カルトがはびこる今だからこそ・奥田知志『ユダよ、帰れ』を読む
今この時に、本著に触れる事ができて良かったと思います。
カルトがはびこり、宗教全体が社会から疎まれかねない中で、人々の生きる助けとなるために聖書の言葉を読み解いて行くという姿勢が貫かれている本著は、キリスト教の説教集という枠を越えて多くの人に読まれるべきものと感じました。
宗教は人々をたぶらかすのではなく、人々の生きる助けになる為にこそ存在する。
その基本に立ち返る事が、今求められている様に思います。
さて、連日、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)関連のニュースが流れていて、大学で仏教学を学んだ人間としてはげんなりする訳です。
新興宗教やカルトと言われる集団が社会問題や事件を起こす度に、宗教全体が何だか怖いものの様な、いかがわしいものの様な目で見られる。ちなみに新興宗教に対して、仏教や神道やキリスト教、イスラム教といった歴史ある宗教を『伝統宗教』と言いますが、この言葉は新興宗教ほどには知られていません。
この伝統宗教という呼称ですが、何年続いたら伝統宗教として扱うといった様な明確な基準はありません。その信仰が地域に根付いているかが基準になるからです。たとえば仏教は伝統宗教だと言われますが、仏教が信仰されていない国や地域にこれから伝教しようとするならば、その地域の人々にとっては、仏教は新しく入ってきた異質な価値観という事になり、伝統宗教とは言えないという事になります。
もっとも、多くの方からすれば新興宗教も伝統宗教も等しくいかがわしいものであり、人の心の弱さに付け込んで金品をせしめている怖い集団の様に思われているのかもしれませんね。できれば関わり合いになりたくない、という様な。
自分はお寺の跡継ぎでもないのに仏教学部に進んだのですが、それはオウム真理教が起こした一連の事件の影響でした。高学歴だったり、医師や弁護士といった国家資格を持っていたりする様な、世間一般では『優秀』だと言われる人々までもがオウムに入信し、あまつさえ教祖の命令で殺人まで犯してしまった。その『人の心の底知れなさ』の様なものに自分はあてられてしまったのかもしれません。
「これは人の心理や宗教というものに向き合っておかないといけないのではないか」
当時、自分は本気でそんな事を考えていました。
恐ろしいものと向き合った時、人が取り得る手段はいくつかあります。ひとつは対象に背を向けて距離を取る事。もうひとつは近付いて対象を知る事です。両者ともその根っこは同じで、そこには自分の中の『恐怖』や『畏怖』を何とかしなければならないという防衛本能の様なものがあります。そして自分が選んだのは後者でした。
おそるおそる近付いて、宗教というものを知ろうとする事。
それはやってみると案外面白く、有意義な学びでした。そして実感したのですが、宗教が本当にいかがわしく、人心を惑わすだけのものであるなら、それは人類史の途中で既に潰えていただろうという事です。
軽く2千年を超える歴史は、伊達ではありません。
良いものも悪いものもその内に抱えているにせよ、宗教というものはある時には様々な文化を形成しつつ、自分たち個人、そして自分たちが暮らす社会と共にありました。それはいつの時代にも『救い』を求める個人の『願い』や『祈り』があった事を意味しています。平たく言えば「人生とはままならない」ものであって、その「ままならなさ」に挫けそうになる時に、人の心の支えになるものが必要とされる。その担い手が宗教でした。そしてその役割のひとつは、人々に『物語』を提供する事でした。
苦難の時にあって、救いに繋がる様な物語。
受け止め難い現実の厳しさから来る痛みを慰める様な物語。
個人の生に意味はあるのかという根源的な問いに対して、その意味を探す助けとなる様な物語。
「そんなものは全て嘘ではないか。作り話ではないか」と言われれば、自分ならあえて「そうかもしれませんね」と答えると思います。宗教家の方々にはお叱りを受けるかもしれませんが。ですがそれは、人が救われたいという願い、祈りの結実です。紀元前の昔から、いつの時代も人は救いを求めて生きて来ました。それは宗教の存在とともに歴史に刻まれています。
つまり、今を生きる自分が感じている『生き苦しさ』(息苦しさではなく)は、何も自分だけが感じているものではなく、これまで生きてきた人々も抱えて来た苦しさだという事です。自分はひとりではなかったという事です。現代において宗教や哲学を学ぶ事の意義のひとつは、『自分は孤独かもしれないが、ひとりではない』という事を、先達の記した言葉を紐解く中で実感として得る事です。
ですが、宗教は『物語』であるが故に、それを読み解く人によっては、都合よく『解釈』されるものでもあります。
ここで現在の新興宗教、カルトが起こしている社会問題に話を戻しましょう。
カルトの多くは、伝統宗教の教義を都合よく『解釈』したり、複数の宗教の教義から浅い部分だけをつまみ食いした『継ぎ接ぎの教義』を採用したりしている事が少なくありません。既存の宗教を都合の良い解釈で繋ぎ合わせてできたカルトは、多くの場合、教団の利益のために信者を利用して行きます。そこには『邪悪な解釈』が存在すると言えます。
