老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

物語に向き合えなくなった、ある本読みの話

 物語に向き合う力が、無くなったのだと思います。

 

 ひとつの物語を、その始まりから終わりまで追い続けるという事が出来なくなりました。それはライトノベルや漫画で言えば、1巻から最終巻まで読み続ける事ができなくなったという事だし、アニメやドラマなら第1話から最終話まで見る事が出来なくなったという事です。

 

 単純に『飽きた』とか『作品が自分の好みに合わなくなった』という事ではありません。1巻を読んでとても気に入った作品、続きを心待ちにしていた筈の作品でもそうです。続巻に手を伸ばす事が出来なくなりました。

 

 なら、小説の単行本の様に1冊で完結する物語だったらどうかというと、漫画ならかろうじて読み切れる程度、小説ならばそれでも持て余して途中で読むのを止めてしまう有様です。短編集も、収録作の全てを読み切るという事ができません。だから、巷で『鬼滅の刃』が大ヒットして盛り上がっていた時も、自分は原作を読もうとか、アニメを見ようとはしませんでした。途中で投げ出してしまうだろう事が最初から分かっていたからです。それは原作が面白いかどうかとは全く関係ない、受け手である自分自身の問題です。

 

 いつからそうなったのか、確かな記憶はありません。

 気付いたらこうなっていて、自分にとってはそれが凄くショックでした。

 原因は、自分でも分かりません。

 

 40代前半になって、今まで出来ていた事、それも自分では得意な方だとか、好きだとか思っていた事が出来なくなってしまった事を認めたくありませんでした。自分にとって数少ない取り柄を失ってしまう事は、杖を突く事でやっと歩いている時にそれを奪われてしまう様な不安感があります。

 

 これを失ったら、自分はどうなってしまうんだろうって。

 

 最近、ライトノベル原作のアニメが何作品か放送されています。自分はその原作を読んだ事があります。でも、途中までです。1巻か、2、3巻まで。それ以上追い切れなかった作品が評価されて、アニメになって、でも自分はそれを見ようとか、原作をもう一度追いかけようとは思えないんです。物語に向き合う為の熱量が足りない。

 

 最初は、これではまずいなと思って色々考えたりもしました。でも最近は現状に慣れてきてしまったのか、何か行動を起こそうという意欲も無くなりつつありました。丁度、コロナ禍で自由に外出や外食が出来ない生活に慣れてしまう様に。自分は今ではもう、昔なら必ずチェックしていた美術館や博物館の特別展の情報から目を背ける様になりました。どうせ行けないと分かっているのに、それらに目を向けるのは辛いからです。自分の職場は、福祉関係という仕事柄、県外への外出ができません。今は少し感染者数の増加傾向が落ち着いているので、頼み込めば許可は取れそうな気もしますが、それで何かあった時の事を考えるとやはり二の足を踏んでしまいます。そんな事をしている間に、県外に出られない生活が『普通』になって、自分の世界は以前よりも少し狭くなりました。

 

 不思議なもので、その狭くなった世界を窮屈だと感じる事も、次第に少なくなって行った気がします。その狭さ、窮屈さに自分自身が慣れてしまうのかもしれません。

 

 でも、『このまま本を読まなくなってしまうのか』と思うと、それはそれで胸の奥の方がチクチクとします。

 

 作家なら、『筆を折る』という言葉があります。でも読者の側には、本から離れる事を意味する言葉があるでしょうか? 栞を挟む? 本を伏せる? でも本を伏せておくと傷んでしまうから駄目だなぁとか、どうでもいい事ばかり思い浮かびます。でも胸のチクチクは消える事がありません。

 

 読みたい本が無くなったという訳でもなく、実物の本にしろ電子書籍にしろ、未読のまま積み上げてしまった本は数多くあります。途中まで読んで、最後まで読み切る事を断念してしまった本もあります。それはどこか自分の中で『宿題』の様になっていて、そのままにしておくのは物語に対して誠実な態度ではない気がします。

 

 だったら、自分はどうするべきか。

 

 色々と考えてみましたが、結局答えは見付かりませんでした。どこに正解があるのかも分かりません。ただひとつ試してみたい事があり、しばらくの間、Twitterから離れてみる事にしました。

 

 もともと自分はあまりSNSを活用しない人間なのですが、様々な人が自分の意見を述べ合う場としてのSNSは好きでした。自分とは異なる意見や視点が存在する事を気付かせてくれるものとして、助けになった事は数多くあります。ただ、『自分と同じ意見や価値観を持つ人々を選んで繋がる』という使い方をせず、『様々な意見が飛び交う場所』としてSNSを使っていると、やはり価値観が異なる者同士、意見の対立が起きます。その発言内容は先鋭化、過激化して行き、強い言葉に感情を揺さぶられて疲弊する事も多くなりました。

