老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『HINOMARU』の野田洋次郎と『MOTHER』の長渕剛

 何だかRADWIMPSのボーカルの野田洋次郎さんが炎上しているらしくて。

 

 自分は『君の名は。』や『天気の子』といった映画からRADWIMPSの曲を聴き始めた様な奴なので、ちゃんとしたファンを名乗るつもりはあまりないのだけれど、それでも「ちょっとその批判のやり方は嫌だな」という部分もあって、もやもやする気持ちを整理する為に文章化しておこうと思いました。

 

 今回の炎上は2種類あって、ひとつは彼が『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021』(以下ロッキン)の開催中止に対して出したコメントに対する批判。もうひとつはそのコメントを出した当の本人が自身の誕生日会で友人らと夜通し飲み歩いていたらしいという事に対する批判。まあ、それらの批判が出るのもわからなくはないですが。

 

 自分が嫌だなと思ったのは前者で、その批判のやり方がちょっと意地悪だなというか、最近言われている『分断』って、きっとこういう悪気のない、ともすれば潔癖症的な拒絶から生まれているんじゃないかと思った訳です。

 

 野田さんがロッキンの中止に対してコメントを出した時の批判は、簡単に言い換えれば「『HINOMARU』を歌っていた様な奴が、今更こっち側で政府批判に混ざってんじゃねぇよ」というものでした。

 

 『HINOMARU』という曲は、その曲名と歌詞のせいもあって、発表当時に『愛国ソング』とか『軍歌みたい』とか散々批判された曲で、作詞作曲を野田さん自身が手掛けている事もあって、野田さん本人の歴史認識や価値観を問題視するネット記事が数多く書かれました。今回の批判もそれが前提としてあって、HINOMARUの件を許していない人達は、時にはHINOMARUの歌詞を引用しながら「あんなに勇ましい事を言っていた奴が、今更何なんだ」という批判をしている訳です。

 

 自分からすれば、その批判は分かる様な気もする一方で、どこか腑に落ちないものでもありました。それはなぜかというと、『人間とは多面体である』という事が無視されている様に思えるからです。

 

 自分は過去に仏教美術を専攻していて、彫刻について学ぶ機会があったのですが、その時の感覚で言うと、彫刻の様な立体物を模刻しようとする時、ある一方向からだけ見た印象で全てを把握するのは不可能です。正面から見た時。真横から見た時。斜めから見た時。その他あらゆる方向から対象を見た時、その印象は全て違います。そして立体を、昔のゲームでもよく見た様な荒いポリゴンの集合体の様にとらえると、その面と面の繋がり方や、それらによって構成される全体的な量感が、その彫刻自体を成立させる上でとても大事だという事に気付かされます。

 

 自分の感覚からすると、これもよく言われる事ですが「人間もまた彫刻と同じ様に多面体である」という事になります。精神的にも、その人の心のあり方としても。

 

 自分達は他者とコミュニケーションを取る時に、どうしても『自分の立ち位置から見える相手の一面』を、相手の全てであるとか、本質であると思い込みがちです。でもそれは相手の心という立体を構成している数多くの面のひとつが、今自分の方を向いているという事に過ぎず、自分が理解したと思っている相手の性格や価値観は、その人の本質の、ほんの一部分に過ぎないという事ではないでしょうか。

 

 今回の件で言えば「『HINOMARU』を歌う野田洋次郎」も「ロッキンの中止にやりきれないものを感じている野田洋次郎」も「友人と夜通し飲み歩く野田洋次郎」も、全部が彼である事は間違いないけれど、そのどれかが彼の全てではないという事です。

 

 だから自分達は、彼のダメな部分(とあえて書きますが)を見て、がっかりしたり批判したくなったり攻撃したくなったりするかもしれないし、ある意味それが当然ではあるけれど、例えば「あいつは『HINOMARU』を歌っていた奴」という過去のわだかまりをいつまでも持ち越して、今の彼が発する言葉を全て聞く価値がないものとする様な態度を取るのはどうなんだろうと思います。少なくとも自分は。

 

 人間って、そんなにどこから見ても矛盾のない、綺麗に整った立体ではないものですよ。

 

 皆どこか歪んでいて、他人から見たら褒められたものじゃない一面を持っている。そしてそれを、相手から隠して、なるべく綺麗な面を他人に向けておこうと思ったりもする。後は友人に対してなら、ちょっと崩れた部分を見せてもいいかなとかね。

 

 ――と、ここまでが真面目な話なんですが、真面目な話だけでも何なので、ちょっと自分と長渕剛の話をします。

 

 先に書いた様に、自分は映画からRADWIMPSに入る様なミーハーなんですが、人生最初に買ったカセットテープ(CDですらない時代!)は何だったかというと長渕剛の『JEEP』でした。なぜかというと、当時親しかった年上のお兄さん的な人が自分を乗せた車内でかけていたのが長渕剛だったからです。自分は小学生だったか中学生だったか、まあその頃ですね。

 

 で、『JEEP』と、その次に『JAPAN』という2つのアルバムを買って、それしか手持ちのカセットテープが無いから延々とそれを聴いていました。今にして思えば何でそんなハマり方をしたのか全く分からないんですが、とにかくそのおかげで、今でも『JEEP』と『JAPAN』の収録曲はほぼ何も見ずに歌う事ができます。自分はカラオケに行く趣味がないので、主に会社等での付き合いで行く程度なんですが、自分の様な「休み時間も教室の自分の席で黙々と本を読んでいたっぽいキャラ」がいきなり飲み会の席で長渕剛を歌い出すと、大抵の人は驚いてくれるのでちょっと面白いです。

