老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

現実を模刻する物語・柴田勝家『アメリカン・ブッダ』

 

 

 自分はいつも下記の別サイトで本の感想を書いているのですが、この柴田勝家氏の短編集アメリカン・ブッダについては、特に表題作が仏教をテーマにした作品という事もあるので、出張版でこちらに感想を載せたいと思います。本当は感想書きがメインで、このブログはサブ扱いなんですが、更新頻度が逆転しつつあるのが何とも悩みどころ。

 

dogbtm.blog54.fc2.com 

 さて、自分は某大学の仏教学部で仏教美術を学び、かれこれ20年前くらいに卒業した人間なのですが、その前から仏教や美術についてどこかで学んでいたのかというと、そんな事はありませんでした。興味はありましたが、お寺の跡継ぎという訳でもなく、進路選択は完全に自分の興味優先でしたし、仏教美術を専攻する事に決めたのも大学に入ってからでした。学問も美術も完全に素人です。

 

 そういう素人が卒業制作として、自らの手で仏像などに代表される仏教美術を作る事を目標にゼミに臨む訳ですが、それは基本的に『模刻(もこく)』になります。既にある他者の絵を忠実に再現する事を『模写』と言いますが、その彫刻版をやる訳です。そして当然ですが、最初は全くできません。これは当然の話で、ゼミが始まるまで絵画や彫刻等の基礎的な技術を学んできた訳でもない素人が、国宝や重要文化財に指定されている様な彫刻を模刻するというのは簡単ではありません。

 

 なぜ『できない』のか。そして、なぜ『できる様になる』のか。

 

 それは対象を何度も見て、何度も考えるからです。

 『自分がなぜこの彫刻に魅力を感じるのか』『この彫刻を構成している要素は何か』という事を自問自答する。考える。手を動かす。一度作ったものを壊してやり直す。また考える。立ち止まる。もう一度歩き出す。その試行錯誤の末に、素人ながらわかってくるもの、見えてくるものがあります。

 

 なぜ自分は美術に心動かされるのだろうという事。

 なぜ自分は仏教美術が好きなのだろうという事。

 歴史の中で、なぜ人々の信仰は変化しつつも途絶える事なく続いて来たのかという事。

 自分の中の信仰とは何かという事

 

 それらひとつひとつを自分の中で再発見して行く事。そうした理解の深まりが、作品としての彫刻に還元されて行く、昇華されて行く瞬間があります。だから、「対象を写し取る」というよりも、「自分という存在を一度通した結果を再出力する」様な手順で模刻は完成に近付いて行く事になります。それは「制作を通して技量が上がったから再現できた」というよりも、『ひたすら制作対象と自己の対話を続けたら、新しい視座に至った』という方が近いかもしれません。

 

 物語としての手触りは違いますが、本著に収録されている『邪義の壁』を読んだ時に感じたのは、この『新しい視座に至る』までの感覚でした。

 

 宗教・信仰というのは『教義を学び理解する』だけでなく、『信仰対象を見つめ、自己と対比させる』という行為によって成り立っています。仏教において仏像とは信仰対象であると同時に、自己を対比させる為の壁、ないし鏡の様な存在であって、仏像を見つめる時、そこに自分自身の姿を重ね合わせる事でその差異を捕まえる事が出来る様な、一種の『ものさし』としての役割を担っていると自分は考えています。

 

 自分自身を見つめ直す事を『内観』と言ったりしますが、自分で自分を見つめ直す事は意外と難しい訳です。そこに『自己を投影する事ができる存在としての信仰対象』が挟まる事によって、「自分の内面を一旦スクリーン(信仰対象)に映して眺めてみる」事ができる様になります。「自分を見つめる自分という視点」を、「自分自身の外側に置く」為には、視点を自分自身から引き剥がすよりも、自分の内面を外側に投影する方がいい。そして、その為のスクリーンとして仏像は機能する――というと随分システマチックに聞こえるかもしれませんが、言葉にするとこんな感じでしょうか。そして、その内観を経て新しい自分が立ち上がって来る瞬間があるのです。

