老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

障がい者支援施設職員の目線から『「利他」とは何か』を読む

 

 

 本著『「利他」とは何か』は、5人の著者による共著であり、彼等がそれぞれの研究分野や専門性を活かして『利他』という行為・概念を紐解いて行こうという本になっています。

 

 自分は仏教学部で学んだので、『利他』という言葉をどこか仏教用語の様に受け止めてしまう部分があるのですが、この『利他』という言葉の意味や意義を再確認する事は、現代の日本においても重要な意味を持つ事になりそうです。

 

 なぜかと言えば、『利他』は今死にかけているからです。

 

 では、そもそも『利他』とは何か。

 それは本著の題名にもなるくらいですから、一言で言い表せるものではないでしょう。ですが、何となくのイメージとして『自分の為ではなく、他者の為に尽くす事』という印象を持つ方が多いのではないでしょうか。

 

 大乗仏教には『利他』と対を成す言葉として『自利(じり)』というものがあり、『自利利他』という言い方をされます。『自利』というのは、自らが修行等をして努力する事、またそれによって得た功徳を自らの為に受け取る事であり、利他とは他者を救済する為に自らの力を使う事です。

 

 この『自利』と『利他』は相反するものではなく、両方を調和させて行くべきだというのが大乗仏教における考え方です。逆に自分の利益ばかりを追求する浅ましい状態は『我利我利(がりがり)』『我利我利亡者』等と言って批判されます。

 

 自分の為にする事と、他者の為にする事。自利と利他。それは綺麗に切り分けられるものではないのだろうと思います。自分達は日々の暮らしの中で、そこまで『我利我利』に徹している訳ではないですし、「これは自分の為だ」と言いながら、結局それが誰かの為になっているという事もあります。逆に「これはあなたの為なんだから」という善意のお仕着せが相手にとって負担になってしまう事もあります。

 

 最初に言ってしまえば、自分達は不完全でいい加減な生き物です。不安定で、ふらふらしている。理路整然とした論理で生きている訳ではないし、常に正しい規範に則って生きている訳でもない。

 

 そういう『いい加減さ』が、利他という行為を分かり難いものにしている部分もあります。でも、自分達はそれでもこの『利他』という言葉の意味を再確認すべき時期に来ているのかもしれません。それは冒頭で述べた通り、『利他』は今死にかけているからです。具体的に言えば、『自利利他』のバランスが大きく崩れだしている。相手が差し出す利他を受け取る為には、受け手側に『義務』や『権利』が必要だという社会になってきている。少なくとも自分にはその様に思えます。

 

 受け手側が、利他を受ける為の『権利』を持っている事を証明しなければならないとすれば、それは『利他の死』ではないでしょうか。

 

 この事について考える上での手掛かりを本著は示しています。

 本著の冒頭で、伊藤亜紗氏は『合理的利他主義『効果的利他主義という二種類の利他主義について解説してくれています。

 

 まず『合理的利他主義』とは「自分にとっての利益」を行為の動機とする利他主義です。

 例えばコロナ禍の中では、他者の感染を防ぐ事が自分自身の感染を防ぐ行為になります。この様に、他者の為にした事が、自分の利益になって帰って来るという事を前提とした利他主義が『合理的利他主義』です。自らの利益を期待する利己主義と、その利己主義の戦略のひとつとして行われる利他的行為が連結されて地続きになっている。自らを顧みず、どこまでも他者に尽くすという、言ってみれば『自己犠牲』を前提とした利他主義ではなく、自己の利益となる事を見込んで利他を行う。ある意味自分に正直で、受け入れられ易い考え方かもしれません。

 

 次に『効果的利他主義』ですが、こちらは哲学者のピーター・シンガー氏が提唱している利他主義であり、その原則は本著で引用されている通り『私たちは、自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>をしなければならない』というものです。

 

 本著で伊藤氏が示す様に、<いちばんたくさんのいいこと>とは『最大多数の最大幸福』であり、つまりは功利主義です。功利主義利他主義が連結されるというのはなかなか衝撃的かもしれませんが、『効果的利他主義』は更に効果・効率といったものを徹底的に数値化して行きます。

 

 例えば自分の財産から100万円を寄付するとします。

 

 普通なら、自分達は自分自身の価値観≒感情に従って寄付先を決めるでしょう。貧困世帯への支援をしているNPOに寄付するのもいいし、難病の治療法を研究している機関に寄付するのもいい。環境保護団体に寄付するのもいいかもしれません。それを決めるのは自分自身の価値観です。

