老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

カルトと陰謀論『情報に溺れる人々』について

<日常と混じり合うカルト・陰謀論

 

 以前、『なぜ人はカルトに惹かれるのか』という本の感想を書いた事がある。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 自分は大学時代に仏教学に触れた。その進路選択には一連の『オウム真理教事件』が影響していたと思う。

 『なぜ人はカルトに惹かれるのか』というのは、自分が当時から考え続けて来たテーマのひとつだ。今は旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の方が大きな社会問題として報じられる様になったけれど、『カルト≒新興宗教』の問題は昔も今も変わらず存在して来た。

 

 そして今、『陰謀論』もまた、カルトと同種の問題としてある。例えば『Qアノン』『昆虫食』の様な。

 

 聞いた話だけれど、医療や福祉・介護の職場で働きたいと思っている求職者の中にも、一定数『反ワクチン』や『反マスク』の思想を持った人がいて、面接で隠すでもなく堂々と「自分は主義としてワクチン接種はしません」「マスクをつけません」と宣言するので面接担当者や施設長が困惑するそうだ。それもハローワークからの応募ではなく、医療、福祉関係の人材を紹介する人材紹介業者が間に入っている求職者がそんな事を言い出すから更に驚かされるらしい。

 

 カルトも陰謀論も、実際は凄く身近なところにその影響はある。昔オウム真理教が『サティアン』と呼ばれる居住施設を作って世俗から距離を置く様に集団生活をしていたけれど、多くの人が思い描く『カルト≒オウム』のイメージと、実際とは異なる。カルト的な思想を信じる人は、自分たちと同じ様に日常生活を送っている。

 

 ではなぜ自分たちはカルトや陰謀論を『信じよう』と思うのか。

 

 その事を考えてみると、ある仮説にたどり着いたので、ここで書いておきたい。

 大事なのは、この自分の仮説もまた、自分に都合の良い情報を取捨選択して作り上げた自家製の『陰謀論なのかもしれないという事だ。その事を忘れない様に、最初に書いておく。

 

 誰でも、自分にとって望ましい世界で生きていたいと思う。

 それには環境だけじゃなく、思想的なものも当然含まれる。

 

 故に、自分たちは各々が『自分勝手に』社会を観測し、語り、都合よく解釈する。そして自分の信じる価値観にそぐわない物事や他者を排除しようとする。自分と同じ価値観を持つ人が多ければその人は多数派となり、逆ならば少数派になる。更に社会の大多数の人々にとって受け入れられない特異な価値観を信じる人々が『カルト』や『陰謀論者』と呼ばれる。

 

 そう考えれば、誰しも実際にやっている事に変わりはない。

 自分が信じたいものを信じて生きる事。

 それが『カルト』や『陰謀論』と呼ばれるか『常識』と呼ばれるかの違いしかない。

 

 そうした、『カルトと隣接する日常』を自分たちは生きている。

 

 

<物語を与える伝統宗教と、情報を遮断する新興宗教

 

 仏教やキリスト教イスラム教といった宗教は『伝統宗教』と呼ばれる。

 個人的に、その役割のひとつは人々に『物語を与える』事だと思う。

 

 例えば今はコロナ禍の様な事があっても、自分たちはそれがウイルスによって引き起こされる病気だという情報を得られる。ただそれは医学の進歩があったからで、過去においては『謎の奇病』か、もっと言えば『呪い』『祟り』の様なものとして認識されるしかなかった。疫病や飢餓、戦争も同じだ。

 

 理由も原因も分からず、為す術もなく、人々が次々に死んで行く。

 

 そうした状況に置かれる事は、人をひどく不安にさせる。

 更に言えば、原因が分からない不幸よりも、なぜ自分がこんな不幸に見舞われているのかが分からない事、言い換えれば『人の生き死にに理由がない事』『生きる事に意味も価値も存在しない事』が自分たちを不安にさせる。

 

 生きている意味。死ぬ事の意味。

 

 個人に対して『生きる意味なんて無いんじゃないか』という現実が突き付けられた時、それを守ったのが『宗教という物語』だった様に思う。生きる事にも、死ぬ事にも意味はあり、人の身を超えた所に大きな宗教世界の構造があって、時に理不尽に思える事にもすべて因果があるのだという世界観。

 そうした大きな物語を信じる事で守られてきたものがある。世界の仕組みが科学や医学といった学問によって解き明かされる以前に、自分たちが知り得ない情報を物語が埋め合わせていた。

 

 でも今は、現代は、情報であふれている。

 

 もう何を信じてもいい。それは昔の様に宗教でなくても構わない。ちなみに無神論というのも『神の否定という物語』だ。宗教≒神を信じる事とかけ離れた価値観じゃない。同じ物語のジャンル違いみたいなものだ。「好きな小説のジャンルは何ですか?」程度の違いだと思う。

 

 そこで、カルトや新興宗教陰謀論の時代が来る。

 

 新興宗教は信者の『情報を遮断』する事でマインドコントロールするのだという話がある。

 正しい(というより多様な)情報を与えない。そのカルトの教義に即した、都合の良い情報だけを与える。この事は、多くの人々の証言によって裏付けられているし、報道されてもいる。オウムのサティアン麻原彰晃のビデオを繰り返し見続ける出家信者のイメージ。新興宗教の集会で皆がそろって同じ教義を学ぶ閉鎖的なイメージ。

 

 他にもインターネットの陰謀論動画を見ていたら、おすすめに同じ様な動画ばかりが流れてきてそれらを見続けてしまうとか、SNSで繋がった知人やフォロワーの多いインフルエンサーから偏った主張が毎日流れてくるからつい影響されてしまうとか、タイムラインに流れてくる話題への反応が、気付いたら自分と同じ主張をする人々によって埋め尽くされていて、自分も同じ方向に流されてしまうとか。

 

 多様な情報を与えない事。人々の価値観を一色に染め上げる事。情報へのアクセス権を奪う事。そうやって不都合な情報を遮断した上で、ある種の情報だけを与え続ける事。マインドコントロール

 

 それは新興宗教なら教祖が、陰謀論ならそれを流布する中心人物がやっている事だとされてきた。あるいはSNSや動画投稿サイトの仕組みによって起こってしまう事だと。それらは常に『自分以外の誰か』によって仕組まれた事だとされた。信じてしまう個人(自分)が悪い訳じゃない。でも、本当にそうだろうか。

 

 

<自分たちは情報の海で溺れる>

 

 特に陰謀論陰謀論者の活動をウォッチしている人の発言を見ていると思う事がある。何でこんな『適当な嘘』を信じてしまう人がいるのだろう。昆虫食にしろ、反ワクチンにしろ、Qアノンにしろ。既存の宗教を継ぎ接ぎしたオウム真理教ですらもう少しまともだっただろと思ってしまう。

 

 彼らは別にどこかのサティアンに監禁されている訳でもないし、行動を制限されている訳でもない。何ならその手にはスマホがあって、ちょっと調べようと思えば何でも瞬時に調べる事ができるし、実際に自由に情報にアクセスしている。その上で、陰謀論を信じている。

 

 自分は思う。これはもう、昔言われていた様な情報遮断型のマインドコントロールじゃない。教祖が企んだ事に信者が騙されているのでもない。自分たちは、この陰謀論並みに『単純化された世界観』の中で生きる事を、自ら望んでいるんだと。

 

 もう情報は必要ない。何なら、日々与えられる情報量が多すぎて、自分の処理能力を超えてしまっている。この情報であふれた社会で、日々『価値観のアップデート』だとか何だとか言われ、確度がまちまちな情報の洪水の中からまともそうな情報を選び取る作業を要求され、様々な角度から物事を見る様に求められ、いい加減うんざりだ。何ならこれまで正しかった事が、今日では遅れた、間違った、許されない価値観だと断罪されたりする。

 

