老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

同じ色の血が流れているからこそ・小泉悠『ロシア点描 まちかどから見るプーチン帝国の素顔』を読む

 

 

 ウクライナで戦争が始まってから3ヶ月が経過した。戦争と言っても、ロシアのプーチン大統領はこれを戦争だとは認めていない。その異様な『特別軍事作戦』は、これを書いている2022年6月1日現在もまだ続いている。

 

 ロシアに対するイメージは、このウクライナ侵攻を経て急速に悪化している様に思う。実際に、日本で暮らすロシア人に対するバッシングは酷いものだ。特に商店や飲食店等を経営している場合には、グーグルの口コミなど、ネット上に店の悪評を書き込む荒らし行為が横行しているし、嫌がらせの無言電話をかけられたり、実際に店の看板を壊されたりした等の被害も耳にする。

 

 こうした行為は、やっている側の人間にとっては『正しい事』なのでたちが悪い。

 

 自分は正しいと思っているから遠慮がないし、歯止めが効かない。どこまでもエスカレートして行く。そして、なぜ一方的な批判をする側に回れるかというと、「自分ならこんな事(他国に戦争を仕掛けたり、一般市民を虐殺したり略奪したりといった非道な行い)は絶対にしない」という自負があるからだ。

 

 逆に、自分もいつやってしまうか分からない様な事を、人はそこまで強く否定できない。

 何でも良いけれど、例えば『誤字脱字』の類。タイプミスフリック入力のミス、漢字の誤変換なら誰でもしょっちゅうやっているし、それを見落としてSNSに投稿してしまうなんていう事もある。だから他人の誤字脱字にも比較的寛容で、仕事上の文書や公文書、出版物の原稿でもなければわざわざ指摘しないし、前後の繋がりで意味が通るなら、読む側が読み替えればいいと思う人が大半なのではないだろうか。逆に個人がやっているSNSのつぶやき程度の誤字にやたら厳しい人がいると、別にその程度いいじゃないかと周囲からたしなめられてしまったりする。

 

 交通事故もそうだ。不注意による過失なら自分も事故を起こしてしまう可能性はある。その一方で、自分の意思さえあれば加害者になる事を100パーセント防ぐ事が可能な飲酒事故に向けられる目はもっと厳しい。

 

 この様に、自分ならば絶対に行わない行為や犯さないだろう過ちに対して、人は厳しい。だから今のロシアは絶対的に間違っているし、現地で非道な行いをしているロシア兵も当然許せなければ、日本にいて祖国の間違った行いを止める事もできないロシア人もまた許せないという事になる。何らかの(私的な)制裁を加えてやらなければならないという『ブレーキの壊れた正義感』に突き動かされて行く。

 

 でも、自分は疑問に思う。

 自分は、自分達は、本当に今ロシア兵がウクライナ人に対して行っている様な非道な行為をしないと言い切れるのか。絶対に、何があっても。

 ロシア兵は悪魔であり、良心の欠片もなく、だからこそウクライナ侵攻の様な酷い事をしているのだ。奴らは人間ではない。自分達とは違うものだ。そういった前提に立って物事を考えたくなるのは、それが単純に楽だからだし、安心できるからだ。それが正しいからじゃない。

 

 でも、繰り返しになるが、ロシア兵の蛮行は本当に自分達と関係がないのか。ロシア兵は人の心を持たない存在なのか。当然、そんな訳がない。

 

 本著はロシアによるウクライナ侵攻の前に企画されたものだろう。当然、現在の情勢を受けて内容は大幅に見直された様だけれど、本著の趣旨は『はじめに』に書かれている通り、『ロシア人とはいかなる人々で、ロシアではどんな生活が営まれているのかを、なるべく身近でわかりやすく理解してもらおう』という事にある。そしてまた著者の小泉氏は以下の様に述べる。

 

 こんなひどい戦争を始めたロシアのことなど理解したくない、という意見もあるでしょう。しかし、理解することと賛同することは違いますし、政府と社会も(完全に切り分けることは難しいものの)やはりイコールではありません。

 ロシアがどんな国であるのかを理解することなくしては、この戦争を止め、二度と繰り返させないようにできないのではないでしょうか。いうなれば、我々が今、なぜこのような悲劇を目の当たりにしているのかを理解するための補助線になればよい、というのが本書にかけた願いです。

 

 その願いが、本意が、多くの人に届くと良いと思う。

 

 本著の出版と昨今のロシア、ウクライナ情勢もあって、著者の小泉氏も様々なメディアに出演していたけれど、その中で文化放送の『ロンドンブーツ1号2号田村淳のNewsCLUB』という番組のアーカイブYou Tubeにアップされていた。それを見た時に印象的なやり取りがあったので大まかに書き起こす。

 

youtu.be

(動画:33分頃から)

田村:この「スーパーのルールが独特」っていうのはこれどういう?

小泉:(笑)スーパーのルールが独特っていうのは、あの、今はもう最近だいぶそういう店は減ったんですけど、僕の住んでいた頃のロシアのスーパーっていうのは、店に入る時にカバンを全部預けなきゃいけなかったんですよね。

田村:万引き防止?

小泉:万引き防止。で、万引き防止なんですけど、そこがまたロシア人の『不信』と『信頼』の入り混じってる部分で、僕みたいな男の場合は、その、入口にまた凄い怖い警備員がいるんです。「お前、カバン!」とか言われるんですけど、何かね、女性は別にカバン持って入ってもしれーっと何も言わないし。(苦笑)妙にこの『女性と子どもには甘い』という所が、またこのロシア人の不思議な所なんですよね。

田村:へぇー。(笑)

小泉:1回、もう明らかに何か『半分ホームレス』みたいな貧しいおばあちゃんが入って来て、明らかにジャガイモをポイポイポイポイ自分のカバンに詰め込んでるんですけど、警備員もしれーっとしてたりとか。(苦笑)

田村:それ、もう『見過ごしてあげる』って事ですか?

小泉:そう、きっとかわいそうだから見過ごしてるんですよね。

砂山:小泉さんの本の中に、結構『弱い人にもの凄く優しい』っていうエピソードが結構出てるんですよね。

小泉:でも、何かそういうね、そのロシア人の『弱者に優しい』っていう所は、凄い僕、良い所だなって思ってただけに、今回やっぱりロシア人がウクライナで、ああやって同胞の民族に対して本当に酷い目に遭わせているっていうのは、もう「『あのロシア人』と『このロシア人』はどう結び付くんだ?」っていうのは本当に悩んじゃう所ですよね。

 

 

 自分は思う。『あのロシア人』も『このロシア人』も、一人の人間の中にあるのだろうと。世の中には良い人もいれば悪い人もいるなんていう一般論ではなく、例えば自分の頭の中にもきっと『両方の自分』が存在し得る。あの自分と、この自分みたいに。

 

 女性に優しかった人が戦地では婦女暴行をしているかもしれない。

 子どもの頭を撫でていたその同じ手で、避難所になった学校を砲撃する人がいたかもしれない。

 貧しいおばあさんの万引きを見過ごしてあげた警備員は、戦地に行けば自分が略奪行為をするのかもしれない。そして戦地から奪って来たものを、自分の大切な人に贈るのかもしれない。何食わぬ顔で。

 

 そうした、一見矛盾する面が折り重なる事で人間という立体は構成されているのかもしれない。そんな想像をしてしまう事は、嫌な事だけれど。

 

 だから逆説的にではあるけれど、思うのだ。

 ロシア兵は悪魔じゃない。確かに血の通った人間だ。でも血の通った人間だから非道な行いをしないとは言えない。それと同じ様に、自分は、自分達は常に正しいとも限らない。極限状態に放り込まれれば、自分だって今のロシア兵の様な事をするかもしれない。今はロシア兵を非難する立場だったとしても。

 

 繰り返しになるが、それは本当に嫌な想像ではある。

 

 でも、その嫌な想像をしたくないから、ロシア兵の、或いはロシア人全体の人間性の問題に全てを押し付けて一刻も早く安心してしまいたいと願うのは、端的に言って『怠惰』だ。なぜ怠惰であってはならないかと言えば、それは次に自分達が今のロシアと同じ過ちを犯さない様にする為だ。

 

 『弱い人にもの凄く優しい』一面を持つロシア人が、ウクライナでは女性や子ども、高齢者といった弱者を巻き込み、街を灰燼に帰す様な作戦を遂行できるのなら、自分達にだって当然それはできる。できてしまう。その事実と向き合う事。

