老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

他ならぬ自分自身に向けられた刃として・平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』を読む

 

 

 『ソ連兵へ差し出された娘たち』という言葉が持つ重み。それは自分の胸を強く叩く。そして自分もまた加害者なのではないかという疑念を強く抱かせる。

 

 このドキュメンタリーは言ってみれば『告発』なのだと思う。平井氏の取材に応じた当事者の方々はあくまでも『告白』のつもりだったのかもしれないけれど、結果としてその内容は告発の色を帯びている。そしてその告発の対象には、きっと読者である自分自身も含まれている。

 

 時代は太平洋戦争における大日本帝国の敗戦後だ。

 大日本帝国は当時、満州開拓団(満蒙開拓団)として多数の国民を移住させていた。『開拓団』と言ってはいるものの、当時の日本人は原野を切り開く様な文字通りの開拓を行った訳ではなかった。満州拓殖公社が満人と呼ばれた現地の人々から土地建物を強制的に買い上げたのだ。買い上げたと言えば聞こえは良いが、その対価は十分なものとは言えなかったし、満人の移住は強制的に行われた。有り体に言えば、大日本帝国は国策として、満州で暮らしていた人々から家や農地を奪った。

 

 その大日本帝国が敗戦を迎えた時、今度は開拓団が奪われる側になる事は自明だった。

 

 1945年8月にソ連軍が満州に侵攻を開始すると、開拓移民を守るべき関東軍は彼等を置き去りにして逃亡した。この逃亡に関しては諸説あるが、結果として軍という後ろ盾を失った開拓団は暴徒化した満人の襲撃に遭う事になる。集団自決を選ぶ団も出る中、本著で取り上げられた黒川開拓団は侵攻してきたソ連兵による庇護を求めた。

 

 ソ連兵によって暴徒化した満人が退けられると、次に問題になったのは当のソ連兵による略奪と強姦だった。そしてその下級兵士による無秩序な襲撃を止めさせるために選ばれた手段は、開拓団の中から十数名の女性を選んで将校への性接待役として差し出すというものだった。

 

 本著の中で繰り返し登場する『接待』という言葉。接待役だった女性たちの生々しい告白。団員の中から接待役を選んでソ連兵に差し出すという開拓団上層部の決定と、日本に引き揚げてきた後も続いた接待役の女性への差別。それら全ては、とても酷いものだ。自分の言葉では言い表す事ができない。ぜひ本著を読んでもらいたいと思う。

 

 ただ、その上で考えておかなければならないのは、その『酷さ』を、自分とは無関係のものだと考えた上で読むのなら、きっとそれは読者の心には響かないだろうという事だ。

 

 黒川開拓団で起きた事は、確かに酷い事だった。

 特定の女性を選び出して性接待を行わせるという決定は非道だったし、その役目を負わされた女性がその後も差別を受け続けた事には憤りを覚える。でもそれを、当時開拓団の中で指導的な立場にいた人々に対する怒りや、彼等の子孫、遺族会に対する直接的な批判といった形で表明する事に、どれだけ意味があるだろう。

 

 本著の刊行に際して、黒川分村遺族会満蒙開拓平和記念館が声明を出しているので、そのリンクを以下に記しておきたい。

 

www.manmoukinenkan.com

 

 自分は思う。本著を読んで、過去の黒川開拓団の過ちを直接的に批判したくなるのは確かだ。ただ、そもそも過去の戦争それ自体が、日本人が『加害者であり、被害者でもある』という面を持っていた事を忘れるべきではない。

 自分達は大日本帝国が行った侵略戦争の反省に立ち、平和憲法を有する日本として再出発する道を選んだ。ただ、戦後教育の中で広島、長崎に対する原爆投下といった犠牲の痛ましさが強調され、それが『反戦』つまり戦争そのものを憎み忌避する国民感情を醸成した一方、自分達が確かに加害側だったという意識は十分育たなかったのだと言えはしないだろうか。

 

 過去の戦争における日本人の加害性。

 現在の日本に生きる自分達の加害性。

 それを見ない様にして、目をそらしながら生きている自分に対する意識。

 

 それは言い換えれば、黒川開拓団で起きた事を無条件に批判できるほど、自分達は加害性を捨てて、より良い戦後社会を作れたのだろうか、自分は彼等を批判できる立場なのだろうかという事だ。もっと簡単に言えば、自分は他者を批判できるほど上等な人間なのかという事でもある。

 

 かつて黒川開拓団で接待役に選ばれた女性達は、団の中でも立場が弱い人々だった。人の生死がかかった極限状態の中では、往々にして常日頃から弱い立場に置かれている人々や、元々集団の中で差別されている人々から順番に犠牲を強いられて行く。そしてそれは今も同じだ。

 

 自分は社会福祉法人で重度知的障がい者に対する福祉サービスにかかわる仕事をしている。だからこそ思うが、今何か非常事態が起きて、社会の中で誰かが犠牲にならなければならくなったとして、それは今自分の目の前にいる人達からだろう。そういう『順番』が、何となく仕方ないものとしてこの社会の中で共有されている気がしてならない。

 

 それは本当に『仕方ない』のか。

 

 かつて第一次世界大戦における敗戦国となったドイツでは、多額の賠償金が財政を圧迫した。結果として『生産性がない人間を養護しておく余裕はない』という、近年日本でも広がりつつある価値観が生まれた。その『生産性がない人間』とは主に障がい者の事であり、やがて彼等を安楽死させる事を正当化するナチスの『T4作戦』へと繋がって行く。自分はその事にも以前触れた。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 つまり、ナチスが出て来てから酷い事が始まった訳ではない。

 

 国が貧しくなり、自分達の生活が苦しくなる中で、お荷物として養護されている障がい者を捨ててしまいたいという民衆の暗い欲求が先にあって、ナチスは後からやって来た。ナチスを育て、障がい者安楽死を事実上容認したのは、世界史に名前が残らない様な一般的な国民――自分達一人ひとりが持つ差別意識だった。

 

 自分は、本著が『告発』しているのは過去の大日本帝国や黒川開拓団の人々の行いだけではないのだろうと思う。今自分が誰かに対して無意識に抱いている差別感情が、有事には表面化するのだという事が繰り返し指摘されているのであって、告発されているのはむしろ今この本を読んでいる自分自身なのだ。

 

 一番避けなければならないのは、その自分の中にある差別意識や加害性に、自分自身が気付かないままでいる事だ。そして、自分以外の人々が、常日頃からどんな差別感情を持ち、それを心の中で育てているのかを知る必要がある。なぜならそれに気付かないままでいれば、いつか戦争の様な過酷な情況に置かれた時に、自分は今持っている差別感情によって誰かに性接待の様な役目を押し付ける側になるだろうし、逆に周囲の人々の差別意識によって酷い境遇に追いやられる事にもなるからだ。

 

 戦争が悪かった、時代が悪かったという認識は、罪の意識を薄める。

 

 そして罪の意識が薄まれば、自分達はまたいつか同じ事を繰り返す。

 悪かったのは、そして今悪いのは自分だ。そう言えなければならない。その為に知らなければならない事が、この本の中には書かれている。そんな気がする。