老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『シン・ウルトラマン』に寄せて (※ネタバレあります)

 『シン・ウルトラマン』について。

 ネタバレだらけなので未見の方は読んじゃダメですよ。

 

 

 

 ウルトラマンには、特別な思い入れがある――なんて言うと、きっと『本当にウルトラマンを愛している人』に怒られてしまうレベルかもしれないけれど、自分の地元は円谷英二監督の出身地という事もあって、何となくいつも心の片隅にウルトラマンゴジラといった特撮作品の存在があった様に思う。

 

 自分は1970年代の末に生まれた。

 世代的には丁度、『ウルトラマン80』のTV放送を観ていたかどうかという年齢なのだけれど、正直、物心つく前だったのでリアルタイム視聴の記憶はない。幼少期の断片的な記憶の中から思い出せるのは、市立博物館になぜか怪獣『シュガロン』の着ぐるみが1体だけ常設展示されていた事とか、盆踊りにウルトラマンが参加していた事とか、今の子どもたちならきっと『となりのトトロ』や『崖の上のポニョ』の曲で幼稚園のお遊戯や運動会の体操を披露しているみたいに、小学校の運動会で『帰ってきたウルトラマン』のテーマに合わせて踊った事くらいだ。

 

 1980年代はウルトラシリーズ仮面ライダーシリーズのTV放送が一区切りを迎えた時期でもある。自分はその頃の子どもで、身近な特撮作品と言えばむしろウルトラマンよりも戦隊ヒーローと宇宙刑事シリーズだった。ウルトラシリーズは主に再放送で触れたクチで、それでも幼心に強烈な印象を残したエピソードをいくつも思い出せる。

 

 また、『小学館入門百科シリーズ』という本があって、そのウルトラ兄弟編とウルトラ怪獣編が凄く好きだった。だから自分の記憶は再放送の記憶と、本から得た記憶がごちゃまぜになっていて、どれがオフィシャルな設定なのかを区別しないまま憶えてしまっている部分がある。自分にとって「決して詳しいとは言えないけれど、特別な思い入れのある存在」ウルトラマンなんじゃないかと思う。

 

 

 

 そんなかつての子どもも、今や中年男性だ。

 

 中年男性になった自分が『シン・ウルトラマン』を観て感じたのは、懐かしさと、その懐かしい記憶を裏切る様な新しさと、忘れていた大切な記憶だったんじゃないかという気がする。

 

 まず、懐かしさについて。

 シン・ウルトラマンは令和のウルトラマンだけれど、そこには『自分が知っているウルトラマンがいる。胸にカラータイマーは無くても、かつて自分が見たウルトラマンは消える事無くそこにいてくれて、『久し振りに親友と再会した』かの様な安心感がある。

 

 ベーターカプセルを使っての変身。スペシウム光線発射のポーズ。八つ裂き光輪。効果音や劇伴。昔見た、昔聴いた、ウルトラマン。それは何だか、昔のヒット曲をちゃんとライブで歌ってくれるバンドみたいな心地良さがある。逆に「自分たちはいつまでも過去なんか振り返らないんだぜ」的な攻めの姿勢を良しとする人もいて、それは好みの問題だけれど、昔のヒットナンバーを恥ずかしがらずに「やっぱりみんなコレが聴きたいんだろうから」って演奏してくれるバンドが自分は割と好きだ。アンコールの時でもいいからさ。

 

 次に新しさについて。

 『みんな、ウルトラマンってもう知ってるでしょう?』っていう共通認識を、元のイメージを壊さない程度に揺さぶる力。それがシン・ウルトラマンにはある。思えば『新世紀エヴァンゲリオン』の新劇場版にもそういう所があった。

 1回観ているストーリーを再構成しつつ、ここぞという所で新しいエッセンスを入れ込んでくる。『予想は裏切る。でも期待は裏切らない』っていう絶妙なバランス。例えばゼットンのくだりとか。ああいう風にゼットンを再定義するのかっていう驚きがある。

 

 「ウルトラマンゼットンに負ける」っていうのは、当時だから衝撃的だった訳だけれど、今、自分たちはもうその事を知っている訳だよね。ゼットンが出てくる以上、ウルトラマンは一度は負けるんだって。そこで、そのエピソードの大筋は変えずに、ゼットンが持つ意味を入れ替えてきた。しかも、元々のゼットンが持つ悪魔的な強さのイメージはもっと強力にして。

