老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

僕らの「信仰」の物語として ルース・ベネディクト『レイシズム』を読む

 

 

 まずはレイシズム(racism)』という言葉から。この言葉は、最近になってまた日本でもよく見聞きされる様になったと思う。その語源は英語であれば『人種(race)+主義(ism)』であり、そのまま『人種主義』と訳される。

 

 日本大百科全書による人種主義の解説の冒頭は以下の通りだ。

 

 発生的にせよ環境の作用であるにせよ、諸人種の間には優劣の差があり、優秀な人種が劣等な人種を支配するのは当然である、という思想ないしイデオロギー

 

 しかしこのレイシズム=人種主義という考え方は、既に1942年にルース・ベネディクトが本書『レイシズム(原題:Race and Racism)』を著した時点で、完膚なきまでに解体されてしまっている。人種の優劣説などというものにはまったく科学的根拠がないと。

 

 実際に本著を読むと、歴史のあらゆる場面において、かつての王族や為政者、あるいは民衆の中の多数派といった支配者層がいかに人種主義を自分達にとって都合よく、恣意的に扱って来たかという事が分かる。例えばかつて人種的に劣等だとしていた相手が属する国と同盟を結ぶにあたって、その差別的な扱いが次第にトーンダウンして行く事もあったし、逆に利害対立が明白になった相手をそれまでの対等な地位から劣等的な人種へと格下げする事もあった。『昨日の敵は今日の友』であり、その逆もまた真であるとはいえ、あまりにもいい加減な尺度だ。

 

 そしてそのいい加減な尺度によって生じた対立――戦争や虐殺が、あらゆる無辜の民の命を奪って来た。

 

 人種主義には『輝かしい人種に属する私』的な自己陶酔に基づく幻想と、自己正当化にとって都合の良い道具としてそれらしく整えられた主張があるだけで、客観的かつ誰をも納得させられる様な実体は何ひとつ存在しない。

 

 言ってみればレイシズムは既に死んでいる。

 しかし、その死体がいつまでもこの社会を歩き回っている。

 我が物顔で、さながらゾンビやホラー映画の怪物の様に何度殺されても蘇る。

 

 なぜこんな荒唐無稽な主義主張がここまでしぶとく生き残っているのか。

 身も蓋もない事を言えば、それはレイシズムを信じたい人』がいるからだ。

 

 レイシズムは既に『信仰』だ。信仰には客観性も科学的根拠も必要ない。

 

 

 ――とまあ、ここまでが長い前置きみたいなものだと思って下さい。

 

 自分が仏教学部卒だから言う訳ではないけれど、この『信仰』の問題は実は厄介で、最近よく聞く『ファクトチェック』の様な事実=ファクト(fact)に基づいた誤りの指摘では、信仰は覆せないんですよね。本著『レイシズム』がいくら人種主義の誤りを指摘しても、社会からレイシズムを駆逐できない様に。それが証拠に、本著が書かれたのは1942年だそうですが、それから現在に至るまで、自分達が抱える人種主義に基づく差別の問題は一向に解決していません。

 

 『信仰』と言うと難しいイメージですが、要するに自分達は『何を信じたいか』また『何を信じるべきか』という事をかなり情緒的に、主観的に決めてしまっていると言えます。よく『鰯の頭も信心から』と言ったりしますが、自分達は日々『信じたいものを信じる』という事を普通にやっていて、その『信じたい』という気持ちに至る前に『対象が信じるに値するかどうか』という検証を必ず行っているという訳ではありません。

 何の根拠もなく何かを強く信じてしまう。そんないい加減さが自分達の中にはあります。

 

 だからこそ、レイシズムは根拠のない幻想に過ぎない』という事実を、例えば『日本人は優秀であり、自分もまたその一員である』という、これもまた根拠のない優越感で上書きする事が可能になっている。もちろんこの「日本人」の部分は任意の国名でも人種でも構わない訳です。

 

 そして自分達は弱いから、自分に厳しくするよりも甘くて楽な方向に流されて行きます。

 厳しい現実(例えば自分達の欠点や問題点)に目を向けるよりも、プライドを慰撫してくれる様な甘い言葉に耳を傾けていたいと思ってしまう。水が高い所から低い所へと流れて行く様に、それは自然な成り行きです。

 

 そう、自分達は『確固たる信念』などという強靭な意志を持たなくても、『ただ何となくの情緒』を信仰にまで高めてしまう事ができるし、その何ら根拠のない信仰に寄りかかる様にして生きて行く事だってできてしまうんです。良くも悪くも。

 

 ではなぜ自分達はレイシズムの様な忌むべき価値観を『信じたい』と思ってしまうのか。

 

 指摘すべきはレイシズムの誤りではなく、『自分達はなぜ生きる上で誤った信仰を頼りにしてしまうのか』という事です。そしてそれは本著の中で既に明らかにされています。長いですが、引用します。

 

 