 

 唐突だけれど『てめえらの血はなに色だーっ!!』って、『北斗の拳』に出て来る有名なセリフがあって、それは人でなしに向けた言葉としてもうネットミームというかネットスラングになってしまっているけれど、それはあくまでも漫画のセリフであって、実際には同じ色の血が流れているに決まっている。何をしている、どんな人間であっても。人間である限り同じ赤い血が流れている。

 

 だからこそ、物事は単純じゃない。

 青い血でも白い血でもなく、同じ赤い血が流れている者同士がお互いを害しているからこそ、その酷い現実を受け入れて行くのは難しい。

 

 でも、だからこそ、その否定できない不都合な現実を受け入れた上で各々が自分に何ができるかを考えて行くべきなんだろう。自分達は悪魔でも機械でもない。でも、悪魔の様にも、機械の様にもなってしまう事ができる。置かれた情況が変われば。上に立つ指導者に強要されれば。だったら、それを避ける手段、乗り越える方法は無いのか。

 

 それを考え続ける事が、少しでもこの社会をマシなものにして行く唯一の方法なのかもしれない。

 

 

他ならぬ自分自身に向けられた刃として・平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』を読む

 

 

 『ソ連兵へ差し出された娘たち』という言葉が持つ重み。それは自分の胸を強く叩く。そして自分もまた加害者なのではないかという疑念を強く抱かせる。

 

 このドキュメンタリーは言ってみれば『告発』なのだと思う。平井氏の取材に応じた当事者の方々はあくまでも『告白』のつもりだったのかもしれないけれど、結果としてその内容は告発の色を帯びている。そしてその告発の対象には、きっと読者である自分自身も含まれている。

 

 時代は太平洋戦争における大日本帝国の敗戦後だ。

 大日本帝国は当時、満州開拓団(満蒙開拓団)として多数の国民を移住させていた。『開拓団』と言ってはいるものの、当時の日本人は原野を切り開く様な文字通りの開拓を行った訳ではなかった。満州拓殖公社が満人と呼ばれた現地の人々から土地建物を強制的に買い上げたのだ。買い上げたと言えば聞こえは良いが、その対価は十分なものとは言えなかったし、満人の移住は強制的に行われた。有り体に言えば、大日本帝国は国策として、満州で暮らしていた人々から家や農地を奪った。

 

 その大日本帝国が敗戦を迎えた時、今度は開拓団が奪われる側になる事は自明だった。

 

 1945年8月にソ連軍が満州に侵攻を開始すると、開拓移民を守るべき関東軍は彼等を置き去りにして逃亡した。この逃亡に関しては諸説あるが、結果として軍という後ろ盾を失った開拓団は暴徒化した満人の襲撃に遭う事になる。集団自決を選ぶ団も出る中、本著で取り上げられた黒川開拓団は侵攻してきたソ連兵による庇護を求めた。

 

 ソ連兵によって暴徒化した満人が退けられると、次に問題になったのは当のソ連兵による略奪と強姦だった。そしてその下級兵士による無秩序な襲撃を止めさせるために選ばれた手段は、開拓団の中から十数名の女性を選んで将校への性接待役として差し出すというものだった。

 

 本著の中で繰り返し登場する『接待』という言葉。接待役だった女性たちの生々しい告白。団員の中から接待役を選んでソ連兵に差し出すという開拓団上層部の決定と、日本に引き揚げてきた後も続いた接待役の女性への差別。それら全ては、とても酷いものだ。自分の言葉では言い表す事ができない。ぜひ本著を読んでもらいたいと思う。

 

 ただ、その上で考えておかなければならないのは、その『酷さ』を、自分とは無関係のものだと考えた上で読むのなら、きっとそれは読者の心には響かないだろうという事だ。

 

 黒川開拓団で起きた事は、確かに酷い事だった。

 特定の女性を選び出して性接待を行わせるという決定は非道だったし、その役目を負わされた女性がその後も差別を受け続けた事には憤りを覚える。でもそれを、当時開拓団の中で指導的な立場にいた人々に対する怒りや、彼等の子孫、遺族会に対する直接的な批判といった形で表明する事に、どれだけ意味があるだろう。

 

 本著の刊行に際して、黒川分村遺族会満蒙開拓平和記念館が声明を出しているので、そのリンクを以下に記しておきたい。

 

www.manmoukinenkan.com

 

 自分は思う。本著を読んで、過去の黒川開拓団の過ちを直接的に批判したくなるのは確かだ。ただ、そもそも過去の戦争それ自体が、日本人が『加害者であり、被害者でもある』という面を持っていた事を忘れるべきではない。

 自分達は大日本帝国が行った侵略戦争の反省に立ち、平和憲法を有する日本として再出発する道を選んだ。ただ、戦後教育の中で広島、長崎に対する原爆投下といった犠牲の痛ましさが強調され、それが『反戦』つまり戦争そのものを憎み忌避する国民感情を醸成した一方、自分達が確かに加害側だったという意識は十分育たなかったのだと言えはしないだろうか。

 

 過去の戦争における日本人の加害性。

 現在の日本に生きる自分達の加害性。

 それを見ない様にして、目をそらしながら生きている自分に対する意識。

 

 それは言い換えれば、黒川開拓団で起きた事を無条件に批判できるほど、自分達は加害性を捨てて、より良い戦後社会を作れたのだろうか、自分は彼等を批判できる立場なのだろうかという事だ。もっと簡単に言えば、自分は他者を批判できるほど上等な人間なのかという事でもある。

 

 かつて黒川開拓団で接待役に選ばれた女性達は、団の中でも立場が弱い人々だった。人の生死がかかった極限状態の中では、往々にして常日頃から弱い立場に置かれている人々や、元々集団の中で差別されている人々から順番に犠牲を強いられて行く。そしてそれは今も同じだ。

 

 自分は社会福祉法人で重度知的障がい者に対する福祉サービスにかかわる仕事をしている。だからこそ思うが、今何か非常事態が起きて、社会の中で誰かが犠牲にならなければならくなったとして、それは今自分の目の前にいる人達からだろう。そういう『順番』が、何となく仕方ないものとしてこの社会の中で共有されている気がしてならない。

 

 それは本当に『仕方ない』のか。

 

 かつて第一次世界大戦における敗戦国となったドイツでは、多額の賠償金が財政を圧迫した。結果として『生産性がない人間を養護しておく余裕はない』という、近年日本でも広がりつつある価値観が生まれた。その『生産性がない人間』とは主に障がい者の事であり、やがて彼等を安楽死させる事を正当化するナチスの『T4作戦』へと繋がって行く。自分はその事にも以前触れた。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 つまり、ナチスが出て来てから酷い事が始まった訳ではない。

 

 国が貧しくなり、自分達の生活が苦しくなる中で、お荷物として養護されている障がい者を捨ててしまいたいという民衆の暗い欲求が先にあって、ナチスは後からやって来た。ナチスを育て、障がい者安楽死を事実上容認したのは、世界史に名前が残らない様な一般的な国民――自分達一人ひとりが持つ差別意識だった。

 

 自分は、本著が『告発』しているのは過去の大日本帝国や黒川開拓団の人々の行いだけではないのだろうと思う。今自分が誰かに対して無意識に抱いている差別感情が、有事には表面化するのだという事が繰り返し指摘されているのであって、告発されているのはむしろ今この本を読んでいる自分自身なのだ。

 

 一番避けなければならないのは、その自分の中にある差別意識や加害性に、自分自身が気付かないままでいる事だ。そして、自分以外の人々が、常日頃からどんな差別感情を持ち、それを心の中で育てているのかを知る必要がある。なぜならそれに気付かないままでいれば、いつか戦争の様な過酷な情況に置かれた時に、自分は今持っている差別感情によって誰かに性接待の様な役目を押し付ける側になるだろうし、逆に周囲の人々の差別意識によって酷い境遇に追いやられる事にもなるからだ。

 

 戦争が悪かった、時代が悪かったという認識は、罪の意識を薄める。

 

 そして罪の意識が薄まれば、自分達はまたいつか同じ事を繰り返す。

 悪かったのは、そして今悪いのは自分だ。そう言えなければならない。その為に知らなければならない事が、この本の中には書かれている。そんな気がする。

 

 

『シン・ウルトラマン』に寄せて (※ネタバレあります)

 『シン・ウルトラマン』について。

 ネタバレだらけなので未見の方は読んじゃダメですよ。

 

 

 

