老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

漫画版『戦争は女の顔をしていない』だからこそ届く読者がいることを思う

  

 

 小梅けいと氏の漫画版が話題になった事で、原作であり、取材に基づく実話であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏の『戦争は女の顔をしていない』の事を知りました。それだけでもこの漫画版について自分は感謝したいのですが、こうした『戦争』を描く作品が漫画化される事には否定的な意見がつきまとうものだと思います。本作の絵柄を問題にするツイートもいくつか目に留まりました。

 

 確かに小梅けいと氏の絵柄は、登場する女性たちを可憐に描いていると思います。ただ少なくとも自分は、その事をもって本作を否定する気にはなれません。なぜなら本作は、『戦争というものを全く知らない若者』に届ける事を念頭に置いて、『どうすれば若者に原作の持つ凄まじさが伝わるか。それ以前に、どうすれば彼等の目に留まり、手に取ってもらえるか』という事を考え抜いた結果、今のこの形になっていると考えるからです。それは自分に言わせれば『漫画=芸術が持つ力を正しく見極めた上での選択』だと思います。

 

 それがどういう事なのか説明する前に、ちょっと回り道をします。

 

 自分は、大学時代に仏教美術を学んでいました。美大生だった訳ではなく、ゼミに入るまでは全くの素人です。美術や芸術の基本も歴史も何も知らない。同じゼミの仲間も大体そんなものです。これが意外と面白いもので、自分達から出て来る疑問は端的に言って全部『素人考え』な訳です。ちゃんと基礎を学んでいる人間なら知っている様な事にいちいち驚き、躓いて行く。関心を持って食い付いて行く。その中に、こんなものがあります。

 

 『そもそも仏教美術って、何で必要とされてんの?』

 

 このレベルからです。でもこれって、考えてみると凄く面白いテーマでもあります。

 

 仏像とか寺院建築とか、仏具とか、お坊さんが身に着ける袈裟とか、仏教には様々なビジュアルがあります。でも、本質的に仏教というのは『教え=教義』がメインであり、他の宗教と比べても非常に哲学的です。だったら何で荘厳な仏教美術の数々が必要なのでしょう?

 

 自分の卒論のテーマの一つはこれでした。なので早口で説明したいところですが断腸の思いで割愛して自分が考える結論だけ書くと、それは『人は目に見えない教義を信じる為に、目で見て、手で触れる事のできる確かなもの=仏教美術を必要とするから』です。なんのこっちゃ、と思うでしょうか。

 

 自分は本を読むのが好きですが「赤い花が咲いている」という一文で、貴方はどんな花を思い浮かべますか?それは今自分が思い描いたのと同じ花でしょうか?自分は、あなたの心の中に咲いている花と、自分の心の中に咲いている花は絶対に同じものにはならないと思います。

 

 言葉や文字というのはそうしたものです。言葉そのものにイメージが付いている訳ではなく、「その言葉によって自分がどんなイメージを思い浮かべるか」という事が全てです。ですから極論すると本を読んでも『自分の中に答え(イメージ)がないもの』を思い浮かべる事は不可能です。受け手である自分の中にどれだけのイメージが眠っているか、そして書き手が選ぶ言葉がどれだけ巧みに読者の中のイメージを想起させるかが全てです。だから、あえて書きます。

 

 「『悟り』って何ですか?」

 

 この時点で、少なくとも凡夫である自分はお手上げです。

 『悟り』なんて見た事もなければ触れた事もない『概念』です。その概念を自分の中に想起しろと言われても、まさに取り付く島もない状態です。仏教では『方便』と言って、様々なたとえ話を用いて何とか教義を理解させようとする訳ですが、それにしても限度というものがあります。そこで、『美術という「現物」が持っている存在感を利用してわからせる』という、ある意味暴力的な手段が取られる訳です。これだ!というイメージを現物の形にして目の前に差し出す事で、難解でとらえどころのない概念は自分達が目で見て、触れる事が可能な実体を獲得する訳です。そして一度目にしたものなら、自分達は言葉によってそれを想起する事ができる様になります。

 

 だから「悟りを開いた人ってどんな姿なのよ?」と言われれば山程の仏像を作り、「極楽浄土ってどんな所よ?」と問われれば力技で中尊寺金色堂を作る訳です。百聞は一見にしかず。どうだ見たか!これで一目瞭然じゃ!という奴です。

