老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

原始仏教から『心理的ソーシャルディスタンス』を考える

 ここ最近、カルト関係、仏教関係の記事が続いているのですが、今回もその流れで書きます。予想以上に反響があり、今はこういった信教の問題や、また宗教以外にもカルト的な抑圧にさらされる環境(ブラック企業とか)に悩んでいる方が多いのかなと思います。その悩みをすぐに解決するのはなかなか難しいと思うのですが、色々な事を考えるきっかけにして頂ければと思います。前回はこの様な内容でした。

 

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 今回は、前回書いた『自灯明・法灯明』という考え方についてのまとめの様なものになります。具体的にはSNSが普及した現代において自分達が陥りやすい問題点を踏まえ、昨今言われる『ソーシャルディスタンス』という考え方も取り入れつつ、心理的ソーシャルディスタンス』について考えて行こうと思います。

 

 

 さて、突然ですが『真理』って何でしょうね?

 

 

 唐突に切り出しましたが、この『真理』という言葉もオウム真理教事件の影響で、ずいぶん『胡散臭い』イメージが付いてしまいました。オウム真理教が信者を死亡させたり、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしたりしたのが昭和63年から平成元年にかけてなので、その頃から数えればもう30年以上が経過した事になります。地下鉄サリン事件が平成7年で、そこから数えても25年が経過しており、当時生まれていなかった人からすれば、「新興宗教団体が教団施設内で毒ガスを作り、それを地下鉄にばら撒いた」なんていう話をしても、フィクションだと思われてしまうでしょう。

 

 でもこれは、実際に起こった事です。

 

 当時、事件が社会に与えた影響は凄まじく、様々な人々が教団や信者、教団幹部、そして教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)の事を分析しようと試みていました。

 なぜ彼等は反社会的な行動に走ったのか。それも殺人やテロという重罪です。その事に対する論理的な説明を社会は求めていました。

 

『洗脳(マインドコントロール)されていて、教祖の命令に逆らえなかったから』

 

 いつしかそんな理由で皆が納得する様になりました。

 新興宗教というのは信者の価値観や倫理観を、厳しい修行や薬物投与で書き換えてしまうのだ。そして自分を失った人々が、教祖の言いなりになってテロ活動を行ったのだ、という考え方です。それは、ある一面では正しいかもしれません。

 

 しかし、同時にオウム真理教の信者達は『真理』を追い求める人々でもあった筈です。

 何が正しいのか、何を信じて生きて行くべきか。人生の中でそんな大きなテーマについて悩む事は誰にでもあります。無数にある選択肢の中から、正しいもの、信じるに値するものを掴みたい。そして叶うなら『真理』を知りたい。

 

 では、それ程までに重要な『真理』って何でしょうね?

 

 最初の問いにループして戻って来ました。

 真理とは何かを、短い言葉で説明する事は難しいのですが、ひとつ確かな事があります。

 

『真理は、誰が語ったかによらず、真理である』

 

 まあ、たった今考えたフレーズですが。

 

 仏教における真理を説明する時によく言われるのは万有引力の法則とニュートンの関係』『地動説とコペルニクスの関係』です。簡単に言えば、ニュートン万有引力の法則をまとめる前から、世界には既にそれが真理として存在していたのであり、コペルニクスの地動説以前、つまり天動説が信じられていた頃から、地球は太陽の周りを回っていたのだ、という事です。ニュートンコペルニクスはそれらの真理を『発見』したのであり、彼等がそうした法則を作り出したのではないという事です。

 

 誰が発見し、誰が語っても、誰の目から見ても真実である事。変わる事がないもの。

 ここではそうしたものを『真理』と呼びます。

 

「科学的な真理は自分の外側、この世界の法則を指し示し、宗教的、哲学的な真理とは、人間の心や精神といった内面に見出される」という人もいます。

 

 科学的な真理。宗教的、哲学的な真理。そのいずれも、真理はそれ自体で成り立っているのであって、誰が言ったか、誰が発見したかでその内実が変わる事はありません。人が定めるものではなく、また、人が定めるまでもなく存在しているものです。逆に言えば、どんな立派な人が語ったところで、真理でないものを真理にする事はできないという事です。

 

 ですが日々の暮らしの中で、自分達は『それを言ったのは誰か』という事を非常に気にしています。そうした姿勢は、果たして正しいと言えるでしょうか?

 

 SNSで多くのフォロワーを抱えている人、タレント、YouTuber、コメンテーター、評論家、学者、政治家、プロスポーツ選手、作家、映画監督、役者、芸術家、他にも発言力のある人々は数多くいますが、そうした人々が言っている事を、内容を吟味せずに『この方が言っているのだから正しいのでは』と思ってしまう事は誰にでもあります。自分がファンだったり、生き方や考え方に共感できる部分が多かったりする相手ならなおさらです。

 

 逆に気に入らない相手や、自分と意見や価値観が食い違う事が多い人の言葉は、内容に関わらず『この人が言っている事だから、嘘くさいし信用できない』と思ったりする。これもままある事です。

 

 でも、相手との信頼関係や好悪はさておき、これらの反応には何ら根拠がありません。こう書くと分かりやすいでしょうか。

 

仏陀が語ったのだから、その教えは真理である』

麻原彰晃が語ったのだから、その教えは真理である』

 

 誤解を恐れずに言えば、このふたつは本質的に同じ事を言っています。その教えを聞く人=自分が、教えの正しさを判断する基準を「それを言ったのは誰か」という外的要因に委ねてしまっていて、自分で判断せず、真理に照らしていないからです。師が存命であれば、その様な他人に寄りかかった姿勢でも立っていられるでしょう。しかしこれもまた真理として、どんなに慕っている相手でも、どんなに愛する者でも、いつか別れなければならない時が来ます。『生者必滅会者定離』とも言う様に、生者は必ず死に、出会った者とは必ず別れる定めだからです。

 

 仏陀はいつか自らがこの世を去る時に、自分という支えを失った弟子達が嘆き悲しみ、執着に縛られるかもしれない事、そして場合によっては道に迷うであろう事を知っていたと考えるのが自然です。ですから入滅する前に、弟子達には『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言った訳です。これまで弟子達を導いて来た師の言葉にしては突き放した印象を受けるかもしれませんが、弟子達から師に対する執着を取り除き、真理とは誰が語ったかによらないのだと示す為には、仏陀自身の存在が弟子達の中で大きくなり過ぎる事は本意ではなかったのかもしれません。これがいわゆる『自灯明・法灯明』です。

 

 真理は仏陀が語らずとも、そして仏陀の死後も存在し続けるものです。

 確かな真理を支えにして、自立する事。師を喪ったとしても、迷う事なく生きて行く事。おそらく仏陀が弟子達に望んだのは、その事でした。

 