 ウルトラマンには、特別な思い入れがある――なんて言うと、きっと『本当にウルトラマンを愛している人』に怒られてしまうレベルかもしれないけれど、自分の地元は円谷英二監督の出身地という事もあって、何となくいつも心の片隅にウルトラマンゴジラといった特撮作品の存在があった様に思う。

 

 自分は1970年代の末に生まれた。

 世代的には丁度、『ウルトラマン80』のTV放送を観ていたかどうかという年齢なのだけれど、正直、物心つく前だったのでリアルタイム視聴の記憶はない。幼少期の断片的な記憶の中から思い出せるのは、市立博物館になぜか怪獣『シュガロン』の着ぐるみが1体だけ常設展示されていた事とか、盆踊りにウルトラマンが参加していた事とか、今の子どもたちならきっと『となりのトトロ』や『崖の上のポニョ』の曲で幼稚園のお遊戯や運動会の体操を披露しているみたいに、小学校の運動会で『帰ってきたウルトラマン』のテーマに合わせて踊った事くらいだ。

 

 1980年代はウルトラシリーズ仮面ライダーシリーズのTV放送が一区切りを迎えた時期でもある。自分はその頃の子どもで、身近な特撮作品と言えばむしろウルトラマンよりも戦隊ヒーローと宇宙刑事シリーズだった。ウルトラシリーズは主に再放送で触れたクチで、それでも幼心に強烈な印象を残したエピソードをいくつも思い出せる。

 

 また、『小学館入門百科シリーズ』という本があって、そのウルトラ兄弟編とウルトラ怪獣編が凄く好きだった。だから自分の記憶は再放送の記憶と、本から得た記憶がごちゃまぜになっていて、どれがオフィシャルな設定なのかを区別しないまま憶えてしまっている部分がある。自分にとって「決して詳しいとは言えないけれど、特別な思い入れのある存在」ウルトラマンなんじゃないかと思う。

 

 

 

 そんなかつての子どもも、今や中年男性だ。

 

 中年男性になった自分が『シン・ウルトラマン』を観て感じたのは、懐かしさと、その懐かしい記憶を裏切る様な新しさと、忘れていた大切な記憶だったんじゃないかという気がする。

 

 まず、懐かしさについて。

 シン・ウルトラマンは令和のウルトラマンだけれど、そこには『自分が知っているウルトラマンがいる。胸にカラータイマーは無くても、かつて自分が見たウルトラマンは消える事無くそこにいてくれて、『久し振りに親友と再会した』かの様な安心感がある。

 

 ベーターカプセルを使っての変身。スペシウム光線発射のポーズ。八つ裂き光輪。効果音や劇伴。昔見た、昔聴いた、ウルトラマン。それは何だか、昔のヒット曲をちゃんとライブで歌ってくれるバンドみたいな心地良さがある。逆に「自分たちはいつまでも過去なんか振り返らないんだぜ」的な攻めの姿勢を良しとする人もいて、それは好みの問題だけれど、昔のヒットナンバーを恥ずかしがらずに「やっぱりみんなコレが聴きたいんだろうから」って演奏してくれるバンドが自分は割と好きだ。アンコールの時でもいいからさ。

 

 次に新しさについて。

 『みんな、ウルトラマンってもう知ってるでしょう?』っていう共通認識を、元のイメージを壊さない程度に揺さぶる力。それがシン・ウルトラマンにはある。思えば『新世紀エヴァンゲリオン』の新劇場版にもそういう所があった。

 1回観ているストーリーを再構成しつつ、ここぞという所で新しいエッセンスを入れ込んでくる。『予想は裏切る。でも期待は裏切らない』っていう絶妙なバランス。例えばゼットンのくだりとか。ああいう風にゼットンを再定義するのかっていう驚きがある。

 

 「ウルトラマンゼットンに負ける」っていうのは、当時だから衝撃的だった訳だけれど、今、自分たちはもうその事を知っている訳だよね。ゼットンが出てくる以上、ウルトラマンは一度は負けるんだって。そこで、そのエピソードの大筋は変えずに、ゼットンが持つ意味を入れ替えてきた。しかも、元々のゼットンが持つ悪魔的な強さのイメージはもっと強力にして。

 

 小さい頃の思い出だけで書いているから記憶違いもあると思うのだけれど、ゼットンの怖さって単純な『強さ』だけではなくて、「全く意思疎通ができなさそうな所(というか意思そのものを感じない所)」とか、「激しく動き回るでもないのにウルトラマンが太刀打ちできない所」にあると思っている。

 

 普通の怪獣(禍威獣)って『吠える』んだよね。咆哮する。獣みたいに。

 でもゼットンってあの不思議な電子音みたいな『ピロピロピロピロ』っていう音(どういう擬音で書いたらいいか不明)で鳴く。 あれって全く意思を感じない。だから怖い。普通の怪獣みたいに、「ああ今は怒ってるんだろうな」とか「痛かったのかな」みたいな推測ができない。内心を理解しようとか、行動原理を推察しようという行為を拒絶する。人間が現実に慣れ親しんでいる『咆哮する獣』の枠に入らないから。

 

 意味不明というか、意思不明で、確固とした暴力だけがある。そういう理解不能なものが醸し出す怖さゼットンにはある。

 

 それが、天体制圧用最終兵器だったんだっていう。しかもゾフィー(本作ではゾーフィ)が人類に対してそれを使うんだっていうショックが一体になっている。(5/21追記・これは自分の知識不足で、ゾーフィは元ネタがあってゾーフィだったんですね。ゾフィーにあらず、という。でも相当詳しくないとわかんないよこんなのって思いつつ、ちょっと笑っちゃいました)

 

 そういう新しさ。予想を裏切りつつ期待を裏切らない部分が良い。

 

 最後に、忘れていた大切な記憶について。

 

 正直、自分は子どもの頃たまに思っていた。ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」って。本作にもそういう場面はある。

 

 確かにウルトラシリーズには『人間が怪獣を倒す』とか『怪獣を倒すだけが解決じゃない』というエピソードもあると思う。科特隊に代表される様な組織も毎回頑張って戦う。でも大抵の場合、怪獣を倒すのはウルトラマンだ。だったらもう、ウルトラマンだけが戦えばいいんじゃないか、人間はただウルトラマンに守ってもらったらいいんじゃないか。怪獣が出たら「助けてウルトラマン!」って叫んでいればいいんじゃないかって。困った時の神頼み。「神様助けて!」って言うのと何も変わらない。

 

 でも、ウルトラマンは何で人間の為に戦ってくれるんだろう。

 

 子どもの頃に読んだ本には、『ウルトラの国には宇宙警備隊という組織があって、ウルトラ兄弟たちはそこに所属しているんだ』という風に書かれていた。だったら話は簡単だ。ウルトラマンが怪獣と戦ってくれるのは、宇宙の平和を守るという『任務』の為だ。宇宙刑事みたいなものだ。大人になった自分からすれば、言ってみればそれは『仕事』だ。

 

 でも、本当にそれだけなんだろうか。

 

 『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンが戦う理由はもっと本質的な所にある。ただ任務だから怪獣と戦ってくれる訳じゃないし、人間が愚かな振る舞いをすれば、彼はきっと人類を見捨てるだろう。むしろその手で滅ぼそうとするかもしれない。

 

 ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する』という言葉の重さはそこにある。人類は期待されている。だったら自分たちはそれに応えなきゃならない。人間はウルトラマンの期待を裏切ってはならない。ただ神≒ウルトラマンに助けを求めて何の努力もしない様な、怠惰で無気力で希望も持たない存在なんかじゃないっていう事を証明しなければならない。証明し続けなければならない。

 

 ウルトラマンに価値を認めてもらう事で助けを乞うためじゃなく、自分自身のために。

 

 『そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

 

 この台詞を聞いた時、自分はこの言葉は全部、大人になった今の自分に跳ね返ってくるものなんじゃないかと思った。

 小さい頃の自分は――誤解を恐れずに言えば『自分たち』は、時には「ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」なんて事も考えていたかもしれないけれど、その一方でウルトラマンになりたい」なんていう無邪気さを持ってはいなかっただろうか?

 

 自分の幼稚園の卒園アルバムには、そんな事を書いている子がまだいたと思う。それは単純に『強く大きな存在への憧れ』みたいな幼さだったのかもしれない。でも、ウルトラマンになって怪獣と戦うっていうのは、本来怖い事だし、痛い事だ。大変な事だし、辛い事だ。逃げられないし、孤独でもある。それでもウルトラマンになりたいって思う気持ちを、自分達はいつ、どこで捨てて来たんだろう。それとも単に、そこまで考えが及ばなかっただけなんだろうか?

