老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

あなたも『執着』を捨てて強キャラになろう! 『当たり判定』と仏教

 SNS上でも実際のやりとりでも思う事なんですが、最近『当たり判定』が大きい人が増えたなって感じるんです。いきなり何の話かって言うと、また最終的には仏教の話になるんですけど。

 

 これだけだと「こいつまた何かおかしな事を言い始めたぞ」っていう感じなので、まず『当たり判定』って何なのかについてちゃんと説明したいのですが、これ本来はゲーム用語なので、ゲームに馴染みがない人は聞いた事が無いかもしれません。

 

 『当たり判定』は衝突判定やヒットボックスと言われる事もありますが、「この場所に攻撃が命中したら、当たった事になるよ」という範囲の事です。厳密にはもう少し幅広い定義ですが、ここでは割愛します。

 

 格闘ゲームでも、シューティングゲームでも、最近よく見る、プレイヤーがお互い銃で撃ち合うサバイバルゲーム的なFPSというジャンルのゲームでも、自分や相手が動かしているキャラクターには全てこの『当たり判定』が設定されています。人型のキャラクターなら、大体は外見の輪郭線よりも少し内側に設定されている事が多い様です。

 

 実在の人間だと、この当たり判定って皮膚の表面から内側になると思います。実際に体がありますし、叩かれたら痛いと感じる痛覚や触覚は皮膚の表面にあるので。ただ、ゲーム上のキャラクターは架空の存在なので、空っぽな外見の内側に別途『当たり判定』を設定してあげないといけないんですね。当たり判定が無いと相手の攻撃が体をすり抜けたり、壁を素通りできたりしてしまいます。

 

 この当たり判定の設定は凄く繊細な調整が必要です。例えば「体の輪郭線から当たり判定がはみ出している」と、外見上は攻撃を避けた筈なのに、何もない空間に攻撃が当たってダメージを受けるという理不尽な処理が発生してしまいます。

 こういう当たり判定の調整に不具合があるゲームは「このゲーム当たり判定がガバガバなんだけど」などとプレイヤーからの不満が出てしまいます。ここまでが当たり判定の説明というか、前置きです。

 

 では次に、現実の世界で『当たり判定が大きい人』というのは何を言っているの? という話になるんですが、もちろん体の外側に物理的な当たり判定がはみ出している人なんていないので、これは精神的な話です。仏教的な話でもあります。

 

 何でゲームの話が仏教と関連するのかというと、この『当たり判定』という言葉を理解すると、仏教でよく言われる「『執着』を捨てる」という生き方が理解しやすくなるのではないかと思ったからです。

 

 仏教用語というのは難しく、本を読んで理解したつもりでも、それを肌感覚で自分のものにするという事がなかなか難しい様に思います。自分も仏教学部を卒業しましたが、「執着を捨てなさい」と言われても具体的に何をどうすればいいのか悩んでしまいます。ちょっと前に流行った断捨離をすればいいという訳でもないでしょう。断捨離という言葉自体も、最初はヨガの用語として紹介されたと聞きますが、今はすっかり整理整頓の用語になってしまいましたね。でも身の回りに溢れる余計なものを捨てる事やそれを更に突き詰めてミニマリストになる事と、執着を捨てるという事は一見近そうに見えて、何だか違う様にも思えます。

 

 では『執着』とは何でしょうか?

 なぜ『執着』を捨てる事が求められるのでしょうか?

 

 自分達は、自分自身が思っている以上に色々なものに対して『執着』を持っていますが、ここでは『執着を持つ事』を『自分の当たり判定が大きくなる事』だと想像しながら考えて行きます。

 

 唐突ですが、これを読んで頂いているあなたには『好きなもの』がありますか?

 

 好きなもの、応援しているもの、『推し』と言われる様な誰か、あるいは何か。当然あると思います。自分達は、そうした『自分にとって大事なもの』が批判されたり否定されたりすると、まるで『自分自身が傷付けられた』かの様に怒り、悲しみ、心にダメージを受けます。

 

 思い浮かべてみて下さい。好きな野球やサッカーのチーム、いつも聴いているミュージシャン、お気に入りの本、家族や子ども、他にもまだまだあるでしょう。それが否定されたら、悪口を言われたら、あなたは傷付くのではないでしょうか? 自分自身がそうされたのと同じ様に。

 

 また唐突に聞きます。それはなぜですか?

 

 好きな野球チームはあなた自身ですか?

 好きなミュージシャンや、本や、家族や子どもはあなた自身ですか?