 もういい。疲れた。自分は、自分が信じられる、自分が信じたいものを信じて生きて行く事にする。新しい情報や価値観はいらない。もう飲めないって言ってるのにコップに注がれる水みたいだ。誰も頼んじゃいない。『自分の器』はもういっぱいだ。これ以上自分に情報を与えたり、その中から選ばせたりしないで欲しい。何なら自分の頭でひとつひとつの物事を判断する事ですら億劫だ。やたらメニューだけは多い食堂で何を食べようか選ばされる感覚。でも自分が欲しいのは『正解』だけだ。これを信じておけばいいってものだけ与えてくれよ。その『正解』の裏取りとか、ファクトチェックなんてクソ喰らえだ。自分はそんなに暇じゃない。誰かが言った、「自分もそうだ」って思える短い言葉にいいねを付けてリツイートする間に一日が終わる。どこかで聞いた誰かの言葉を自分の言葉として言い換えてSNSに流すだけで一週間が過ぎ去る。そんなもんだし、それでいい。何も困らないし、むしろ心地良い。

 

 もう情報に溺れていたくない。楽になりたい。

 

 ――そんな事を、皆が考える社会。

 自分が納得できる範囲まで情報を削ぎ落として、自分の器に収まる大きさに加工した世界観で社会全体を語る人達が暮らす世界。

 

 『情弱(情報弱者)』って、『情報の入手において不利な環境にいる人』とか『正しい情報にアクセスできない人』っていう意味で使われる事が多いけれど、今は皆が『情報過多』なんだろうと思う。言い換えれば本当の情弱っていうのは『情報を受け入れるキャパ(許容量)が少ない』という意味の『弱者』なのかもしれない。それは決して頭が悪いとか騙されやすいとか普通の人より劣っているって事じゃなく、誰にでも、いつか与えられる情報が自分のキャパを超えてしまう可能性はあるという意味において。

 

 そして実際には、AIが発達して真偽不確かな情報を量産し始めている。質問の仕方によっては平気で嘘を並べ立てる『ChatGPT』とかね。それらあふれる情報を捌く事に疲弊した時、自分の頭で考える事を放棄した時、自分は『自分が受け入れられる小さな世界』の中に引きこもる事を選ぶのだろうし、それが外の世界の誰かから見た『カルト』『陰謀論』になるのかもしれないとも思う。

 

 そうならない為にどうするかと言えば、『自分の器を大きくする』事しかないのだろうけれど、それは難しい。だったらまずは、『自分の器の中に、自分と異なる考え方を一度は一緒に入れてみる事』『自分と異なる考え方を不快だというだけで排除しない事』あたりから試してみるしかないのだろうと思う。

 

 逆に、その事にもう耐えられなくなっているとしたら、その時は自己診断がもう黄色信号という事だ。居心地の良い『小さな世界』が、自分を待っている。

 カルトや陰謀論に落ちて行くのは怖いだろうか。

 むしろ心地良いのだろうし、その心地良さを怖いと感じられない事が、本当の意味で怖いんじゃないかと思う。

その言葉の向こう側にいる、あなたへ・長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読む

  

 

 本を読む事を諦め始めて、少し経った。

 

「読書なんて娯楽なのだから気負わなくていい。義務でするものじゃない」

 そう言われれば、それはその通りで。でも『その通りになってしまう事』をどこかで拒絶している頑なな部分が、自分の中にはある。

 

 本を読む。小説を読む。そこに書かれている言葉を拾って行くと、自分の心の中に波が立つ。だから拙い言葉で感想を書いてみたりする。以前は自然とできていたそれらの事が、最近は酷く重い。そして、無意味な事の様に思える。

 

 自分自身の行為に、少なくとも自分だけは意味を認めている事。価値があると思える事。

 読書でなくても、何をするにしても、それだけはきっと必要なのだと思う。そこを崩してしまうと、もう何もできないし、何とも向き合えない。それは自虐というのとも違う、もっとゆっくりと摩耗して行く様な、自分に対するネグレクトの様な感覚だ。

 

 もう、どうでもいい。

 

 毎日、ニュースを見る。将来に対して悲観的になってしまう様な報道ばかりだ。そして自分にはそれを変える力も、それに耐える力も、抗う力もない。何もかもが裏目裏目に転がっている様に見えてきて、顔を上げられない。

 

 そして、自分が今こうして書いている文章だって、もうAIが書けるのだという。

 それも、もっと優れたものを。試してみた事はないけれど。

 

 小説を書くAI。絵を描くAI。課題のレポートを代わりに書いてくれるAI。人間はそれで遊ぶ事に夢中だ。間違った答えや、嘘や、出力される歪んだ絵さえ楽しい。きっともうすぐ、人間にできる事はAIで全てできる様になるのだろう。本作でも描かれている通りに。

 

 自動運転される、事故とは無縁の自動車。

 人間が書くよりも正確に、そして相手を傷付けずにこちらの意図を伝えられる様な文章の代筆。

 そして、ダンスも含めたあらゆる創作や表現。

 

 自分は『人が嫌がる仕事の肩代わり』よりも先に、『人が望む事を人より上手くこなす事』を覚え始めたAIが、きっと怖いのだと思う。自分なんかよりもっと上手く自分の気持ちを言葉にできるAIが現れてしまったら、立つ瀬がない。

 

 AIなら人より上手くできる事を、あえて人がやる。そこには必ず『なぜ?』『何の意味が?』という問いが生じるだろう。それは一歩間違えれば、人間の価値を容易に毀損する。そうした無意識下の『恐れ』のもとで、自分は本作を読み始めた。そして案の定、こうしてまとまりのない言葉を書いている。そう、AIならもっと上手くまとめられる様な類の。

 

 自分の言葉が明確なものにならないのは、自分でも掴めていないものを言葉にしようとしているからだ。

 

 なぜ小説を読むのか。なぜ感想を書くのか。それに何の意味があるのか。価値があるのか。

 

 でも、何だろう、分からないなりに思うのは、自分はきっとその小説なり絵の向こうに『誰か』がいて欲しいと思っているのではないかという事だ。AIじゃなく。

 

 自分はAIなんて全く詳しくないけれど、仮に、絵を描くAIに「pixivのデイリーランキング100位以内に入るイラストを描け」と指示をしたとして、実際にそれを行えるだけの機能を持たせたとするなら、それは可能だろうと思う。

 AIはpixivを巡回し、100位以内に入っているイラストを閲覧、学習して、それらのイラストが持っている特徴を把握し、その共通点や差異、ランキング推移の傾向等をデータ化する。そうした学習の結果出力される絵は、きっとクオリティの面では人間の作家が描くものに並び得る。もっと簡単に、ランキング上位にいる特定の作家のイラストを大量に学習して、似た構図や作風の絵を出力するのでも構わないだろう。

 

 問題は、きっとAIが描く絵を見る自分達の側は、それを書いたのがAIなのか人間なのかによらず、良い絵を見た時と同じ様な感情の揺れ動きを得るだろうという事だ。そしてそれはイラストだろうと小説だろうと、最終的にはきっと同じ事になる。

 

 極論すれば自分達は、自分の脳裏に想像した世界で生きている。

 

 例えば『赤い花が風に揺れている』という一文があったとして、それ以上の描写がなければ、作者が意図した光景と、読者が想像する光景は、同一にはならない。赤い花とはどんな花か。バラも赤ければチューリップも赤い。それが風に揺れている様はどんなものか。もっと描写を細かく、言葉を重ねる事でその齟齬は小さくなりはするだろうけれど、全く同一のイメージを他者と共有する事はできない。隣に座って同じ映画を観ても、他者と自分が抱く感想が全く異なる様に、自分達は自分自身の脳裏に思い描いたイメージを見て、その中で生きている。他者と言葉でコミュニケーションをしていても、自分が見ているのはその言葉によって想起された『自分の内側にある想像』でしかなく、だから容易に目の前にいる他者とすれ違う。

 

 だからこそ、その最初の言葉を発したのが人間なのかAIなのかを問わず、自分は『そこにある言葉』に心を動かされるはずだと思う。適切な言葉が、適切な順序でそこに並んでいたならば。

 

 でも、相手がAIだったとしたら、そこには人間を相手にした時とは決定的に違う事がある。それは、その言葉の向こう側には『誰か』なんていないという事だ。コミュニケーションの始点。自分に対してその言葉を投げかけたはずの『他者』が、『あなた』がいないという事だ。

 

 それはキャッチボールだと思っていた行為が、実は壁当てだったみたいなものだ。相手が人間でなくとも、壁にボールを投げれば跳ね返っては来る。そのボールを取って、また投げ返す事もできる。でもそこには、自分しかいない。『あなた』がいない。