 

 でも、ウルトラマンだけじゃない。自分たちは言ってみれば『正義の味方』になりたかったんだ。人生のある時期には、確かに。そのために強くなりたかったんだ。でも大人になった自分は、無力な自分の代わりに誰かが戦ってくれるというのなら、願ったり叶ったりじゃないかって考えている。自分は隅っこの方で、そんな誰かの応援だけしていればいい。いいや、邪魔にならないようにさえしていればいい。息を殺して、存在を消して。

 

 「『誰か』が怪獣を――自分にとって『良くないもの』をやっつけてくれるなら、自分は戦わなくてもいいんじゃないか」って思う事が普通になった。

 

 面倒な事は誰かに押し付けてしまえばいい。

 自分の仕事は、自分の身の回りの暮らしを何とか維持する事だけだ。それ以上の責任は重過ぎて背負えないし、背負いたくもない。大丈夫、『誰か』が戦ってくれるよ。自分より強くて、自分より正義感があって、自分よりももっと適任な『誰か』が。

 

 『そんなに人間が嫌いになったのか、自分は』

 

 言ってみれば、自分はもう正義が何なのか分からない。果たすべき責任も分からない。自分にその能力があるなんて信じる事すら止めてしまった。現実を振り返ればそこには戦争なんていう冗談じゃない事まで現在進行系で存在している。自分の事しか考えていない連中――自分も含めて――が勝手な事を言い合って、誰かを傷付け誰かから奪う。それでも『仕方ない』んだ。仕方ないって思わなけりゃやって行けない事がこの世には多過ぎる。この世界に神はいない。ウルトラマンもいない。助けてって叫んだら聞いてくれる様な『誰か』なんてここにはいない。

 

 でも、そうやってウルトラマンを裏切った』のは、きっと自分の方が先だったんじゃないかって、今は思う。信じれば彼は今もそこにいたかもしれないのに。

 

 人間の可能性を信じなかった。自分の可能性も信じなかった。実現が難しい事だったとしても『目指すべき正しさ』というものがあって、そこに向かって歩いて行かなけりゃならないんだっていう道からそれてしまった。結果として期待を裏切ってしまった。

 

 本当は、もっと愚直に信じなきゃならなかったかもしれないのに。子どもの頃の様に。人間には、自分には価値があって、果たすべき責任もまたそこにあるんだっていう事を。

 

 ウルトラマンが人間を助けてくれるのは、『人類のすべてに期待する』という彼の言葉を自分たちが裏切らなかった時だけなんだと思う。自分たちは、今ここにいる自分は、その期待に応えようとするだけの意思をまだ失っていないと示す事。

 

 能力の有無じゃない。自己責任なんていう突き放した話でもない。ただそこに意思があるのかどうか。震えながらでも、見上げた『光』を追いかける心を持てるかどうか。それは困難な事ではあるかもしれないけれど、難しい事じゃない。難しい言葉を並べなけりゃ言い表せない事じゃない。

 『ウルトラマンになりたかった』っていう、幼い頃の気持ちを、もう一度思い出して、この手で拾えるかっていう事。そして今、自分はそれを望むのかっていう事でもある。

 

 それが、忘れていた大切な記憶。なんていう事はない。小さい頃に、誰もが一度は願う事。その思い出の話であり、自分自身の来し方の話であり、これから先の、未来の話だ。

 

 そういうものを、思い出させてもらった気がする。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、子どもの頃に見たヒーローに再会するっていうのは、きっとそういう事だ。まるで久し振りに親友と会った時に、自分は彼に恥じない自分だっただろうかって、ふと考えるみたいに。

 

 その機会が今で良かった。自分は今、そんな風に考えている。

キャンセルカルチャーの危うさを考える・その『正しさ』はいつまで正しいのか

前回からの続きとして。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 自分がいわゆる『キャンセルカルチャー』つまり特定の人物や思想、価値観を『排除』して行く事によって『より良い社会』が作れるだろうという考え方を受け入れ難いのは、その何かを排除して行く、或いは規制して行くという方向性に対して危うさを感じるからだ。

 

 それは主に次の3点に集約される。

 

・キャンセルされたものは取り戻せない

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる

・キャンセルの効果は検証されない

 

 

<キャンセルされたものは取り戻せない>

 

 一例として、日本の刃物文化について語る。

 昭和に行われた『刃物追放運動』(刃物を持たない運動)の事をご存知だろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

 これは、1960年(昭和35年)に全国に展開された社会運動であり、当時社会問題化していた増加する少年犯罪の中でも、特に刃物を用いた暴力犯罪への対策として『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする運動』の事を指す。

 

 具体的には鉛筆削り器の普及推進や、少年に対する刃物販売の規制要求、更には青少年が刃物を持ち歩くことを助長するような内容の映画、テレビ、ラジオ、出版物、広告等についても関係業者に自主的規制を要望するという徹底した内容で、これによって主に『肥後守』と呼ばれる折りたたみナイフを製造する事業者等が販売不振による大打撃を受けた。

 

 なぜこの問題を取り上げるのかと言えば、この運動が一定の成果を上げた一方で、確実にそれまであった『刃物を身近に置き、使いこなす文化』をキャンセルし、社会のあり方を変えてしまった一例としてわかりやすいものだからだ。

 

 当時、非行問題を解決するにあたって、その非行の根本原因を追究するのではなく、非行に走る若者の教育に力を入れるのでもなく、ひとまず凶器になり得る刃物を子どもたちから取り上げるという対応がとられた事が良かったのか悪かったのかと言われれば、その判断は難しい。当時には当時の切迫した事情があったのだろう。ただどうしても、安易だという印象は残る。

 

 安全な刃物の使い方を習得させ、凶器となり得るものをみだりに他人に向けない様にと教育するよりも、刃物自体を取り上げてしまえば早く運動の成果が出る。それは現在のキャンセルカルチャーにしても同じで、扱いの難しい問題について議論し、意見を交換し、より良い方向性を模索するよりも、問題があるとされる個人、或いは行為や表現そのものを一方的にキャンセル=排除してしまった方が、より早く、確実な成果が見込めると思われている。

 

 ただそうした、言ってしまえば安易な排除を選択した結果、排除された側がどうなるのかという事を、自分達は考えてみる必要がある。

 

 刃物追放運動を振り返れば、刃物文化のキャンセルによってナイフは自分達の暮らしから遠ざけられ、社会からの理解が得られない、低い地位に追いやられてしまった。

 

 以後、日常での居場所を追われたナイフは、専らドラマ等で殺人犯の凶器として登場し、ナイフといえば非日常のもの、あるいは危険な凶器というイメージが定着する。何度か訪れたアウトドアブームによっても、その悪い印象を完全に払拭する事は叶わず、今でもナイフと言えば、その言葉だけでも単純に『怖い』という印象を抱く人が少なくない。

 

 挙句、実際の殺傷事件でもナイフはしばしば凶器として用いられ、あの秋葉原無差別殺傷事件以後は、銃刀法の改正により更にダガー(刃渡り5.5cm以上の剣)の所持禁止が盛り込まれる等、規制は強まる一方だった。「凶器となるナイフを規制するよりも、犯罪そのものを抑止する方法はないのだろうか」とか「犯人の動機を究明して、犯罪抑止に繋げる努力をすべきなのではないか」といった穏当な意見が聞き入れられる事はなく、度重なる規制強化に異議を唱えようにも、愛好家が規制推進派の決定を覆すほどの存在感を示す事はできなかった。既に社会の大半の人々にとってナイフは不要なものになっていた。つまり、これ以上規制されようが社会から消されようが何ら影響がないものになっていた。

 

 一度キャンセルされたものが再評価される事は稀だ。

 

 自分達はキャンセル後の社会を次の標準として生活して行く。子どもたちがナイフの代わりに鉛筆削り器をあてがわれた社会では、刃物も、刃物の安全な使い方も、刃物を自分で研ぐ技術も最早不要なのだ。不要になったものは評価されないし、捨てられて行く。それを取り戻す事はできないというよりも、その必要自体がなくなる。

 

 

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる>

 

 キャンセルの手前にゾーニングというものがあるとして、自分がそれを今ひとつ信用できないのは、結局はそれが『対象を社会の隅に追いやる行為』なのではないかという疑念を持っているからだ。

 