 違います。どんなに好きでも大事でも、それは本来、あなた自身ではありません。

 自分に向けられた批判や否定ではない筈の言葉に、あなたが傷付いたり怒ったり悲しんだりする必要はない筈です。でも、自分達は実際にダメージを受けてしまう。なぜか。

 

 それはあなたの、そして自分達の誰もが持っている執着が、様々なものを自分自身の中に『自分と同じくらい大事なもの』として取り込んでしまっているからです。自分達は必ずしも等身大の自分だけで生きている訳ではなくて、様々な属性や主義主張、価値観を自分と同じくらい大事なものとして無意識に取り込んで行くんですね。それは支えになってくれる事もあるけれど、一方では自意識を肥大化させてしまう事になります。守るべきものや譲れないものが増える事で、自分達は風船を膨らませる様に自分自身の当たり判定も大きくしてしまう。そうするとどうなるか。

 

 自分達は傷付く必要のない場面で傷付き、怒る必要のない所で怒り、悲しむ必要のない時に悲しみ、場合によっては自分を『攻撃した』相手を憎んで反撃しようとする様になって行きます。意見や価値観の異なる相手に対して攻撃的になって行くんですね。自分を守る為に。

 

 例えば最近、『主語が大きい』という批判の言葉をよく耳にする様になりました。

 馴染みが無い人もいると思います。比較的新しい言葉なんじゃないかと思います。

 

 例を挙げると、ある女性が「これだから男は駄目だ!」と言ったとします。フェミニズムや性差の問題を論じる立場から、現在の男性や男性社会が抱えている問題を指摘する時などによく言われる事です。(当然男性から女性へ言う事もありますが、自分は男性なのでこれを例とします)

 男性である自分は、同性が批判されていると自分も批判されている様な気がして、何となく嫌な気分になります。そして『主語の大きな批判は止めて欲しい』と言います。要するに、「自分を巻き込まないで!」という訳です。もっと乱暴に「主語が大きいぞ気を付けろ!」と言う人もいます。

 

 でもこれって、本当に『主語が大きい=発言者の問題』なんでしょうか?

 自分の肥大化した当たり判定が体からはみ出している事が問題だったりしませんか?

 

 上の例で言えば、『自分は男である』というのは正しいとして、じゃあそれをひっくり返して『男は自分である』というのは正しいでしょうか? それは『自分=男 男=自分』という風に、前後を入れ替えても成立する数式の様なものではない気がします。

 

 だから本来なら、男性のあり方が批判される時、自分自身が批判された様に感情的に受け止めなくても良い筈です。でも『男である自分』というものが自分にとってのプライドや自信を支える上で手放せないものになってしまっている時、自分達は男性である事に対する執着にとらわれ、『男である自分』という立場から離れてものを考える事ができなくなります。するとどうなるか。男性(の一部分)を批判する言葉が全部自分自身への批判になって突き刺さってきます。肥大化した当たり判定が、冷静に相手の意見を受け止める事を邪魔する様になる訳です。

 

 これは性別の差だけではなくて、人種や国籍や思想、価値観といったものでも同じです。

 男である事。日本人である事。それらに執着しすぎる事で、例えば女性の意見や諸外国の人々からの意見を素直に受け止める事が出来ないのだとすれば、一度それらの執着を捨てて身軽になってみる――自分の当たり判定を小さくするべきではないでしょうか。

 

 近年問題になっているナショナリズムレイシズムの台頭もまた、自分達が自らの所属する国家や民族といったものを自尊心の拠り所として、それにすがり付いてしまうという執着を捨てられない事によって起こっている事の様にも思えます。日本の問題点を指摘される事は自分自身を批判される事であり、日本人を侮辱される事は自分自身を侮辱されるのと同じだという『肥大化した自意識=当たり判定』の問題です。そして自分達もまた同じ様に、相手にやり返す。自分を批判して来た(と思い込んだ)相手を、相手方の属性でくくって、大きな主語の中に押し込んで批判する様になる。「~人は(~国は・異性は・世代は)ろくなものじゃない」等と言って。

 

 SNSを見渡せば、常に誰かが言い争いをしています。とても冷静な議論とは言えない、罵詈雑言の類です。そんな事が起こってしまうのも、この肥大化した自意識=肥大化したお互いの当たり判定のせいかもしれません。だって自分の事を殴っている相手と冷静に話なんてできないじゃないですか。でもその『相手に殴られた』っていう受け止め方自体が、自分の思い込みかもしれない。これはそういう話です。

 

 仏教が執着を捨てる事を求めるのは、こうした思い込みによって自分自身や相手が不必要に傷付くのを避ける為でもあるのではないかと思うのです。執着を捨て、自分の当たり判定を小さくする事ができれば、仮に本当に自分自身を狙って投げ付けられた悪意も、動じずすり抜けられる様になるかもしれません。何せ当たり判定が無い所には、攻撃が当たりませんから。それはゲームだったらチート(データの不正改造)ですが、現実を生きる自分達の気持ちの持ち方としてはアリだと思います。

 

 じゃあどうやって自分自身の肥大化した当たり判定を等身大の自分に戻して行くか。そしてできるなら更に小さくして行くかという事なんですが、それにはやはり『自分』というものの範囲、大きさを見つめ直す事なのかなと思います。難しいですが。

 

 例えば自分は男性であり中年であり日本人であり黄色人種であり独身であり福祉関係者であり――とどこまでも自分の属性を列挙して行く事ができますが、『その逆が自分自身な訳ではない』とわきまえる事。社会に飛び交う批判や悪意を、正面から受け止めない様に心掛け、また自分自身も相手を大きなくくりで批判しない事。そうする事がゲームで言う『強キャラ』(強い、優れたキャラクター)になる為の道なのかもしれませんね。そして強さとは、優しさに繋がるものです。

 

 「さあ、あなたも執着を捨てて強キャラになってみませんか?」

 

 こんな風に言うと怪しい勧誘にしか聞こえませんが、何だかちょっと心の持ち方が変えられそうな気がします。少なくとも、自分は。