 逆に、集団の中で求心力を持ちたい、自分の意のままに他人を動かしたいと思えば、仏陀と逆の事をすれば良いという事になります。手の中に秘密を隠し持ち、知りたければ忠誠心を示す様に迫る。また自分が語る言葉だけが真理であるかの様に振る舞う。自分に逆らえば地獄に落ちるのだとうそぶく。そうすれば、自分が生きている間は(或いは死後も)延々と信者を縛り付け、影響力を行使し続ける事ができます。

 

 教団を作り、師となる者が弟子達に教える事は、教義に対する理解を深める為に有効である一方、こうした支配や依存、執着を生む可能性を孕んだ諸刃の剣でした。その事に対する苦悩は原始仏教の経典の中にも見る事ができます。

 押井守監督が映画『イノセンス』の中で引用した事で、一躍有名になった言葉です。

 

 『孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように』

 

 中村元先生の訳による『ダンマパダ』の第二三章『象』(岩波文庫ブッダの真理のことば 感興のことば』所収)には以下の様に書かれています。

 

 

 

 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、ともに歩め。

 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

 

 仲間や師を求める事と、ひとりで生きる事。そのどちらが良いのかという事は過去に論争され、おそらくは今も明確な結論には至っていません。ですが現代を生きる自分達にとっての問題とは、『既に自分達はひとりで生きる事が困難である』という事です。

 

 仏陀が生きていた時代ですら、悟りを求めて身分を捨て、出家して世俗を離れ、黙々と修行に励む様な暮らしができるのは限られた人々だけでした。更に自分達は、生まれた時から社会制度の中に組み込まれ、様々な義務や権利を与えられ、他者と密接に関わりながら生きて行く事になります。加えてSNS等が普及するとともに、『自己』と『他者』の心理的な距離』はさらに近くなりました。

 

 あるリアリティー番組の出演者がSNS上で批判に晒され、自ら命を絶つという痛ましい事件が起こったばかりですが、人と人との心の距離、心理的な距離が近くなると、過度な批判も相手に届きやすくなります。そして匿名の発言者が束になって個人を誹謗中傷する様な負の部分が日常的に見られる様になります。

 

 他にもやっている人がいるから。たくさんリツイートされるし「いいね」が付くから。動画の再生回数が稼げるから。そんな風に、隣にいる匿名の誰かも喜んで他人に石を投げている事が可視化される仕組みがあるせいで、自分達は思慮分別をなくしていく。つい流されるし、それを反省しなくなる。これでいいのかと立ち止まって考えられないし、考えようとしない。

 

 こんな自分達で満足ですか?

 

『発言力の大きな人の意見が正しいものとして無批判に流布される事』

『発言内容よりも、誰が言ったかが重視される風潮』

『集団の意見に流されて自己反省をしない事』

 現代におけるこうした諸問題を解決する手段はないものでしょうか。

 

 そのひとつが『自灯明・法灯明』ではないかと自分は考えます。

 

 この社会で、今からSNSを無くす事はできません。個人的に捨てる事はできるかもしれませんが、不便を覚悟しなければならないでしょう。仏陀の様に出家する訳にもいかない。でも『真理』というのは、時代や生活様式が変わっても無効にならないから『真理』なのだと考える時、今この社会で『自らを島とする』にはどうすれば良いかを考えれば、現代でも有効な答えが導き出せる筈です。

 

 自らが島だとすれば、それを水底に沈め、押し流そうとする大洪水は社会構造であり、他者の意思や思惑です。そんな中で、真に自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずに生きる事。それは言い換えれば、他者との心理的な距離を離して、もう一度自分の心を見つめる事です。心理的なソーシャルディスタンスを考え直すと言い換えても良いかもしれません。

 

 自分の心の置所を、一時だけでもSNSや他者から離してみる、距離を空けてみる。

 誰が言ったか。どれだけ多くの人が賛成しているか。そうした外的要因から自分の判断基準を引き剥がしてみる。

 多数派の意見を無批判に受け入れていないか、無自覚に他者を傷付ける様な行いに加担していないかを反省する。

 

 真理は誰が語ったかによらず真理である様に、誤った事や悪事はどんなに大勢の人々が支持し加担したところで正しくはならない。それを正しく判断できる自分を持つ事。大洪水でも沈まない島を持つ事。暗闇を照らす灯明を持つ事。

 

 こうした生き方を導き出す上で、SNSはおろかネットもスマホも影も形も無かった頃の原始仏教の経典に記された考え方が参考になるというのは、ちょっと面白い気もします。当然仏陀といえども今の社会のあり方を見通していた訳ではないでしょうが、真理というのは不変であり、普遍でもあって、自分達はまだ釈迦の掌の上にいて、彼の想像の範囲を超える程には遠くまで離れられていないという事なのかもしれませんね。

 

 まとまりが悪く、かなり長くなってしましましたが、オチらしきものも付いたところで、今回はこれにて。

瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか』を読む

 

 この本、待っていました。

 先日、こんな記事を書いたのですが、なぜ書いたのかというと、「本著を読む前に一度自分の中のカルト観を整理しておいて、読後にもう一度考えてみよう」と思ったからでもあります。

  

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 著者の瓜生崇氏は、自らも浄土真宗親鸞会という教団に入信し、教団内では講師部に所属するまでになり、勧誘活動やネット上での教団批判対策等の仕事に従事されていた方です。その後脱会して、現在は真宗大谷派玄照寺住職としてお勤めされながら、カルト脱会の支援活動をされています。

 こうした経歴を持つ方の『カルト観』は、自分が持っているそれからさらに踏み込んだものだろうなと思っていましたが、本著を読んでみるとまさしく自分が知らなかったカルトに対する『気付き』を得る事ができました。

 

 先の記事で書いた様に、自分は大学で『学問としての仏教』『思想・哲学としての仏教』を学んだ訳ですが、では『信仰としての仏教』に精通しているかというとそうでもないと思っています。私生活で、どこかのお寺に足繁く通って法話を聴いている訳でもないですし、戒律を厳格に守って生活している訳でもありません。そして毎日熱心に読経や唱題をしている訳でもありません。

 

『信仰と生活の距離』というものを考える時、自分と信仰というものの距離は遠い様に思います。生活に密着した形で信仰を意識する事は少ないです。でも、今の自分の性格や人格を形成する要因として、大学で学んだ事は核になっていると思います。

 

 さて、そんな自分が瓜生氏の著作を読んで「ここは踏み込んでいるな」と感じた点がいくつかあります。ひとつは、伝統宗教新興宗教(カルト)の境界線を疑う事』です。

 

 一般に「カルトはいかがわしい偽の宗教であり、伝統宗教との違いは明確である」というのは、そうしておかないと伝統宗教側の正当性に疑義が生じるからですが、両者の間を行き来した瓜生氏からすれば、そこに両者を二分する明確な境界線を引く事は難しいという事になります。カルトを定義しようとする時、伝統宗教にも同じ様な問題点が無いのか考える事は、伝統宗教の側に不安を生じさせる事になる為に、多くの場合その問題点は無視されてしまう訳です。

 

 例えるなら、世間を騒がせる様な殺人事件を起こした犯人を『異常者』として「自分達とは違う怪物なんだ」と定義すれば、『一般人』である自分達の不安が覆い隠される様なものだと思います。秋葉原通り魔事件の加藤智大や、相模原障がい者施設殺傷事件の植松聖は『異常者』で、自分達とは違う種類の人間なんだと思う事にすれば不安が軽減される。でもそれは本当なのかというと、実際は彼等と自分達の間にそんなに大きな差はないのでしょう。それと同じ事です。

 

 ふたつめの気付きは、カルトと伝統宗教との間に明確な境界線が引けない以上、『カルト信者と一般人の間にも明確な違いはない』という事です。どちらの生き方が『より良い生き方』『正しい生き方』なのかという事は、一概には決められない。そもそも『正しい生き方』というものがあるとして、それを明確に定義できるでしょうか?