たとえば『お金に過度な執着心を持つのは良くない』という教えがあったとします。それは自分の中の欲望を認めて、その欲に振り回されない様に上手く付き合って行かなければならないという『解釈』に立つならば無害です。ですがカルトはそれを「お金に執着心を持つのは良くない。だから今持っている財産の全ては教団に寄進して、手元から捨ててしまわなければならない。お金とは常に人心を惑わす毒だからだ」といった『邪悪な解釈』をします。
両者を見分けるのは、平時には簡単な事である様に思えますが、実際に心が弱っている時に冷静な判断を下すのは難しい事です。自分は絶対に騙されないぞ、と言える自信は、仏教学を学んだ自分でもありません。謙遜ではなく、事実としてそうです。
ですから冷静に物事が考えられる状態の時に、覚えておく必要があります。それは、正しい宗教とは常に『助けるべき人のそばに軸足を置いている』という事です。具体的に言えば、人を生き難くする事はしないという事です。
お金に執着心を持つのは良くない。確かにその通りです。ですが、現代の日本で生きて行くにはお金が必要だという事は誰でも分かります。子どもでも分かります。お金がない事は生活苦に直結します。お金に対する執着心を戒める事と、実際の日々の暮らしのどちらが優先されるべきかは言うまでもありません。どんなに貧しかろうと教団に寄進を絶やすなというのは、既に信徒をより生きやすくする事、助ける事から軸足を離してしまっている。教団の体制維持や勢力拡大の方に軸足があって、信徒は利用されるだけになっている。
これが、宗教という物語を邪悪に解釈するという事です。
伝統宗教が人々との間に築いてきた繋がり、信頼関係を横から乗っ取る。救いを求める人々の願いや祈りを搾取する。そういった邪悪さです。
であれば『正しい解釈』というものもまた、存在します。
『正しい』という言葉に棘やいかがわしさを感じるならば、『人に寄り添った解釈』と呼び替えてもいいと思います。そう、本著に記されている奥田氏の説教の様に。
自分はキリスト教については門外漢ですが、聖書の言葉を引いて説教を行う時に、現代と聖書が書かれた時代の価値観の違いや社会情勢の変化、個人の人生観の変化をどうやって埋めて行くのか、繋いで行くのかは、まさに『聖書を読む』という読み手の想いが試されるのだと思います。これは、仏教の法話でもきっとそうだと思います。
過去に先達が残した言葉を、どうやって今を生きる人々に繋ぐか。
そして、なぜ繋ぐのか。それはもちろん、人々の中にある『生き苦しさ』を慰め、これから先も歩き続ける助けとなる為です。杖の様に。背中を押す手の様に。
常に助けるべき人の隣にある事。軸足を置いている事。それが、本来の宗教の意義です。
であれば、その『読み解き方』は、柔軟であって良いはずです。必ずしも聖書の言葉通りを、教条的に読み伝える必要はない。
『ユダよ、帰れ』
本著の表題となっている説教でもありますが、そういう『赦し』があってもいい。
ユダとは言うまでもなく『裏切り者』の代名詞です。イエスの弟子、使徒でありながら銀貨30枚で師を売った。この逸話はあまりにも有名で、今ウクライナで起きている戦争の際にも、ウクライナに駐在していたベラルーシの大使にウクライナの国境警備隊が国外退去を命じる際、銀貨の入った袋を受け取る様に迫り、大使が拒否するとその胸元に袋を投げ付けたという一件があり、その際の動画とされるものを自分もSNSで見ました。ベラルーシはウクライナに侵攻したロシアに与している。大使は裏切り者だという意志の表明でしょうか。
ユダが赦される場面は聖書には描かれていません。
厳密に言えば、イエスを裏切り、その後自ら命を絶ったとされるユダが、死後その罪を赦されたのかどうか知る者はいないという事になります。でも、実際にホームレス支援もされている奥田氏は、赦しがある場所、帰る事ができる場所としての『ホーム』が、誰にでもあるべきだという『読み解き』をされます。
「ホームにたどり着いた人は天国に行けましたが、帰る場所を見失ったユダのような人は地獄に行きます」でいいのか。生きていた時にホームと呼べるものがなく、死んでからもホームに入れてもらえない。そんな神様なら、いらないと思います。私たちが「福音」と言ってきた事柄がそんな陳腐なことなら、それはずいぶんひどい話ではないか。私は、牧師として意地でも彼らを「成仏」させなければならないと考えます。それが教会の使命です。
牧師の立場で「そんな神様なら、いらないと思います」と言い切るには、信念が必要です。少なくとも教条的に聖書を読んでいる人には言えない。聖書や仏教経典をつまみ食いして都合の良い解釈を並べ立て、邪悪な解釈をしているだけのカルトは言わずもがなです。本著の題名にもなっていますが、聖書を『読む』という事の本来の意味は、ここにあります。
ただそこに書かれた言葉を追うのではなく、人々が――仏教的に言えば衆生が生きる助けとなるために読む。読み解く。聖書という物語に『人に寄り添った解釈』という補助線を引き、それを求める人に繋いで行く。
そこまでやるからこその宗教です。
宗教は人々をたぶらかすのではなく、人々の生きる助けになる為にこそ存在する。
今は宗教全てが忌避される世情となりつつありますが、いつか宗教という物語がまた必要とされた時に、その軸足を置くべき場所を誤らない様に、また今現在自分や家族を犠牲にする様な信仰を求められている人々に、「そうではない『ホーム』だってあるよ」と言える様にしておきたい。本著を読んで、自分はその事を再確認する事ができました。そしてより多くの人に読まれて欲しいと思います。