 

 だから、怖い。

 

 美術や芸術が持っている『力』『怖さ』とはこの『存在感』です。本来形のない概念にすら形を与える事が出来る。多くの人々の目に触れる事で美術の方が『実体』になって行く。それは自分達の中に確固たるイメージを植え付ける事、叩き込む事です。ある意味でも何も芸術や美術というものはこうした意味ではれっきとした暴力です。人を感動させる、心を震わせるというのは、それだけの衝撃を与え得る力で殴り付ける=人の心に干渉するという事だし、そうした力を持つ存在はやがてそれ自体が崇められる様になります。偶像崇拝の禁止とは、つまりこうした偶像が持つ力を抑制する為の仕組みです。

 

 前置きが長くなりましたが、ここで話は一周して『戦争は女の顔をしていない』に戻って来ます。では訪ねます。

 

「『戦争』って何ですか?」

 

 あなたの心の中には、どんなイメージが湧き上がりましたか?

 

 人によって様々だと思いますが、日本では『自身の戦争体験』を思い起こす事ができる世代の人々は本当に少なくなっている筈です。自分だってもう40代のオッサンですが、自分の父が既に終戦の年に生まれたという世代ですから、当然戦争のせの字も知りません。そんな自分が思い浮かべる事が出来る『戦争』のイメージがどこからやって来たのかといえば、それは間違いなく戦争映画やドラマ、漫画、アニメ、ゲームといった映像からです。当時の実際の記録映像もありますが、自分の場合、入口はやはり様々な映像作品でした。

 

 これを読んでくれている貴方の『戦争のイメージ』はどこからですか?

 『地獄の黙示録』ですか?『プラトーン』ですか?『火垂るの墓』ですか?『はだしのゲン』でしょうか?それとも『プライベート・ライアン』の冒頭15分?

 

 それらは、戦争の全てですか?

 

 ……自分は、思うんですよ。自分からして既に戦争なんて知らないのに、自分の子どもたち(まあ自分自身は独身ですが)の世代から見れば、戦争なんてものは既に仏教における『悟り』と同程度に想像も付かない『概念』になってしまっているんじゃないかって。だって体験した事もないし、こればっかりは自ら体験しようという訳にも行かない。だから、言葉の上だけで得た知識を元にして「わかった様なつもり」になってしまう事だって簡単にできる。それが実像とどれだけかけ離れたものになってしまっていたとしても、答え合わせをする為の実像を自分の中に持っていないから。

 

 そんな社会に、原作である『戦争は女の顔をしていない』に記された言葉がそのまま投げ掛けられた時、自分達はそれをどれだけ実感を伴ったものとして心の中で想起する事が可能なのでしょうか?それは原作が優れているかどうかとは全く別問題です。問題は受け手である自分達の、酷い言い方をすれば『劣化』にあるのだから。

 

 だから自分は、漫画版の『戦争は女の顔をしていない』は、もっと売れるべきだと思います。なぜならこの漫画は自分よりももっと戦争から遠く離れた若者に直接届く様に計算されているからです。小梅けいと氏の絵柄もその為にあります。本作は、本来実体を伴った戦争が概念になりつつある世代に、「これは架空の物語じゃなくて実話なんだよ、彼女たちは実際に戦争という時代を生きたんだよ」という事を知らしめる為の入口となる役割を担っていると言えます。

 

 その上で、「いや、実際の戦争というものはもっと泥臭くて救いが無くて、当時を生きた女性たちもこんな可憐な姿じゃなかった筈だ。彼女たちはこんな風に美化されるべきじゃないんだ」という感想を抱いたのなら、本作を否定するのではなく、自分が正しいと感じる表現も並行して世に出して行く、或いはそうした表現を支持して行くべきです。多くの選択肢が受け手に示される事が大事で、そうした意味では現状まだまだ戦争に対する表現は数が少ない様に思います。その証拠に近年は「ちょっと戦争してみるのもいいんじゃないか」みたいな空気があちこちで醸し出されている。その危うさにこそ、自分達は対抗して行かなければならないのではないでしょうか。

 

 追伸。岩波書店様のTwitterアカウントによれば原作の第9刷は2月中旬に重版出来予定との事で、自分はそれ待ちです。