老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか』を読む

 

 この本、待っていました。

 先日、こんな記事を書いたのですが、なぜ書いたのかというと、「本著を読む前に一度自分の中のカルト観を整理しておいて、読後にもう一度考えてみよう」と思ったからでもあります。

  

kuroinu2501.hatenablog.com

 著者の瓜生崇氏は、自らも浄土真宗親鸞会という教団に入信し、教団内では講師部に所属するまでになり、勧誘活動やネット上での教団批判対策等の仕事に従事されていた方です。その後脱会して、現在は真宗大谷派玄照寺住職としてお勤めされながら、カルト脱会の支援活動をされています。

 こうした経歴を持つ方の『カルト観』は、自分が持っているそれからさらに踏み込んだものだろうなと思っていましたが、本著を読んでみるとまさしく自分が知らなかったカルトに対する『気付き』を得る事ができました。

 

 先の記事で書いた様に、自分は大学で『学問としての仏教』『思想・哲学としての仏教』を学んだ訳ですが、では『信仰としての仏教』に精通しているかというとそうでもないと思っています。私生活で、どこかのお寺に足繁く通って法話を聴いている訳でもないですし、戒律を厳格に守って生活している訳でもありません。そして毎日熱心に読経や唱題をしている訳でもありません。

 

『信仰と生活の距離』というものを考える時、自分と信仰というものの距離は遠い様に思います。生活に密着した形で信仰を意識する事は少ないです。でも、今の自分の性格や人格を形成する要因として、大学で学んだ事は核になっていると思います。

 

 さて、そんな自分が瓜生氏の著作を読んで「ここは踏み込んでいるな」と感じた点がいくつかあります。ひとつは、伝統宗教新興宗教(カルト)の境界線を疑う事』です。

 

 一般に「カルトはいかがわしい偽の宗教であり、伝統宗教との違いは明確である」というのは、そうしておかないと伝統宗教側の正当性に疑義が生じるからですが、両者の間を行き来した瓜生氏からすれば、そこに両者を二分する明確な境界線を引く事は難しいという事になります。カルトを定義しようとする時、伝統宗教にも同じ様な問題点が無いのか考える事は、伝統宗教の側に不安を生じさせる事になる為に、多くの場合その問題点は無視されてしまう訳です。

 

 例えるなら、世間を騒がせる様な殺人事件を起こした犯人を『異常者』として「自分達とは違う怪物なんだ」と定義すれば、『一般人』である自分達の不安が覆い隠される様なものだと思います。秋葉原通り魔事件の加藤智大や、相模原障がい者施設殺傷事件の植松聖は『異常者』で、自分達とは違う種類の人間なんだと思う事にすれば不安が軽減される。でもそれは本当なのかというと、実際は彼等と自分達の間にそんなに大きな差はないのでしょう。それと同じ事です。

 

 ふたつめの気付きは、カルトと伝統宗教との間に明確な境界線が引けない以上、『カルト信者と一般人の間にも明確な違いはない』という事です。どちらの生き方が『より良い生き方』『正しい生き方』なのかという事は、一概には決められない。そもそも『正しい生き方』というものがあるとして、それを明確に定義できるでしょうか?

 

 本著でも、カルトに引き寄せられてしまう人達について書かれている部分を読むと、他の大多数の人々が深く考えない様にして生活している『人生の目的』や『正しい生き方』というものについて、真剣に悩み、考え、自分なりの答えを求めてもがいている『真面目な人達』なのだという事に気付かされると思います。そういった悩みを意識する事なく、趣味を見付けたり、旅行をしたり、友人と遊んだりといった楽しい事、熱中できる事に注力して生きている人が多い中で、どうしても『人生の目的』といった根源的な問いから目を逸らせない人々がいるという事。そして、その中からある一定数の人々がカルトに入信してしまうという事。その事を踏まえないと、問題解決への道筋は見えて来ません。

 

 以前の記事でも書きましたが、これは『カルトに入信してしまう特殊な人々』の問題ではない訳です。本著にある様に、教祖が最初から私利私欲の為に他人を騙して信者にしてしまおうと画策したのか、それとも崇められ、期待される中でその思想や教義が先鋭化・反社会化し、暴走して行くのかは定かではないとしても、同じ様な人心掌握術を用いて活動している人は数多くいます。宗教家以外にも、著名人や経営者、政治家やインフルエンサーと呼ばれる人々の多くが、こうした人心掌握術に長けています。そうした人々にとって、自分達は『獲物』かもしれないし、既に無自覚に取り込まれてしまっているかもしれない。そうやってカルトの問題を『自分事』として考える必要性を、本著は説いている様に思えます。