 先に述べた様に、刃物については製造禁止とも販売禁止とも言わないが、『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする』『製造業者やメディアに自主的規制を要望する』というキャンセル=ゾーニングが行われた。

 

 その結果、子どもが刃物を持つ機会は減り、生活の中で刃物は不要なものになり、重要度が下がり、需要も減って行き、刃物文化は衰退した。

 ただ単に、子どもに刃物を持たせる事は危険なのではないか、犯罪を誘発しているのではないかという懸念で始めた運動、それも自主規制や指導といった法規制に至らないレベルのゾーニングの要求』で、ナイフは日本の刃物文化とともに傍流に追いやられた。

 

 結局、ゾーニングとは棲み分けでも共生でもない。

 

 ある『正しさ』によって、主流に置かれるべきではないとされたものは、ゾーニングによって社会の隅に追い詰められて行く。その『排除=キャンセル』を、ゾーニングという排除よりは優しく聞こえる言葉で周囲に納得させているだけだ。

 

 

<キャンセルの効果は検証されない>

 

 刃物追放運動後に行われた統計では、犯罪の減少など、一定の成果はあったとされている。ただそれは、刃物業界が受けた打撃(製造業者の廃業や労働者の解雇)、また刃物を使いこなす技術の喪失に見合った成果だったのだろうかという疑問は残る。

 

 また、記憶に新しい秋葉原無差別殺傷事件以後の銃刀法改正では、新たにダガーの所持が禁止されたが、ダガーの所持禁止が同種の事件の再発防止や、襲われた被害者が致命傷を負う様な事態を防止する観点でどれだけ有効だったのかという検証結果を、自分は寡聞にして知らない。

 

 秋葉原無差別殺傷事件以後にも大きな被害を出した無差別殺傷事件として、京都アニメーション放火殺人事件があるが、この時はガソリンを撒いて火をつけるという手段が取られ、以後ガソリンスタンドで携行缶にガソリンを給油する際の規制が強化されたものの、その後に発生した京王線刺傷事件では規制対象ではないライター用のオイルを大量に購入するという手段で電車内での放火が行われるなど、凶器となり得るものを規制する事によって犯罪を抑止する事がどれだけ可能なのかという点については検証が不十分だ。結果として犯罪者はどの様な手段を用いてでも加害を実行するのだから、その手段に対する規制の強化は大多数の人々に不便を強いるだけに終わっていないかという疑念も残る。

 

 そして、直接凶器として犯罪に結び付くナイフやガソリンといったものにまつわる規制でもその効果が検証できない(或いは規制そのものが回避される)のだから、『残酷描写のある作品を規制したら犯罪は減らせるか』『性的描写のある作品を規制したら性犯罪は減らせるか』という検証が成立するかどうかは疑問だ。

 

 ゾーニングやキャンセルは、ある目的のために対象を排除する。

 

 ただし前述の通り、その目的が達成されたかどうかの検証は、いつも不十分な形でしか行われない。そして検証が不十分だから、排除の見直しもできない。結果として一度排除されたものや強められた規制は、見直される事も緩められる事もなく継続して行く。

 

 だからこそ最初に述べた様に、『キャンセルされたものは取り戻せない』という事にも繋がって行く。

 

 

 さて、ここまで辛抱強く読んで頂けたとしても、恐らく自分がキャンセルカルチャーに対して持っている懸念については十分伝わらないだろうと思う。なぜならナイフや刃物文化は、それだけ今の日本では『取るに足らない』ものになってしまっているからだ。

 

 規制されても誰も困らない。このまま無くなっても不便を感じない。

 

 キャンセルされる、ゾーニングされるというのはそういう事だ。

 排除された結果、その存在は軽くなり、取るに足らないものという扱いを受ける様になる。

 

 「キャンセルされる様なものを大事にしているのが悪い」と、貴方は言えるだろうか。

 

 キャンセルされるものには理由がある。キャンセルされるべき瑕疵がある。危険だとか不道徳だとか、変化する社会の価値観や倫理観に対応できないとか。だからキャンセルされても仕方ない、諦めろと言えるだろうか。

 

 そう、その様に言えるからキャンセルやゾーニングが行われているのだ。

 

 でもここで最後に知っておいて欲しいのは、貴方が大事にしているものも、その意図があればキャンセルする事は今すぐにでも可能だという事だ。

 

 ある『正しさ』を基準に対象を『排除』するのがキャンセルカルチャーであるのなら、その『正しさ』に何を代入するかによってあらゆるものを排除する事ができる。

 

 厳しい環境基準という『正しさ』を用いればガソリン車を排除できる。

 子どもたちの健全育成という『正しさ』を用いればあらゆる表現を検閲できる。

 デモ活動や政権批判が国家の秩序を乱すという『正しさ』を用いれば今のロシアの様に抵抗勢力を締め出す事さえできる。

 

 自分達は『正しさ』を基軸にして、議論でも対話でもなく『キャンセル=排除』を行う事に慣れてしまう事ができる。次から次に『正しくないもの』を探し出し、正しい社会の実現のためにそれらを排除していく事が常態になってしまう。正しくないものを社会の中に残しておいてはならないという価値観に染まってしまう。

 

 そして最も恐ろしい事には、その『正しさ』は変わって行く。

 

 前回取り上げた『情況』の記事の中に、『東京音頭の波及力とキャンセル文化』という記事がある。あの東京音頭ですら、戦中戦後の価値観の変遷=変化する正しさに翻弄されたという記事だ。

 

 自分達が今キャンセルの基準にしている『正しさ』は、いつまで正しいのか。

 今自分が手にしている正しさで、目の前にあるものをキャンセルして良いのか。

 その判断は後悔に繋がらないのか。

 

 それをもう一度考えて欲しい。そして祈るべきだ。

 自分の大切にしているものが、誰かの正しさによって次にキャンセルされる事がありませんようにと。

キャンセルカルチャー=排除はより良い社会を作れるか

 

 

 『情況2022年 4月号』を興味があって、読んでみた。特集はキャンセルカルチャーについて。この問題について釈然としないものを感じている人、感じた事のある人は読んでみると良いかもしれない。

 

 キャンセルカルチャーという言葉について考えてみる時に、まあネット上でありがちな事ではあるのだけれど、語る人によって言葉の定義が結構曖昧で、また曖昧であるが故に複数の問題がごった煮になってしまっている気がする。

 その上、そこに絡んでいる諸問題、例えばポリティカル・コレクトネスやフェミニズムジェンダー論等が多数存在する事が、余計にこの問題をわかりにくくしているのではないかとも思う。

 

 本特集の冒頭、塩野谷恭輔氏の『キャンセル・カルチャー試論』の中で、同氏は『オックスフォード現代英英辞典』を引き、キャンセルカルチャーの定義を下記の様に引用している。

 

同意できない言動をとった人物に対して、人々がコミュニケーションを拒絶することで、その人物を社会生活や職業から排除すること。

 

 この定義通りであれば、話はもう少しシンプルだ。ただ、同氏は続けて以下の様にも述べている。

 

 また、管見の限りでは、排除されるのは対象となった人物だけでなく、しばしばその人物が関わった作品や周囲の人々にまで及ぶこともあるようだ。

 

 誰かがハラスメント等の問題を起こす。または差別発言をする。すると、その人物が関わった仕事、作品、出版物、その他諸々がキャンセルの対象になる。そして問題を起こした人物を擁護した人、価値観を共有すると思われる人、交友関係にある人等も同様に排除の対象になる。なぜなら上記の通り対象者とのコミュニケーションを拒絶する事、対象者を社会生活や職業から排除する事で、間違った価値観や倫理観(それを持つ人物や集団そのものを含む)を排除して、『正しい』価値観や倫理観によって構成される、より良い社会の実現を目指す事がキャンセルカルチャーという社会運動の目的だからだ。

 

 キャンセルカルチャーが『排除』をベースにしているというのは、この特集の原稿執筆者のひとりである藤崎剛人氏が、同じく原稿執筆者である山内雁琳氏を名指しして「山内雁琳に書かせるなどという暴挙」「もしも山内雁琳の文章が今号の『情況』に掲載されていたならば、私は『情況』の不買運動を呼びかけるつもりでいる」(その後藤崎氏は実際に自身のTwitter上で不買の呼び掛けを行った)等と書いている事で皮肉にも裏付けられている。

 

 ちなみに、その藤崎氏が寄せた原稿の題名は『キャンセルカルチャーは存在しない』であり、同氏はまたその冒頭で以下の様に述べている。

 

