老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

cakesのホームレス記事は何が間違っているのか①

 元記事を拡散したくないのでリンクは貼りません。

 

 最初に注意点を書きます。

 自分は普段、誰かの意見を『間違っている』とはっきり言い切るのはなるべく避ける様にしています。相手の意見にも正しい側面はあるし、自分の意見が間違っている事もあるからです。ただ今回は、その前提条件を踏まえた上で表題にはっきりと『間違っている』と書く事にしました。理由は後で述べます。

 

 もう一点として、問題になっている元記事を書いた方を個人攻撃する意図はありません。今回問題になっているのは、記事を書いた方の資質の問題ではなく、自分達が共有している『人権意識の低さ』の問題だと考えているからです。そしてこれは個人が書いた記事の内容を批判すれば解決できるという問題ではありません。

 

 さて、記事を書いたのは『夫婦でホームレスの人たちを取材している』方です。その方はホームレスの方々が住処も含めて様々なものを自作するなど、工夫を凝らして生活している事に『魅力』を感じ、支援のボランティア等も行いながら『取材』を行い、記事を書いています。

 

執筆者はcakesクリエイターコンテストで優秀賞を受賞し、該当記事はこれからcakesで『”作る”ホームレスたち』というタイトルで連載されるシリーズの第1回目でした。同じ方はnoteでもルポとして数々のホームレス関連記事を書いています。

 

 まず、自分が『間違っている』と思うのは『ホームレスの方々が持っている魅力を発信する』というスタンスなのですが、その原因は執筆者の『無邪気さ』です。以下引用します。

 

毎日決まった時間に起きて、朝食をとり、準備をして、仕事に出勤、帰って来たら夕食を食べ、お風呂に入って寝る、というルーティーンのなかにももちろんそれなりの幸せは感じている。

しかし、ときどきそんな自分とは違う生きかたを覗きに行きたい気持ちが生まれる。

 

私たち夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人たちを3年間も継続して取材し続けていられるのは、おじさんたちの生活を見て感じた異世界性が大きい要素なのだ。

 

とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている。

そのうえで、おじさんたちの日々からみえてくる様々な工夫や生活の知恵を追いかけたい。それは、私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある。

 

  あえて意地悪な言い方をします。つまり興味本位なんですよね。

 

 興味本位が悪いのかと言えば、取材対象に興味を持って調べるというのは基本であって、それ単体で悪いとは言えないかもしれません。でも「興味本位でホームレスの生活を覗きに行ったら、思いのほか興味深かったので皆さんにもお伝えしますね」というスタンスは、社会問題に触れる記事として無邪気過ぎる気がします。

 

 更に、noteに書かれている記事を追って行くと、『ホームレスと現代アート』『ホームレス人生ゲームの制作』などという記事が目に付くのですが、「ホームレスの方々を取材して、彼等から聞き取った内容をマスに記載した人生ゲームを作ろう」というのは、人権意識の低さが如実に現れていると思います。

 

 もっと言えば、『ホームレスのおじさんから豊かさを考える』という記事の中では、「ホームレス生活はストレスがない」「ホームレスは意外とお金に困っていない」「ホームレスはゆとりのある時間の中で生活している」かの様な内容が続きます。そしてホームレスの方々が持っている『何とかして生きていくエネルギー』が自分達とは違う『豊かさ』であるかの様に語られるのです。まるで、『ホームレスの方々(の一部)は好きでホームレス生活をしているのだ。ホームレス生活とはライフスタイルだ』とでも言うかの様な内容ですが、本当にそうでしょうか?

 

 こう書くと、『「ホームレスは大変」「ホームレスは苦労している」「ホームレスは助けを必要としている」という形でしか彼等の情報を発信できないのは逆に差別的ではないか』『実際好きでホームレスでいる人もいるだろう』という話も出てきます。ですが『差別感情を持たない事』と『ホームレス生活に魅力を見出す事』は同じですか? 自分は違うと思います。

 

 例として言うと、自分は障害者支援施設で働いています。

 

 『ホームレス』を『重度知的障がい者』に置き換えて考える時、彼等を差別しない事と、知的障がい者の暮らしをただ魅力的に紹介する事はイコールで結べると思いますか?