 

 絵だって同じ事だ。AIが描くイラストの中の人物は、ただ「そう描く方が、構図としてバランスが良く好まれる」からそう描かれただけであって、その瞳は誰も、何も見ていない。なぜそう描いたのかという意図も、描かれた人物の背景も、その絵によってどんな事を伝えたかったのかという作家の意図もそこには無くて、学習させた絵の総和から導き出された近似値としてのイラストがただある事になる。自分はその絵を見て好みだと思うかもしれないけれど、その先がない。鑑賞者の側がどんなに手を伸ばしても、その先には誰もいない。『あなた』がいない。

 

 どちらが先になるのだろう、と思う。

 

 AIが『あなた』と呼ぶに足る意思や主張、人格や精神と呼ぶに足るものを備えるのが先か。それとも人が、他者にとっての『あなた』である事を諦めるのが先か。

 

 後者なんじゃないか。自分にはそんな気がしてしまう。

 

 本作はAIを否定して人間を持ち上げる物語ではないし、その逆でもない。人とAIは共存し、互いを補い合い、互いを高めあって存在して行けるはずだという力強さがある。その上で、人はAIに潰される事もなく、他者とのコミュニケーションや自己実現を諦める事もなく、誰かにとっての『あなた』として生きられるはずだという未来が描かれている。

 

 自分は、その事をまず嬉しいと思う。心強いと思う。好ましいと感じる。でも自分の中にはそれらを懐疑してしまいたくなる弱さや脆さがあって、その暗い部分ではこうも思うのだ。

 

 

 今はまだ、自分が向き合う言葉の向こう側に、生身の『あなた』がいて欲しい。

 

 

 拙くても、まとまりながくても、AIで代替可能なものでしかなくても、他者からその価値を認められていなくても、今はまだ『あなた』に諦めて欲しくない。

 

 自分が誰かにとって、同じ様になれるかどうかは分からないけれど。

 

 

『信教の自由』が守られるという事は・菊池真理子『「神様」のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜』を読む

  

 

 多分、日本人の多くは『信教の自由』というものをあまり意識せずに暮らしている。

 信仰とは親から引き継ぐものであって、それは「どこかの寺の檀家である」とか「先祖代々の墓がどこにあるか」とか「葬儀を頼むのはどこか」といった事柄以上の意味を持たない。

 

 そういう意味では、自分達は誰もが宗教2世(信仰2世)以降だ。そして、その事に特に疑問も持たずに暮らしている。

 ただこれが、仏教や神道キリスト教イスラム教といった伝統宗教ではなく、新興宗教となると話は変わってくる。

 

 今、社会問題化している旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の様な新興宗教は、社会通念上は到底受け入れ難い様な教義(合同結婚式や借金をしてまでの献金)を、『信教の自由』を盾にして正当化している。曰く「献金は個人の信仰(意思)によって自発的に成されたものであって、強制した訳ではない」とか。

 

 そうした『詭弁』の為に信教の自由が利用される事は不本意な事だ。なぜなら、信教の自由には、信仰を変える自由や宗教を信じない自由が内包されており、個人はあくまでも自らの意思で「何を信じ、また信じないか」を決める権利を有すると考えるのが正しいからだ。

 

 しかし実際には多くの新興宗教が、宗教2世の『信教の自由』に向き合う事を拒否している。「正しい教え」から信者の子が離れ、世俗化する事を拒むのは、自分達の信仰の『正しさ』を疑う事が無いからだ。

 自分の正しさを疑わない人間は、譲歩しない。妥協もしないし、反省もしない。相手の感情を推し量る事もない。だって自分は正しいから。自分が正しい事が最初から決まっているのなら、異なる意見や価値観にぶつかった時、間違っているのは相手側だと決まっているから。

 

 宗教の問題でなくても、最近は似た様な『正しさの信者』が増えた気もするけれど、それは一旦脇に置いておく。

 

 本著は漫画なので、あっという間に読めてしまう。でもそこで描かれている宗教2世の人生は、皆一様に重い。その多くは実の親による信仰の強制で、最も辛いのは、信仰が『親の愛情を受ける為の条件』の様になってしまっている事だ。

 

「この信仰を捨てたら、もう親に愛される事は無くなるんじゃないか」

 

 特に未成年にとって、それは恐怖だと思う。

 『しつけ』と『虐待』の境界線が曖昧にされる事がある様に、『親からの承認』が『望まない信仰という束縛』の向こう側にしかないのなら、子はそれにしがみつくしかなくなってしまう。それは教団が言う『信教の自由』とは対極にあるあり方だ。でもその矛盾を、ねじれを、問題のある教団の多くは無視する。目を背け、知らない振りをする。

 

 本来『信教の自由』とは、そんな風に都合の良い時だけ引っ張り出して来る様な薄っぺらいものではないはずだ。

 

 自分は、自分の意思で仏教学を学んだ人間なので、宗教が人間を不幸にする事を拒絶したい。個人は、自分の意志で自らの信仰を定めるべきだ。自分は信仰を持たないという結論に至る場合も含めて。それは新興宗教であっても伝統宗教であっても変わらない。

 

 信仰というのは『自分が生きて行く上での杖』だと思う。杖は歩く助けになる。でも歩いて行く主体はあくまでも自分だ。信仰が自分をどこかに連れて行ってくれる訳ではない。どれだけ杖に体重を預けるかは自分次第だ。疲れている時には杖を頼りにする度合いも増すだろう。でも杖に全体重を預けても、前には進めない。その事を覚えておくべきだし、何なら信仰という杖なんて手放してしまったっていい。自分の足だけで歩いて行けるのなら。杖を持っている事が、かえって重荷となるならば。そして杖の代わりに自分を支えてくれる誰かがいるのなら。また杖が必要になったなら、その時にはあらためて探せばいい。本当に必要とされるその時まで、良い杖はただ黙って待っている事ができるものだから。

 

 でも悪意のある宗教は、自分達が『乗り物』であるかの様に振る舞う。

 

「この教えに乗っていれば、正しい道へと連れて行こう。でもここから降りるのなら、信仰を捨てるのなら、待っているのは地獄だ。自分達はお前を置いて行くぞ」

 

 それが信者を束縛する悪しき宗教の常套句だ。

 

「信ずる者だけは救ってやろう。信じないなら地獄に落ちろ」

 

 そういう狭量な、言い換えればセコい考えで信者をふるいに掛ける。

 より熱心に布教するものは上の立場に。より多く献金を積むものはそれだけ救いに近い場所に。そうやって信者を競わせ、『信仰の証明』を求める。そこでは杖が人間の主人だ。人の背を叩いて杖が望む方向に歩かせる。道を逸れるな。歩みを止めるな。そうやって杖が主人顔をするのは滑稽な事だ。

 

 歩いているのは、歩いて行くのは杖じゃない。自分自身だ。

 

 自分達は歩いて行くものだ。誰かが決めた方向に歩かされるのではなく。

 それは大変な事で、疲れる事で、口で言うほど容易な事じゃない。でもそれが生きて行くっていう事だ。多分ね。本当に疲れるわ大変だわで、何か乗り物に乗せてくれるならその方が楽だって心底思う時もあるけれど、それでも。

 

 よく、新興宗教『騙される』と言う。

 『騙される』っていう事は、騙される方にも落ち度があったという事だ、なんて言う人もいる。愚かだと嗤う人もいる。でも自分は、誰だって歩いていれば時に疲れて支えを必要とする様に、それは仕方がない事だと思う。たまたまそこで差し出された杖が良くないものだったというだけで、支えを必要とした人に落ち度があった訳でもないし、何かを間違えた訳でもない。誰だって歩く事に疲れて嫌になる時はある。信仰を必要とする時は誰にでもある。

 

 だから、ある信仰が人を苦しめているのなら「貴方が悪い訳じゃないし、そんなものは捨てたっていい、降りたって構わないんだよ」と自分は言う事にする。仮にも仏教学を学んだ人間がそれを言うかって言われれば、学んだから言うんだよって返すしかない。信仰は貴方自身じゃない。何が正しい信仰かは、貴方が自分で望んで決める事だ。

 