 

 本著でも、カルトに引き寄せられてしまう人達について書かれている部分を読むと、他の大多数の人々が深く考えない様にして生活している『人生の目的』や『正しい生き方』というものについて、真剣に悩み、考え、自分なりの答えを求めてもがいている『真面目な人達』なのだという事に気付かされると思います。そういった悩みを意識する事なく、趣味を見付けたり、旅行をしたり、友人と遊んだりといった楽しい事、熱中できる事に注力して生きている人が多い中で、どうしても『人生の目的』といった根源的な問いから目を逸らせない人々がいるという事。そして、その中からある一定数の人々がカルトに入信してしまうという事。その事を踏まえないと、問題解決への道筋は見えて来ません。

 

 以前の記事でも書きましたが、これは『カルトに入信してしまう特殊な人々』の問題ではない訳です。本著にある様に、教祖が最初から私利私欲の為に他人を騙して信者にしてしまおうと画策したのか、それとも崇められ、期待される中でその思想や教義が先鋭化・反社会化し、暴走して行くのかは定かではないとしても、同じ様な人心掌握術を用いて活動している人は数多くいます。宗教家以外にも、著名人や経営者、政治家やインフルエンサーと呼ばれる人々の多くが、こうした人心掌握術に長けています。そうした人々にとって、自分達は『獲物』かもしれないし、既に無自覚に取り込まれてしまっているかもしれない。そうやってカルトの問題を『自分事』として考える必要性を、本著は説いている様に思えます。

 

 本著を読んで、自分の中のカルト観も揺らぎました。だから最後に、自分なりのカルトの定義を更新しておきたいと思います。

 

 自分は『迷ったら原点に立ち返る』事にしていて、この場合の原点とは大学でも学んだ原始仏教の世界です。日本語で原始仏教を学んだ人なら、おそらく誰もが一度は中村元先生の著作にお世話になっていると思います。その中からブッダ伝 生涯と思想』を読んでみました。中村先生の著作は難解な教義を優しく紐解いてくれる様な文章で、するすると読めるのでお勧めしたいです。 

 

 

 その中で仏陀が入滅する(亡くなる)前に弟子に説いたものとして『自灯明(じとうみょう) 法灯明(ほうとうみょう)』というものがあります。

 

 要約すると、死期を悟った仏陀に弟子が説法を頼むのですが、それに対して仏陀は「自分はもう悟った理法は全て説き終えたし、これ以上秘密の教えを隠している事もない。そして自分は教団を指導してゆくものでもない」と答える訳です。では仏陀亡き後に弟子達は何を頼るべきかというと『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言うわけです。

 

 中村先生によればこの『島』というのは、「大洪水の時でも水面下に沈まない州」の事を指しているとされ、インドでは馴染みがあるたとえだったのですが、漢訳される時に暗闇を照らす灯火を指す『灯明』とされた為に、日本では『自灯明 法灯明』として知られる様になりました。

 

 仏陀の説いた法(ダルマ)は、仏陀が入滅しても変わる事が無いものであるから、仏陀が生きていても、また死してこの世からいなくなっても、変わらず法をたよりとして、人を頼る事なく、よく自分自身を法と照らし合わせて見つめ直し、そして正しく自分自身をたよりとして生きて行きなさいという事です。他人を頼りにするものではないという事です。

 

 歴史を振り返れば、仏陀の入滅後、弟子達はその教えを経典として編纂し、後世に伝えて行く事になります。その中ではリーダーシップを発揮して、教団を率いて行く者も必要だったでしょうし、弟子達に教えを説く教育者としての役目を負う者も必要だったでしょう。そして教団はやがて分裂を繰り返し、広い世界に様々な形で仏教が伝播して行く事になります。様々な部派、宗派が生まれ、それぞれに教祖や開祖が立ち、各々の教団を率いて行く事になります。しかしその原点として仏陀が説いたのは、修行者は自分自身を灯明(島)とせよ、という事でした。

 

 この事を考えると、カルト的な教義を持つ宗教の中に多く見られる『教祖への絶対服従』『教団トップへの盲従』が、歪なものである事が分かります。宗教ではなくてもパワハラ気質で経営者への服従を求めるブラック企業や、異論や自らの非を一切認めないトップに支配された集団でも同じ事です。教祖や組織のトップが全ての実権を握っていて、信者や構成員を振り回す組織は、結局のところそのトップが倒れた後の事を想定していないし、そこで指導者や指針を失って放り出される仲間の事など一顧だにしません。頂点に立つ人間が、自分自身の今さえ良ければ後は知った事ではないと考えているからです。または権力を親族に世襲させて永続的な搾取を望んでいるからかもしれません。

 

 また、『自らをたよりとする』為には、心身ともに健やかである事が必要だと自分は思います。ですから、必要以上の労働や奉仕を求める教団、企業、組織はカルト的だと言えるのではないでしょうか。更に、自己啓発セミナー等でもよく行われる様な『自己否定』を課題に組み込んでいる組織もカルトだと思って良いと思います。参加者全員でひとりを囲んで欠点を責め、罵声を浴びせ続ける等の行為ですね。

「今のあなたがどれだけ駄目で、自分達の教えがどんなに優れているか。だからあなた自身の考えや価値観を一旦壊して捨てなさい。代わりに自分達が『正しい生き方』を身に付けさせてあげよう」なんていう事をしたり顔で吹き込んでくる組織は、『自らをたよりとする』生き方を育む上でマイナスになります。本来たよりとするものを壊せ、と言うわけですから。

 

 もしもこれを読んでいる人が、健康を損なう程の労働・奉仕・自己否定を求めてくる組織に身を置いているとしたら「これはカルトではないか。教団(組織)は自分の為を思ってくれていないのではないか」と思い直すきっかけにして欲しいと思います。自分はかつて仏教を学んだ事は自分の中でとても良い事だったと思っているので、宗教が原因で不幸になって行く人がいる現状が嫌だし、『より良く生きたい』という誰もが持っている願いに付け込んで搾取する輩が大嫌いなので、そうしたものと戦う人に本著が届いて欲しいなと思います。