キャンセルカルチャーは存在しない。ただキャンセルされるべき者がいるだけである。差別やハラスメント、誹謗中傷の加害者はキャンセルされるべき人間である。しかし彼をキャンセルされるべき人間としたのはキャンセルカルチャーという文化ではない。差別者は文化のせいではなく自らの差別行為のせいでキャンセルされるのだ。何か悪しきことをした人間が、自分が批判されているのは自身の悪しき行為のせいではなく悪しき行為を批判する文化のせいだと言い出したら、ぞっとすることであろう。その人は全く罪の意識を覚えずに差別を行っていることになる。

 

 以下、記事中ではより強い言葉が、言ってしまえば糾弾が続く。

 

 自分は思う。確かにこの混沌とした社会の中から『間違ったもの』を排除して行き、『正しいもの』だけを手元に残して行けば、いつか正しいものだけで構成された『正しい社会』が出来上がるのではないかと考える人もいるだろう。でもその様に正しいものと間違ったものを切り分けていく者の『正しさ』は、一体誰が保証するのか。その判断が間違っていないという事を、どうやって納得させるのか。

 

 そしてそれ以上に、正しい社会の実現を目指す為の手段が『排除』をベースにしていて良いのか。

 

 確かにハラスメントは無くすべきだ。また人種にしろ性別にしろ、差別はない方がいい。誰に言われるまでもない。ただ、差別的だとされた人々と対話をするのでもなく、議論を交わすのでもなく、意見を交換するのでもなく、自らを『正しい側』だと認識している個人や集団がその力で相手を一方的に社会から排除して行くというやり方で、果たしてハラスメントや差別のない健全な社会は実現できるのか。

 

 間違ったものを排除して行けば、やがて正しい社会が出来上がるというのは、正しいようでいて、実は間違った方法論ではないか。

 

 藤崎氏の言う『キャンセルされるべき人間』という強い言葉に、自分は恐怖を抱く。なぜなら、自分がこれまで誰をも傷付けず、差別せず、間違わずに生きてきたなどと言える自信がないからだ。自分でも気付いていないだけで、自分は誰かを深く傷付けた過去を持っているかもしれない。いや、今この時も誰かを傷付けてしまっているかもしれない。

 

 自分は、『キャンセルされるべき人間』かもしれない。

 

 自分がキャンセルカルチャーと呼ばれる社会運動に感じる違和感とは、言ってみれば「なぜ彼等はそんなに自信があるのだろう」という事だ。そう、『自分が正しい』という事について。

 

「――ハラスメントは良くない事です」

「はい」

「人種差別は良くない事です」

「もちろん」

「性差による偏見や差別、加害も良くない」

「そうですね」

「良くない事、間違った事は社会にない方が良い」

「その通りかもしれません」

 

「――よろしい。でも貴方は、過去にこんな酷い発言をしていませんでしたか?」

 

 その『過去』は、5年前かもしれない。10年前かもしれない。もう覚えていないほど昔かもしれない。もしくは去年かもしれない。先月かもしれない。昨日かもしれない。

 

 キャンセルカルチャーによる批判には時効がない。

 

 昔は許されていたとか、時代が変わったとか、他の人だってやっていたとか、その場では誰からも咎められなかったなんていう言い訳をキャンセルカルチャーは許容しない。自分ですら忘れている様な過去の発言だって、SNSという地層を掘り返せばいくらでも発掘できるし第三者にだって発掘される。アカウントに鍵をかければいいってものでもないし、アカウントごと削除したってスクリーンショットだとかがどこかに保存されていないとも限らない。

 

 そんなつもりじゃなかったんですと言えば、どんなつもりだったんだと言われる。

 謝れば本心を疑われる。

 無視すれば一方的に断罪される。

 それも、一対一ではなく、一対多で。

 

 説明させる事が目的じゃない。対話が目的じゃない。価値観を改めさせる事が目的じゃない。改心させる事が目的じゃないし、更生させた上でもう一度社会に迎え入れる事が目的じゃない。ただ排除される。「こんな奴に二度と発言の場を与えるな」と平気で言われる。

 

 『排除』をベースにした社会運動というのはつまるところそういう事で、だからこそキャンセルカルチャーには危うさを感じる。そしてもうひとつ自分が疑問を抱くのは、そうした排除の要求に対して、『キャンセルされるべき人間』が所属する企業なり組織なりが、むしろ積極的に排除に加担して行く事だ。

 

 本人から辞意を伝えられて受理する場合もあれば、組織の側から引責辞任を求める場合もあるだろう。でもつまるところそれは単なる組織側のリスク管理に過ぎない様にも思う。批判の対象になっている個人を組織内部に抱えたままでいる事のリスク。任命責任や説明責任等を問われる事のリスク。適切な研修を受けさせる等、意識改革にかかる時間と経費。明らかに辞任なり辞職なり、いなくなってもらった方が楽だ。

 

 ただこれも、まだかろうじて理解できなくもないと思えるのは、その排除の対象が人間だからだ。

 

 個人の資質によっては、正直これから考え方をあらためるのは難しいだろうと感じる人もいるし、自身の差別的な価値観を変えられないまま社会の中で長く活動して来た人もいる。差別的な言動があったとしても社会的地位や実績のために見逃されて来てしまった様な人や、むしろ差別的な言動が組織の中で逆に評価されてしまった様な人もいる。そういった人々は、少なくとも社会的に責任のある地位や職責からはもう退いてもらうしかないのだ、後進に席を譲ってもらうしかないのだと言われてもまだ納得できるかもしれない。

 

 ただ問題は、キャンセルの対象が人間だけではない事だ。

 

 ある特定の表現や作品。それは漫画だったり小説だったり、映画だったりゲームだったり芸術だったりするが、その表現そのもの、またそれを内包する、あるジャンル全てが不健全だ、不道徳だ、差別的だとしてキャンセルの対象になる事がある。

 

 それはもう藤崎氏が言う様な『キャンセルされるべき人間』個人の過失、自己責任の領域を超えてしまっている。明らかにキャンセルを求める側が、ある一定の尺度を持って、許されるものと許されないもの、社会に残すべきものと排除すべきものをジャッジし始めているし、そのジャッジには『法の不遡及』の様な理念も存在しないから、今現在の価値観で過去の作品が不可とされたり、思わぬ所にまでキャンセルの手が伸びていたりする。

 

 そうしたある種の文化とも言える大きな対象にキャンセルを求める時、自分達はその『排除』がどんな意味を持ち、後の社会にどんな影響を及ぼすかという事を、正しく評価できているだろうか。その影響の大きさを見据えた上で、それでもキャンセルするべきだという覚悟をもって批判していると言えるだろうか。

 

 自分には、今行われているキャンセル、つまり『社会からの排除』の要求が、そこまで熟慮した上で行われている様には思えない時がある。むしろもっと反射的に、個人や集団の『不快』や『不安』という感情からキャンセルの要求が立ち上がっている様に思えてしまう。

 

 こうした事を書くと、「そんなに何も考えずにキャンセルを求めているなんて事はあり得ない」「キャンセルを求められる側に瑕疵がなければ、キャンセルされる事などない」とお叱りを受けるかもしれない。ただ自分は、批判される側に何ら落ち度がなくとも行われてしまったキャンセル=社会からの排除を知っているし、その影響について語る事もできる。そして一度排除されたものが再び社会に受容される事の困難さも知っている。だからこそ排除をベースにした社会活動には慎重であって欲しいと言っている。一度社会から排除されたものが戻って来る事はほぼないのだから。

 

 そのキャンセルとは何だったのか。その排除によって社会はそれ以前よりも良くなったのか。排除によって失われたものは何だったのか。排除や規制の強化はより良い社会の構築に寄与するのかという事を次回書いてみたいと思う。

 

 

 

ウクライナ侵攻でさえ『感動ポルノ』にする自分達の『卑しさ』

 貴方は、2日で100kmを歩いた事があるだろうか?