 

 知的障がい者は障害基礎年金や介護給付費の支給を受けています。施設に入所できていれば、裕福ではないものの身の回りの事や食事で困る事はありません。自由な外出ができる訳ではありませんが、余暇も楽しんでいます。大変な事もありますが、みんな笑顔で暮らせています。でも自分達は、そこに『魅力』を見出したりはしません。自分の生活と横に並べて比較したりする事もありません。確かに生活が保証され、年金も貰え、仕事をしなくても生きて行ける暮らしです。集団生活の中のトラブル以外にはストレスも少ないでしょう。食事と、余暇と、軽作業で一日が終わります。穏やかな暮らしですが、この生活を魅力的な暮らしとして発信して良いと思いますか?

 

 自分達、施設職員はそういう事をしません。業務上の守秘義務以前に人権意識があり、『けじめ』があります。

 

 自分達は職員として、常に人権意識を高く持ってご利用者に接する事を求められます。人権意識の低下は即座に『虐待』という重大事故に繋がるからです。だから自分達は、興味本位の取材者とは違って、常に人権という言葉を頭の片隅に置くとともに『絶対に踏み越えてはならないライン』を設定しています。

 

 自分達は、差別や虐待について自己チェックと相互チェックをしながら日々働いています。ご利用者と仲良く話す事はあります。一緒に余暇や行事を過ごして笑ったりする事もあります。でも自分達は『職員』であって彼等の『お友達』ではありません。

 

 頼りにされる事はあります。冗談を言い合う事もあります。信頼関係もあります。でも、『職員』と『お友達』は違います。そこに明確なラインを引いている事、『絶対に踏み越えてはならないライン』を設定し、『けじめ』を付けて馴れ合わない事で、自分達は『無邪気な人権侵害』が起こらない様にしています。逆に、ここまで緊張感のある関係を維持する事を常に意識していないと、『無邪気な人権侵害』は防げないんですよ。

 

 問題の記事を書いた方は、ボランティア活動などを通じて、ホームレスの方々と個人的な信頼関係を築いたのだと思います。信頼関係があるから、皆さんは取材を受けてくれたのだと思います。そうした人達の暮らしぶりを「クラスの面白い同級生を紹介する」様なノリで伝えたり、人生ゲームに落とし込んだりするのは『友達感覚』だからできるんだろうと思います。でも、ホームレス生活をしている人と取材者が友達感覚で付き合って、彼等の暮らしを面白コンテンツとして無邪気に発信した結果がこの人権侵害です。

 

「やっぱりホームレスはあの暮らしが好きでやってるんだな。楽しそうじゃん」

 

 記事を読んで、こう勘違いした人が増える事が、何とかホームレス生活から抜け出したいと思っている人にとってどんな意味を持つと思いますか?

 この友達感覚の無邪気さがあの記事の間違いです。差別しない事、平等に扱う事は対象を友達扱いする事ではありません。『差別しない事』と『友達になる事』を履き違えてはならないのです。絶対に。だから自分は今回『間違っている』と言い切るのです。

 

 ではなぜ自分達は、時にこうした間違いを犯してしまうのでしょうか?

 

 それは自分達の人権意識が低いからなのですが、ではなぜ自分達の人権意識が低いのかと言えば、それは『他者の人権』以前に『自分の人権』というものを知らないからです。自分の中に、自分自身の人権についての意識がないから、「相手も自分と同じ様に人権を持っている」「お互いの人権を侵害しない事が大事なんだ」という意識が共有出来ないんですね。

 

 ではなぜ、自分達の人権意識は低いままなのか。

 自分はそれを『日本の教育の失敗』だと思っています。失敗というよりも、人権について学習する機会を与えて来なかったという事かもしれませんが、明日以降、その問題点についてまとめてみたいと思います。