 

 小さい頃の思い出だけで書いているから記憶違いもあると思うのだけれど、ゼットンの怖さって単純な『強さ』だけではなくて、「全く意思疎通ができなさそうな所(というか意思そのものを感じない所)」とか、「激しく動き回るでもないのにウルトラマンが太刀打ちできない所」にあると思っている。

 

 普通の怪獣(禍威獣)って『吠える』んだよね。咆哮する。獣みたいに。

 でもゼットンってあの不思議な電子音みたいな『ピロピロピロピロ』っていう音(どういう擬音で書いたらいいか不明)で鳴く。 あれって全く意思を感じない。だから怖い。普通の怪獣みたいに、「ああ今は怒ってるんだろうな」とか「痛かったのかな」みたいな推測ができない。内心を理解しようとか、行動原理を推察しようという行為を拒絶する。人間が現実に慣れ親しんでいる『咆哮する獣』の枠に入らないから。

 

 意味不明というか、意思不明で、確固とした暴力だけがある。そういう理解不能なものが醸し出す怖さゼットンにはある。

 

 それが、天体制圧用最終兵器だったんだっていう。しかもゾフィー(本作ではゾーフィ)が人類に対してそれを使うんだっていうショックが一体になっている。(5/21追記・これは自分の知識不足で、ゾーフィは元ネタがあってゾーフィだったんですね。ゾフィーにあらず、という。でも相当詳しくないとわかんないよこんなのって思いつつ、ちょっと笑っちゃいました)

 

 そういう新しさ。予想を裏切りつつ期待を裏切らない部分が良い。

 

 最後に、忘れていた大切な記憶について。

 

 正直、自分は子どもの頃たまに思っていた。ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」って。本作にもそういう場面はある。

 

 確かにウルトラシリーズには『人間が怪獣を倒す』とか『怪獣を倒すだけが解決じゃない』というエピソードもあると思う。科特隊に代表される様な組織も毎回頑張って戦う。でも大抵の場合、怪獣を倒すのはウルトラマンだ。だったらもう、ウルトラマンだけが戦えばいいんじゃないか、人間はただウルトラマンに守ってもらったらいいんじゃないか。怪獣が出たら「助けてウルトラマン!」って叫んでいればいいんじゃないかって。困った時の神頼み。「神様助けて!」って言うのと何も変わらない。

 

 でも、ウルトラマンは何で人間の為に戦ってくれるんだろう。

 

 子どもの頃に読んだ本には、『ウルトラの国には宇宙警備隊という組織があって、ウルトラ兄弟たちはそこに所属しているんだ』という風に書かれていた。だったら話は簡単だ。ウルトラマンが怪獣と戦ってくれるのは、宇宙の平和を守るという『任務』の為だ。宇宙刑事みたいなものだ。大人になった自分からすれば、言ってみればそれは『仕事』だ。

 

 でも、本当にそれだけなんだろうか。

 

 『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンが戦う理由はもっと本質的な所にある。ただ任務だから怪獣と戦ってくれる訳じゃないし、人間が愚かな振る舞いをすれば、彼はきっと人類を見捨てるだろう。むしろその手で滅ぼそうとするかもしれない。

 

 ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する』という言葉の重さはそこにある。人類は期待されている。だったら自分たちはそれに応えなきゃならない。人間はウルトラマンの期待を裏切ってはならない。ただ神≒ウルトラマンに助けを求めて何の努力もしない様な、怠惰で無気力で希望も持たない存在なんかじゃないっていう事を証明しなければならない。証明し続けなければならない。

 

 ウルトラマンに価値を認めてもらう事で助けを乞うためじゃなく、自分自身のために。

 

 『そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン

 

 この台詞を聞いた時、自分はこの言葉は全部、大人になった今の自分に跳ね返ってくるものなんじゃないかと思った。

 小さい頃の自分は――誤解を恐れずに言えば『自分たち』は、時には「ウルトラマンが怪獣をやっつけてくれるなら、人間は戦わなくてもいいんじゃないか」なんて事も考えていたかもしれないけれど、その一方でウルトラマンになりたい」なんていう無邪気さを持ってはいなかっただろうか?