なぜ自分達はカルトを信じてしまうのかという話

 何だか安倍昭恵氏がカルト的な思想に傾倒しているらしい』という内容の記事を見掛けてしまい、暗澹たる気持ちになりました。マジかーっていう。そして「これ本当かな?」と疑う一方で「まあ、可能性はあるな」と思う自分もいます。詳しくは以下の記事を参照して下さい。

 

note.com

 

 記事の内容をそのまま信じるかはお任せしますが、最初に言っておくと、「人がカルトにハマるのは、その人が愚かだからではなく、そもそも全ての人の心にはカルト的な思想を信じたくなってしまう脆弱性があるから」というのが自分の持論です。その事については後述します。

 

 かつて一連のオウム真理教事件が起きた時、自分は「これは宗教についてちゃんと学ぶ機会を持たないと、自分も騙されるだろうな」と思いました。そして紆余曲折の末、お寺さんの子供でもないのに大学で仏教を学ぶ事にした訳ですが、今にして思えばこの時の判断に間違いはなかったと思います。だって定期的にこういう事があるし。

 

 オウム真理教の事件も、もうよく覚えていないとか、物心付く前だったという方がいそうなので、一応Wikipediaのリンクを置いておきます。

 

 

ja.wikipedia.org 

 自分が宗教やカルトの問題というと「何か言わないと!」みたいに食い付いてしまうのはこの経歴のせいなんですが、特に専門家や学者という訳ではなく、ちょっと宗教に興味がある一般人の言う事なので、以下はそのつもりで話半分くらいに思って読んでみて下さい。

 

 さて、大学で信仰というよりも学問として仏教や仏教文化、そして比較宗教概論を学ぶという事をすると、少なくとも大抵の新興宗教の教義についてツッコミを入れられる程度の基礎教養は身につきます。今回の件で言えば

 

 「弥勒菩薩の下生(げしょう・仏が世の人を救うためにこの世に出現すること)が56億7000万年後だからって、何でそれが567=コロナウイルスなんだよ! てかサンスクリット語を舐めるな!」(細か過ぎて伝わらないツッコミ)

 

 という事です。いや、「コロナ567はミロク369だった!」ってドヤ顔で言われてもさぁ……。それはもうとんちの世界というか単なる語呂合わせで、笑点だったら座布団を根こそぎ持って行かれるレベルのネタだと思うんですが。

 

 ちなみに日本における仏教関係の名詞というのは、おおむねかつてのインドにおけるサンスクリット語梵語)が中国に伝わって漢訳された際に、音写(おんしゃ)と言って、元々のサンスクリット語の読みに対して漢字をあてた事によって出来ています。日本で言ったら「英語をカタカナ表記する」様なものですかね。なので弥勒(みろく)は、369でもましてや567でもなく、その大本はサンスクリット語のmaitreya(マイトレーヤ)です。この時点でどこがミロク=369(567)なんだっていう話ですね。マイトレーヤといえばオウム真理教ホーリーネームとか勝手な事を言って幹部信者に名乗らせたせいで情報汚染というか検索汚染が甚だしくて大迷惑なんですが、断じて上祐氏の別名ではないです。

 

 話は逸れますが、サンスクリット語といえば大学時代の先生曰く「きちんと修めようと思ったら10年かかる」分野であり、名詞であれば男性・中性・女性、更に単数・双数・複数、果ては「~が・~の・~に・~を」といった格でも語形変化するので、英語学習の様に単語帳を片手に暗記しようとするとまず高確率で躓きます。

 

 「馬が」「馬の」「馬を」みたいなサンスクリット語の語形変化を「えーと、アシュヴァス、アシュヴァム、アシュヴェーナ、アシュヴァーヤ……」とかぶつぶつ呟いて覚えようとしている人がいたらまず間違いなく仏教学部生だと思いますが、多分一般の人には念仏にしか聞こえないと思うので優しくスルーして下さい。

 

 閑話休題。この様にカルトと呼ばれてしまう様な新興宗教というのは、「元ネタから都合の良い部分をパクって切り取り、これまた都合良く組み合わせる」という事を平気でやります。しかもそのパクリ方が雑で、ちょっと調べれば元ネタに行き付く様なものでもスナック感覚でパクって来るので、出来上がった教義は継ぎ接ぎだらけです。ボロが出る、というレベルではなく、どこがボロじゃないか探すのが難しいレベルなのですが、侮ってはいけません。

 

 信じてしまう人は、それでも信じるからです。

 

 鰯の頭も信心からとは言うものの、カルトに傾倒してしまう人というと失礼ながら「こんなもの、信じる方に問題があるのでは?」とか、もっと端的に言えば「馬鹿なのでは?」という話になりがちだと思いますが、かつてのオウム真理教を振り返れば、その幹部信者には医師や弁護士、高学歴者など、単に「無知だからカルトに騙されるのだ」という一言ではくくれない人々がいた事を思い出すでしょう。

 

 当時も、元東大生の信者など「何でこんな人がオウムなんて信じたんだ」と言われていましたが、結局は深く検証される事なく『信じた奴が馬鹿だった』という雑な総括をされてしまっていた様に思います。そして、そういう雑な括りであの事件を片付けて忘れてしまった頃に、総理夫人がカルトに傾倒しているかもしれない、なんていう笑えない冗談の様な問題が出る訳です。その前にも「有名タレントや俳優、スポーツ選手が洗脳された」なんていう騒ぎが何度かありましたが、なぜ彼等が洗脳されてしまうのか、カルトに傾倒してしまうのか真面目に検証するという事は、一部の宗教関係者や研究者を除けばされて来なかった様に思います。

 

 オウム事件直後は、既存の宗教、宗派の中で「なぜカルト信者になる前に、自分達宗教家は彼等に接触できなかったのか。いち早く彼等の悩みを察して、カルトではない道に導けなかったのか」という自己反省がされていました。そうした自己反省が行われたのは、「人々の悩みに寄り添い、支える」という、あらゆる宗教がその目的とする行為を、カルトの信者集めや教祖の私利私欲に悪用された形になってしまったからです。

 

 言い換えれば、悩みや迷いを抱えて生きている人は、それを解消する為に『支え』を必要とするのであって、それが本当に信じるに足るものなのか自己検証する余裕は無いのだと思います。だから、困っている時に杖の様に差し出されたものを、つい掴んでしまう。頼ってしまう。たとえそれが周囲から見ればいかがわしい新興宗教の類であっても。

 

 例えば生き方の選択肢が無数にあって、それを自分自身で『自由』に選ぶ時、選んだ結果がどうなろうと、選択した自分には『責任』が付いて回る訳ですが、その『自由に選択する事の責任という重さ』が耐え難い時があると思うんですよ。特に進路に悩んでいる学生なんかは。

 

 何でも自由に選んでいい。選択肢は無数にある。じゃあ、その中の『正解』は?