 

 自分の長渕熱は『JEEP』と『JAPAN』だけで燃え尽きてしまったので、こちらもファンを名乗る程ではないんですが、今思えば彼も大麻取締法違反での現行犯逮捕等、色々と騒動を起こした人でもありました。かと思えば2017年には福島県立小高産業技術高等学校の校歌を作曲していたりもします。(作詞は柳美里さん)

 

 その曲もRADWIMPSの『HINOMARU』なんていうレベルのものではなく、2007年のアルバム『Come on Stand up!』の収録曲には、もっと直球の『神風特攻隊』という歌があります。個人的には『HINOMARU』が炎上するなら『神風特攻隊』は長渕剛本人ごと溶鉱炉に投げ込まれても文句が言えないレベルの曲だと思いますが、不思議と大炎上したという話は聞かなかった気がしますね。まあ当時はTwitter等のSNSも今ほど普及していなかったかもしれないし、単に自分が覚えていないだけかもしれませんが。

 

 何が言いたいかというと、話は少し戻るんですが『神風特攻隊』だけを聴いて、「長渕剛ってこんな人だったんだ!」的な炎上のしかたをする可能性はあって、それが今の野田洋次郎に起こっている事だと思うんです。でも一方で、自分が『JEEP』と『JAPAN』を狂った様に聴いていた頃の長渕剛だけを見ても、それは多分彼等のほんの一面でしかないんだろうなと分かるし、あえて酷い事を言えば、人間っていうのはもっとめちゃくちゃだっていう事です。

 

 例えば長渕剛は『親知らず』や『お家へかえろう』では日本の対米従属や弱腰外交を批判して、国会議事堂にしょんべんひっかけてやろうみたいな事を言う訳です。かと思えば先に挙げた様に『神風特攻隊』の様な曲も歌う。もっと言えば『I LOVE YOU』は今の時代にフェミニズムを推進して行こうという立場の人達が聴いたらそのマッチョさに卒倒するか怒り狂いそうだし、かと思えば『女よ、GOMEN』では「俺にはやっぱりお前しかいない」みたいな「女性に縋り付く男」的な弱さを見せたりもする。

 

 それで、『JAPAN』というアルバムは『MOTHER』という曲で終わるんですが、それはもう「いくつになっても母親=母性を求める男」みたいな壊れ物としての男性像と、母親に対する深い愛情がぐちゃぐちゃになった様な曲で、世間が長渕剛という人に対してまず思い浮かべる様なマッチョな男らしさや勇ましさは欠片もなく、もうすぐ訪れるであろう母親の死という避けられない現実を前に、まるで子どもに戻ってしまったかの様な男の姿が描かれるんですよね。聴く人によってはマザコンの様に思うかもしれない。

 

 そんな様々な『面』の集合体が、長渕剛というひとりの歌手を形作っている。

 それらの面のどれかひとつが彼の全てを表しているという事ではなく。

 

 多分、これからも彼の一面を見て全てを語る人はいるだろうと思うんです。映画『男たちの大和』の主題歌だった『CLOSE YOUR EYES』や、『神風特攻隊』の様な愛国ソングを歌う奴はダメだとか、そんな奴に高校の校歌の作曲なんてやらせて良かったのかとか、いくらでも言えますから。もっと言えば「結局は大麻で捕まった様な奴だろう」とか、多分これから先も一生言われるんでしょう。もしかすると亡くなってからも言われ続けるかもしれない。そしてそれは否定できないし、拒否できない。長渕剛という人間のある一面だけを見れば、それは正しい批判だから。

 

 でも自分の中には『MOTHER』を歌っていた長渕剛もいて、逆に言うと最後に熱心に聴いた曲が『MOTHER』だったせいかもしれないけれど、彼を全否定する気にはなれないという事です。

 

 話を野田洋次郎さんに戻せば、彼はもしかするとこの先も一生『HINOMARU』を歌った奴と言われ続け、ロッキンの中止に対して出したコメントもそのせいで価値がないものとされ、夜通し飲み歩いていた事を批判され、一部の人からはもう二度と信用されないかもしれない。自分はそうした批判が出る事や、批判する人を否定するつもりはないけれど、そういう自分達の『潔癖症な部分』が、相互理解の壁になってしまう事はあるんだろうと思います。

 

 「正しい事を言いたいなら、全ての面で正しくあれ」と言う事は、どこかで「自分達の仲間として認められたいなら、異論や反対意見なんてひとつも許さないからな」という狭量さに結び付いて行く気がするんですよ。他にも「誰かに助けて欲しいなら、助けてもらえるだけの努力をして、その資格を得てからにしろ」という様な自己責任論が導き出されたりもする。

 

 だから自分達は、誰かが正しくない行いをした(と判断された)時に、「それは間違っているんじゃないか」と批判する事は当然としても、その一方ではどこか「人間というのは正しさだけで作られてはいない」という事を認めるゆとり=許しに繋がる感情を持っておくべきなんじゃないかと思います。なぜって自分自身、常に正しく生きる事は不可能だからです。自分という立体は、どの面から見られても正しさを認められる様な、整った形をしていないからです。

 

 そしてつまるところ、その自分という立体が抱えている『歪み』を、『人間らしさ』や『自分らしさ』と呼ぶのかもしれない。今、自分はそう思います。

 

 これを読んでくれたあなたは、どうですか?