるのなら、それは仏像として『本物』だと思える筈だからです。

 

 『正しさ』とは何ですか?

 それは人種的に正しい表現だけを意味しますか?

 人種的に正しくない表現を全て刈り取って行った先に、何が残りますか?

 

 自分はつい、そんな事を考えてしまうのです。