 

 ほら、怖くないですか? 『間違う事』が。そして間違えた責任を取らされる事が。

間違えない様にと言うより、間違えた時に責任転嫁する為にも、誰かを、何かを頼りたくなりませんか?

 本当は『自由』なんて自分は欲しくないのかもしれないとは思いませんか?

 誰かに「お前はこれをやれ。これを信じていろ」とたったひとつしかないものを投げ与えられた方が楽な気がしませんか?

 

 ……脅かし過ぎたかもしれませんが、これらが冒頭で書いた「人がカルトにハマるのは、その人が愚かだからではなく、そもそも全ての人の心にはカルト的な思想を信じたくなってしまう脆弱性があるから」という持論に至った理由です。

 

 自分達の心の中には様々な迷いや弱さがあって、それに対する救いを常に、そして無意識に求めているのですが、その脆弱性を悪意のある者に利用されると、ついカルトを受け入れてしまう。それは知識や教養の有無とは別問題です。誰でも陥る可能性がある、一種の『落とし穴』です。そして一度その落とし穴に落ちた人を救い出そう、カルトから脱会させようというのは容易ではありません。自分では命綱だと思っているものを、「それは間違っているから差し出せ」と言われて素直に従う人がいますか?

 

 最後にまた怖い事を書きます。

 

 この話を、特定の新興宗教やカルトに限定した話だと思って読んでいた方が殆どだと思いますが、ここで言う新興宗教やカルトは『特定の政治思想』『特定の支持政党』『特定の歴史観』『特定の思想信条』に置き換える事が可能です。いくらでも。

 

 要するに自分が何を信じるか、信じていたいかという話なんですね、これは。

 そして自分が今信じているものは、本当に信じるに足るものなのか確かめたの? という話でもあります。

 

 だから「何でこんなでたらめな人に大勢の支持者がいるの?」とか、「失言や暴言、失策を繰り返している様な政治家が辞職を免れているのはなぜなの?」とか、もっと言えば「誰もその間違いを指摘出来ない様な、忖度される様な偶像がどうして生まれてしまうの?」という話に置き換えて考えて欲しいと思います。

 

 さて、本当に愚かなのは誰ですか?

 それが自分じゃないと言い切れますか?

 

 これは多分、そういう話なんだろうと思うのです。自分は。

コロナ対策の給付金10万円を辞退せよ、寄付せよという主張の気持ち悪さ

 はい、今週の激怒案件です。昼間、こんな事を呟きました。

 

 

 公務員や国会議員、その他今回のコロナウイルス騒動の中で『所得が下がっていない人』については、給付金を辞退せよ、あるいは受給した上で寄付せよという主張が聞こえる様になりました。著名人や広島県知事等が好き勝手な主張をしている様ですが、(広島県知事については発言を撤回された様ですが)自分の激怒ポイントはここです。

 

 『年金受給者、生活保護受給者も給付金を辞退すべきだ』という乱暴な主張がまかり通っている事。

 

 昼間はまだ仕事中の休み時間だったので、なるべく丁寧な口調で(しかしちょっと皮肉っぽく)ツイートしましたが、「これもっとちゃんと怒りを表明しないと伝わらないな」と思ったので、以下、語気を強めてちゃんと怒ります。

 

 まず『所得が減少した人だけが給付金を受け取るべき』という主張は、本来の給付金の趣旨から外れた主張なので、総務省の資料を熟読してから出直して下さい。(以下PDFです)

 

『特別定額給付金(仮称)事業の実施について』総務省資料)

https://www.soumu.go.jp/main_content/000684015.pdf

 

この中の『1 施策の目的』の欄にこうあります。

新型インフルエンザ等対策特別措置法の緊急事態宣言の下、生活の維持に必要な場合を除き、外出を自粛し、人と人との接触を最大限削減する必要がある。医療現場をはじめとして全国各地のあらゆる現場で取り組んでおられる方々への敬意と感謝の気持ちを持ち、人々が連帯して、一致団結し、見えざる敵との闘いという国難を克服しなければならない。」と示され、このため、感染拡大防止に留意しつつ、簡素な仕組みで迅速かつ的確に家計への支援を行う。

 

 「人々が連帯して、一致団結し、見えざる敵との闘いという国難を克服しなければならない」という部分はどうでもいいので脇に置きます。大事なのは『家計への支援を行う』という部分です。

 つまり、今回の定額給付金目的は『所得減少に対する補償』ではなく『家計支援』だという事です。

 

 常識的に考えて『給与所得が減っていなくても家計負担が増える』事はありますし、実際そうなっています。

 

 例えば学校が休校すれば、外出や外食も控えて欲しいと要請されている以上、お子さんの食事をそれぞれのご家庭で毎食用意しなければならないですし、リモートワークに切り替えている人は光熱水費の負担が増えている筈です。(それは経費として請求する事ができないでしょうし)マスクも高騰してコロナ禍発生以前の10倍以上の定価で取引されていますし、それでも自費でマスクを買わなければならない職種の人はいます。

 

 そもそも所得が減っていないという事は、『職種的に休めない為に働き続けている』という事でもあって、そうした方々を軽視していいのか、という問題もあります。

 

 これらは、自分ですらぱっと気付く事です。国会議員や地方自治体の首長が気付かない訳がありませんし、知らないとは言わせません。それを知らぬふりで「所得が減少していないなら給付金を辞退せよ、寄付せよ」と迫るのは、こうした事情を知っていて無視しているとしか思えません。

 

 繰り返しますが、家計を支援する事がこの給付金の目的です。公務員だろうが、国会議員だろうが、年金受給者だろうが、生活保護受給者だろうがそれぞれ家計負担はしています。だったら給付金を受け取る事に何か特別な理由が必要ですか?

 

 そして個人的には、他人に使い道を指定されるのも同様に間違っていると思います。

 「貯蓄に回すな」という主張が多いかと思いますが、家計の状態によっては「もっとまずい事態になる事を想定して、今は使えない」という方もいるでしょう。だったら今は貯蓄したって良いと思いますよ。「経済を回せ」と言う人は財界人だったりする訳で、余裕のある人が無理のない範囲で経済に貢献して下さい。庶民には庶民の暮らしがあるので。

 

 ここまで読んで、それでもまだ『いや、所得が減少していない人に給付金が渡るのはどうしても許せない』という方がいたら、あなたがすべきは『給付金をもらう人を叩く』事ではなく、『所得減少の補償ではなく家計支援というバラマキを決めた内閣府総務省を叩く事』です。

 

  今からでも給付目的と給付対象を見直せと、内閣府に言って下さい。総務省でもいいです。それなら自分も納得します。それをしないで受給者を批判するのはお門違いです。強い者には従順で、弱い立場の人にばかり勝手な事を言うのはどうかと思います。人として。

 

