老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『美空ひばりさんのAI』が歌い続ける未来像は、宗教の本質である

 

 昼間にこんなツイートをして、書きたい事は全部このツイートというかスレッドに書いてあるのですが、こちらのブログにもまとめておこうと思ったので転載します。

 

 何か『美空ひばりさんのAI』の話題が流れてくるのを見てて思ったんですが、大学で仏教を学んだ人間からすると、これって宗教の一側面の様な気もして考えさせられるんですよね。まあその受け止め方自体が自分の誤読かもしれない訳ですが、以下にまとめたいと思います。

 

 仏教の場合は仏陀その人が亡くなって初めて、お弟子さん達の手によって『経典』『戒律』ができた訳です。これを『第一結集』と言った訳ですが、要するに読んで字の如く、お弟子さん達が集会を開いたんですね。

 

 何が目的だったのかと言うと、それまで仏陀の教えというものは口伝や暗唱で伝えられていた訳ですが、仏陀が入滅した、つまりは亡くなった事で、彼の教えが散り散りになったり、誤解や思い込みによって異説が生じたりする事を防がなければならなくなった訳です。仏陀の生前はいいんですよ。迷ったら本人に確認する事が出来るから。「師よ、あなたは以前こんな事を仰っていましたが、その真意とはどんなものだったのでしょうか」という風に。

 

 それが仏陀の入滅によって不可能になった時に「仏陀の教えとはこれだった」というものをまとめなければならなくて、今回の件で言えば様々な情報をAIに学習させた様に、仏陀その人の教えを知るお弟子さん達が、彼の教えだとされる言葉をまとめて行くんですね。だから経典の冒頭に『如是我聞』(私はこの様に聞いた)という言葉が入ってくる訳です。

 

 問題は、仏陀の死後にまとめられた経典と、仏陀その人の考えは本当に同じだったのかという事を、現代の自分達が確認する手段が無い事です。宗教的には同じであるという事になっていますが。(そこに疑いを挟むとあらゆる宗教が成り立たなくなるので)

 

 ただ事実として、宗教というのは必ず教祖や開祖といった存在を失った後に、その後の教義の解釈を巡って意見の対立が起こります。そして、その結果として教団は分裂して行く事になります。よく聞く『~派』というのはその枝分かれした後の教団ですね。

 

 仏教の場合は仏陀の死後100年を経て『根本分裂』という大きな教団の分裂を経験します。更に後の時代になるとそれらはもっと枝分かれして行く。それは宗教としての劣化や本質からの乖離ではなく、変化する時代や新たな土地、またそこに住む人々に対応する為の『多様性の獲得』だと今の自分は思っていますが、それでも仏陀を人間として見た時に、故人の意思から少しずつ離れて行くのは事実な訳です。仏陀の手からは離れて独り歩きを始める事になります。たとえ仏陀といえども、それを阻む事はできません。

 

 美空ひばりさんAIの話に戻ると、それを望むのは『周囲』なんですね。『本人』ではない。仏陀が死後教団の存続や自身の教えの継承をどの程度願っていたかは分からないけれど、残された人々にとってそれは『必要だった』から行われた訳です。仮に故人がそれを望んでいなかったとしても。

 

 そう考えると、美空ひばりさんのAIが新曲を歌い続ける未来というのは、宗教が存続し続ける根本原因と同じなんですよ。周囲が望み続ける(祈り続ける)限り不滅の存在というものが宗教の中には昔からあった訳ですが、現在の自分達は更に具体的な形として『永遠に歌い続ける昭和の歌姫』をAI技術とCGで作れる様になってしまった。 それがどの程度オリジナルの本質や意思を反映しているかというのは全く別問題ですが事実としてそれは既に可能な訳です。

 

 なので、長々と書きましたが、自分はこの件はもう少し継続的に考えて行く必要がある気がしています。 それは現代において宗教がどの様な役割を担っているかという大きなテーマと関係するからです。メディアの方は必要ならAI研究に携わる方だけではなく、宗教学の専門家に取材すると興味深い意見が出て来るかもしれません。自分もそういった方々の意見を聞いてみたく思います。