 そしてどんな信仰の名の下にであっても、個人を束縛する事を是認する教義は危険なのだろうと思う。教義や法は、自らを律する為に存在するのであって、他人に強制する為にある訳ではない筈だから。自分なりの信仰を持っている人は、その事をわきまえておくべきだ。その信仰は常に自分に向けておくんだっていう事を。そして、たとえ自分の子どもであっても、それは自分自身じゃないという事も。これもまた、忘れがちな事ではある。

 

 そして自分が持っている正しさは、自分だけに通じる正しさなんだという事も。

 

 信仰とは、正しさとはそういうものだと思う。

 そうやって、皆が自分の正しさを他者に強制する事無く、自らの内側に持って生きて行けばいい。それが恐らく、自分にとっての信仰のあるべき形なのだと思う。

 

 最後に、本作の連載に圧力を掛けて潰そうとした宗教団体へ。

 それがあなた方の信仰に適う行いなのかどうか、正しい事だと本当に思うのか考えてみたら良いと思う。きっと自分の正しさを曲げる事は無いだろうと思うけれどね。でも、そんな無法がまかり通った時代はそろそろ終わる事になりそうだ。

 

 それを何と言うか。それこそ自業自得と言うんだよ。

 

 

カルトがはびこる今だからこそ・奥田知志『ユダよ、帰れ』を読む

 

 

 今この時に、本著に触れる事ができて良かったと思います。

 カルトがはびこり、宗教全体が社会から疎まれかねない中で、人々の生きる助けとなるために聖書の言葉を読み解いて行くという姿勢が貫かれている本著は、キリスト教の説教集という枠を越えて多くの人に読まれるべきものと感じました。

 

 宗教は人々をたぶらかすのではなく、人々の生きる助けになる為にこそ存在する。

 その基本に立ち返る事が、今求められている様に思います。

 

 

 さて、連日、旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)関連のニュースが流れていて、大学で仏教学を学んだ人間としてはげんなりする訳です。

 

 新興宗教やカルトと言われる集団が社会問題や事件を起こす度に、宗教全体が何だか怖いものの様な、いかがわしいものの様な目で見られる。ちなみに新興宗教に対して、仏教や神道キリスト教イスラム教といった歴史ある宗教を伝統宗教と言いますが、この言葉は新興宗教ほどには知られていません。

 

 この伝統宗教という呼称ですが、何年続いたら伝統宗教として扱うといった様な明確な基準はありません。その信仰が地域に根付いているかが基準になるからです。たとえば仏教は伝統宗教だと言われますが、仏教が信仰されていない国や地域にこれから伝教しようとするならば、その地域の人々にとっては、仏教は新しく入ってきた異質な価値観という事になり、伝統宗教とは言えないという事になります。

 もっとも、多くの方からすれば新興宗教伝統宗教も等しくいかがわしいものであり、人の心の弱さに付け込んで金品をせしめている怖い集団の様に思われているのかもしれませんね。できれば関わり合いになりたくない、という様な。

 

 自分はお寺の跡継ぎでもないのに仏教学部に進んだのですが、それはオウム真理教が起こした一連の事件の影響でした。高学歴だったり、医師や弁護士といった国家資格を持っていたりする様な、世間一般では『優秀』だと言われる人々までもがオウムに入信し、あまつさえ教祖の命令で殺人まで犯してしまった。その『人の心の底知れなさ』の様なものに自分はあてられてしまったのかもしれません。

 

「これは人の心理や宗教というものに向き合っておかないといけないのではないか」

 

 当時、自分は本気でそんな事を考えていました。

 恐ろしいものと向き合った時、人が取り得る手段はいくつかあります。ひとつは対象に背を向けて距離を取る事。もうひとつは近付いて対象を知る事です。両者ともその根っこは同じで、そこには自分の中の『恐怖』や『畏怖』を何とかしなければならないという防衛本能の様なものがあります。そして自分が選んだのは後者でした。

 

 おそるおそる近付いて、宗教というものを知ろうとする事。

 

 それはやってみると案外面白く、有意義な学びでした。そして実感したのですが、宗教が本当にいかがわしく、人心を惑わすだけのものであるなら、それは人類史の途中で既に潰えていただろうという事です。

 

 軽く2千年を超える歴史は、伊達ではありません。

 

 良いものも悪いものもその内に抱えているにせよ、宗教というものはある時には様々な文化を形成しつつ、自分たち個人、そして自分たちが暮らす社会と共にありました。それはいつの時代にも『救い』を求める個人の『願い』や『祈り』があった事を意味しています。平たく言えば「人生とはままならない」ものであって、その「ままならなさ」に挫けそうになる時に、人の心の支えになるものが必要とされる。その担い手が宗教でした。そしてその役割のひとつは、人々に『物語』を提供する事でした。

 

 苦難の時にあって、救いに繋がる様な物語。

 受け止め難い現実の厳しさから来る痛みを慰める様な物語。

 個人の生に意味はあるのかという根源的な問いに対して、その意味を探す助けとなる様な物語。

 

 「そんなものは全て嘘ではないか。作り話ではないか」と言われれば、自分ならあえて「そうかもしれませんね」と答えると思います。宗教家の方々にはお叱りを受けるかもしれませんが。ですがそれは、人が救われたいという願い、祈りの結実です。紀元前の昔から、いつの時代も人は救いを求めて生きて来ました。それは宗教の存在とともに歴史に刻まれています。

 

 つまり、今を生きる自分が感じている『生き苦しさ』(息苦しさではなく)は、何も自分だけが感じているものではなく、これまで生きてきた人々も抱えて来た苦しさだという事です。自分はひとりではなかったという事です。現代において宗教や哲学を学ぶ事の意義のひとつは、『自分は孤独かもしれないが、ひとりではない』という事を、先達の記した言葉を紐解く中で実感として得る事です。

 

 ですが、宗教は『物語』であるが故に、それを読み解く人によっては、都合よく『解釈』されるものでもあります。

 

 ここで現在の新興宗教、カルトが起こしている社会問題に話を戻しましょう。

 カルトの多くは、伝統宗教の教義を都合よく『解釈』したり、複数の宗教の教義から浅い部分だけをつまみ食いした『継ぎ接ぎの教義』を採用したりしている事が少なくありません。既存の宗教を都合の良い解釈で繋ぎ合わせてできたカルトは、多くの場合、教団の利益のために信者を利用して行きます。そこには『邪悪な解釈』が存在すると言えます。

 

 たとえば『お金に過度な執着心を持つのは良くない』という教えがあったとします。それは自分の中の欲望を認めて、その欲に振り回されない様に上手く付き合って行かなければならないという『解釈』に立つならば無害です。ですがカルトはそれを「お金に執着心を持つのは良くない。だから今持っている財産の全ては教団に寄進して、手元から捨ててしまわなければならない。お金とは常に人心を惑わす毒だからだ」といった『邪悪な解釈』をします。

 

 両者を見分けるのは、平時には簡単な事である様に思えますが、実際に心が弱っている時に冷静な判断を下すのは難しい事です。自分は絶対に騙されないぞ、と言える自信は、仏教学を学んだ自分でもありません。謙遜ではなく、事実としてそうです。

 ですから冷静に物事が考えられる状態の時に、覚えておく必要があります。それは、正しい宗教とは常に『助けるべき人のそばに軸足を置いている』という事です。具体的に言えば、人を生き難くする事はしないという事です。

 

 お金に執着心を持つのは良くない。確かにその通りです。ですが、現代の日本で生きて行くにはお金が必要だという事は誰でも分かります。子どもでも分かります。お金がない事は生活苦に直結します。お金に対する執着心を戒める事と、実際の日々の暮らしのどちらが優先されるべきかは言うまでもありません。どんなに貧しかろうと教団に寄進を絶やすなというのは、既に信徒をより生きやすくする事、助ける事から軸足を離してしまっている。教団の体制維持や勢力拡大の方に軸足があって、信徒は利用されるだけになっている。

 

 これが、宗教という物語を邪悪に解釈するという事です。

 伝統宗教が人々との間に築いてきた繋がり、信頼関係を横から乗っ取る。救いを求める人々の願いや祈りを搾取する。そういった邪悪さです。

 

 であれば『正しい解釈』というものもまた、存在します。

 『正しい』という言葉に棘やいかがわしさを感じるならば、『人に寄り添った解釈』と呼び替えてもいいと思います。そう、本著に記されている奥田氏の説教の様に。

 