 

 本著を読んで、自分の中のカルト観も揺らぎました。だから最後に、自分なりのカルトの定義を更新しておきたいと思います。

 

 自分は『迷ったら原点に立ち返る』事にしていて、この場合の原点とは大学でも学んだ原始仏教の世界です。日本語で原始仏教を学んだ人なら、おそらく誰もが一度は中村元先生の著作にお世話になっていると思います。その中からブッダ伝 生涯と思想』を読んでみました。中村先生の著作は難解な教義を優しく紐解いてくれる様な文章で、するすると読めるのでお勧めしたいです。 

 

 

 その中で仏陀が入滅する(亡くなる)前に弟子に説いたものとして『自灯明(じとうみょう) 法灯明(ほうとうみょう)』というものがあります。

 

 要約すると、死期を悟った仏陀に弟子が説法を頼むのですが、それに対して仏陀は「自分はもう悟った理法は全て説き終えたし、これ以上秘密の教えを隠している事もない。そして自分は教団を指導してゆくものでもない」と答える訳です。では仏陀亡き後に弟子達は何を頼るべきかというと『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言うわけです。

 

 中村先生によればこの『島』というのは、「大洪水の時でも水面下に沈まない州」の事を指しているとされ、インドでは馴染みがあるたとえだったのですが、漢訳される時に暗闇を照らす灯火を指す『灯明』とされた為に、日本では『自灯明 法灯明』として知られる様になりました。

 

 仏陀の説いた法(ダルマ)は、仏陀が入滅しても変わる事が無いものであるから、仏陀が生きていても、また死してこの世からいなくなっても、変わらず法をたよりとして、人を頼る事なく、よく自分自身を法と照らし合わせて見つめ直し、そして正しく自分自身をたよりとして生きて行きなさいという事です。他人を頼りにするものではないという事です。

 

 歴史を振り返れば、仏陀の入滅後、弟子達はその教えを経典として編纂し、後世に伝えて行く事になります。その中ではリーダーシップを発揮して、教団を率いて行く者も必要だったでしょうし、弟子達に教えを説く教育者としての役目を負う者も必要だったでしょう。そして教団はやがて分裂を繰り返し、広い世界に様々な形で仏教が伝播して行く事になります。様々な部派、宗派が生まれ、それぞれに教祖や開祖が立ち、各々の教団を率いて行く事になります。しかしその原点として仏陀が説いたのは、修行者は自分自身を灯明(島)とせよ、という事でした。

 

 この事を考えると、カルト的な教義を持つ宗教の中に多く見られる『教祖への絶対服従』『教団トップへの盲従』が、歪なものである事が分かります。宗教ではなくてもパワハラ気質で経営者への服従を求めるブラック企業や、異論や自らの非を一切認めないトップに支配された集団でも同じ事です。教祖や組織のトップが全ての実権を握っていて、信者や構成員を振り回す組織は、結局のところそのトップが倒れた後の事を想定していないし、そこで指導者や指針を失って放り出される仲間の事など一顧だにしません。頂点に立つ人間が、自分自身の今さえ良ければ後は知った事ではないと考えているからです。または権力を親族に世襲させて永続的な搾取を望んでいるからかもしれません。

 

 また、『自らをたよりとする』為には、心身ともに健やかである事が必要だと自分は思います。ですから、必要以上の労働や奉仕を求める教団、企業、組織はカルト的だと言えるのではないでしょうか。更に、自己啓発セミナー等でもよく行われる様な『自己否定』を課題に組み込んでいる組織もカルトだと思って良いと思います。参加者全員でひとりを囲んで欠点を責め、罵声を浴びせ続ける等の行為ですね。

「今のあなたがどれだけ駄目で、自分達の教えがどんなに優れているか。だからあなた自身の考えや価値観を一旦壊して捨てなさい。代わりに自分達が『正しい生き方』を身に付けさせてあげよう」なんていう事をしたり顔で吹き込んでくる組織は、『自らをたよりとする』生き方を育む上でマイナスになります。本来たよりとするものを壊せ、と言うわけですから。

 

 もしもこれを読んでいる人が、健康を損なう程の労働・奉仕・自己否定を求めてくる組織に身を置いているとしたら「これはカルトではないか。教団(組織)は自分の為を思ってくれていないのではないか」と思い直すきっかけにして欲しいと思います。自分はかつて仏教を学んだ事は自分の中でとても良い事だったと思っているので、宗教が原因で不幸になって行く人がいる現状が嫌だし、『より良く生きたい』という誰もが持っている願いに付け込んで搾取する輩が大嫌いなので、そうしたものと戦う人に本著が届いて欲しいなと思います。