老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『信教の自由』が守られるという事は・菊池真理子『「神様」のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜』を読む

  

 

 多分、日本人の多くは『信教の自由』というものをあまり意識せずに暮らしている。

 信仰とは親から引き継ぐものであって、それは「どこかの寺の檀家である」とか「先祖代々の墓がどこにあるか」とか「葬儀を頼むのはどこか」といった事柄以上の意味を持たない。

 

 そういう意味では、自分達は誰もが宗教2世(信仰2世)以降だ。そして、その事に特に疑問も持たずに暮らしている。

 ただこれが、仏教や神道キリスト教イスラム教といった伝統宗教ではなく、新興宗教となると話は変わってくる。

 

 今、社会問題化している旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の様な新興宗教は、社会通念上は到底受け入れ難い様な教義(合同結婚式や借金をしてまでの献金)を、『信教の自由』を盾にして正当化している。曰く「献金は個人の信仰(意思)によって自発的に成されたものであって、強制した訳ではない」とか。

 

 そうした『詭弁』の為に信教の自由が利用される事は不本意な事だ。なぜなら、信教の自由には、信仰を変える自由や宗教を信じない自由が内包されており、個人はあくまでも自らの意思で「何を信じ、また信じないか」を決める権利を有すると考えるのが正しいからだ。

 

 しかし実際には多くの新興宗教が、宗教2世の『信教の自由』に向き合う事を拒否している。「正しい教え」から信者の子が離れ、世俗化する事を拒むのは、自分達の信仰の『正しさ』を疑う事が無いからだ。

 自分の正しさを疑わない人間は、譲歩しない。妥協もしないし、反省もしない。相手の感情を推し量る事もない。だって自分は正しいから。自分が正しい事が最初から決まっているのなら、異なる意見や価値観にぶつかった時、間違っているのは相手側だと決まっているから。

 

 宗教の問題でなくても、最近は似た様な『正しさの信者』が増えた気もするけれど、それは一旦脇に置いておく。

 

 本著は漫画なので、あっという間に読めてしまう。でもそこで描かれている宗教2世の人生は、皆一様に重い。その多くは実の親による信仰の強制で、最も辛いのは、信仰が『親の愛情を受ける為の条件』の様になってしまっている事だ。

 

「この信仰を捨てたら、もう親に愛される事は無くなるんじゃないか」

 

 特に未成年にとって、それは恐怖だと思う。

 『しつけ』と『虐待』の境界線が曖昧にされる事がある様に、『親からの承認』が『望まない信仰という束縛』の向こう側にしかないのなら、子はそれにしがみつくしかなくなってしまう。それは教団が言う『信教の自由』とは対極にあるあり方だ。でもその矛盾を、ねじれを、問題のある教団の多くは無視する。目を背け、知らない振りをする。

 

 本来『信教の自由』とは、そんな風に都合の良い時だけ引っ張り出して来る様な薄っぺらいものではないはずだ。

 

 自分は、自分の意思で仏教学を学んだ人間なので、宗教が人間を不幸にする事を拒絶したい。個人は、自分の意志で自らの信仰を定めるべきだ。自分は信仰を持たないという結論に至る場合も含めて。それは新興宗教であっても伝統宗教であっても変わらない。

 

 信仰というのは『自分が生きて行く上での杖』だと思う。杖は歩く助けになる。でも歩いて行く主体はあくまでも自分だ。信仰が自分をどこかに連れて行ってくれる訳ではない。どれだけ杖に体重を預けるかは自分次第だ。疲れている時には杖を頼りにする度合いも増すだろう。でも杖に全体重を預けても、前には進めない。その事を覚えておくべきだし、何なら信仰という杖なんて手放してしまったっていい。自分の足だけで歩いて行けるのなら。杖を持っている事が、かえって重荷となるならば。そして杖の代わりに自分を支えてくれる誰かがいるのなら。また杖が必要になったなら、その時にはあらためて探せばいい。本当に必要とされるその時まで、良い杖はただ黙って待っている事ができるものだから。

 

 でも悪意のある宗教は、自分達が『乗り物』であるかの様に振る舞う。

 

「この教えに乗っていれば、正しい道へと連れて行こう。でもここから降りるのなら、信仰を捨てるのなら、待っているのは地獄だ。自分達はお前を置いて行くぞ」

 

 それが信者を束縛する悪しき宗教の常套句だ。

 

「信ずる者だけは救ってやろう。信じないなら地獄に落ちろ」

 

 そういう狭量な、言い換えればセコい考えで信者をふるいに掛ける。

 より熱心に布教するものは上の立場に。より多く献金を積むものはそれだけ救いに近い場所に。そうやって信者を競わせ、『信仰の証明』を求める。そこでは杖が人間の主人だ。人の背を叩いて杖が望む方向に歩かせる。道を逸れるな。歩みを止めるな。そうやって杖が主人顔をするのは滑稽な事だ。

 

 歩いているのは、歩いて行くのは杖じゃない。自分自身だ。

 

 自分達は歩いて行くものだ。誰かが決めた方向に歩かされるのではなく。

 それは大変な事で、疲れる事で、口で言うほど容易な事じゃない。でもそれが生きて行くっていう事だ。多分ね。本当に疲れるわ大変だわで、何か乗り物に乗せてくれるならその方が楽だって心底思う時もあるけれど、それでも。

 

 よく、新興宗教『騙される』と言う。

 『騙される』っていう事は、騙される方にも落ち度があったという事だ、なんて言う人もいる。愚かだと嗤う人もいる。でも自分は、誰だって歩いていれば時に疲れて支えを必要とする様に、それは仕方がない事だと思う。たまたまそこで差し出された杖が良くないものだったというだけで、支えを必要とした人に落ち度があった訳でもないし、何かを間違えた訳でもない。誰だって歩く事に疲れて嫌になる時はある。信仰を必要とする時は誰にでもある。

 

 だから、ある信仰が人を苦しめているのなら「貴方が悪い訳じゃないし、そんなものは捨てたっていい、降りたって構わないんだよ」と自分は言う事にする。仮にも仏教学を学んだ人間がそれを言うかって言われれば、学んだから言うんだよって返すしかない。信仰は貴方自身じゃない。何が正しい信仰かは、貴方が自分で望んで決める事だ。

 

 そしてどんな信仰の名の下にであっても、個人を束縛する事を是認する教義は危険なのだろうと思う。教義や法は、自らを律する為に存在するのであって、他人に強制する為にある訳ではない筈だから。自分なりの信仰を持っている人は、その事をわきまえておくべきだ。その信仰は常に自分に向けておくんだっていう事を。そして、たとえ自分の子どもであっても、それは自分自身じゃないという事も。これもまた、忘れがちな事ではある。

 

 そして自分が持っている正しさは、自分だけに通じる正しさなんだという事も。

 

 信仰とは、正しさとはそういうものだと思う。

 そうやって、皆が自分の正しさを他者に強制する事無く、自らの内側に持って生きて行けばいい。それが恐らく、自分にとっての信仰のあるべき形なのだと思う。

 

 最後に、本作の連載に圧力を掛けて潰そうとした宗教団体へ。

 それがあなた方の信仰に適う行いなのかどうか、正しい事だと本当に思うのか考えてみたら良いと思う。きっと自分の正しさを曲げる事は無いだろうと思うけれどね。でも、そんな無法がまかり通った時代はそろそろ終わる事になりそうだ。

 

 それを何と言うか。それこそ自業自得と言うんだよ。