 自分はキリスト教については門外漢ですが、聖書の言葉を引いて説教を行う時に、現代と聖書が書かれた時代の価値観の違いや社会情勢の変化、個人の人生観の変化をどうやって埋めて行くのか、繋いで行くのかは、まさに『聖書を読む』という読み手の想いが試されるのだと思います。これは、仏教の法話でもきっとそうだと思います。

 

 過去に先達が残した言葉を、どうやって今を生きる人々に繋ぐか。

 そして、なぜ繋ぐのか。それはもちろん、人々の中にある『生き苦しさ』を慰め、これから先も歩き続ける助けとなる為です。杖の様に。背中を押す手の様に。

 常に助けるべき人の隣にある事。軸足を置いている事。それが、本来の宗教の意義です。

 

 であれば、その『読み解き方』は、柔軟であって良いはずです。必ずしも聖書の言葉通りを、教条的に読み伝える必要はない。

 

『ユダよ、帰れ』

 

 本著の表題となっている説教でもありますが、そういう『赦し』があってもいい。

 ユダとは言うまでもなく『裏切り者』の代名詞です。エスの弟子、使徒でありながら銀貨30枚で師を売った。この逸話はあまりにも有名で、今ウクライナで起きている戦争の際にも、ウクライナに駐在していたベラルーシの大使にウクライナ国境警備隊が国外退去を命じる際、銀貨の入った袋を受け取る様に迫り、大使が拒否するとその胸元に袋を投げ付けたという一件があり、その際の動画とされるものを自分もSNSで見ました。ベラルーシウクライナに侵攻したロシアに与している。大使は裏切り者だという意志の表明でしょうか。

 

 ユダが赦される場面は聖書には描かれていません。

 

 厳密に言えば、イエスを裏切り、その後自ら命を絶ったとされるユダが、死後その罪を赦されたのかどうか知る者はいないという事になります。でも、実際にホームレス支援もされている奥田氏は、赦しがある場所、帰る事ができる場所としての『ホーム』が、誰にでもあるべきだという『読み解き』をされます。

 

「ホームにたどり着いた人は天国に行けましたが、帰る場所を見失ったユダのような人は地獄に行きます」でいいのか。生きていた時にホームと呼べるものがなく、死んでからもホームに入れてもらえない。そんな神様なら、いらないと思います。私たちが「福音」と言ってきた事柄がそんな陳腐なことなら、それはずいぶんひどい話ではないか。私は、牧師として意地でも彼らを「成仏」させなければならないと考えます。それが教会の使命です。

 

 牧師の立場で「そんな神様なら、いらないと思います」と言い切るには、信念が必要です。少なくとも教条的に聖書を読んでいる人には言えない。聖書や仏教経典をつまみ食いして都合の良い解釈を並べ立て、邪悪な解釈をしているだけのカルトは言わずもがなです。本著の題名にもなっていますが、聖書を『読む』という事の本来の意味は、ここにあります。

 ただそこに書かれた言葉を追うのではなく、人々が――仏教的に言えば衆生が生きる助けとなるために読む。読み解く。聖書という物語に『人に寄り添った解釈』という補助線を引き、それを求める人に繋いで行く。

 

 そこまでやるからこその宗教です。

 

 宗教は人々をたぶらかすのではなく、人々の生きる助けになる為にこそ存在する。

 

 今は宗教全てが忌避される世情となりつつありますが、いつか宗教という物語がまた必要とされた時に、その軸足を置くべき場所を誤らない様に、また今現在自分や家族を犠牲にする様な信仰を求められている人々に、「そうではない『ホーム』だってあるよ」と言える様にしておきたい。本著を読んで、自分はその事を再確認する事ができました。そしてより多くの人に読まれて欲しいと思います。

 

 

同じ色の血が流れているからこそ・小泉悠『ロシア点描 まちかどから見るプーチン帝国の素顔』を読む

 

 

 ウクライナで戦争が始まってから3ヶ月が経過した。戦争と言っても、ロシアのプーチン大統領はこれを戦争だとは認めていない。その異様な『特別軍事作戦』は、これを書いている2022年6月1日現在もまだ続いている。

 

 ロシアに対するイメージは、このウクライナ侵攻を経て急速に悪化している様に思う。実際に、日本で暮らすロシア人に対するバッシングは酷いものだ。特に商店や飲食店等を経営している場合には、グーグルの口コミなど、ネット上に店の悪評を書き込む荒らし行為が横行しているし、嫌がらせの無言電話をかけられたり、実際に店の看板を壊されたりした等の被害も耳にする。

 

 こうした行為は、やっている側の人間にとっては『正しい事』なのでたちが悪い。

 

 自分は正しいと思っているから遠慮がないし、歯止めが効かない。どこまでもエスカレートして行く。そして、なぜ一方的な批判をする側に回れるかというと、「自分ならこんな事(他国に戦争を仕掛けたり、一般市民を虐殺したり略奪したりといった非道な行い)は絶対にしない」という自負があるからだ。

 

 逆に、自分もいつやってしまうか分からない様な事を、人はそこまで強く否定できない。

 何でも良いけれど、例えば『誤字脱字』の類。タイプミスフリック入力のミス、漢字の誤変換なら誰でもしょっちゅうやっているし、それを見落としてSNSに投稿してしまうなんていう事もある。だから他人の誤字脱字にも比較的寛容で、仕事上の文書や公文書、出版物の原稿でもなければわざわざ指摘しないし、前後の繋がりで意味が通るなら、読む側が読み替えればいいと思う人が大半なのではないだろうか。逆に個人がやっているSNSのつぶやき程度の誤字にやたら厳しい人がいると、別にその程度いいじゃないかと周囲からたしなめられてしまったりする。

 

 交通事故もそうだ。不注意による過失なら自分も事故を起こしてしまう可能性はある。その一方で、自分の意思さえあれば加害者になる事を100パーセント防ぐ事が可能な飲酒事故に向けられる目はもっと厳しい。

 

 この様に、自分ならば絶対に行わない行為や犯さないだろう過ちに対して、人は厳しい。だから今のロシアは絶対的に間違っているし、現地で非道な行いをしているロシア兵も当然許せなければ、日本にいて祖国の間違った行いを止める事もできないロシア人もまた許せないという事になる。何らかの(私的な)制裁を加えてやらなければならないという『ブレーキの壊れた正義感』に突き動かされて行く。

 

 でも、自分は疑問に思う。

 自分は、自分達は、本当に今ロシア兵がウクライナ人に対して行っている様な非道な行為をしないと言い切れるのか。絶対に、何があっても。

 ロシア兵は悪魔であり、良心の欠片もなく、だからこそウクライナ侵攻の様な酷い事をしているのだ。奴らは人間ではない。自分達とは違うものだ。そういった前提に立って物事を考えたくなるのは、それが単純に楽だからだし、安心できるからだ。それが正しいからじゃない。

 

 でも、繰り返しになるが、ロシア兵の蛮行は本当に自分達と関係がないのか。ロシア兵は人の心を持たない存在なのか。当然、そんな訳がない。

 

 本著はロシアによるウクライナ侵攻の前に企画されたものだろう。当然、現在の情勢を受けて内容は大幅に見直された様だけれど、本著の趣旨は『はじめに』に書かれている通り、『ロシア人とはいかなる人々で、ロシアではどんな生活が営まれているのかを、なるべく身近でわかりやすく理解してもらおう』という事にある。そしてまた著者の小泉氏は以下の様に述べる。

 

 こんなひどい戦争を始めたロシアのことなど理解したくない、という意見もあるでしょう。しかし、理解することと賛同することは違いますし、政府と社会も(完全に切り分けることは難しいものの)やはりイコールではありません。

 ロシアがどんな国であるのかを理解することなくしては、この戦争を止め、二度と繰り返させないようにできないのではないでしょうか。いうなれば、我々が今、なぜこのような悲劇を目の当たりにしているのかを理解するための補助線になればよい、というのが本書にかけた願いです。

 

 その願いが、本意が、多くの人に届くと良いと思う。

 

 本著の出版と昨今のロシア、ウクライナ情勢もあって、著者の小泉氏も様々なメディアに出演していたけれど、その中で文化放送の『ロンドンブーツ1号2号田村淳のNewsCLUB』という番組のアーカイブYou Tubeにアップされていた。それを見た時に印象的なやり取りがあったので大まかに書き起こす。

 

youtu.be

(動画:33分頃から)

田村:この「スーパーのルールが独特」っていうのはこれどういう?