 

 自分はある。20年以上前、自分が高校生くらいの時だった。

 なぜ? とか、何のために? といった理由は無い。しいて言えば、当時の自分はボーイスカウトで、その活動の一環だったというだけだ。ボーイスカウトではこの活動を『100kmハイク』と言う。

 

 やり方は色々あるのだろうけれど、自分達の場合は、ハイキングに行く様な軽装で、携行食や飲料だけを持ち、ひたすら歩くというものだった。短い休憩や仮眠は挟むけれど、夜通し歩き続ける。昼から歩き始めて翌日の夜にようやく帰って来る。そんな行程だ。

 

 最初に電車で出発地点に行き、そこから徒歩で帰って来るという道程なので、家に帰る為にはひたすら歩かなければならない。途中で諦めて引き返すという選択肢は無い。なぜなら、歩き続ける事が家に帰る唯一の方法だからだ。

 

 何でそんな活動が伝統的に存在するのかは知らない。こっちが教えて欲しい。

 100km歩く事に意味があるかと言われれば、無い。

 まあ、達成感とか思い出作りとか心身を鍛えるとか、もっともらしい理由はいくらでも後付けできる。でも、本質的に言えば、本当に意味は無いのだと思う。

 

 なぜ今、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ながらこんな事を語りだすのかというと、この戦争が、本当なら意味なんてない100kmハイクの意味を考えるきっかけになってしまったからだ。

 

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 

 もちろん、テレビでもネット上でも、毎日ウクライナ侵攻のニュースが流れている。でもそれをただ見る事が、戦争を知る事になるのかと言われれば、違うんじゃないかと思う。

 

 ネットニュースのコメント欄やSNSでは、連日匿名の有識者達が軍師にでもなったかの様に戦況分析をしたり、「自分も『その時』が来たら、きっと銃を手に国を守るんだ」なんていう勇ましい言葉を書き連ねてみたりしている。愛国心の素晴らしさを説き、感動に瞳を潤ませている。

 

 でもそれは、あくまでも『想像』だ。

 『想像』には、いつだって『願望』が入り交じる。

 

 日本ももっと軍備を整えなければならない。

 保有する兵器の近代化。不足する自衛隊員の確保と処遇改善。憲法改正。核保有

 妥当な要求もあるし、荒唐無稽なものもあるけれど、基本的には願望混じりの想像が膨れ上がって行く。

 

 それはなぜかというと、自分達が願望混じりの想像をベースに戦争を考えているからだ。

 

 敵(誰?)がどこかから攻めて来る。

 自分達はそれを迎え撃たなければならない。自衛隊が敗走し、劣勢になった政府は今のウクライナ同様、総動員令を発令する。18歳から60歳までの男性が国外に退避する事が禁じられる。そして、自分達に武器を取って戦えと命じる。

 自分達は家族を、祖国を守る為に愛国心を奮い立たせ、敵が迫る街で相手を待ち伏せる。ここで退く事は仲間や家族の死を意味するからだ。

 後方から援軍が到着するまでの数日。家族が退避するまでの半日。虐殺が始まるまでの数時間。その時間を、自分達が命を賭して稼がなければならない。

 

 

 ――そんな、勇ましい願望。

 

 

 そこにリアルはあるんだろうかって思う。

 戦争はそんなにヒロイックな物語だろうか。

 戦争なんて、きっともっとろくでもない。

 もっと意味なんて無い。意義も無い。身も蓋もない。

 そこで起きる死には、意味なんてきっと与えられない。

 

 

 じゃあ、戦争を願望ベースで想像して終わらないためにはどうすべきか。

 

 とりあえず、みんな今週末にでも100km歩いてみればいいんじゃないかって、自分は思う。つまらない極論だけどね。

 高校生、それも文系で体育嫌いで体力がない自分にだって出来た事だ。予定さえ組めば、誰にだって出来る。貴方にだって出来る。

 

 それで得られるリアルっていうのは、ただ『歩き通す』っていう事がどれだけ辛いかっていう実感だ。

 

 最初の10kmで辛くなる。

 20kmで歩き始めた事を後悔する。

 30kmで両足のふくらはぎはもうパンパンだ。

 40kmで靴の中の足はマメだらけ。それを針で潰しまくる。

 50kmで体力の限界を超える。まだ半分しか来ていない事に絶望する。

 60kmでもう休憩したくなくなる。座ったら立ち上がる自信が無いから。

 70kmで精神力も尽きかける。歩きながら意識が遠くなる。

 80kmで両足が自動的になる。歩いている実感が失せる。時間が飛ぶ。

 90kmで希望が見える。でも何もしていないのに鼻血が吹き出したりもする。

 100kmで力尽きる。座ったら立ち上がれない。2度とこんな事するもんかと心に誓う。

 

 ほら、ろくでもない。意味もない。止めておいた方がいい。

 『歩く』っていう基本動作を繰り返すだけで拷問じみてくる。

 

 でも『戦争』を前にして自分達がするべき覚悟っていうのは、結局こういう事なんじゃないだろうか?

 

 武器を手に戦う覚悟じゃなく、自分に敵が撃てるかなんていう心構えの問題でもない。

 愛国心と恐怖心、戦意と良心のせめぎ合いなんていう人間ドラマよりももっと手前。

 

 ――街が燃える。

 家は失った。もう帰る場所はない。どこまで行けば安全な場所に出られるのかも分からない。

 自動車の燃料は尽きた。自分で背負えない荷物は車と一緒に捨てて来た。

 情報は入って来ない。ラジオは沈黙しているし、噂は錯綜している。

 あと数日で敵が押し寄せて来るぞという話が聞こえたかと思えば、既に隣の市が陥落したという話も流れて来る。

 

 そんな中で、ただ生きるためだけに歩く。

 少しでも戦場から遠くへ。

 逃げる? いいや、生き延びるために。

 

 

 自分は、ただ歩くという事の辛さを実感として知っている。

 だから戦地から避難するために、人々が列をなして歩いている光景を見ると胸が締め付けられる。特に、小さい子どもが歩いている時には。

 

 高校生の自分が意味もなく100kmを歩き通す事ができたのは、それが家へと続く『帰路』だったからだ。間違いなく、そう思う。

 

 こんな嫌な事は、やがて終わるんだ。

 ゴールに辿り着けば。100kmを歩き通せば。

 途中、空き地で仮眠しなければならなかったとしても、家に着いたら風呂に入れる。柔らかい布団で眠れる。そういう保証があって歩く100kmなんて、ゴールできて当然だ。子どもの遊びみたいなもの。ただ両足を動かせばいい。嫌な事を少しの間だけ我慢すればいい。

 

 家に辿り着くまで。

 

 でもね、戦地から逃げて来る人々には、もう家はないんだよ。当たり前だけど。

 ゴールもない。目標も見えない。100km歩いた後で、更に100km歩け、1,000km歩けって言われる可能性だってある。

 

 それがどんなに酷い事か、自分には分かる。実際にマメをいくつも潰しながら100km歩き通した過去があるから。

 

 自動車もバイクも自転車もある世の中で、自分の脚で100km歩くなんて無意味な事だ。無駄な事だ。でもその無駄だったはずの事を経験したお陰で、自分は戦争にまつわる『勇ましい願望』の手前に、無意味で無駄な、身も蓋もない辛さがある事を知る事ができた。

 

 銃を取って戦う事を心配する前に、自分が歩けるかどうかを心配した方がいい。

 自分が歩けるかどうかを心配する前に、自分にとって大切な人々がゴールの見えない道を歩かされる事を心配した方がいい。想像の中で愛国心を奮い立たせる前に。

 

 今のウクライナの惨状を見て、それでも彼らの『愛国心』に感心する、感動できるって言うのなら、それはその人が見ているのが戦争という現実じゃなく、自分にとって都合が良い様に頭の中で再編集した『感動ポルノ』だからだ。悪い言い方をすればね。

 

 人間は都合が良いから、自分が望む物語に寄せて現実を『解釈』して行く。

 

 逃げずに戦う事の尊さとか、自己犠牲や献身を伴う愛国心の素晴らしさだけを頭の中で膨らませて行く。国のために、仲間のために殉じる事が『意義ある生』をもたらしてくれるんじゃないか。この自分の人生にも意味を与えてくれるんじゃないかなんて虫がいい事を考える。

 

 でも、実際に戦争というものがもたらすのは、きっと『マメを潰しながら歩く、無意味で無駄な道程』みたいな身も蓋もない辛さでしかないんだ。しかもそこには、ゴールがない。

 

 そういうものなんだって自分は思う。実感として。

 

 逃げられれば逃げるよ、皆。

 生きられるなら当然生きたいって思う。

 こんな辛いばっかりの戦争、さっさと止めろよって誰もが思ってる。自分で汗や血を流さないで済む指導者以外は。

 

 そこに『愛国心』的なポルノを求めて感動したいのは、自分達外野の勝手で、都合が良い解釈でしかない。それもまた、自分で汗や血を流さないで済むから出来る事だ。画面の向こう側で、無味無臭に漂白された情報だけを得られる自分達だから出来る事。

