老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

小山田圭吾氏の『障がい者いじめ』問題と、これからの障がい者の自立支援について

 

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  先日、こんな記事を書いたばかりですが、今度は東京オリンピックの開会式に作曲担当として参加しているミュージシャンの小山田圭吾氏が、過去に雑誌のインタビューで障がい者をいじめていた』事を告白していた事が報じられ、その内容からいじめに対する反省や謝罪の意志が読み取れなかった事から炎上、その後Cornelius名義の公式Twitterアカウントで謝罪という事になったそうですね。

 

 

 

 この『いじめ』という言葉は厄介で、「たとえ善悪の分別がない未熟な子どもがした事だとしても、その悪質さを考えれば『傷害罪』『殺人未遂』等の、もっと重い言葉で伝えるべきだ」という意見もあります。いじめ以外にも「セクハラじゃなくて性的暴行だろ」とか、繰り返し語られたりもします。自分もどうするべきか悩みましたが、ここではあえて『いじめ』と呼ぶ事にします。

 

 小山田氏の『いじめ』は、障がい者だけではなく、朝鮮学校から転校してきたクラスメイトに対する『いじり』(というか嘲笑)もあった様で、それだって相手からしたらいじめの一種だったかもしれないと思う訳です。その詳細を記した記事を読んだのですが、正直暗い気持ちになりました。

 

 

koritsumuen.hatenablog.com

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  今現在、小山田氏本人が、自分の過去のいじめ行為を反省しているのかどうか。それはTwitter上の謝罪文を読んだだけでは分かりません。今回炎上したから急いで形だけ謝ったのか、それとも過去の雑誌インタビューの時点では笑い話として語ってしまった自身のいじめ行為を、今は心から申し訳ないと思っているのか。そんな事は直接彼を知る人でなければ判断ができないでしょう。

 また、オリンピック・パラリンピックに関わる人として、こうした経歴を持っている人物を起用する事が容認されるのかどうか。それもまた、彼に仕事を依頼した責任者の判断です。

 

 自分は彼の仕事や音楽については全く知りません。Corneliusの音楽をちゃんと聴いた事がないし、問題の雑誌インタビューが載った90年代のサブカルチャーや音楽シーンに詳しい訳でもない。だから彼が今オリンピック開会式に使用される楽曲に関わる事が許されるべきかという判断はできない気がしますし、「90年代のサブカルには、ああいういじめを武勇伝やエンタメの様に語ってしまう空気があったよね(だから仕方がない事だよね)」という様な雑な振り返り方もできないと思います。

 

 確かなのは、きっと当時いじめられた側の人達は、何十年経っても自分がされた事を忘れる事はないだろうという事です。自分をいじめた相手を許すとか、許さないとかいう以前の問題として。大便を食べさせられるとか、自慰を強制される様ないじめを忘れるのは無理だと思います。

 

 その上で今、社会福祉法人障がい者福祉の仕事をしている自分から見て、この件で何か言うべき事があるだろうかと考えました。

 

 真っ先に思い付くのは、小山田氏のいじめ行為を非難する事です。

 

 養護学校に通うダウン症の人達の顔付きを見て笑いものにしたり、跳び箱の中に閉じ込めたり、障がい故の行動を観察して面白がったり、下半身を露出させて校内を歩かせたり、そういったいじめ行為をする事はもちろん、大人になってから雑誌のインタビューで当時の事を笑って語れる様な神経、また周囲も同じ様に笑ってそれを聞き、雑誌記事にしてしまえる様な神経は、非難されて当然だと思います。

 

 でも一方で、自分自身の過去を振り返った時、そういったいじめ行為を積極的に行う事はなかったとしても、例えば誰かが同じ様ないじめをしているのを『横で見ていたけれど止める事ができなかった』という事を思い出したりもする訳です。学校でも、職場でも。いじめって何も未熟な子ども時代にだけある問題じゃないから。

 

 そういう自分が、自分自身の至らなさを棚上げして小山田氏を批判しても良いのかという事を考える時、ただ彼を非難してこの問題を終わらせてしまう事に何の意味があるのかと疑問に思うのです。そんな事は、自分がやらなくても既に多くの人達がやっているし、今から自分がその環の中に入らなくてもいいんじゃないかと思います。それは結局、自分自身が溜飲を下げる事にしか役立たないでしょう。

 

 誰かを非難するなら、それは自己反省とセットであって欲しい。

 少なくとも自分自身は、そうしようと思います。

 

 その上で、福祉の仕事をしている自分がこの問題を考える上で付け加えるべき事は、障がい者の人権』障がい者の地域移行』についての問題だろうと思います。簡単に言えば、自分達の社会は障がい者、特に知的障がい者を地域の一員として受け入れ、共に暮らして行くつもりが本当にあるのだろうかという事です。

 

 自分の勤務先は、障害者支援施設です。そこでは施設入所支援という福祉サービスを提供しています。詳しくない方にも伝わる様に言い換えるなら、老人ホームの様に入所者が施設の中でずっと暮らして行くタイプの福祉サービスです。

 

 施設入所支援を利用する障がい者は、同じ知的障がい者の中でも重度の方々です。

 障がい福祉サービスを利用するには障害支援区分という等級を市町村に認定してもらう必要があるのですが、区分1から区分6まである障害支援区分の中で、5や6といった最重度の区分に相当する方々が施設で暮らす事になります。

 