小泉:(笑)スーパーのルールが独特っていうのは、あの、今はもう最近だいぶそういう店は減ったんですけど、僕の住んでいた頃のロシアのスーパーっていうのは、店に入る時にカバンを全部預けなきゃいけなかったんですよね。

田村:万引き防止?

小泉:万引き防止。で、万引き防止なんですけど、そこがまたロシア人の『不信』と『信頼』の入り混じってる部分で、僕みたいな男の場合は、その、入口にまた凄い怖い警備員がいるんです。「お前、カバン!」とか言われるんですけど、何かね、女性は別にカバン持って入ってもしれーっと何も言わないし。(苦笑)妙にこの『女性と子どもには甘い』という所が、またこのロシア人の不思議な所なんですよね。

田村:へぇー。(笑)

小泉:1回、もう明らかに何か『半分ホームレス』みたいな貧しいおばあちゃんが入って来て、明らかにジャガイモをポイポイポイポイ自分のカバンに詰め込んでるんですけど、警備員もしれーっとしてたりとか。(苦笑)

田村:それ、もう『見過ごしてあげる』って事ですか?

小泉:そう、きっとかわいそうだから見過ごしてるんですよね。

砂山:小泉さんの本の中に、結構『弱い人にもの凄く優しい』っていうエピソードが結構出てるんですよね。

小泉:でも、何かそういうね、そのロシア人の『弱者に優しい』っていう所は、凄い僕、良い所だなって思ってただけに、今回やっぱりロシア人がウクライナで、ああやって同胞の民族に対して本当に酷い目に遭わせているっていうのは、もう「『あのロシア人』と『このロシア人』はどう結び付くんだ?」っていうのは本当に悩んじゃう所ですよね。

 

 

 自分は思う。『あのロシア人』も『このロシア人』も、一人の人間の中にあるのだろうと。世の中には良い人もいれば悪い人もいるなんていう一般論ではなく、例えば自分の頭の中にもきっと『両方の自分』が存在し得る。あの自分と、この自分みたいに。

 

 女性に優しかった人が戦地では婦女暴行をしているかもしれない。

 子どもの頭を撫でていたその同じ手で、避難所になった学校を砲撃する人がいたかもしれない。

 貧しいおばあさんの万引きを見過ごしてあげた警備員は、戦地に行けば自分が略奪行為をするのかもしれない。そして戦地から奪って来たものを、自分の大切な人に贈るのかもしれない。何食わぬ顔で。

 

 そうした、一見矛盾する面が折り重なる事で人間という立体は構成されているのかもしれない。そんな想像をしてしまう事は、嫌な事だけれど。

 

 だから逆説的にではあるけれど、思うのだ。

 ロシア兵は悪魔じゃない。確かに血の通った人間だ。でも血の通った人間だから非道な行いをしないとは言えない。それと同じ様に、自分は、自分達は常に正しいとも限らない。極限状態に放り込まれれば、自分だって今のロシア兵の様な事をするかもしれない。今はロシア兵を非難する立場だったとしても。

 

 繰り返しになるが、それは本当に嫌な想像ではある。

 

 でも、その嫌な想像をしたくないから、ロシア兵の、或いはロシア人全体の人間性の問題に全てを押し付けて一刻も早く安心してしまいたいと願うのは、端的に言って『怠惰』だ。なぜ怠惰であってはならないかと言えば、それは次に自分達が今のロシアと同じ過ちを犯さない様にする為だ。

 

 『弱い人にもの凄く優しい』一面を持つロシア人が、ウクライナでは女性や子ども、高齢者といった弱者を巻き込み、街を灰燼に帰す様な作戦を遂行できるのなら、自分達にだって当然それはできる。できてしまう。その事実と向き合う事。

 

 唐突だけれど『てめえらの血はなに色だーっ!!』って、『北斗の拳』に出て来る有名なセリフがあって、それは人でなしに向けた言葉としてもうネットミームというかネットスラングになってしまっているけれど、それはあくまでも漫画のセリフであって、実際には同じ色の血が流れているに決まっている。何をしている、どんな人間であっても。人間である限り同じ赤い血が流れている。

 

 だからこそ、物事は単純じゃない。

 青い血でも白い血でもなく、同じ赤い血が流れている者同士がお互いを害しているからこそ、その酷い現実を受け入れて行くのは難しい。

 

 でも、だからこそ、その否定できない不都合な現実を受け入れた上で各々が自分に何ができるかを考えて行くべきなんだろう。自分達は悪魔でも機械でもない。でも、悪魔の様にも、機械の様にもなってしまう事ができる。置かれた情況が変われば。上に立つ指導者に強要されれば。だったら、それを避ける手段、乗り越える方法は無いのか。

 

 それを考え続ける事が、少しでもこの社会をマシなものにして行く唯一の方法なのかもしれない。

 

 

他ならぬ自分自身に向けられた刃として・平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』を読む

 

 

 『ソ連兵へ差し出された娘たち』という言葉が持つ重み。それは自分の胸を強く叩く。そして自分もまた加害者なのではないかという疑念を強く抱かせる。

 

 このドキュメンタリーは言ってみれば『告発』なのだと思う。平井氏の取材に応じた当事者の方々はあくまでも『告白』のつもりだったのかもしれないけれど、結果としてその内容は告発の色を帯びている。そしてその告発の対象には、きっと読者である自分自身も含まれている。

 

 時代は太平洋戦争における大日本帝国の敗戦後だ。

 大日本帝国は当時、満州開拓団(満蒙開拓団)として多数の国民を移住させていた。『開拓団』と言ってはいるものの、当時の日本人は原野を切り開く様な文字通りの開拓を行った訳ではなかった。満州拓殖公社が満人と呼ばれた現地の人々から土地建物を強制的に買い上げたのだ。買い上げたと言えば聞こえは良いが、その対価は十分なものとは言えなかったし、満人の移住は強制的に行われた。有り体に言えば、大日本帝国は国策として、満州で暮らしていた人々から家や農地を奪った。

 

 その大日本帝国が敗戦を迎えた時、今度は開拓団が奪われる側になる事は自明だった。

 

 1945年8月にソ連軍が満州に侵攻を開始すると、開拓移民を守るべき関東軍は彼等を置き去りにして逃亡した。この逃亡に関しては諸説あるが、結果として軍という後ろ盾を失った開拓団は暴徒化した満人の襲撃に遭う事になる。集団自決を選ぶ団も出る中、本著で取り上げられた黒川開拓団は侵攻してきたソ連兵による庇護を求めた。

 

 ソ連兵によって暴徒化した満人が退けられると、次に問題になったのは当のソ連兵による略奪と強姦だった。そしてその下級兵士による無秩序な襲撃を止めさせるために選ばれた手段は、開拓団の中から十数名の女性を選んで将校への性接待役として差し出すというものだった。

 

 本著の中で繰り返し登場する『接待』という言葉。接待役だった女性たちの生々しい告白。団員の中から接待役を選んでソ連兵に差し出すという開拓団上層部の決定と、日本に引き揚げてきた後も続いた接待役の女性への差別。それら全ては、とても酷いものだ。自分の言葉では言い表す事ができない。ぜひ本著を読んでもらいたいと思う。

 

 ただ、その上で考えておかなければならないのは、その『酷さ』を、自分とは無関係のものだと考えた上で読むのなら、きっとそれは読者の心には響かないだろうという事だ。

 

 黒川開拓団で起きた事は、確かに酷い事だった。

 特定の女性を選び出して性接待を行わせるという決定は非道だったし、その役目を負わされた女性がその後も差別を受け続けた事には憤りを覚える。でもそれを、当時開拓団の中で指導的な立場にいた人々に対する怒りや、彼等の子孫、遺族会に対する直接的な批判といった形で表明する事に、どれだけ意味があるだろう。

 

 本著の刊行に際して、黒川分村遺族会満蒙開拓平和記念館が声明を出しているので、そのリンクを以下に記しておきたい。

 

www.manmoukinenkan.com

 