 

 でもそういう『意味付け』は、結局のところ『卑しさ』なんじゃないだろうか。

 

 意味なんてない事に、意味を後付けして行く。

 

 ただの苦痛は意味ある『受難』に。

 ただの死は国家や民族に対する『殉死』に。

 

 無意味な事には意味が与えられ、讃えられ、崇められ――利用される。

 

 そうした『卑しさ』が自分の中にもありはしないか。

 それを疑う事は必要なんだと思う。それがどんなに――歩く度に痛む、潰れたマメの様に――不快であったとしても。

批評すること、論じること、そして背中を押すこと・『ライトノベルの新潮流』を読む

 

 

 唐突ですが、実は自分はライトノベルを読む人』だったのです。昔は。

 

 なぜ『昔は』と言わなければならないかというと、今はそれほど読めていないんですよね。決して「ライトノベルが嫌いになった」とか「最近のライトノベルは面白くない! 自分が若い頃はもっとこう――」みたいな事を言いたい訳ではないんですが、「毎月新刊を買い、折り込みの小冊子で来月の新刊をチェックして、発売日には必ず書店に行く」様な熱量のある読者ではなくなってしまいました。それは本読み界隈でたまに言われる作品の内容や質の問題ではなく、単純に自分の中での変化です。

 

 そんな自分ですが、趣味で『本の感想を書く』という事をずっとやっています。これも最近は滞りがちで、「感想書きです!」と声を大にして言える程のものではないですが、自分にとって『本を読む事』と『感想を書く事』は繋がっていて、どうしても書きたくなってしまうのです。不思議なもので。下記は自分の感想置き場になっているブログです。

 

dogbtm.blog54.fc2.com

 自分の友人には、自分の10倍はライトノベルを読んでいる奴がいて、一緒に書店に行く時など「それ本当に全部読むのか」という程買い込むので、隣にいる自分は目を白黒させてしまうのですが、彼には『書く』という欲求はあまり無いらしく、感想を書くとか、SNSで呟くとかいう事は一切しません。というかSNS自体を一切使っていません。本との向き合い方は、人それぞれです。

 

 ただ、自分は『感想を書く』側の人間だから思うのですが、『個人の感想』と『書評』は違うものだし、どんなに熱を込めて書いた『感想』であっても、それだけでは『批評』や『論』としての強度を持ち得ないという事には自覚的であるべきだと考えています。

 

 何かを『批評する』或いは『論じる』ためには、専門性が要求されるのはもちろんですが、その専門性のベースというのは、ライトノベルで言えば『網羅的に読む』という事でしか得られないですし、そこで得たものを自分の中で整理する事も求められます。言葉にすると一言ですが、それは大変な事です。図書館司書や博物館学芸員と同等以上の専門知識がまず求められます。そして自分は、それ以上に大事な事があると思いますが、こちらは後述します。

 

 まず、専門性についてですが、自分がやっている『感想』と、本著が成功させているライトノベル論』『ライトノベル史の整理』というものが根本的に異なるのは誰でも分かると思います。作品単体と向き合う事と、その作品の周辺にも広く目を向けて、ライトノベルというジャンル全体の中での位置付けや、一般文芸も含む業界全体の中での評価や位置付けを明確に『論じて行く』事は、その労力や必要とされる知識量がまるで違います。自分の様に個人で、自分が好きな作品だけと向き合うというやり方では、全体を俯瞰する視点は得られない訳です。自分の手の届く範囲の、自分が興味を持てる範囲の作品だけを読み、そこからジャンル全体を語ろうとすれば、それは作品論でも何でもなく『雑語り』になります。

 

 誤解がない様に言っておくと、自分は『感想』と『論』の間に優劣を付けようとは思いません。知識に裏打ちされた『論』にのみ価値があり、『感想』に価値がないという話ではないのです。『雑語り』にしても、書き手と読み手の間に「これはあくまでも雑語りの範疇なんだけど」という共通認識があれば、その雑な語りで盛り上がるのも楽しい事だったりします。

 自分が気を付けなければならないと思っているのは、自分の中の『感想』や『雑語り』を、あたかも『論』であるかの様に語ってしまいたくなる事が書き手にはあるという事です。自分にも、それはあります。

 

 自分に見えている景色が、他者にとっても正しいものだと思いたい。自分が書いたものを高く評価されたい。肯定的に受け止めてもらいたい。そういう『欲』は、どうしてもあります。だって『書く事』って、大変じゃないですか、実際。自分の頭で考えている事がだらだらっと勝手に文字になって出力されてくる訳じゃないんだから。自分が考えている事を、自分の中の想いを捕まえて、整理して、文章に落とし込んで行くのは骨が折れる事なんですから。

 

 それが正しいものであって欲しい。他者から認められるものであって欲しい。

 

 そういう『欲』は、常にまとわりついて来るんです。

 だから自分は、ある意味自覚的に「自分は『感想書き』だから」と自分自身に言い聞かせる事にしています。評論家でも専門家でもなく。まあ、たまに忘れるんですけど、それでも自戒を込めて。

 そして特に気を付けなければならないのは、自分がある作品を読んでネガティブな感想を持った時に、その自分の感想や価値観で作品をジャッジしないという事かなとも思います。自分個人の好みを、その作品へのネガな評価を正当化するためのものさしとして扱わない事。その時点での、自分の中のネガな部分を正しいものとしていつまでも残しておかない事。だって自分自身の価値観だって、時が経てば変わって行くのだから。

 

 そういう自分の中の『感想』という移ろいやすいものと、裏付けのある『論』というものを一緒にしてはいけないのだと知っておく必要があります。そして本著は正しく『ライトノベル論』であり、『ライトノベル史』です。そこにある差を(優劣ではなく)再確認できた事は、本著が優れた『論』である事の証左だと思います。

 

 そして前述した『専門知識以上に大事な事』についてですが、自分はそれを『論じる対象に対する肯定感』だと思っています。ライトノベルであれば、個々の作品に対する読者としての好みや評価とは別に、ライトノベルというジャンルを肯定し、その発展を願ってくれているかどうかという事です。

 

 あくまでも個人的な体験の範疇で申し訳ないのですが、最近は『対象を否定するための論』を見る事が増えた気がしていました。

 

 文章を書く事に慣れている方には自明の事だと思うのですが、最初に対象を否定する事を決めて論拠を積み上げて行く事は可能です。平たく言えば「これはダメだ」と言うために、対象のダメな部分を探して、否定的に論じて行く。より過激に、より刺激的に。そういう『強い言葉』で論じる方が、より耳目を集めるという事があります。反論が集まる事も織り込み済みで、より人々の関心を集める事に特化した文章、言ってみれば『煽り』を含んだ文章を意図的に書いて行く。そして、そうした文章が求められる。

 個人的な感想ですが、自分は正直そうした『強い言葉』を目にする事に疲れてしまいました。

 

 刺激的な言葉を含んだ文章、特に強い否定を含んだ文章は、それを読む人の心を殴り付けます。より強い力で肩を叩く事で、対象を振り向かせる力がある。でもそれは、少なからず相手を傷付けます。肩を叩いて振り向かせるつもりの強い言葉が、相手の胸に突き刺さる事がある。相手に痛みを与えてしまう事がある。心を砕く事さえある。

 言葉を扱っている人が、その『強い言葉』の問題点に気付いていないという事はあり得ないだろうと自分は思っています。でも、知っていてなお、そうした強い言葉が使われる。なぜなら強い言葉は有効だから。より注目されるために。より支持を得るために。

 

 本著には、そういう強い言葉がありません。

 悪く言えば地味です。(ごめんなさい)でもそれは、本著の美点であると自分は思います。淡々と、ライトノベル史が語られ、ライトノベルの今とこれからの展望が綴られる。自分の様な人間にとっては懐かしい部分もあり、知らなかった『今』がある。そして将来的にはライトノベルというジャンルが盛り上がって行く事が願われている。

 

 こうした健全な言葉が、強い言葉を伴わない文章がもっと注目されて欲しい。そう自分は思います。ライトノベルサブカルチャーの分野だけではなく、あらゆる分野において。そして、できればそうした言葉によって何かが論じられる時、そこには今よりも、より良い将来を求める『祈り』があって欲しい。誰かの背中を押してくれるような力が込められていて欲しい。大袈裟かもしれませんが、自分はそう願っています。