老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

批評すること、論じること、そして背中を押すこと・『ライトノベルの新潮流』を読む

 

 

 唐突ですが、実は自分はライトノベルを読む人』だったのです。昔は。

 

 なぜ『昔は』と言わなければならないかというと、今はそれほど読めていないんですよね。決して「ライトノベルが嫌いになった」とか「最近のライトノベルは面白くない! 自分が若い頃はもっとこう――」みたいな事を言いたい訳ではないんですが、「毎月新刊を買い、折り込みの小冊子で来月の新刊をチェックして、発売日には必ず書店に行く」様な熱量のある読者ではなくなってしまいました。それは本読み界隈でたまに言われる作品の内容や質の問題ではなく、単純に自分の中での変化です。

 

 そんな自分ですが、趣味で『本の感想を書く』という事をずっとやっています。これも最近は滞りがちで、「感想書きです!」と声を大にして言える程のものではないですが、自分にとって『本を読む事』と『感想を書く事』は繋がっていて、どうしても書きたくなってしまうのです。不思議なもので。下記は自分の感想置き場になっているブログです。

 

dogbtm.blog54.fc2.com

 自分の友人には、自分の10倍はライトノベルを読んでいる奴がいて、一緒に書店に行く時など「それ本当に全部読むのか」という程買い込むので、隣にいる自分は目を白黒させてしまうのですが、彼には『書く』という欲求はあまり無いらしく、感想を書くとか、SNSで呟くとかいう事は一切しません。というかSNS自体を一切使っていません。本との向き合い方は、人それぞれです。

 

 ただ、自分は『感想を書く』側の人間だから思うのですが、『個人の感想』と『書評』は違うものだし、どんなに熱を込めて書いた『感想』であっても、それだけでは『批評』や『論』としての強度を持ち得ないという事には自覚的であるべきだと考えています。

 

 何かを『批評する』或いは『論じる』ためには、専門性が要求されるのはもちろんですが、その専門性のベースというのは、ライトノベルで言えば『網羅的に読む』という事でしか得られないですし、そこで得たものを自分の中で整理する事も求められます。言葉にすると一言ですが、それは大変な事です。図書館司書や博物館学芸員と同等以上の専門知識がまず求められます。そして自分は、それ以上に大事な事があると思いますが、こちらは後述します。

 

 まず、専門性についてですが、自分がやっている『感想』と、本著が成功させているライトノベル論』『ライトノベル史の整理』というものが根本的に異なるのは誰でも分かると思います。作品単体と向き合う事と、その作品の周辺にも広く目を向けて、ライトノベルというジャンル全体の中での位置付けや、一般文芸も含む業界全体の中での評価や位置付けを明確に『論じて行く』事は、その労力や必要とされる知識量がまるで違います。自分の様に個人で、自分が好きな作品だけと向き合うというやり方では、全体を俯瞰する視点は得られない訳です。自分の手の届く範囲の、自分が興味を持てる範囲の作品だけを読み、そこからジャンル全体を語ろうとすれば、それは作品論でも何でもなく『雑語り』になります。

 

 誤解がない様に言っておくと、自分は『感想』と『論』の間に優劣を付けようとは思いません。知識に裏打ちされた『論』にのみ価値があり、『感想』に価値がないという話ではないのです。『雑語り』にしても、書き手と読み手の間に「これはあくまでも雑語りの範疇なんだけど」という共通認識があれば、その雑な語りで盛り上がるのも楽しい事だったりします。

 自分が気を付けなければならないと思っているのは、自分の中の『感想』や『雑語り』を、あたかも『論』であるかの様に語ってしまいたくなる事が書き手にはあるという事です。自分にも、それはあります。

 

 自分に見えている景色が、他者にとっても正しいものだと思いたい。自分が書いたものを高く評価されたい。肯定的に受け止めてもらいたい。そういう『欲』は、どうしてもあります。だって『書く事』って、大変じゃないですか、実際。自分の頭で考えている事がだらだらっと勝手に文字になって出力されてくる訳じゃないんだから。自分が考えている事を、自分の中の想いを捕まえて、整理して、文章に落とし込んで行くのは骨が折れる事なんですから。