 

 ですが『効果的利他主義』ではそれを数値で考えて行きます。どの分野・団体に寄付をする事が<いちばんたくさんのいいこと>になるか。それを徹底して数値化する事で、個人の主観による、言い換えればムラのある利他では支援の手が届かない様な、見落とされがちな人々や問題に対しても支援を届ける事ができる。もっと言えば、自分自身が支援者に回る必要はなくて、大金を稼ぐ手段があるのであれば自分自身は『稼ぐ側』に回り、その年収から一定割合を効果的利他主義の考え方に沿って寄付する方がより『効果的に多くの人々を助ける』事ができるかもしれないし、最初に寄付しようとした100万円を資産運用で増やし、その運用益を寄付した方がもっと効果的かもしれない。

 そうして個人の価値観や感情を排除して数値的な効果を追求するのが『効果的利他主義』です。

 

 本著を読んで『合理的利他主義』と『効果的利他主義』という概念を知った時、自分には何かこの『自利』と『利他』のバランスの崩れ方が、今の日本の問題なのではないかと思える様になりました。『自利』と『利他』の両輪が回るバランスが、その間に『利益や効率の追求』という価値観が挟まる事によって崩れている。そんな気がします。

 

 例えば以前別な記事で書いた様に、『同性愛者は子どもを産まないのだから生産性がない』(だから税金を使って支援する事には合理性がない)という発言が政治家の口から堂々と語られる様になりましたし、『生きるに値しない命』というものがあると信じる人の数も増えた気がします。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 他にも生活保護を受ければ社会のお荷物の様に言われ、少子高齢化社会の中で高齢者や未婚者、子どもを持たない家庭への風当たりが強くなりつつあります。それは社会に対する=社会を構成する個人に対する負担を増やすなという意志の表明であり、ある意味では追い詰められた個人の悲鳴なのですが、それが一部の人々によって都合よく解釈された結果、「社会から支援を受ける側も『義務』を果たす事で初めて『権利』を主張できる様になる」という考え方が生まれました。

 

 その『義務』とは「支援される側が自分の『立場』をわきまえて過度な要求をしない事」だったり「子どもを産む事」だったり「自分が受けるサービスよりも多くの負担を背負う事」だったりします。

 言い換えればそれは『合理的利他主義』を曲解し反転させた考え方で、『利益を返せないのなら利他を求めるな』という事です。でも、全ての人が自分に向けられた利他に何らかの利益を返す事など不可能ではないでしょうか?

 

 例えば自分は、社会福祉法人障がい者福祉に携わっています。勤務先は障がい者支援施設で、いわゆる『入所施設』です。入所施設では重度の知的障がいを持っていて、家庭や地域社会で自立して暮らして行く事が困難な方々が、介護職員による24時間365日の支援を受けながら共同生活しています。ですが彼等は社会にとって、何らかの利益を返せる人々でしょうか? 返せるとしたら、それはどんな利益でしょうか?

 

 自分は敢えて上の様に書きましたが、これだけでもう不穏なものが漂って来る気がします。『合理的利他主義』にしろ『効果的利他主義』にしろ、利他というものに何らかの成果≒利益や数値的効率を結び付ければ、それが果たせない人に対して利他≒支援の手が差し伸べられない事は合理的判断として容認されるという事になります。

 

 平たく言えば『役に立たないものは救わなくても良い』という事です。

 

 この、言葉にすれば身も蓋もない『切り捨て』が、理路整然として正しいものの様に聞こえてしまう事。それが今日本が抱えている『歪み』であり、その先にあるのが利他主義の死』です。

 ですが、『自利』を一切顧みず、自己犠牲的な利他を追求する事もまた『利他主義の死』へ繋がる道である様にも思えます。一直線で急激な死か、緩慢な死かの違いがあるだけで。滅私から出る自己犠牲的な利他を継続できる人は稀です。そして継続性がない支援は、それが途切れた時にこれまで助けて来た人々を巻き添えにします。

 

 では、自分達はどの様に『自利利他』のバランスを取って行くべきなのでしょうか?