 

 その上で、本著の表題作である『アメリカン・ブッダ』を読むと、小説家としての柴田勝家氏もまた、彫刻と小説というジャンルの違いこそあっても、この『模刻』と同じ事をしていると感じます。誤解がない様に最初に書いておくと、柴田氏が誰かの小説をお手本に書いているという意味ではないです。「小説家が自らの言葉で『仏教を語り直す』事によって、その本質を捕まえようとしている。そしてそれは成功している」という事です。

 

 『アメリカン・ブッダ』は、ネイティブアメリカン(作中ではあえてインディアンと書かれています)の青年が仏教的な信仰を持ち、それを他者に語る姿が描かれるのですが、それは既存の仏教そのものではなくて、作家、柴田勝家氏によって『語り直された仏教』なんですね。そして『語り直す』為には、まずそのものの本質に対する理解がなくてはならない。

 

 当然、元ネタはあります。仏教学を学んだ人、仏教を信仰する人なら、様々な言葉が思い浮かぶはずです。『阿含経』『四苦』『四諦八正道』『六道輪廻』といった言葉たちです。ですが、あえてそれらの言葉を使わず、それらが持つ意味や物語を捕まえて、現実のネイティブアメリカンの信仰とも融合させ、それでいて仏教の本質からは外さずに、もう一度練り直し、語り直す。それは模刻の手法だと思います。そして模刻の目的は手本を模す事、再現する事ですが、そこには不思議と『製作者自身』が乗るものです。どこかで、必ず作者本人が垣間見える瞬間がある。小説ではそれを『作家性』と呼ぶのかもしれません。

 

 伝統宗教を信仰する人々、継承する人々は、「自分達が受け継いで来たものを、そのまま次代に伝える」事を目標にされている事が多い様に思います。それは尊い事だし、価値ある事だと思います。その一方で、自分を通して、自分が見聞きした教えを語り直す事の意味、意義もまた大きなものです。

 

 現代を生きる自分たちが、自分たちの言葉によって伝統宗教の教えを語り直す時、現在と過去の距離はぐっと近付くはずです。そこには新たな理解と、共感が生まれる。『アメリカン・ブッダ』が、「仏教の教えを生きるネイティブアメリカンの青年」というフィクションを描く時、そこには当然、『物語のネタ的な面白さ』は計算に入っていると思いますが(だって実際凄く面白いし)それだけではない。この「それだけではない」という部分が凄く大きいし、効いていると思います。

 

 仮にこの物語的な改変が入る事によって、作品全体が仏教の本質から外れて行くとすれば、物語としてのエンタメ的な面白さも薄れる訳です。読む人が読めば『嘘だな』という事が伝わってしまう。でも逆に自分は凄く『ありそう』だと思いました。だからこそこの『物語という名の嘘』がくっきりとした輪郭を持って立ち上がって来る。虚構としての強度が高い。それは言ってみれば『確かな手触りがある』という事です。

 

 虚構を物語る事が、現実を語る事と結ばれる。同じにはならなくても、限りなく近似値に迫って行く。それは模刻が決して本物と同じものにはならないままで、本質を捕まえて行く事に似ています。模刻という行為によってしか迫れないものに迫って行く事。物語るという行為によってしか語れない現実、本質を捉えるという事。それらは恐らく同じ行為です。対象が彫刻か、小説かという違いがあるだけで。

 

 そうだとすれば、小説家というのは仏教的に言うところの『方便』『比喩』を駆使して、現実を語り直す人々だと考える事もできますね。自分が小説を好きな理由も、恐らくこのあたりにありそうです。

 

 仏教に興味をお持ちの方は、表題作以外にも『刺さる』話が目白押しですので、この機会にぜひ読んでみて下さい。そして感想をお聞かせ願えれば幸いです。