 自分は思う。本著を読んで、過去の黒川開拓団の過ちを直接的に批判したくなるのは確かだ。ただ、そもそも過去の戦争それ自体が、日本人が『加害者であり、被害者でもある』という面を持っていた事を忘れるべきではない。

 自分達は大日本帝国が行った侵略戦争の反省に立ち、平和憲法を有する日本として再出発する道を選んだ。ただ、戦後教育の中で広島、長崎に対する原爆投下といった犠牲の痛ましさが強調され、それが『反戦』つまり戦争そのものを憎み忌避する国民感情を醸成した一方、自分達が確かに加害側だったという意識は十分育たなかったのだと言えはしないだろうか。

 

 過去の戦争における日本人の加害性。

 現在の日本に生きる自分達の加害性。

 それを見ない様にして、目をそらしながら生きている自分に対する意識。

 

 それは言い換えれば、黒川開拓団で起きた事を無条件に批判できるほど、自分達は加害性を捨てて、より良い戦後社会を作れたのだろうか、自分は彼等を批判できる立場なのだろうかという事だ。もっと簡単に言えば、自分は他者を批判できるほど上等な人間なのかという事でもある。

 

 かつて黒川開拓団で接待役に選ばれた女性達は、団の中でも立場が弱い人々だった。人の生死がかかった極限状態の中では、往々にして常日頃から弱い立場に置かれている人々や、元々集団の中で差別されている人々から順番に犠牲を強いられて行く。そしてそれは今も同じだ。

 

 自分は社会福祉法人で重度知的障がい者に対する福祉サービスにかかわる仕事をしている。だからこそ思うが、今何か非常事態が起きて、社会の中で誰かが犠牲にならなければならくなったとして、それは今自分の目の前にいる人達からだろう。そういう『順番』が、何となく仕方ないものとしてこの社会の中で共有されている気がしてならない。

 

 それは本当に『仕方ない』のか。

 

 かつて第一次世界大戦における敗戦国となったドイツでは、多額の賠償金が財政を圧迫した。結果として『生産性がない人間を養護しておく余裕はない』という、近年日本でも広がりつつある価値観が生まれた。その『生産性がない人間』とは主に障がい者の事であり、やがて彼等を安楽死させる事を正当化するナチスの『T4作戦』へと繋がって行く。自分はその事にも以前触れた。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 つまり、ナチスが出て来てから酷い事が始まった訳ではない。

 

 国が貧しくなり、自分達の生活が苦しくなる中で、お荷物として養護されている障がい者を捨ててしまいたいという民衆の暗い欲求が先にあって、ナチスは後からやって来た。ナチスを育て、障がい者安楽死を事実上容認したのは、世界史に名前が残らない様な一般的な国民――自分達一人ひとりが持つ差別意識だった。

 

 自分は、本著が『告発』しているのは過去の大日本帝国や黒川開拓団の人々の行いだけではないのだろうと思う。今自分が誰かに対して無意識に抱いている差別感情が、有事には表面化するのだという事が繰り返し指摘されているのであって、告発されているのはむしろ今この本を読んでいる自分自身なのだ。

 

 一番避けなければならないのは、その自分の中にある差別意識や加害性に、自分自身が気付かないままでいる事だ。そして、自分以外の人々が、常日頃からどんな差別感情を持ち、それを心の中で育てているのかを知る必要がある。なぜならそれに気付かないままでいれば、いつか戦争の様な過酷な情況に置かれた時に、自分は今持っている差別感情によって誰かに性接待の様な役目を押し付ける側になるだろうし、逆に周囲の人々の差別意識によって酷い境遇に追いやられる事にもなるからだ。

 

 戦争が悪かった、時代が悪かったという認識は、罪の意識を薄める。

 

 そして罪の意識が薄まれば、自分達はまたいつか同じ事を繰り返す。

 悪かったのは、そして今悪いのは自分だ。そう言えなければならない。その為に知らなければならない事が、この本の中には書かれている。そんな気がする。

 

 

『シン・ウルトラマン』に寄せて (※ネタバレあります)

 『シン・ウルトラマン』について。

 ネタバレだらけなので未見の方は読んじゃダメですよ。

 

 

 

 ウルトラマンには、特別な思い入れがある――なんて言うと、きっと『本当にウルトラマンを愛している人』に怒られてしまうレベルかもしれないけれど、自分の地元は円谷英二監督の出身地という事もあって、何となくいつも心の片隅にウルトラマンゴジラといった特撮作品の存在があった様に思う。

 

 自分は1970年代の末に生まれた。

 世代的には丁度、『ウルトラマン80』のTV放送を観ていたかどうかという年齢なのだけれど、正直、物心つく前だったのでリアルタイム視聴の記憶はない。幼少期の断片的な記憶の中から思い出せるのは、市立博物館になぜか怪獣『シュガロン』の着ぐるみが1体だけ常設展示されていた事とか、盆踊りにウルトラマンが参加していた事とか、今の子どもたちならきっと『となりのトトロ』や『崖の上のポニョ』の曲で幼稚園のお遊戯や運動会の体操を披露しているみたいに、小学校の運動会で『帰ってきたウルトラマン』のテーマに合わせて踊った事くらいだ。

 

 1980年代はウルトラシリーズ仮面ライダーシリーズのTV放送が一区切りを迎えた時期でもある。自分はその頃の子どもで、身近な特撮作品と言えばむしろウルトラマンよりも戦隊ヒーローと宇宙刑事シリーズだった。ウルトラシリーズは主に再放送で触れたクチで、それでも幼心に強烈な印象を残したエピソードをいくつも思い出せる。

 

 また、『小学館入門百科シリーズ』という本があって、そのウルトラ兄弟編とウルトラ怪獣編が凄く好きだった。だから自分の記憶は再放送の記憶と、本から得た記憶がごちゃまぜになっていて、どれがオフィシャルな設定なのかを区別しないまま憶えてしまっている部分がある。自分にとって「決して詳しいとは言えないけれど、特別な思い入れのある存在」ウルトラマンなんじゃないかと思う。

 

 

 

 そんなかつての子どもも、今や中年男性だ。

 

 中年男性になった自分が『シン・ウルトラマン』を観て感じたのは、懐かしさと、その懐かしい記憶を裏切る様な新しさと、忘れていた大切な記憶だったんじゃないかという気がする。

 

 まず、懐かしさについて。

 シン・ウルトラマンは令和のウルトラマンだけれど、そこには『自分が知っているウルトラマンがいる。胸にカラータイマーは無くても、かつて自分が見たウルトラマンは消える事無くそこにいてくれて、『久し振りに親友と再会した』かの様な安心感がある。

 

 ベーターカプセルを使っての変身。スペシウム光線発射のポーズ。八つ裂き光輪。効果音や劇伴。昔見た、昔聴いた、ウルトラマン。それは何だか、昔のヒット曲をちゃんとライブで歌ってくれるバンドみたいな心地良さがある。逆に「自分たちはいつまでも過去なんか振り返らないんだぜ」的な攻めの姿勢を良しとする人もいて、それは好みの問題だけれど、昔のヒットナンバーを恥ずかしがらずに「やっぱりみんなコレが聴きたいんだろうから」って演奏してくれるバンドが自分は割と好きだ。アンコールの時でもいいからさ。

 

 次に新しさについて。

 『みんな、ウルトラマンってもう知ってるでしょう?』っていう共通認識を、元のイメージを壊さない程度に揺さぶる力。それがシン・ウルトラマンにはある。思えば『新世紀エヴァンゲリオン』の新劇場版にもそういう所があった。

 1回観ているストーリーを再構成しつつ、ここぞという所で新しいエッセンスを入れ込んでくる。『予想は裏切る。でも期待は裏切らない』っていう絶妙なバランス。例えばゼットンのくだりとか。ああいう風にゼットンを再定義するのかっていう驚きがある。

 

 「ウルトラマンゼットンに負ける」っていうのは、当時だから衝撃的だった訳だけれど、今、自分たちはもうその事を知っている訳だよね。ゼットンが出てくる以上、ウルトラマンは一度は負けるんだって。そこで、そのエピソードの大筋は変えずに、ゼットンが持つ意味を入れ替えてきた。しかも、元々のゼットンが持つ悪魔的な強さのイメージはもっと強力にして。