 そして、これらの理不尽な主張をしている人達が、しれっと『年金受給者、生活保護受給者も給付金を辞退すべきだ(だって年金や生活保護は減らないから)』という謎の(そして頭の悪い)主張をして来るので腹が立つのですが、ほぼ全ての家庭で家計負担が増大している現状、一番ゆとりがないのが年金受給者と生活保護受給者である事は明白です。まあ子どもでも分かる事だと思いますが。

 

 その一番弱い立場の人達を給付対象から除外しようとする事に正当な理由が存在するとは到底思えません。何なら自分が普段働いている社会福祉法人の入所施設には障害基礎年金の受給者がいますが、彼等だって同じ事です。そして社会や一部の世論がどんなに横暴であっても、彼等は自分で怒りを表明する事が難しいですから、代わりに自分が怒る事にしました。ふざけんなよと。怒っている人間がここにいるという事を言っておかないと、当然の如く無視されるでしょうから。

 

 そして現状既に無視されてしまっている人々がいます。給付金の請求方法が書類の郵送などによる世帯主の手続きで、自治体から世帯主の口座に振込する事が検討されている様ですが、今般の営業自粛騒ぎで明らかになった多くのネットカフェ難民や、住所不定の方々は一体どうやって給付を受けるのでしょうか? またDV被害からシェルターに避難している様な方々はどうしますか?

 本番までに対策を考えてもらいたいです。宿題として。まさか給付できないという事にならない様に。

 

 繰り返しになりますが、公務員や年金受給者、生活保護受給者に給付金が渡るのがどうしても許せないという方々の為にもう一度書きます。彼等が給付金を受け取る事が絶対に許せないと思うなら、あなたの敵は内閣府です。もしくは総務省ですね。決して弱い人々を選んで叩こうとしない様に。自分はその事について怒っているのです。

新型コロナウイルスの感染速度に関する記録・福島県 須賀川市の場合

 

先日こんな記事を書きました。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 結論から先に書きます。

 これを読んでいる方の住む市区町村で新型コロナウイルス感染者が出た場合、自分自身がウイルス感染の危険に晒されるまでの感染経路には、4人も濃厚接触者がいれば十分だという事が分かりました。日数にすれば5日から6日程です。

 

 既に自分は「いつ感染するか分からない状態」というよりも「自分が感染していると疑ってかかるべき状態」にあるでしょう。

 

 東日本大震災の時、大津波がどの様に押し寄せるかという事前の想像を現実が上回った人は多いと思います。今回の新型コロナウイルスの感染も、『自分に感染が迫るまで、ある程度時間はあるだろう』と思っている方も多いかもしれませんが、現実はそこまで甘くありませんでした。

 

 須賀川市内では、最初に発症した10代後半の女性(3月末、東京滞在時に感染した可能性が高い)から、その後同じ職場で勤務していた同僚職員2名に感染し、更にその2名のうち1名は、副業として市の武道館で受付業務をしていました。

 これを受けて武道館は現在閉鎖されていますが、職員の感染発覚前の3日間で延べ17団体と9人の利用があったといいます。この中で更に感染が広がったかどうかは不明です。

 

www.city.sukagawa.fukushima.jp

www.minyu-net.com

 

 今日、4月7日(午前)時点での感染経路(濃厚接触や感染の疑いも含む)は

 ①市内1人目の感染者(10代女性・発症)

 ②①の同僚職員(2名が発症・うち1名が武道館の受付職員)

 ③武道館の職員、武道館を利用していた児童やその保護者等

  (4月7日現在・濃厚接触の程度や感染の有無は未確定)

 

 もし③の方々にまで感染が広まっていたら、市内にはウイルス感染しているかもしれない人が多数存在する事になり、そうなれば自分自身まではあと一歩。というか、状況としてはウイルスに包囲されているに等しい状態です。

 

 『ケヴィン・ベーコン・ゲーム』ではないですが、自分自身と感染者の間に直接の面識はなかったとしても、たった3、4人濃厚接触者を経由しただけで自分まで感染が届く事になります。

 

ja.wikipedia.org

 

 最初の10代女性の感染が発表されたのが4月2日、今日が4月7日です。

 これを考えると、1週間もあれば確実に自分までウイルス感染の連鎖が届く計算です。

 

 そして今日4月7日の夕方になって、新たに市内で3名の感染が確認されました。うち2名は1例目の10代女性の同居家族との事ですが、あと1名については感染経路が未確認です。

 

 

www.city.sukagawa.fukushima.jp

 

 もしも自分が既に感染していて、遠からず発症し、重症化して死亡したとします。

 

 その時、この記事を誰かが見て、実際の感染の速度はこんなにも早いのかという事を把握できる様に、今取り急ぎ書き残しておきます。その可能性は無視できる程低くないと自分自身では思いますが、黙って感染を許すつもりもなければウイルスにやられるつもりもないです。今更パニック起こしても仕方がないですし、見えない敵からのストレスという点では9年前から「今日の空間放射線量」を眺めて暮らしている自分達のストレス耐性の方に分があると思うので。

 

 今日書いたこの記事を、後日笑って読み返せる様にと願いつつ。

新型コロナウイルス感染者へのバッシングがなぜ悪いのか・福島県の場合

 先日Twitterでこんな事を呟きました。

 

 

 この時は割と情緒的な理由で『感染者をバッシングすべきではない』って書いた訳ですが、この『感染者バッシング』って防疫上も非常にまずいんじゃないかと思い直したので、ここ数日の動きをまとめておきたいと思います。

 

<正確な情報が出ない>

 この「3月末に東京に滞在した事で感染したと思われる10代の女性」について、市は詳細な情報を一切公表していません。追加情報として公開されたのは『小中高校生ではない10代後半の女性』という事だけ。要は『学生じゃありませんでした。学校は心配ないです』と言いたかったのでしょうが、それも十分伝わっていません。 

 

www.city.sukagawa.fukushima.jp

 

 この事に関して、既に報道されている様に、市へ問い合わせの電話が数十件あったという事です。

 

www.minyu-net.com

 

 おそらく、一般の人が知りたいと思う情報は以下の様なものだと思います。

 

 ①東京に滞在していた際の立ち寄り先として、どこで感染したと思われるのか

 ②東京滞在の際に誰か一緒に行った人はいたのか。いたとしたらPCR検査をしたか。また交通手段は何を使ったのか

 同居している家族はいるのか。また家族はPCR検査を受けたか。ここ数日間の行動歴は?

