老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

カルトと陰謀論『情報に溺れる人々』について

<日常と混じり合うカルト・陰謀論

 

 以前、『なぜ人はカルトに惹かれるのか』という本の感想を書いた事がある。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 自分は大学時代に仏教学に触れた。その進路選択には一連の『オウム真理教事件』が影響していたと思う。

 『なぜ人はカルトに惹かれるのか』というのは、自分が当時から考え続けて来たテーマのひとつだ。今は旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の方が大きな社会問題として報じられる様になったけれど、『カルト≒新興宗教』の問題は昔も今も変わらず存在して来た。

 

 そして今、『陰謀論』もまた、カルトと同種の問題としてある。例えば『Qアノン』『昆虫食』の様な。

 

 聞いた話だけれど、医療や福祉・介護の職場で働きたいと思っている求職者の中にも、一定数『反ワクチン』や『反マスク』の思想を持った人がいて、面接で隠すでもなく堂々と「自分は主義としてワクチン接種はしません」「マスクをつけません」と宣言するので面接担当者や施設長が困惑するそうだ。それもハローワークからの応募ではなく、医療、福祉関係の人材を紹介する人材紹介業者が間に入っている求職者がそんな事を言い出すから更に驚かされるらしい。

 

 カルトも陰謀論も、実際は凄く身近なところにその影響はある。昔オウム真理教が『サティアン』と呼ばれる居住施設を作って世俗から距離を置く様に集団生活をしていたけれど、多くの人が思い描く『カルト≒オウム』のイメージと、実際とは異なる。カルト的な思想を信じる人は、自分たちと同じ様に日常生活を送っている。

 

 ではなぜ自分たちはカルトや陰謀論を『信じよう』と思うのか。

 

 その事を考えてみると、ある仮説にたどり着いたので、ここで書いておきたい。

 大事なのは、この自分の仮説もまた、自分に都合の良い情報を取捨選択して作り上げた自家製の『陰謀論なのかもしれないという事だ。その事を忘れない様に、最初に書いておく。

 

 誰でも、自分にとって望ましい世界で生きていたいと思う。

 それには環境だけじゃなく、思想的なものも当然含まれる。

 

 故に、自分たちは各々が『自分勝手に』社会を観測し、語り、都合よく解釈する。そして自分の信じる価値観にそぐわない物事や他者を排除しようとする。自分と同じ価値観を持つ人が多ければその人は多数派となり、逆ならば少数派になる。更に社会の大多数の人々にとって受け入れられない特異な価値観を信じる人々が『カルト』や『陰謀論者』と呼ばれる。

 

 そう考えれば、誰しも実際にやっている事に変わりはない。

 自分が信じたいものを信じて生きる事。

 それが『カルト』や『陰謀論』と呼ばれるか『常識』と呼ばれるかの違いしかない。

 

 そうした、『カルトと隣接する日常』を自分たちは生きている。

 

 

<物語を与える伝統宗教と、情報を遮断する新興宗教

 

 仏教やキリスト教イスラム教といった宗教は『伝統宗教』と呼ばれる。

 個人的に、その役割のひとつは人々に『物語を与える』事だと思う。

 

 例えば今はコロナ禍の様な事があっても、自分たちはそれがウイルスによって引き起こされる病気だという情報を得られる。ただそれは医学の進歩があったからで、過去においては『謎の奇病』か、もっと言えば『呪い』『祟り』の様なものとして認識されるしかなかった。疫病や飢餓、戦争も同じだ。

 

 理由も原因も分からず、為す術もなく、人々が次々に死んで行く。

 

 そうした状況に置かれる事は、人をひどく不安にさせる。

 更に言えば、原因が分からない不幸よりも、なぜ自分がこんな不幸に見舞われているのかが分からない事、言い換えれば『人の生き死にに理由がない事』『生きる事に意味も価値も存在しない事』が自分たちを不安にさせる。

 

 生きている意味。死ぬ事の意味。

 

 個人に対して『生きる意味なんて無いんじゃないか』という現実が突き付けられた時、それを守ったのが『宗教という物語』だった様に思う。生きる事にも、死ぬ事にも意味はあり、人の身を超えた所に大きな宗教世界の構造があって、時に理不尽に思える事にもすべて因果があるのだという世界観。

 そうした大きな物語を信じる事で守られてきたものがある。世界の仕組みが科学や医学といった学問によって解き明かされる以前に、自分たちが知り得ない情報を物語が埋め合わせていた。

 

 でも今は、現代は、情報であふれている。

 

 もう何を信じてもいい。それは昔の様に宗教でなくても構わない。ちなみに無神論というのも『神の否定という物語』だ。宗教≒神を信じる事とかけ離れた価値観じゃない。同じ物語のジャンル違いみたいなものだ。「好きな小説のジャンルは何ですか?」程度の違いだと思う。

 

 そこで、カルトや新興宗教陰謀論の時代が来る。

 

 新興宗教は信者の『情報を遮断』する事でマインドコントロールするのだという話がある。

 正しい(というより多様な)情報を与えない。そのカルトの教義に即した、都合の良い情報だけを与える。この事は、多くの人々の証言によって裏付けられているし、報道されてもいる。オウムのサティアン麻原彰晃のビデオを繰り返し見続ける出家信者のイメージ。新興宗教の集会で皆がそろって同じ教義を学ぶ閉鎖的なイメージ。

 

