老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

その言葉の向こう側にいる、あなたへ・長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読む

  

 

 本を読む事を諦め始めて、少し経った。

 

「読書なんて娯楽なのだから気負わなくていい。義務でするものじゃない」

 そう言われれば、それはその通りで。でも『その通りになってしまう事』をどこかで拒絶している頑なな部分が、自分の中にはある。

 

 本を読む。小説を読む。そこに書かれている言葉を拾って行くと、自分の心の中に波が立つ。だから拙い言葉で感想を書いてみたりする。以前は自然とできていたそれらの事が、最近は酷く重い。そして、無意味な事の様に思える。

 

 自分自身の行為に、少なくとも自分だけは意味を認めている事。価値があると思える事。

 読書でなくても、何をするにしても、それだけはきっと必要なのだと思う。そこを崩してしまうと、もう何もできないし、何とも向き合えない。それは自虐というのとも違う、もっとゆっくりと摩耗して行く様な、自分に対するネグレクトの様な感覚だ。

 

 もう、どうでもいい。

 

 毎日、ニュースを見る。将来に対して悲観的になってしまう様な報道ばかりだ。そして自分にはそれを変える力も、それに耐える力も、抗う力もない。何もかもが裏目裏目に転がっている様に見えてきて、顔を上げられない。

 

 そして、自分が今こうして書いている文章だって、もうAIが書けるのだという。

 それも、もっと優れたものを。試してみた事はないけれど。

 

 小説を書くAI。絵を描くAI。課題のレポートを代わりに書いてくれるAI。人間はそれで遊ぶ事に夢中だ。間違った答えや、嘘や、出力される歪んだ絵さえ楽しい。きっともうすぐ、人間にできる事はAIで全てできる様になるのだろう。本作でも描かれている通りに。

 

 自動運転される、事故とは無縁の自動車。

 人間が書くよりも正確に、そして相手を傷付けずにこちらの意図を伝えられる様な文章の代筆。

 そして、ダンスも含めたあらゆる創作や表現。

 

 自分は『人が嫌がる仕事の肩代わり』よりも先に、『人が望む事を人より上手くこなす事』を覚え始めたAIが、きっと怖いのだと思う。自分なんかよりもっと上手く自分の気持ちを言葉にできるAIが現れてしまったら、立つ瀬がない。

 

 AIなら人より上手くできる事を、あえて人がやる。そこには必ず『なぜ?』『何の意味が?』という問いが生じるだろう。それは一歩間違えれば、人間の価値を容易に毀損する。そうした無意識下の『恐れ』のもとで、自分は本作を読み始めた。そして案の定、こうしてまとまりのない言葉を書いている。そう、AIならもっと上手くまとめられる様な類の。

 

 自分の言葉が明確なものにならないのは、自分でも掴めていないものを言葉にしようとしているからだ。

 

 なぜ小説を読むのか。なぜ感想を書くのか。それに何の意味があるのか。価値があるのか。

 

 でも、何だろう、分からないなりに思うのは、自分はきっとその小説なり絵の向こうに『誰か』がいて欲しいと思っているのではないかという事だ。AIじゃなく。

 

 自分はAIなんて全く詳しくないけれど、仮に、絵を描くAIに「pixivのデイリーランキング100位以内に入るイラストを描け」と指示をしたとして、実際にそれを行えるだけの機能を持たせたとするなら、それは可能だろうと思う。

 AIはpixivを巡回し、100位以内に入っているイラストを閲覧、学習して、それらのイラストが持っている特徴を把握し、その共通点や差異、ランキング推移の傾向等をデータ化する。そうした学習の結果出力される絵は、きっとクオリティの面では人間の作家が描くものに並び得る。もっと簡単に、ランキング上位にいる特定の作家のイラストを大量に学習して、似た構図や作風の絵を出力するのでも構わないだろう。

 

 問題は、きっとAIが描く絵を見る自分達の側は、それを書いたのがAIなのか人間なのかによらず、良い絵を見た時と同じ様な感情の揺れ動きを得るだろうという事だ。そしてそれはイラストだろうと小説だろうと、最終的にはきっと同じ事になる。

 

 極論すれば自分達は、自分の脳裏に想像した世界で生きている。

 

 例えば『赤い花が風に揺れている』という一文があったとして、それ以上の描写がなければ、作者が意図した光景と、読者が想像する光景は、同一にはならない。赤い花とはどんな花か。バラも赤ければチューリップも赤い。それが風に揺れている様はどんなものか。もっと描写を細かく、言葉を重ねる事でその齟齬は小さくなりはするだろうけれど、全く同一のイメージを他者と共有する事はできない。隣に座って同じ映画を観ても、他者と自分が抱く感想が全く異なる様に、自分達は自分自身の脳裏に思い描いたイメージを見て、その中で生きている。他者と言葉でコミュニケーションをしていても、自分が見ているのはその言葉によって想起された『自分の内側にある想像』でしかなく、だから容易に目の前にいる他者とすれ違う。

 

 だからこそ、その最初の言葉を発したのが人間なのかAIなのかを問わず、自分は『そこにある言葉』に心を動かされるはずだと思う。適切な言葉が、適切な順序でそこに並んでいたならば。

 

 でも、相手がAIだったとしたら、そこには人間を相手にした時とは決定的に違う事がある。それは、その言葉の向こう側には『誰か』なんていないという事だ。コミュニケーションの始点。自分に対してその言葉を投げかけたはずの『他者』が、『あなた』がいないという事だ。

 

 それはキャッチボールだと思っていた行為が、実は壁当てだったみたいなものだ。相手が人間でなくとも、壁にボールを投げれば跳ね返っては来る。そのボールを取って、また投げ返す事もできる。でもそこには、自分しかいない。『あなた』がいない。

 

 絵だって同じ事だ。AIが描くイラストの中の人物は、ただ「そう描く方が、構図としてバランスが良く好まれる」からそう描かれただけであって、その瞳は誰も、何も見ていない。なぜそう描いたのかという意図も、描かれた人物の背景も、その絵によってどんな事を伝えたかったのかという作家の意図もそこには無くて、学習させた絵の総和から導き出された近似値としてのイラストがただある事になる。自分はその絵を見て好みだと思うかもしれないけれど、その先がない。鑑賞者の側がどんなに手を伸ばしても、その先には誰もいない。『あなた』がいない。

 

 どちらが先になるのだろう、と思う。

 

 AIが『あなた』と呼ぶに足る意思や主張、人格や精神と呼ぶに足るものを備えるのが先か。それとも人が、他者にとっての『あなた』である事を諦めるのが先か。

 

 後者なんじゃないか。自分にはそんな気がしてしまう。

 

 本作はAIを否定して人間を持ち上げる物語ではないし、その逆でもない。人とAIは共存し、互いを補い合い、互いを高めあって存在して行けるはずだという力強さがある。その上で、人はAIに潰される事もなく、他者とのコミュニケーションや自己実現を諦める事もなく、誰かにとっての『あなた』として生きられるはずだという未来が描かれている。

 

 自分は、その事をまず嬉しいと思う。心強いと思う。好ましいと感じる。でも自分の中にはそれらを懐疑してしまいたくなる弱さや脆さがあって、その暗い部分ではこうも思うのだ。

 

 

 今はまだ、自分が向き合う言葉の向こう側に、生身の『あなた』がいて欲しい。

 

 

 拙くても、まとまりながくても、AIで代替可能なものでしかなくても、他者からその価値を認められていなくても、今はまだ『あなた』に諦めて欲しくない。

 

 自分が誰かにとって、同じ様になれるかどうかは分からないけれど。