 

 それが正しいものであって欲しい。他者から認められるものであって欲しい。

 

 そういう『欲』は、常にまとわりついて来るんです。

 だから自分は、ある意味自覚的に「自分は『感想書き』だから」と自分自身に言い聞かせる事にしています。評論家でも専門家でもなく。まあ、たまに忘れるんですけど、それでも自戒を込めて。

 そして特に気を付けなければならないのは、自分がある作品を読んでネガティブな感想を持った時に、その自分の感想や価値観で作品をジャッジしないという事かなとも思います。自分個人の好みを、その作品へのネガな評価を正当化するためのものさしとして扱わない事。その時点での、自分の中のネガな部分を正しいものとしていつまでも残しておかない事。だって自分自身の価値観だって、時が経てば変わって行くのだから。

 

 そういう自分の中の『感想』という移ろいやすいものと、裏付けのある『論』というものを一緒にしてはいけないのだと知っておく必要があります。そして本著は正しく『ライトノベル論』であり、『ライトノベル史』です。そこにある差を(優劣ではなく)再確認できた事は、本著が優れた『論』である事の証左だと思います。

 

 そして前述した『専門知識以上に大事な事』についてですが、自分はそれを『論じる対象に対する肯定感』だと思っています。ライトノベルであれば、個々の作品に対する読者としての好みや評価とは別に、ライトノベルというジャンルを肯定し、その発展を願ってくれているかどうかという事です。

 

 あくまでも個人的な体験の範疇で申し訳ないのですが、最近は『対象を否定するための論』を見る事が増えた気がしていました。

 

 文章を書く事に慣れている方には自明の事だと思うのですが、最初に対象を否定する事を決めて論拠を積み上げて行く事は可能です。平たく言えば「これはダメだ」と言うために、対象のダメな部分を探して、否定的に論じて行く。より過激に、より刺激的に。そういう『強い言葉』で論じる方が、より耳目を集めるという事があります。反論が集まる事も織り込み済みで、より人々の関心を集める事に特化した文章、言ってみれば『煽り』を含んだ文章を意図的に書いて行く。そして、そうした文章が求められる。

 個人的な感想ですが、自分は正直そうした『強い言葉』を目にする事に疲れてしまいました。

 

 刺激的な言葉を含んだ文章、特に強い否定を含んだ文章は、それを読む人の心を殴り付けます。より強い力で肩を叩く事で、対象を振り向かせる力がある。でもそれは、少なからず相手を傷付けます。肩を叩いて振り向かせるつもりの強い言葉が、相手の胸に突き刺さる事がある。相手に痛みを与えてしまう事がある。心を砕く事さえある。

 言葉を扱っている人が、その『強い言葉』の問題点に気付いていないという事はあり得ないだろうと自分は思っています。でも、知っていてなお、そうした強い言葉が使われる。なぜなら強い言葉は有効だから。より注目されるために。より支持を得るために。

 

 本著には、そういう強い言葉がありません。

 悪く言えば地味です。(ごめんなさい)でもそれは、本著の美点であると自分は思います。淡々と、ライトノベル史が語られ、ライトノベルの今とこれからの展望が綴られる。自分の様な人間にとっては懐かしい部分もあり、知らなかった『今』がある。そして将来的にはライトノベルというジャンルが盛り上がって行く事が願われている。

 

 こうした健全な言葉が、強い言葉を伴わない文章がもっと注目されて欲しい。そう自分は思います。ライトノベルサブカルチャーの分野だけではなく、あらゆる分野において。そして、できればそうした言葉によって何かが論じられる時、そこには今よりも、より良い将来を求める『祈り』があって欲しい。誰かの背中を押してくれるような力が込められていて欲しい。大袈裟かもしれませんが、自分はそう願っています。