老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

森会長の辞任から見えて来る自分達のダメさ加減

 ここ数日、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会森喜朗会長の女性蔑視発言に関連するニュースを見ていて、年が明けても酷い話題が続くなと思っていました。それで、この男女差別を男性である自分の目線から見て何か書くべきかと思っていた矢先に、今度は辞任から川淵三郎氏への後継指名と白紙撤回という報道が立て続けにあり、何かもう全てが『今の自分達のダメさ加減』を煮詰めた様な話だなと思ってげんなりしました。

 

 そう、『自分達のダメさ加減』です。『男社会のダメさ加減』ではなく。

 

 それはある意味ではこの国の『世代間格差』の問題でもあるし、年功序列の悪い部分だけが生き残った』この国で、必然的に発生した問題だとも言えます。

 

 また少し昔話をさせて下さい。

 

 自分は数年前までとある中小の運送会社で事務方として働いていました。

 そこは同族経営「創業者の会長の兄弟が社長」みたいな、地方によくある組織図の会社でしたが、起業からある程度年月が経って経営もそれなりに落ち着き、もう会長、社長は一切実務にかかわらなくても良くなって毎月の役員報酬を貰うだけ。その下の専務がまあまあ同族の中でも一人気を吐いてやってます、という様な有様でした。

 

 同族経営の会社というのは経営陣が縁故で独占されるので、外からやって来た一般社員にとっては「年間一日も出社せずに役員報酬を得ている取締役」だの「一日中ネットを見て時間を潰している役員の隣の席で営業成績を罵倒される一般社員」だのといった地獄が見られる動物園の様な場所でした。檻の中の動物は自分達でしたが。

 

 当然専務は実務一切を仕切っているので、これから自分が継ぐ事になるであろう会社の経営については、会長、社長よりもシビアです。だから営業に行き、新しい仕事を取って来ようと東奔西走していました。ただ、決定権を持っているのは会長、社長ですから、彼等を契約に同意させなければならない訳です。

 

 一方、会長、社長はもう仕事人生のゴールに辿り着いてウイニングランをしている気分ですから、現状維持さえできればリスクを取って新しい仕事に手を出すメリットがないです。結果、専務が取って来た仕事をろくに精査せずに蹴ったり、そうかと思えばいらない設備投資を勝手に決めて来て巨額の損失を出したり、銀行に頼まれて不要な融資を受けてみたり、社外の『~会会長』みたいな名誉職を引き受けて「仕事してる感」をアピールしてみたりとろくな事をしません。

 

 当然、専務は怒りますが、会長にしてみれば『俺の会社』なので、自分が何もかも決めるのは当然であって、定年もないから死ぬまで会長職でいるつもりだと思います。そして次は社長が会長になってまた同じ事をするでしょう。

 

 専務から見れば、古い価値観に凝り固まった会長がいつまでも漬物石の様に頭の上にのっているのは我慢がならず、常に愚痴をこぼしていましたが、そんな彼も部下にとっては『古い考え方でパワハラを仕掛けて来る上司』でした。

 

 若い男性社員は、未婚であればプライベートを楽しみたいし、既婚者であれば育児はもちろん家庭の事もしたい訳です。だからせめて休日は仕事を離れて自身や家庭に注力したい。でも専務の持論は『男は仕事に人生を捧げるもの』『仕事は遊び。休日も仕事の事を常に考えろ』『俺は給料を払ってお前らに経験を積ませ、勉強をさせてやっている』というもので、当然『男性社員の育休』はおろか有給すらもない様な状態でした。だって誰も有給日数の管理なんてしてなかったし。(普通に違法)例えば「子どもの学校行事で会社を休みたい」なんて言えない企業風土を作っていたのは間違いなく専務でした。

 

 ですが、こうした『世代間の価値観の違い』があるのは当然です。

 

 親の世代の考え方が違う。

 自分が親や教師から受けて来た教育が違う。

 社会全体の価値観、男性に求められる役割が違う。

 年齢が違う事で、将来に向けたビジョンや目標が違う。

 

 つまり個人の性格や資質以外にもその人が置かれた状況で価値観は大きく変わって来るんですよね。会長だって起業したばかりの時は脱法だったり違法だったりする手段を使ってでもガツガツと仕事をしていたと聞きました。例えば過積載とか。大きな声では言えませんが。