 ④女性や家族等、濃厚接触者の勤務先は感染発覚からどの様な対応をしているのか

 

 まず①については、「もし彼女と同じ時期に同じ場所にいたら、自分も感染の危険性があると分かる」という点で『感染拡大の封じ込め』に役立ちます。これは福島県民以外にも役立つ情報だし、本当に東京滞在が感染原因なのだとしたら、東京都民にも無関係な情報ではないでしょう。

 

 そして②、③、④については、「余計な推測で不確定情報が拡散し、混乱が起きる」事を防がなければならないという意味において、プライバシーの問題はあるにせよ、公開できるのならした方が良いと思います。

 

 現にこの数日間、『10代女性の住所氏名』『両親の勤務先』『東京に行った目的と滞在先』等について、田舎特有の人力ネットワーク的な情報網による勝手な捜査が繰り広げられ、不確定情報があちこちから上がって来るという「端的に言って地獄」の様相を呈しています。人の口に戸は立てられないとはいえ、田舎のこうしたネットワークは本当に素早い訳ですが、情報の正確性は一切保証されないのでここでは詳細について述べません。

 

 そんな中で、女性の勤め先である居酒屋チェーン、養老乃瀧は情報公開に踏み切りました。

 

www.yoronotaki.co.jp

 

 業態として顧客や従業員との接触があり、情報を伏せておく訳には行かなかったからです。ただ現状、市からの公式な発表はまだないですし、続報も出て来ません。

 

 なぜこの様な惨憺たる状態になってしまうのでしょうか。

 

 それは恐らく「女性の身元が割れたらどこまでも追求してバッシングしてやるぜ。親兄弟や関係先にも電話を掛けまくり、徹底的に叩きに行ってやるぜ」という、端的に言って愚か者の存在を無視できないレベルで市が警戒しているからだと自分は思います。

 

 

<過剰なバッシングが生む情報公開への壁>

 Twitterでも書きましたが「何でこんな危ないと分かっている時期に東京に行ったのか」というのは誰でも思います。自分も思います。延期や中止が出来るなら、本当に行かないで欲しかった。現に自分の勤務先は「遠方(特に感染が懸念される地域)への外出は絶対に責任者へ事前報告して許可を得る事」とされています。そして恐らく、余程の理由がない限り許可は出ません。出たとしても自宅に戻ってから職場復帰まで2週間は自宅待機が命じられると思います。そういう『自主的緊急事態宣言』に近い状態に、自分達はいます。

 

 しかしながら、この感染してしまった10代女性については「どうせ遊びに行ったんだろ」「ライブハウスか?」「なぜ自粛要請に応じないんだ」「親はなぜ止めなかったんだ」等、既に本人は発症して入院し、個人的に非常に辛く苦しい立場に置かれているにも関わらず、『今以上に辛い思いをしろ』『もっと責任に押し潰されろ』『もっと自分達の不満の捌け口になれ』とでも言うべきバッシングが続いており、自分なんかは、

 

『そういう無駄なバッシングをしてるから必要な情報も出せないんじゃないですかね?』

 

 と言ってやりたい気分です。

 

 これが、「まあ東京に行っちゃったのも感染しちゃったのも、今となってはもうしょうがない。責任追求は一切しない。でも、危ない場所は皆避けないといけないから、行動歴と関係先は公開して欲しい。あと、自宅周辺に住んでる人、勤務先や取引先、その他関係者、彼女やその家族に村八分的な行動をしたらただでは済まさないのでよろしく」という意識を共有できる程に自分達地域住民がちゃんとしていれば、情報は出せると思います。

 

 まあ、無理ですが。

 

 本当に、ここ数日の地元のバッシング具合を考えると、自分が彼女の立場だったら耐えられないと思うし、きっと日本各地で同じ様な問題が繰り広げられていると思うんですよ。だって医療従事者やその家族ですら避けられている訳ですから。

 

 自分はネット上でよく書かれる民度っていう言葉が心底嫌いなんですが、あえて自虐的に用いるなら、これが今の自分達の『民度』の限界なんじゃないかと思っています。

 

 こんな事を書かれると怒る人がいると思います。自分もこんな事を書きたくはないです。地元に対して「これだから田舎は駄目なんだよ」なんて言いたくないし、もし駄目にしてるのなら自分にも責任があります。そして田舎じゃなくても、ネット上でも、この『ムラ社会的な価値観』が広く薄く漂っているのが自分達の問題なのであって、ここを抜け出さないとその先は無いんですよ、きっと。

 

 だからあえて繰り返します。

 自分達の『民度』ってこの程度ですか? 現状で満足ですか? 自分は嫌です。

れいわ新選組参議院議員・舩後靖彦様、木村英子様へ 障がい者支援施設職員からの手紙

 最初は意見書の様な形で凄く硬い文章を書いたんですが、やはり直接両議員の事務所や党本部に文章を送る事はためらわれたので、手紙の様な文章に書き直してここに上げる事にしました。公式な申し入れの様な形にしてしまうと、自分の所属が特定されてしまった時に法人や事業所、何よりご利用者様やそのご家族に迷惑になるだろうと考えたためです。ですからこの発言が舩後議員や木村議員に届くかどうかは分かりません。また仮に届いたとして、匿名の発言として捨て置かれても致し方ないと考えています。ですが個人として、どうしても本件について発言しておきたい、また現在の思いを自分自身が忘れない様に書き残しておきたいと思い、勝手ながら述べさせていただきます。

 

 これから書こうとする事は、あくまでも社会福祉法人の一職員である自分自身の私見であり、法人としての見解ではない事、発言にあたって法人の許可を得たものではない事を明記するとともに、上記理由により、また守秘義務及び個人情報保護の観点から、所属する法人名、事業所名を明かす事が出来ない事を重ねてお詫び申し上げます。また不本意ながら自分の身元が特定される様な事態になった場合には公開を停止します。その点についてはご理解を頂きたいと思います。

 

 さて、両議員に対して私がお願いしたいのは、障がい者支援施設(入所施設)の必要性について、また今現在もそこで懸命に働いている職員に対してのご理解とご協力を賜りたいという点です。

 

 先日、相模原市障がい者施設で起きた痛ましい殺傷事件について、植松被告へ死刑が言い渡されました。この事件については発生から現在に至るまで、福祉関係者にとっては大きな衝撃であると同時に「自分達は果たしてどの様にご利用者様の日々の支援に携わって行くべきなのか」という事を問い直すきっかけともなりました。

 

 ですが、自分が更に衝撃を受けたのは、この事件に関連して両議員が発表されたコメントの中で「自分自身も入所施設において虐待を受けた」という事実を明らかにされた事です。以下にそのリンクを示します。

 

yasuhiko-funago.jp

eiko-kimura.jp 

  この中で、両議員は「入所施設における虐待は、施設が抱える構造的な問題によって発生している」という趣旨の発言をされている様にお見受けします。

 

 舩後議員は『入所施設は、職員と障害者の間に「上下関係」が起こりやすい環境です。』と述べられ、木村議員に至っては更に厳しく『施設の生活は「好きな物を食べたい、外へ遊びに行きたい」そんなあたりまえの望みすら叶わない世界なのです。そこに長く入れられたら希望を失っていく人は沢山います。そしてそこの障がい者を介護している職員も初めは志をもって接していても、家族でさえ担いきれない介護なのに、限られた職員の人数で何十人もの障がい者をみなくてはならず、トイレ、食事、入浴と繰り返すだけの毎日の中で、体力的にも精神的にも疲弊し、いじめや虐待が起こってもおかしくない環境なのです。』と声を大にしておられます。更には『重度訪問介護制度の充実と人手不足の解消が解決されなければ命がけで築いてきた私の地域での生活はすぐに壊され施設へ入れられてしまう危険といつも隣り合わせなのです。』とも述べられています。

 

 『施設へ入れられてしまう危険』

 

 とても強く、ネガティブな言葉だと思います。二度と入所施設には戻りたくないという意志を強く感じます。当然です。虐待を受けた施設に戻りたい人はいません。そして同じ施設ではなくとも、入所施設で虐待を受けた方が、同じ様な生活に戻りたいと願う事はないと思います。虐待によって両議員が感じたであろう苦痛は察するに余りあるものです。それについて自分が何かを言えるとも思えません。代わりに謝罪してもしきれません。ただ、これだけは言わせて頂きたいと思います。

 

 入所施設で働いている自分達は、植松被告と同様の、潜在的な犯罪者ですか?