 レイシズムは科学的探求に耐えるような中身を持たない。宗教のように辛うじて時系列を追うことだけができるような、信仰の一種にすぎない。科学に覆いかぶさっているこの信仰体系について、その価値を測るにはどうしたらよいだろう。レイシズムが何をもたらしたか、それを信じるのは誰か、そしてその背後にある目的は何かと問う必要がありそうだ。もちろん、レイシストが一つひとつのファクトをどのように扱っているかを検証することはできるし、それが正しいとか間違っていると判定していくことも難しくない。けれどもレイシズムがファクトを扱うやり方は非常に杜撰である。そして科学者が個々のファクトについて指摘をしても、レイシストの信仰はびくともしない。レイシズムの根源を解明するのは科学的追求ではない。求められているのは、どのような条件が揃ったときにレイシズムが生まれ、そして蔓延したかを明らかにする、歴史学の視座である。

 本質においてレイシズムとは「ぼく」が最優秀民族(ベスト・ピープル)の一員であると主張する大言壮語である。その目的を達するためには一番うまい手段であろう。自分にそれほどの価値がないとか、あるいは他人から批判されているとか、そういうものをすべて無視することができる。自分がそれまでにやってきた恥ずかしいこと、思い出したくないことをすべて消し去ることができる。自分の至らないところを指摘されたとしても、相手を「劣等な人種」と言ってしまうことで痛みを無化できる。母親の子宮の中にいるような究極のポジションが手に入るのだ。

 

 

 学問として仏教に触れた人間としては、『信仰』という言葉にはもっと奥深い意味があるものと思っていますが、本著で述べられている様な表層的な意味での信仰、つまり自分達が根拠なく何かを信じたいと思ってしまう弱さであったり、それを利用しようとする立場にいる人々にとって都合の良い道具であったりする『信仰(≠宗教的信仰心)』について考える時、本著は既に現在の問題点を指摘しているし、警鐘を鳴らしていたと考える事ができる訳です。繰り返しになりますが、本書が書かれたのは1942年です。ちょっと信じられない位、今の状況とリンクしていますが。

 

 この信仰という名前の、言い換えれば自分達の倫理観が抱える『脆弱性は、もうずっと長い間、為政者や権力者に利用され続けて来ました。というのも、自分達は、自らの生き方や価値を信じられなくなった時に、自分自身よりも大きく頼り甲斐がありそうな存在に救いを求めてしまうからです。そしてそうした弱さを自覚し反省する事よりも、母親の子宮の中にいるかの様な安心感に包まれていたいと願ってしまうからです。

 

 例えばテレビでやたらと日本スゴイ系の番組が目に付く様になって、それを見るのは最初は気持ち良かったり楽しかったりする訳じゃないですか。自分も好きでした。職人さんの手仕事を見るのも元々好きでしたし、日本の文化も好きです。何せ仏教美術を専攻したくらいですから。でも、日本文化に憧れを持つ外国の方を日本に呼んで体験をさせる番組等で「日本は凄い」を毎回連呼されるうちに、そうした番組が「当然海外にも日本と同じ様に優れたものづくりの文化や芸術が存在する事」を伝えてくれない事に気付き始めるんですよね。一方的に日本文化は凄いんだ、日本人は凄いんだっていう構成になってしまっている。「そりゃ、元々そういう趣旨の番組なんだからそうだろうよ」という受け止め方もできるんですが、それにしても一方的だろうと。そしてそれは、自分達が置かれている現状の日本が抱えている問題点をどんどんぼかして行ってしまう訳です。

 

 例えばそれは製造業や農業、サービス業に至るまで、外国人技能実習生がいなければ回らない状態になってしまっているにも関わらず、日本のものづくりは、技術力は世界一だと言い切ってしまう事だったり、日本の職人に後継者がいない事から目を逸らしつつ、その技術の高さだけを手放しで称賛してみたりする事だったりする訳ですが、それらの問題点を見ない様にしていた方が心地良い部分があるし、安心できるじゃないですか。

 

 そうした安心と心地良さだけを摂取する事を自分達が選び続ける限り、そしてそうした自分達の弱さを上手い事利用する形でこの国を治めて行こうとする為政者が上に立っている限り、自分達はこのレイシズムというゾンビと共存して行く事になってしまうんじゃないかと思うのです。そして人間はどんどん噛まれてゾンビ化して行く。ゾンビが一定数を超えた先にある悲劇として戦争があるのか日本の凋落があるのかは分からないとしても、意外と遠くない場所にそれらはもう迫っているんじゃないのかなと思います。

 

 だったらどうする? という所で、明確な答えがある訳ではないんですが、少なくとも自分達はもういい加減、一人ひとりが本書で書かれている『母親の子宮の中』から出なければならないんだろうと思います。ひ弱な赤子である自分を守ってくれる母のポジションに国家や政府や人種主義を置いて、根拠のない優越感に浸る事でプライドを慰める様な情けない生き方を捨てる時が来ているんだろうと思います。だって皆もう子供じゃないんですから。同じプライドなら、大人としての自覚をプライドと呼ぶべきだし、その矜持は自分自身で持つものでしょう。誰かに保証してもらうものじゃない。

 

 そして今度こそ自分の中に、自分自身の手で、他者を見下すのでもなく、利用するのでもない、そして誰かに持たせてもらうのでもない『信仰』を打ち立ててみませんか?

 自分も何とか、それを目指そうと思います。