老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『フルメタル・パニック!』『コップクラフト』が好きなあなたへ・そして賀東招二氏が嫌いなあなたへ

 『フルメタル・パニック!』『コップクラフト』等の作品で知られる作家、賀東招二氏が、地球温暖化対策を求める環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏に対して批判的な(というより単に感情的に『嫌いだ』という内容の)ツイートをして炎上しました。

 

 批判を浴びたツイートを削除した上で、賀東氏は以下の様な反省の言葉を述べています。

 

 

 

 

 ここでは削除された元々の発言を再掲する事はしません。自分がこの文章を書くのはグレタ氏を擁護する為でも無ければ賀東氏を糾弾する為でもないからです。自分が伝えたい事は以下の2点です。

 

 記事のタイトルと順番は逆になりますが、まず賀東招二氏が嫌いなあなたへ』

 

 今回の賀東氏の発言は酷いものでした。あえて言えば、幼稚でした。大人の発言ではなかったし、自分も到底支持できるものではないです。ただ、賀東氏の環境活動家に対する評価や現状認識についてライトノベル作家だからこの程度なんだろう』『オタクだからこの程度なんだろう』『人型ロボットが活躍するフルメタの軍事描写をリアルだと思う程度の読者なり作者だから現実が見えてないんだろう』という、相手の属性や趣味嗜好に絡めた批判がいくつか見受けられるのですが、これは『未成年の環境活動家なんてこの程度に違いない』『大人が裏で操っているに違いない』という、グレタ氏に対する根拠のないバッシングと何か違うんですか?

 

 厳しい事を言う様ですが、賀東氏本人や彼の発言を擁護したファンに対してラノベ作家』『オタク君』の様な、相手の職業や属性を意識した揶揄、批判を繰り返している人は、自分もまた自らが批判している人々と同じレベルになってしまっている事に気付くべきだと思います。ただその上で、自分が同じオタクとして、ごく一部のグレタ氏批判に回っているオタク仲間に言わせてもらうなら「『グレたトンベリ』なんて言って『うまい事言ってやった感』でドヤってる、そういうとこだぞ」という感はあります。

 

 次、こっちがメインなんですが、フルメタル・パニック!』『コップクラフト』が好きなあなたへ。

 

 自分の好きな作家がSNSで暴言を吐いたりして炎上すると、がっかりするのは事実ですよね。特にそれが自分の意見と真逆だったり、社会的に批判されても仕方がない様なものだったりしたら。

 

 自分はこんな人の作品で感動していたのか。

 

 そう思ったとしても仕方がないです。自分も過去にそうした「がっかり」を何度も経験しました。

 『永遠の0』の百田尚樹氏の発言にげんなりしたり、『マルドゥック・スクランブル』の冲方丁氏が別居中の妻への傷害容疑で逮捕されたり、(後に不起訴処分)中学生位の頃に聴いていた『CHAGE and ASKA』の飛鳥涼ASKA)が覚せい剤取締法違反で逮捕されたり、その他数えきれない「がっかり」があった訳です。

 

 でも、どうなんでしょうね。自分達読者や視聴者は、彼等の発言が炎上したり、犯罪者になってしまったりして社会的に非難される度に、自宅の本棚から小説や漫画を引きずり出して処分したり、CDやDVDを叩き割ったり、ゲームをアンインストールしたり、その作品が好きだった記憶を無理に抹消したりしなければならないのでしょうか。

 

 結論から言えば、そんな事は無理です。

 

 自分が彼等の小説や歌や漫画、映画といった表現に触れる事で抱いた思いや、過去の思い出は、既に今を生きている自分の中で『血肉』になっています。自分の体の一部であり、もっと言えば思想や信条といった『自分そのもの』の一部になっている訳です。それを後になってから引き剥がして捨てるなんていう事が出来る人はいないのではないかと自分は思います。

 

 だから、もしこれを読んでいるあなたが『フルメタ』や『コップクラフト』を『好き』なら、それを『好きだった』にする必要はないと思うのです。その上で、今回の賀東氏の発言に対して批判する事も擁護する事も自由にやればいい。先に言った様に、氏の今回の発言がまずかったのだとすれば、それはラノベ作家だからでもオタクだからでもなく、今の賀東氏の認識や価値観が周囲から批判されるものだったというだけの事です。それはもしかすると、この先彼の中で変わって行くかもしれない。

 

 一言で言えば、一度も過ちを犯さない人間はいないという事になるのだと思います。自分だって聖人君子ではないのに、好きな作家だから、自分にとっての憧れの人だからと彼等に『常に正しくある事』を求めるのは、『好意』や『尊敬』ではなく『信仰』です。熱狂的なファンを『信者』と言ったりしますが、言い得て妙ですよね。

 

 自分が仏教学部の卒業生だから言う訳ではないですが、生身の人間が『信仰』を受け止める事は無理でしょうね。死後ならばともかく。なぜなら、人は生きている限り変化し続ける存在だからです。それが良い方向にだけ向かうとは限らない。人は生身故に、常に成長しやがては老い衰えて行く存在であるが故に、揺らぎ続ける存在でもある訳です。

 

 そして『信仰』と言えば忘れてはならないのは、いくら自分が尊敬し、敬愛する人だとしても、「彼等だって時には間違うのだ」という事を忘れない事です。好きな作家だから、漫画家だから、歌手だから、スポーツ選手だから、映画監督だから、アイドルだから、その人達が言っている事は常に正しい筈だ、批判する方が間違っているんだというのは、そう信じたい自分の中にだけ存在する幻想です。断言してもいい。

 

 だからもしも自分が愛する作品の作者が、今回の件で言えば賀東氏が、自分が信じる価値観を否定する様な発言をしたなら、作品を嫌う必要も過去の記憶を捨てる必要も無いけれど、「賀東さん、それは違うんじゃないですか」と思える自分を持っていて欲しいと思います。作品と作者が同じではない様に、どんなに尊敬する人の言葉であったとしても、彼はあなたではないのだから。

 

 かく言う自分にも好きな作家は何人もいます。でも彼等も変わって行くだろうし、自分だって変わって行くでしょう。そして自分達を取り巻く社会だって、常に変わって行く。だとすれば、意見が対立する事もあるだろうし、全く異なる価値観を信じる様になる事もあるでしょう。でも、一度は離れて行った人と、その先の道でまた出会わないとは限らない。お互いが自分の過ちに気付いて、進む先を少しずつ変えて行ったとしたら、その先の道はまた繋がるかもしれない。自分はある時から「遠くに行ってしまった」様に感じる人達について、そんな思いで再会を待つ様になりました。それがいつになるかは分からないけれど。

 

 だから今、急いで『好き』を『好きだった』に変えないでいてあげて下さい。

 

 自分がこの件で言いたいのは、そんな単純な事なのです。