 

 入所施設という形態に構造的な欠陥があり、全ての職員がやがて植松被告の様になってもおかしくはないのだと両議員がお考えなら、今ここで虐待防止に取り組み、自己チェックや職員間での相互チェックを日々行っている自分たちは「今はまだ虐待に走っていないだけ」「将来的には植松被告と同じになっても何らおかしくはない、潜在的な脅威」と見られているのでしょうか。

 

 自分は事務員です。生活支援員ではありません。ですがもし、入所施設で働く職員に対して、両議員が上に述べたような受け止め方をされているのだとしたら、同僚である現場職員が余りにもかわいそうです。彼等の苦労が、努力が、認められていないと感じます。

 

 重ねて言いますが、お二人が受けた虐待は許されないものです。しかしながら、全ての入所施設が虐待に走っている訳ではない事を知って頂きたい。そして『入所施設という不健全な体制を潰して、重度訪問介護制度を充実させる』という誤った方向(とあえて断言します)に進まないで頂きたい。入所施設に問題があるとお考えなのであれば、その問題を解決する為に力を貸して頂きたい。そう願うのです。

 

 「自分達を虐待した体制を維持する為に、なぜ力を貸さなければならないのか」と思われるかもしれません。入所施設は両議員にとって忌まわしい場所なのかもしれません。ですが現状、その入所施設を生活の基盤としている方々がいます。そしてこの場所が、終の棲家になるであろう方々がいるのです。それは他でもない、重度の知的障がい者です。

 

 両議員は身体障がい者です。移動支援など、必要な支援が得られれば国会議員としての職責を全うできるだけの能力をお持ちです。ですが重度知的障がい者は違います。

 

 自分が勤める施設では重度知的障がい者の方々が入所生活をしています。そのほとんどが、6段階ある障害支援区分で区分5や6に該当する、最も支援が必要とされている方々です。こうした方々の多くは、自宅での生活ができません。守秘義務上、ご利用者の具体的な状態について述べる事はできないので一般論を書きますが、重度知的障がい者の方々はしばしば発作的な自傷や他害、興奮して器物を破損させる等の問題行動を起こします。その他にも自己の体調管理ができない事(過食や絶食、偏食等)や金銭管理ができない事など、地域生活、家庭生活をする上で様々な困難があります。また一度入所施設からグループホーム等に移り、地域移行した方でも、その後に様々な問題があって地域で暮らせなくなり、また施設に戻らざるを得ない場合もあります。

 

 木村議員は『家族でさえ担いきれない介護なのに、限られた職員の人数で何十人もの障がい者をみなくてはならず』とおっしゃいましたが、逆です。重度の知的障がい者を対象とした場合、彼等に十分な介護を提供する事は、家族には不可能です。家族内で介護の全てを引き受けようとすれば共倒れになります。だからプロである生活支援員が介護に携わっています。健康管理の面でも栄養士が献立を作り、看護師や職員がご利用者の体重を定期的に測定して摂取カロリーまで計算した食事を提供しています。日々の体調も事細かにチェックし、定期的な健康診断や通院を行っています。服薬確認や金銭管理、入浴や食事、排泄まで含めて全て介護します。夜勤者も含めて24時間体制で1年365日こうした介護を継続して提供できるのは、入所施設だけです。

 

 現在、厚生労働省の方針としては、『可能な方は入所施設を出て、地域移行してもらう』という方向で進んでいます。施設を出てグループホームに入るなどして、地域の中で自立して暮らせる様に取り組んで下さいという事ですが、重度知的障がい者の地域移行は本当に難しい事です。挑戦するだけでも、まずグループホーム等の受け入れ先を探し、実際にそこで暮らせるか時間をかけて体験と経過観察を繰り返し、それでようやく地域移行に繋げられるかどうかという話です。

 

 そして現実問題として、親は子より先に亡くなります。

 

 多くの入所者にとって、親なき後は入所施設がそのまま終の棲家になります。施設を出る時は、重篤な病気で入院する時か、亡くなった時だけです。

 

 入所を希望するご本人や、そのご家族が最も心配されているのは、正にその「親なき後に、障がい者であるわが子はどうやって生きて行けば良いか」という事です。その困難を解決する為に、皆さん入所を希望されています。それでも、そうした希望者全てを受け入れるだけの余裕はありません。既存の入所施設では既に待機者が列をなしており、ご利用者様が住む県内で入所先が見付からなければ、他県の施設にまで入所希望の問い合わせをせざるを得ないというのが現状です。それも近県ではなく、関東から東北、或いは関西といった遠距離です。そんな状態であっても、先にも述べた通り現在入所中の方が亡くならない限りは、新たな入所希望者に順番は回って来ません。

 

 これが、重度知的障がい者を受け入れている入所施設の現状です。言い換えれば、身体障がい者と重度知的障がい者の決定的な差がここにあります。

 

 特に木村議員が提唱されている様な、重度訪問介護制度の充実と人手不足の解消が図られれば、身体障がい者の多くは自宅での生活ができる様になり、地域の中で自立して暮らせる様になる可能性があります。しかしながら、同じ障がい者と呼ばれる方々の中でも、より自立生活に困難が生じる重度の知的障がい者は、在宅で訪問介護を受けるだけでは暮らして行けないのです。国会議員として、これから障害福祉サービスの改革に乗り出そうとしている両議員におかれましては、そうした『自分よりもなお弱い立場に置かれている知的障がい者の存在』と、彼等の介護に日々取り組んでいる『入所施設の必要性』を念頭に置いて頂きたいと強く願います。

 

 重ねて問います。

 入所施設で働いている自分達は、植松被告と同様の、潜在的な犯罪者ですか?

 全ての入所施設は、虐待の温床ですか?

 

 ご利用者も含めた『自分達』を、どうぞ見捨てないで下さい。今日も入所施設で働く職員を敵視しないで下さい。自分が言えるのはこんな事しかありませんが、その事を切に願っています。