老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

原始仏教から『心理的ソーシャルディスタンス』を考える

 ここ最近、カルト関係、仏教関係の記事が続いているのですが、今回もその流れで書きます。予想以上に反響があり、今はこういった信教の問題や、また宗教以外にもカルト的な抑圧にさらされる環境(ブラック企業とか)に悩んでいる方が多いのかなと思います。その悩みをすぐに解決するのはなかなか難しいと思うのですが、色々な事を考えるきっかけにして頂ければと思います。前回はこの様な内容でした。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 今回は、前回書いた『自灯明・法灯明』という考え方についてのまとめの様なものになります。具体的にはSNSが普及した現代において自分達が陥りやすい問題点を踏まえ、昨今言われる『ソーシャルディスタンス』という考え方も取り入れつつ、心理的ソーシャルディスタンス』について考えて行こうと思います。

 

 

 さて、突然ですが『真理』って何でしょうね?

 

 

 唐突に切り出しましたが、この『真理』という言葉もオウム真理教事件の影響で、ずいぶん『胡散臭い』イメージが付いてしまいました。オウム真理教が信者を死亡させたり、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしたりしたのが昭和63年から平成元年にかけてなので、その頃から数えればもう30年以上が経過した事になります。地下鉄サリン事件が平成7年で、そこから数えても25年が経過しており、当時生まれていなかった人からすれば、「新興宗教団体が教団施設内で毒ガスを作り、それを地下鉄にばら撒いた」なんていう話をしても、フィクションだと思われてしまうでしょう。

 

 でもこれは、実際に起こった事です。

 

 当時、事件が社会に与えた影響は凄まじく、様々な人々が教団や信者、教団幹部、そして教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)の事を分析しようと試みていました。

 なぜ彼等は反社会的な行動に走ったのか。それも殺人やテロという重罪です。その事に対する論理的な説明を社会は求めていました。

 

『洗脳(マインドコントロール)されていて、教祖の命令に逆らえなかったから』

 

 いつしかそんな理由で皆が納得する様になりました。

 新興宗教というのは信者の価値観や倫理観を、厳しい修行や薬物投与で書き換えてしまうのだ。そして自分を失った人々が、教祖の言いなりになってテロ活動を行ったのだ、という考え方です。それは、ある一面では正しいかもしれません。

 

 しかし、同時にオウム真理教の信者達は『真理』を追い求める人々でもあった筈です。

 何が正しいのか、何を信じて生きて行くべきか。人生の中でそんな大きなテーマについて悩む事は誰にでもあります。無数にある選択肢の中から、正しいもの、信じるに値するものを掴みたい。そして叶うなら『真理』を知りたい。

 

 では、それ程までに重要な『真理』って何でしょうね?

 

 最初の問いにループして戻って来ました。

 真理とは何かを、短い言葉で説明する事は難しいのですが、ひとつ確かな事があります。

 

『真理は、誰が語ったかによらず、真理である』

 

 まあ、たった今考えたフレーズですが。

 

 仏教における真理を説明する時によく言われるのは万有引力の法則とニュートンの関係』『地動説とコペルニクスの関係』です。簡単に言えば、ニュートン万有引力の法則をまとめる前から、世界には既にそれが真理として存在していたのであり、コペルニクスの地動説以前、つまり天動説が信じられていた頃から、地球は太陽の周りを回っていたのだ、という事です。ニュートンコペルニクスはそれらの真理を『発見』したのであり、彼等がそうした法則を作り出したのではないという事です。

 

 誰が発見し、誰が語っても、誰の目から見ても真実である事。変わる事がないもの。

 ここではそうしたものを『真理』と呼びます。

 

「科学的な真理は自分の外側、この世界の法則を指し示し、宗教的、哲学的な真理とは、人間の心や精神といった内面に見出される」という人もいます。

 

 科学的な真理。宗教的、哲学的な真理。そのいずれも、真理はそれ自体で成り立っているのであって、誰が言ったか、誰が発見したかでその内実が変わる事はありません。人が定めるものではなく、また、人が定めるまでもなく存在しているものです。逆に言えば、どんな立派な人が語ったところで、真理でないものを真理にする事はできないという事です。

 

 ですが日々の暮らしの中で、自分達は『それを言ったのは誰か』という事を非常に気にしています。そうした姿勢は、果たして正しいと言えるでしょうか?