 

 ただ、こうした個人の価値観の違いや変化、世代間のギャップを、三者が『矯正』するのは無理です。これは実感としてあります。自分自身で、自らの価値観を見直そうとしない限りは。

 

 問題なのは、『古い価値観を持った人が組織のトップであり続ける事』『仕事ができる、能力がある事と、彼の価値観とは関連性が無い事』そして『日本人が年功序列を覆せない事』です。

 

 『古い価値観を持った人が組織のトップであり続ける事』の弊害は、先の例にも挙げた通り『新しい動きをことごとく阻害する事』です。

 

 古い価値観で安定している人は変化を求める必要などないし、新しい事に挑戦する必要もない。だからそれらの変化を『リスク』と判断して全て阻害します。そして『自分自身の成功体験を判断基準にしている事』もこれを助長します。「自分はこれで成功してきた。だから変わる必要なんてない」という事ですね。以前の会社で会長が専務の取って来た仕事を蹴った様に。そして男性社員が家庭の為に休む事を専務が許さなかった様に。これが中小企業なら、その先にあるのは業績の悪化ですし、不当な扱いを受けた社員に辞められる事なので、結果として最悪『会社が潰れる』という事になるのでしょう。ですがこれが国家、政治のレベルになると、『国が潰れる(国際的な信用を失う事も含む)』という悲惨な結末になるし、自分達は会社を辞める様に『日本人である事を辞める』訳には行かない訳ですから、『会社(国)と一緒に共倒れになる』という地獄が待っている訳です。海外に移住するっていうのは誰でも出来る事ではないですしね。

 

 次に『仕事ができる、能力がある事と、彼の価値観とは関連性が無い事』ですが、極論、差別主義者だろうがパワハラ・セクハラ上等のモラルが無い人物だろうが、会社を経営して成功する人はいますし、芸術や芸能分野で結果を出す人もいます。大企業の社長や著名人の言動が差別的だと炎上する事がありますが、彼等はその社会的に許容されない価値観とは全く別の所で『結果』を出していて、それは『評価』を受けている。そしてそうした評価を『実績』として積み重ねて来た人物は、それをもとに社会に対する『影響力』を持つ事になります。簡単に言えば『無視できなくなる』という事です。

 

 そして、現状日本ではそうした人々の持っている『無視できない影響力』がこの国のあり方を決めているといっても過言ではないと思います。それを打ち消そう、変えさせて行こうとするならば、今回の森氏の辞任がそうである様に、無名の個人も含めた様々な人々の反対意見を束ねて行くしかない訳です。だって無名の自分の意見と、森氏の発言が同じ重みで取り扱われる事なんてない訳じゃないですか。かつてブラック企業の社員だった自分が経営者に意見なんてできなかったのと同じ様に。そして仮に意見できたとしてもそんなものは聞き入れられなかった様に。それが良いか悪いかというよりも、事実として。

 

 だから自分達が森氏に対する反対意見を個々に述べて行く事や、それを束ねて行く事を『83歳の老人の発言を言葉狩りの様にあげつらい、過去の業績を全否定し、集団リンチの様に辞任に追い込んだ。彼の名誉を不当に傷付けた』と言われるのであれば、そうした意見を述べる事ができる方は、これまで組織の中で相手の立場が上だというだけで自分の全人格を否定される様な不当な扱いを受けずに済んだ方なのだろうなと思います。それ自体は良い事だし、幸せな事だろうと思いますが。

 

 それから『日本人が年功序列を覆せない事』についてですが、民間レベルでは成果主義というものが導入され、リストラの嵐が吹き荒れ、年功序列なんていうものはすっかり否定された様に思えるかもしれません。でも実際それは民間の、それも一部での話であって、社会的にはまだまだ年功序列的な特権が残っていますよね。主に政治の分野ですが。

 

 今現在、どの様な姿勢で政治に携わっているかではなく、『地盤・看板・鞄』といったものを受け継いだ人物が二世議員、三世議員として権力を世襲して行く。そして派閥の長とされる大物議員が政党内で自分の意見を通して行く。

 