 彼等の多くは親元で家族と一緒に暮らし続ける事が困難です。

 自分が知る中で、彼等が具体的にどんな方々かという事は守秘義務上書けないのですが、一般論として書くならば、言葉による意思疎通が困難だったり、感情のコントロールが難しく自傷や他害の傾向があったり、自発的に食事や排泄ができなかったり、異食(本来食べられないものを口にしてしまう事)があったりと、24時間の見守りが必要な方々です。そうした方々の入所生活には、もちろん本人の意志や家族の同意が必要ですが、仮に同意があったとしても、それは広義での『人権の制限』にあたるとも言えます。それがどれだけ本人にとって必要な事だとしても。

 

 たとえば勝手に施設から外出する事はできません。他にも食事の時間、日中活動のスケジュール、入浴や排泄、就寝や起床の時間は施設が管理する事になります。お金の使い方も本人に任せてしまうと自己管理ができずに全て使い果たしてしまう等の問題がある為、金銭管理も細かく行います。

 

 それは必要な事ですが、彼等が本来(健常者であれば)自由に行使できる権利を一部制限しているという事でもあります。ですから現在、政府は『障がい者の自立』を目指す方向に進んでいます。具体的には施設入所者の中で、施設を出て地域の中で暮らせる見込みがある人達を、積極的に『地域移行』させて行こうと試みています。

 

 グループホームという言葉を聞いた事があるでしょうか?

 

 認知症の高齢者や、知的障がい者が数名で共同生活をする小規模施設の事です。世話係の職員がいるシェアハウスを想像すると良いかもしれません。

 世話人などと呼ばれる職員はいますが、日中のみの勤務で夜間は世話人が不在なグループホームもあり、入所施設に比べると行動の自由度も高くなります。グループホームで暮らす方々は、そこから日中活動系のサービスを提供する施設に通ったり、就職して通勤したりします。地域の人とのつながりもでき、交流しながら自立生活をする事になります。

 

 これは政府が推進する方向性です。よりご利用者の権利(人権)に対する制約が少なく、彼等が自立して暮らせる場所を増やして行きたい。でもどうでしょう。

 

 自分達には、彼等障がい者を地域の中で受け入れるつもりがありますか?

 

 今回のいじめ問題のように、障がい者を笑い者にしたり、痛めつけて面白がったりする気持ちが自分達の中にあるのだとしたら、政府=国がどんなに旗振り役をしたとしても、障がい者の地域移行や自立など夢のまた夢です。逆にそんな事はしない方がいい。地域の中で受け入れてもらえる事を信じて送り出した人が、心ない健常者にいじめられ傷付けられ、忘れられないダメージを負わされるのだとしたら、最初から地域移行になんて挑戦しない方がましです。

 

 ただでさえ、既に長年施設入所で暮らして来た方が地域移行に挑戦するのはハードルが高く、成功率が低いのが現状です。生活環境や、一緒に暮らす人達が変わる事で感情のコントロールが出来ずに他害等の問題を起こしたり、人間関係のトラブルが解決できずに入所施設に出戻りしなければならなくなったりと、失敗した地域移行の話をよく耳にします。

 

 でも地域移行の失敗は、障がい者本人だけの問題なんでしょうか?

 

 確かに入所施設で暮らす様な重度知的障がい者は、地域の中で自立して暮らす上での様々な問題を抱えています。彼等は自分達健常者がそうである様に無垢ではないし、悪意はないかもしれないけれど法を犯す事もあります。窃盗や暴行といった触法行為を繰り返してしまう人もいます。知的障がい者と接するという事は、健常者側からの善意の押し付けでカタがつく様な簡単な問題ではありません。不快にさせられる事もある。期待を裏切られる事もある。傷付けられる事だってある。それは事実です。

 

 でも一方で、彼等が地域で受け入れられないのは、自分達の心のどこかに、過去にいじめ行為を行っていた頃の小山田氏の様な部分があって、障がい者を気味悪がったり、一緒になんて暮らせない、あんな奴らは仲間じゃないと思ったり、できればどこか自分達の目に触れない所で、地域に出て来ない様に管理されて暮らしていて欲しいと願ったりしているせいなんじゃないか。自分達もまた程度の差はあるにしても小山田氏に近い所に立っているんじゃないか。そんな気もします。

 

 実際、以前にヤフー知恵袋か何かで目にした書き込みには『障がい者が外食をしている所に居合わせると、食事風景が騒がしく、食べ方も汚い。見ていると食欲を無くすので、意味のない外食は止めて施設から出て来ないでくれ』という主旨のものがありました。書き込んだ人は丁寧に『これは差別ではないんですが』と書いていた気がしますが、『それを差別と言うんだよ』という正論を返したところで何になりますか? 障がい者と同じ場所で食事をするなんてごめんだね、という健常者の気持ちを変える事ができますか?

 

 だから自分は思うんですが、自分達が小山田氏の障がい者いじめを批判する時、その批判に使ったエネルギーや怒りの100分の1でいいから、それを自分自身にも向けてみて欲しいと思うんです。それは当然不快です。場合によっては痛い事です。でもそうする事でしか変えて行けない現状というものがあります。そしてそうやって自分達が現状を少しでも変えてくれる事を、彼等障がい者は期待して待ってくれているのだと思います。その歩みがどんなに遅くても。遅々として進まなくても。

 

 いままでもずっと。これから先もきっと。

 

 その気持ちに、自分達は応えられるでしょうか?