 

 SNSで多くのフォロワーを抱えている人、タレント、YouTuber、コメンテーター、評論家、学者、政治家、プロスポーツ選手、作家、映画監督、役者、芸術家、他にも発言力のある人々は数多くいますが、そうした人々が言っている事を、内容を吟味せずに『この方が言っているのだから正しいのでは』と思ってしまう事は誰にでもあります。自分がファンだったり、生き方や考え方に共感できる部分が多かったりする相手ならなおさらです。

 

 逆に気に入らない相手や、自分と意見や価値観が食い違う事が多い人の言葉は、内容に関わらず『この人が言っている事だから、嘘くさいし信用できない』と思ったりする。これもままある事です。

 

 でも、相手との信頼関係や好悪はさておき、これらの反応には何ら根拠がありません。こう書くと分かりやすいでしょうか。

 

仏陀が語ったのだから、その教えは真理である』

麻原彰晃が語ったのだから、その教えは真理である』

 

 誤解を恐れずに言えば、このふたつは本質的に同じ事を言っています。その教えを聞く人=自分が、教えの正しさを判断する基準を「それを言ったのは誰か」という外的要因に委ねてしまっていて、自分で判断せず、真理に照らしていないからです。師が存命であれば、その様な他人に寄りかかった姿勢でも立っていられるでしょう。しかしこれもまた真理として、どんなに慕っている相手でも、どんなに愛する者でも、いつか別れなければならない時が来ます。『生者必滅会者定離』とも言う様に、生者は必ず死に、出会った者とは必ず別れる定めだからです。

 

 仏陀はいつか自らがこの世を去る時に、自分という支えを失った弟子達が嘆き悲しみ、執着に縛られるかもしれない事、そして場合によっては道に迷うであろう事を知っていたと考えるのが自然です。ですから入滅する前に、弟子達には『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言った訳です。これまで弟子達を導いて来た師の言葉にしては突き放した印象を受けるかもしれませんが、弟子達から師に対する執着を取り除き、真理とは誰が語ったかによらないのだと示す為には、仏陀自身の存在が弟子達の中で大きくなり過ぎる事は本意ではなかったのかもしれません。これがいわゆる『自灯明・法灯明』です。

 

 真理は仏陀が語らずとも、そして仏陀の死後も存在し続けるものです。

 確かな真理を支えにして、自立する事。師を喪ったとしても、迷う事なく生きて行く事。おそらく仏陀が弟子達に望んだのは、その事でした。

 

 逆に、集団の中で求心力を持ちたい、自分の意のままに他人を動かしたいと思えば、仏陀と逆の事をすれば良いという事になります。手の中に秘密を隠し持ち、知りたければ忠誠心を示す様に迫る。また自分が語る言葉だけが真理であるかの様に振る舞う。自分に逆らえば地獄に落ちるのだとうそぶく。そうすれば、自分が生きている間は(或いは死後も)延々と信者を縛り付け、影響力を行使し続ける事ができます。

 

 教団を作り、師となる者が弟子達に教える事は、教義に対する理解を深める為に有効である一方、こうした支配や依存、執着を生む可能性を孕んだ諸刃の剣でした。その事に対する苦悩は原始仏教の経典の中にも見る事ができます。

 押井守監督が映画『イノセンス』の中で引用した事で、一躍有名になった言葉です。

 

 『孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように』

 

 中村元先生の訳による『ダンマパダ』の第二三章『象』(岩波文庫ブッダの真理のことば 感興のことば』所収)には以下の様に書かれています。

 