 

 自分が仏教学部卒だから言う訳ではありませんが『嘘も方便』という言葉があります。

 『方便』というのは元々仏教用語なのですが、まあ「本当に伝えたい事を相手に届ける為のたとえ話」程度に思って下さい。

 

 まず前提として自分は本質的には『人間を有用性の有無で判断するのは止めよう』という立場です。役に立つとか立たないとか、利益を生むとか生まないとか、生きていても良いとか悪いとか、そういう価値基準を人間に当てはめる事は間違いだと思っています。ただ『合理的利他主義』を曲解している人に対して、方便として『重度知的障がい者だって社会の役に立っている』と主張する事は可能ですし、『重度知的障がい者を支援する事の社会的意義』を論じる事もできます。過去にも障がい者福祉に関連して、「『弱者を切り捨てて行こうぜ』という価値観に基づいて生きて行く事は、結局『いつか自分が切り捨てられる行為に手を貸す』という事だ」と書いた事があります。 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 これは「自分の利益になるから利他的な人間であるべきだ」と言っている訳ですから、今思えば『合理的利他主義』です。障がい者福祉に対する合理性を訴える為の方便ですし、自分自身に対する仕事への動機付けでもあります。実際自分はこの仕事で報酬を得ています。自らの利益になるからやっている。その事に嘘はありません。

 

 ですがその前提に立つと、仮に今の仕事が自分にとって利益にならなくなったり、社会的な意義が失われたりしたら、もう目の前にいる人達に対する支援が打ち切られてもいいのかという問題が生じます。

 

 実際、仕事であっても、お金を稼ぐという利益の為にやるのなら、福祉の仕事から離れたって構わない訳です。それこそ『効果的利他主義』に立って、自分はもっと別の仕事で利益を出して高額納税者になって、その上で寄付もするよ、という生き方を選んでもいい。そしてそのお金の稼ぎ方にしても個人投資や不動産を使った賃貸収入の様な限りなく不労所得に近い様なものだっていい訳です。自分の能力と資産的にそれができるかどうかという問題はありますが。

 

 でも、そこまで考えて、やはり問題はループして最初に戻る訳です。「『利他』とは何か」という事に。

 

 自分達は合理性が保たれているから利他をするんでしょうか?

 自分の利益の為に利他的な人間でいようとしているんでしょうか?

 自分という存在は、そんなに論理的でしょうか?

 

 これは思い付きですが、自分達は芥川龍之介の小説蜘蛛の糸に登場するカンダタと同じ様に、利他を行う時には何の他意もなくそうしているのでないでしょうか?

 

 後になってから、何で蜘蛛を助けたのかと聞かれれば、誰もがそれっぽい理由を思い付くでしょう。蜘蛛は害虫を食べてくれる益虫だからとか、単に無益な殺生をすると寝覚めが悪いからだとか。でもそれは理由を聞かれたから今考えたというだけの事で、本当の理由ではない気がします。そして本当の理由なんていうものは『無い』のかもしれません。

 

 本著の中でも中島岳志氏が親鸞歎異抄を紐解きながら『「利己的な利他」を超えられるのか』というテーマを示してくれています。その詳細は本著をお読み頂くとして、氏が示すのはそうした自分の意志で行う利他を離れた、外部からやってくる利他です。

 自分の意志の外側に利他があって、それは不意に、自動的に外からやって来るものなのではないか。自分達の内側には利他は無いのではないか。

 

 不思議な考え方に思えるかもしれませんが、自分にはこの考え方がとてもしっくり来ました。

 

 自分が考えていた『利他の死』とは、つまり『狭い意味で利他を定義する事』だったのかもしれません。『合理的利他主義』や『効果的利他主義』を曲解して適用すれば、利他というものと利己主義を連結する事ができます。見返りを期待する利他主義を広める事は、『利益が見込めない利他を行わない事』に正当性を与えます。そこでは利他は一方的な『施し』に過ぎなくなり、施す側は利益にならない事をする必要はない。だから、施しを受ける側は、自分がそれに足る利益を相手に返せるだけの『価値』や『有用性』を持っている事を示さなければならなくなる。そういう重荷を背負わせる事になる。

 

 その結果、『利他』は死にます。

 

 ならば自分達にできるのは、利他とは何かと問いつつも、そこに明確な定義を当てはめない事なのかもしれません。自分の利他的行為の理由を合理性の中に回収しない事。理由(≒利益)があったから助けた=理由がなければ助けなかったという罠にはまらない様にする事。合理的理由でも自己犠牲でもなく、特に理由もなく誰かを助ける事。

 

 目の前にいる誰かを助けなくても良い理由を、切り捨てても良い理由を探したい為に利他を定義するのではなく、誰かを助ける事にいちいち理由を求めなくてもいい様に利他とは何かを問う事。本著はきっと、その手助けをしようとしてくれているのだと思います。