 他にもインターネットの陰謀論動画を見ていたら、おすすめに同じ様な動画ばかりが流れてきてそれらを見続けてしまうとか、SNSで繋がった知人やフォロワーの多いインフルエンサーから偏った主張が毎日流れてくるからつい影響されてしまうとか、タイムラインに流れてくる話題への反応が、気付いたら自分と同じ主張をする人々によって埋め尽くされていて、自分も同じ方向に流されてしまうとか。

 

 多様な情報を与えない事。人々の価値観を一色に染め上げる事。情報へのアクセス権を奪う事。そうやって不都合な情報を遮断した上で、ある種の情報だけを与え続ける事。マインドコントロール

 

 それは新興宗教なら教祖が、陰謀論ならそれを流布する中心人物がやっている事だとされてきた。あるいはSNSや動画投稿サイトの仕組みによって起こってしまう事だと。それらは常に『自分以外の誰か』によって仕組まれた事だとされた。信じてしまう個人(自分)が悪い訳じゃない。でも、本当にそうだろうか。

 

 

<自分たちは情報の海で溺れる>

 

 特に陰謀論陰謀論者の活動をウォッチしている人の発言を見ていると思う事がある。何でこんな『適当な嘘』を信じてしまう人がいるのだろう。昆虫食にしろ、反ワクチンにしろ、Qアノンにしろ。既存の宗教を継ぎ接ぎしたオウム真理教ですらもう少しまともだっただろと思ってしまう。

 

 彼らは別にどこかのサティアンに監禁されている訳でもないし、行動を制限されている訳でもない。何ならその手にはスマホがあって、ちょっと調べようと思えば何でも瞬時に調べる事ができるし、実際に自由に情報にアクセスしている。その上で、陰謀論を信じている。

 

 自分は思う。これはもう、昔言われていた様な情報遮断型のマインドコントロールじゃない。教祖が企んだ事に信者が騙されているのでもない。自分たちは、この陰謀論並みに『単純化された世界観』の中で生きる事を、自ら望んでいるんだと。

 

 もう情報は必要ない。何なら、日々与えられる情報量が多すぎて、自分の処理能力を超えてしまっている。この情報であふれた社会で、日々『価値観のアップデート』だとか何だとか言われ、確度がまちまちな情報の洪水の中からまともそうな情報を選び取る作業を要求され、様々な角度から物事を見る様に求められ、いい加減うんざりだ。何ならこれまで正しかった事が、今日では遅れた、間違った、許されない価値観だと断罪されたりする。

 

 もういい。疲れた。自分は、自分が信じられる、自分が信じたいものを信じて生きて行く事にする。新しい情報や価値観はいらない。もう飲めないって言ってるのにコップに注がれる水みたいだ。誰も頼んじゃいない。『自分の器』はもういっぱいだ。これ以上自分に情報を与えたり、その中から選ばせたりしないで欲しい。何なら自分の頭でひとつひとつの物事を判断する事ですら億劫だ。やたらメニューだけは多い食堂で何を食べようか選ばされる感覚。でも自分が欲しいのは『正解』だけだ。これを信じておけばいいってものだけ与えてくれよ。その『正解』の裏取りとか、ファクトチェックなんてクソ喰らえだ。自分はそんなに暇じゃない。誰かが言った、「自分もそうだ」って思える短い言葉にいいねを付けてリツイートする間に一日が終わる。どこかで聞いた誰かの言葉を自分の言葉として言い換えてSNSに流すだけで一週間が過ぎ去る。そんなもんだし、それでいい。何も困らないし、むしろ心地良い。

 

 もう情報に溺れていたくない。楽になりたい。

 

 ――そんな事を、皆が考える社会。

 自分が納得できる範囲まで情報を削ぎ落として、自分の器に収まる大きさに加工した世界観で社会全体を語る人達が暮らす世界。

 

 『情弱(情報弱者)』って、『情報の入手において不利な環境にいる人』とか『正しい情報にアクセスできない人』っていう意味で使われる事が多いけれど、今は皆が『情報過多』なんだろうと思う。言い換えれば本当の情弱っていうのは『情報を受け入れるキャパ(許容量)が少ない』という意味の『弱者』なのかもしれない。それは決して頭が悪いとか騙されやすいとか普通の人より劣っているって事じゃなく、誰にでも、いつか与えられる情報が自分のキャパを超えてしまう可能性はあるという意味において。

 

 そして実際には、AIが発達して真偽不確かな情報を量産し始めている。質問の仕方によっては平気で嘘を並べ立てる『ChatGPT』とかね。それらあふれる情報を捌く事に疲弊した時、自分の頭で考える事を放棄した時、自分は『自分が受け入れられる小さな世界』の中に引きこもる事を選ぶのだろうし、それが外の世界の誰かから見た『カルト』『陰謀論』になるのかもしれないとも思う。

 

 そうならない為にどうするかと言えば、『自分の器を大きくする』事しかないのだろうけれど、それは難しい。だったらまずは、『自分の器の中に、自分と異なる考え方を一度は一緒に入れてみる事』『自分と異なる考え方を不快だというだけで排除しない事』あたりから試してみるしかないのだろうと思う。

 

 逆に、その事にもう耐えられなくなっているとしたら、その時は自己診断がもう黄色信号という事だ。居心地の良い『小さな世界』が、自分を待っている。

 カルトや陰謀論に落ちて行くのは怖いだろうか。

 むしろ心地良いのだろうし、その心地良さを怖いと感じられない事が、本当の意味で怖いんじゃないかと思う。