 

 

 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、ともに歩め。

 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

 

 仲間や師を求める事と、ひとりで生きる事。そのどちらが良いのかという事は過去に論争され、おそらくは今も明確な結論には至っていません。ですが現代を生きる自分達にとっての問題とは、『既に自分達はひとりで生きる事が困難である』という事です。

 

 仏陀が生きていた時代ですら、悟りを求めて身分を捨て、出家して世俗を離れ、黙々と修行に励む様な暮らしができるのは限られた人々だけでした。更に自分達は、生まれた時から社会制度の中に組み込まれ、様々な義務や権利を与えられ、他者と密接に関わりながら生きて行く事になります。加えてSNS等が普及するとともに、『自己』と『他者』の心理的な距離』はさらに近くなりました。

 

 あるリアリティー番組の出演者がSNS上で批判に晒され、自ら命を絶つという痛ましい事件が起こったばかりですが、人と人との心の距離、心理的な距離が近くなると、過度な批判も相手に届きやすくなります。そして匿名の発言者が束になって個人を誹謗中傷する様な負の部分が日常的に見られる様になります。

 

 他にもやっている人がいるから。たくさんリツイートされるし「いいね」が付くから。動画の再生回数が稼げるから。そんな風に、隣にいる匿名の誰かも喜んで他人に石を投げている事が可視化される仕組みがあるせいで、自分達は思慮分別をなくしていく。つい流されるし、それを反省しなくなる。これでいいのかと立ち止まって考えられないし、考えようとしない。

 

 こんな自分達で満足ですか?

 

『発言力の大きな人の意見が正しいものとして無批判に流布される事』

『発言内容よりも、誰が言ったかが重視される風潮』

『集団の意見に流されて自己反省をしない事』

 現代におけるこうした諸問題を解決する手段はないものでしょうか。

 

 そのひとつが『自灯明・法灯明』ではないかと自分は考えます。

 

 この社会で、今からSNSを無くす事はできません。個人的に捨てる事はできるかもしれませんが、不便を覚悟しなければならないでしょう。仏陀の様に出家する訳にもいかない。でも『真理』というのは、時代や生活様式が変わっても無効にならないから『真理』なのだと考える時、今この社会で『自らを島とする』にはどうすれば良いかを考えれば、現代でも有効な答えが導き出せる筈です。

 

 自らが島だとすれば、それを水底に沈め、押し流そうとする大洪水は社会構造であり、他者の意思や思惑です。そんな中で、真に自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずに生きる事。それは言い換えれば、他者との心理的な距離を離して、もう一度自分の心を見つめる事です。心理的なソーシャルディスタンスを考え直すと言い換えても良いかもしれません。

 

 自分の心の置所を、一時だけでもSNSや他者から離してみる、距離を空けてみる。

 誰が言ったか。どれだけ多くの人が賛成しているか。そうした外的要因から自分の判断基準を引き剥がしてみる。

 多数派の意見を無批判に受け入れていないか、無自覚に他者を傷付ける様な行いに加担していないかを反省する。

 

 真理は誰が語ったかによらず真理である様に、誤った事や悪事はどんなに大勢の人々が支持し加担したところで正しくはならない。それを正しく判断できる自分を持つ事。大洪水でも沈まない島を持つ事。暗闇を照らす灯明を持つ事。

 

 こうした生き方を導き出す上で、SNSはおろかネットもスマホも影も形も無かった頃の原始仏教の経典に記された考え方が参考になるというのは、ちょっと面白い気もします。当然仏陀といえども今の社会のあり方を見通していた訳ではないでしょうが、真理というのは不変であり、普遍でもあって、自分達はまだ釈迦の掌の上にいて、彼の想像の範囲を超える程には遠くまで離れられていないという事なのかもしれませんね。

 

 まとまりが悪く、かなり長くなってしましましたが、オチらしきものも付いたところで、今回はこれにて。