 

 小さい頃の思い出だけで書いているから記憶違いもあると思うのだけれど、ゼットンの怖さって単純な『強さ』だけではなくて、「全く意思疎通ができなさそうな所(というか意思そのものを感じない所)」とか、「激しく動き回るでもないのにウルトラマンが太刀打ちできない所」にあると思っている。

 

 普通の怪獣(禍威獣)って『吠える』んだよね。咆哮する。獣みたいに。

 でもゼットンってあの不思議な電子音みたいな『ピロピロピロピロ』っていう音(どういう擬音で書いたらいいか不明)で鳴く。 あれって全く意思を感じない。だから怖い。普通の怪獣みたいに、「ああ今は怒ってるんだろうな」とか「痛かったのかな」みたいな推測ができない。内心を理解しようとか、行動原理を推察しようという行為を拒絶する。人間が現実に慣れ親しんでいる『咆哮する獣』の枠に入らないから。

 

 意味不明というか、意思不明で、確固とした暴力だけがある。そういう理解不能なものが醸し出す怖さゼットンにはある。

 

 それが、天体制圧用最終兵器だったんだっていう。しかもゾフィー(本作ではゾーフィ)が人類に対してそれを使うんだっていうショックが一体になっている。(5/21追記・これは自分の知識不足で、ゾーフィは元ネタがあってゾーフィだったんですね。ゾフィーにあらず、という。でも相当詳しくないとわかんないよこんなのって思いつつ、ちょっと笑っちゃいました)

 

 そういう新しさ。予想を裏切りつつ期待を裏切らない部分が良い。

 

 最後に、忘れていた大切な記憶について。

 

 正直、自分は子どもの頃たまに思っていた。ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」って。本作にもそういう場面はある。

 

 確かにウルトラシリーズには『人間が怪獣を倒す』とか『怪獣を倒すだけが解決じゃない』というエピソードもあると思う。科特隊に代表される様な組織も毎回頑張って戦う。でも大抵の場合、怪獣を倒すのはウルトラマンだ。だったらもう、ウルトラマンだけが戦えばいいんじゃないか、人間はただウルトラマンに守ってもらったらいいんじゃないか。怪獣が出たら「助けてウルトラマン!」って叫んでいればいいんじゃないかって。困った時の神頼み。「神様助けて!」って言うのと何も変わらない。

 

 でも、ウルトラマンは何で人間の為に戦ってくれるんだろう。

 

 子どもの頃に読んだ本には、『ウルトラの国には宇宙警備隊という組織があって、ウルトラ兄弟たちはそこに所属しているんだ』という風に書かれていた。だったら話は簡単だ。ウルトラマンが怪獣と戦ってくれるのは、宇宙の平和を守るという『任務』の為だ。宇宙刑事みたいなものだ。大人になった自分からすれば、言ってみればそれは『仕事』だ。

 

 でも、本当にそれだけなんだろうか。

 

 『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンが戦う理由はもっと本質的な所にある。ただ任務だから怪獣と戦ってくれる訳じゃないし、人間が愚かな振る舞いをすれば、彼はきっと人類を見捨てるだろう。むしろその手で滅ぼそうとするかもしれない。

 

 ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する』という言葉の重さはそこにある。人類は期待されている。だったら自分たちはそれに応えなきゃならない。人間はウルトラマンの期待を裏切ってはならない。ただ神≒ウルトラマンに助けを求めて何の努力もしない様な、怠惰で無気力で希望も持たない存在なんかじゃないっていう事を証明しなければならない。証明し続けなければならない。

 

 ウルトラマンに価値を認めてもらう事で助けを乞うためじゃなく、自分自身のために。

 

 『そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

 

 この台詞を聞いた時、自分はこの言葉は全部、大人になった今の自分に跳ね返ってくるものなんじゃないかと思った。

 小さい頃の自分は――誤解を恐れずに言えば『自分たち』は、時には「ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」なんて事も考えていたかもしれないけれど、その一方でウルトラマンになりたい」なんていう無邪気さを持ってはいなかっただろうか?

 

 自分の幼稚園の卒園アルバムには、そんな事を書いている子がまだいたと思う。それは単純に『強く大きな存在への憧れ』みたいな幼さだったのかもしれない。でも、ウルトラマンになって怪獣と戦うっていうのは、本来怖い事だし、痛い事だ。大変な事だし、辛い事だ。逃げられないし、孤独でもある。それでもウルトラマンになりたいって思う気持ちを、自分達はいつ、どこで捨てて来たんだろう。それとも単に、そこまで考えが及ばなかっただけなんだろうか?

 

 でも、ウルトラマンだけじゃない。自分たちは言ってみれば『正義の味方』になりたかったんだ。人生のある時期には、確かに。そのために強くなりたかったんだ。でも大人になった自分は、無力な自分の代わりに誰かが戦ってくれるというのなら、願ったり叶ったりじゃないかって考えている。自分は隅っこの方で、そんな誰かの応援だけしていればいい。いいや、邪魔にならないようにさえしていればいい。息を殺して、存在を消して。

 

 「『誰か』が怪獣を――自分にとって『良くないもの』をやっつけてくれるなら、自分は戦わなくてもいいんじゃないか」って思う事が普通になった。

 

 面倒な事は誰かに押し付けてしまえばいい。

 自分の仕事は、自分の身の回りの暮らしを何とか維持する事だけだ。それ以上の責任は重過ぎて背負えないし、背負いたくもない。大丈夫、『誰か』が戦ってくれるよ。自分より強くて、自分より正義感があって、自分よりももっと適任な『誰か』が。

 

 『そんなに人間が嫌いになったのか、自分は』

 

 言ってみれば、自分はもう正義が何なのか分からない。果たすべき責任も分からない。自分にその能力があるなんて信じる事すら止めてしまった。現実を振り返ればそこには戦争なんていう冗談じゃない事まで現在進行系で存在している。自分の事しか考えていない連中――自分も含めて――が勝手な事を言い合って、誰かを傷付け誰かから奪う。それでも『仕方ない』んだ。仕方ないって思わなけりゃやって行けない事がこの世には多過ぎる。この世界に神はいない。ウルトラマンもいない。助けてって叫んだら聞いてくれる様な『誰か』なんてここにはいない。

 

 でも、そうやってウルトラマンを裏切った』のは、きっと自分の方が先だったんじゃないかって、今は思う。信じれば彼は今もそこにいたかもしれないのに。

 

 人間の可能性を信じなかった。自分の可能性も信じなかった。実現が難しい事だったとしても『目指すべき正しさ』というものがあって、そこに向かって歩いて行かなけりゃならないんだっていう道からそれてしまった。結果として期待を裏切ってしまった。

 

 本当は、もっと愚直に信じなきゃならなかったかもしれないのに。子どもの頃の様に。人間には、自分には価値があって、果たすべき責任もまたそこにあるんだっていう事を。

 

 ウルトラマンが人間を助けてくれるのは、『人類のすべてに期待する』という彼の言葉を自分たちが裏切らなかった時だけなんだと思う。自分たちは、今ここにいる自分は、その期待に応えようとするだけの意思をまだ失っていないと示す事。

 

 能力の有無じゃない。自己責任なんていう突き放した話でもない。ただそこに意思があるのかどうか。震えながらでも、見上げた『光』を追いかける心を持てるかどうか。それは困難な事ではあるかもしれないけれど、難しい事じゃない。難しい言葉を並べなけりゃ言い表せない事じゃない。

 『ウルトラマンになりたかった』っていう、幼い頃の気持ちを、もう一度思い出して、この手で拾えるかっていう事。そして今、自分はそれを望むのかっていう事でもある。

 

 それが、忘れていた大切な記憶。なんていう事はない。小さい頃に、誰もが一度は願う事。その思い出の話であり、自分自身の来し方の話であり、これから先の、未来の話だ。

 

 そういうものを、思い出させてもらった気がする。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、子どもの頃に見たヒーローに再会するっていうのは、きっとそういう事だ。まるで久し振りに親友と会った時に、自分は彼に恥じない自分だっただろうかって、ふと考えるみたいに。

 

 その機会が今で良かった。自分は今、そんな風に考えている。