 

 自分の幼稚園の卒園アルバムには、そんな事を書いている子がまだいたと思う。それは単純に『強く大きな存在への憧れ』みたいな幼さだったのかもしれない。でも、ウルトラマンになって怪獣と戦うっていうのは、本来怖い事だし、痛い事だ。大変な事だし、辛い事だ。逃げられないし、孤独でもある。それでもウルトラマンになりたいって思う気持ちを、自分達はいつ、どこで捨てて来たんだろう。それとも単に、そこまで考えが及ばなかっただけなんだろうか?

 

 でも、ウルトラマンだけじゃない。自分たちは言ってみれば『正義の味方』になりたかったんだ。人生のある時期には、確かに。そのために強くなりたかったんだ。でも大人になった自分は、無力な自分の代わりに誰かが戦ってくれるというのなら、願ったり叶ったりじゃないかって考えている。自分は隅っこの方で、そんな誰かの応援だけしていればいい。いいや、邪魔にならないようにさえしていればいい。息を殺して、存在を消して。

 

 「『誰か』が怪獣を――自分にとって『良くないもの』をやっつけてくれるなら、自分は戦わなくてもいいんじゃないか」って思う事が普通になった。

 

 面倒な事は誰かに押し付けてしまえばいい。

 自分の仕事は、自分の身の回りの暮らしを何とか維持する事だけだ。それ以上の責任は重過ぎて背負えないし、背負いたくもない。大丈夫、『誰か』が戦ってくれるよ。自分より強くて、自分より正義感があって、自分よりももっと適任な『誰か』が。

 

 『そんなに人間が嫌いになったのか、自分は』

 

 言ってみれば、自分はもう正義が何なのか分からない。果たすべき責任も分からない。自分にその能力があるなんて信じる事すら止めてしまった。現実を振り返ればそこには戦争なんていう冗談じゃない事まで現在進行系で存在している。自分の事しか考えていない連中――自分も含めて――が勝手な事を言い合って、誰かを傷付け誰かから奪う。それでも『仕方ない』んだ。仕方ないって思わなけりゃやって行けない事がこの世には多過ぎる。この世界に神はいない。ウルトラマンもいない。助けてって叫んだら聞いてくれる様な『誰か』なんてここにはいない。

 

 でも、そうやってウルトラマンを裏切った』のは、きっと自分の方が先だったんじゃないかって、今は思う。信じれば彼は今もそこにいたかもしれないのに。

 

 人間の可能性を信じなかった。自分の可能性も信じなかった。実現が難しい事だったとしても『目指すべき正しさ』というものがあって、そこに向かって歩いて行かなけりゃならないんだっていう道からそれてしまった。結果として期待を裏切ってしまった。

 

 本当は、もっと愚直に信じなきゃならなかったかもしれないのに。子どもの頃の様に。人間には、自分には価値があって、果たすべき責任もまたそこにあるんだっていう事を。

 

 ウルトラマンが人間を助けてくれるのは、『人類のすべてに期待する』という彼の言葉を自分たちが裏切らなかった時だけなんだと思う。自分たちは、今ここにいる自分は、その期待に応えようとするだけの意思をまだ失っていないと示す事。

 

 能力の有無じゃない。自己責任なんていう突き放した話でもない。ただそこに意思があるのかどうか。震えながらでも、見上げた『光』を追いかける心を持てるかどうか。それは困難な事ではあるかもしれないけれど、難しい事じゃない。難しい言葉を並べなけりゃ言い表せない事じゃない。

 『ウルトラマンになりたかった』っていう、幼い頃の気持ちを、もう一度思い出して、この手で拾えるかっていう事。そして今、自分はそれを望むのかっていう事でもある。

 

 それが、忘れていた大切な記憶。なんていう事はない。小さい頃に、誰もが一度は願う事。その思い出の話であり、自分自身の来し方の話であり、これから先の、未来の話だ。

 

 そういうものを、思い出させてもらった気がする。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、子どもの頃に見たヒーローに再会するっていうのは、きっとそういう事だ。まるで久し振りに親友と会った時に、自分は彼に恥じない自分だっただろうかって、ふと考えるみたいに。

 

 その機会が今で良かった。自分は今、そんな風に考えている。