 これ、よく考えるとおかしな話で、国会議員はそれぞれの選挙区で選ばれた国民の代表なのですが、その中にも上下関係が存在し、若手議員は大物とされる年配の議員に意見できない訳ですよね。若手とベテランと、どちらの意見に合理性があるか、今の時代の価値観に即しているかではなく、キャリアや両者の力関係で意思決定がされて行く。

 

 結局、実力主義の荒波に揉まれて苦労しているのは民間の、それも立場が弱い労働者だけで、年功序列で敬われている方々は自分の価値観を時代に即してアップデートする必要も感じないままよろしくやっている訳です。人権意識や、平等意識も低いままで。そしておそらく、政府や地方自治体の一部はこうした人権意識の遅れた人々によって運営されています。

 

 もしも今回の件で、日本人が自分達を代表する様な要職にある方々の行動を正せないのなら、それは彼等の遅れた人権意識がそのまま自分達国民の総意だと思われても仕方がない話です。これが何を表しているかと言うと、冒頭で言った様に『自分達のダメさ加減』なんですよ。

 

 自浄能力がない。間違った事を間違っていると主張できない。権力や地位のある人間に意見できない。「名指しされているのは女性だから自分は関係ない」とか「長いものには巻かれろの精神で生きてた方が楽だから」みたいな事なかれ主義が、こんなダメな社会をダメな状態のまま温存して来てしまった。それで結果誰が苦しんでいるのかといえば、女性だけじゃなく国民全体が苦しんでいるし、今回の様に非難された時に『何が問題にされているのか全く理解できない』様な人々を大量生産してしまった訳です。何が問題にされているのか全く理解できないから、問題の当事者である森氏が後継者を指名して、しかもそれが川淵氏であるという間違いも起きる。それは森氏や川淵氏や他の委員の問題だけではなくて、彼等に間違っていると強く言えない自分達の問題なんですよね。

 

 最後に、こうして本来『女性蔑視』の問題であったものを、男性も含めた日本人全体の問題の様に言い換える事自体、本来は問題なのかもしれないという事は述べておきます。

 それは『Black Lives Matter』を『All Lives Matter』と言い換えてはならないという話とも少し重なるかと思いますが、自分が今回、あえてそれに近い事を書いているのは、結局こうしないと世の男性はこの問題を我が事としてとらえられないんじゃないかと思ったからです。

 

 近年『フェミニズム』という言葉に嫌悪感を覚える男性が増えた気がしています。(自分の気のせいであれば良いのですが)

 それは、今までの男性のあり方に対する強い批判を、どうしても『自分自身への批判』として受け止めてしまうからだと思います。自分自身、男性や男性社会に対する批判を強く向けられるのは痛い部分もあります。

 

 ただ、実際問題として、今回の森氏の発言の様な『既におおよそ決定している内容について意見されたくない』(『わきまえない』意見によって会議が長引くのが『恥』だというのはつまりそういう事だと自分は認識しています)という上からの押し付けや、意見する機会もなく密室で決まった方針に振り回される下々の苦労というのは、男性だって苦しめられてきた問題だろうと思うのです。企業で言えば経営者の様な『上の立場』の人間が勝手に決めて来た事を、現場が苦労して実現する事(そしてできなければ責任を取らされる事)はむしろ男性にとって日常茶飯事ではないでしょうか? そして、それについて反発する事も、意見する事も認められない事が普通だった。発言権なんて存在しなかった。

 

 そういう捉え方をすれば、今回の森氏の発言の直接の標的にされた女性達の反発が、何となくでも分かるのではないか、共感できるのではないかと思い、あえてこの様な書き方をしてみました。上でも少し書きましたが、会社は辞める事ができます。(自分も辞めました)でも、女性は女性である事を辞められない訳ですから。(男性が男性である事を辞められないのと同じ様に)

 

 こうした古い価値観を前に、今を生きている自分達がより良い社会を目指すならば、やはり議論は避けられないと思います。その議論の為の前提として意見を述べる事を拒否する、或いは意見される事を拒絶するというのは、単に失言ではなく組織の長としてふさわしくないし、そうした人物に意見できない自分達のダメさ加減、社会全体の風通しの悪さもまた是正されなくてはならない。自分は今回、その様に考えました。皆さんは、いかがですか?