 

 SNS上では、個々のユーザーは平等な様でいて、そこには明確な格差があります。それは『声の大きさ』だと自分は思います。影響力≒フォロワーの数がそうです。大統領や総理大臣、芸能人や著名人、そんな人達と一般のユーザーが同じ『1アカウント』を使って交流するのがSNSですが、その1アカウントが社会に対して与える影響は同じではありません。当然の事ながら、そこには各々が行使できる影響力の差、『声の大きさの違い』が存在します。現実と同じですね。

 

 声の大きな人が発した一声は、自分の様な『声が小さい』発言者の言葉をかき消します。そして、そうした声の大きさを持っている人の言葉は、往々にして断定的で、異論や反論を許さないものです。「~かもしれない」と言うよりも、「~だ」と言い切る事ができる者に人は付いて行きます。その発言の正しさによらず。誰とは言いませんが、著名人に断定口調が多いのも偶然ではないのでしょう。

 

 本来、何かの問題について『話し合う』時、誰が正しいのか、何が正しいのかという事は容易に切り分けられるものではないのだと思います。AさんとBさんがいれば、Aさんが100%正しいという事もなければ、Bさんが100%間違っているという事もない。それぞれに至らない部分があり、気付いていない事柄があり、見えていない視界がある。それらを持ち寄る事で、よりよい結果を導き出そうとする事、それが『話し合い』である筈でした。

 

 でも今は『論破』がもてはやされる時代です。

 

 自分の正しさを相手にぶつけ、相手の粗探しをして矛盾を突き、相手の考えを潰して自分の考えを押し通す事ができる者が有能だという事になりました。そういう人物のもとに人が集まる様になりました。そして数多くの賛同者を得たその人が、『大きな声≒影響力』を手に入れる様になりました。

 

 極論すれば、SNSというのはそうした『声の大きさ』を持った人々の為の世界です。そこに自分の居場所はない様に思えます。自分の正しさを疑う事、相手の言葉の中に自分にはないものを見出そうとする事は、相手が発する鋭く硬い、自信に満ちた言葉、その『正しさ』によって柔らかい部分を突かれる事を覚悟しなければならないという事でもあります。

 

 それが嫌なら、柔らかな感受性を硬い殻で覆って行く様な生き方が求められるのかもしれません。よく言えば動じない、強い心を持つ事。悪く言えば、頑なな心のあり方を良しとする事。人為的に不感症になろうとする事。

 

 そしてその生き方は、『物語に向き合う』には合わないものの様に思えます。

 

 物語というのはそれが発表された時点で、開かれたものです。作者が描いた世界は読者によって受け止められ、様々に変化します。作者が描いた物語や価値観だけが『正解』ではない。ひとりひとりの読者の胸の中に、それぞれが想像する物語の世界があり、登場人物に対する思いがあり、その中から何を自分のものとして持ち帰るかが委ねられている。同じ本を読んだとしても、それによって何を思うかは読者によって異なる様に、正解などない、正しい答えなどないというのが物語の良さなのではないかと自分は思うのです。

 

 現実の世界でも、それは同じはずだと思って自分は生きて来ました。物事の正解は容易には見付からないし、仮に見付けたとしてもそれは刻一刻と形を変えて行く。そういう不確かな世界で生きている自分達にとって、様々な可能性を示唆し、気付きを与え、まだ到達していない視点から見える景色を与えてくれるものが物語である様に自分には思えます。

 

 そして、それと向き合えない自分がいるという事は、それだけ自分自身が変化を受け入れられず、自分自身が変わる事や、この世界が、社会が良い方向に変わり得るのだという可能性を信じられなくなっているという事なのかもしれないと思います。

 

 自分ごときが何をやっても、何を言っても無駄だという諦め。それに囚われた時に、物語が見せる可能性を信じる事は難しくなります。言ってしまえば全ての物語は、それが創作である限り絵空事です。そこで描かれる希望はご都合主義の産物かもしれない。嘘かもしれないし、本当は無価値なものかもしれない。

 

 でも、それを――物語を信じてみるという事が、『物語に向き合う』という事なのだとすれば、それは、この世界で物語と呼ばれているものは、すなわち『人の願い』でもあるという事ではないでしょうか。

 

 そして『願い』とは、『祈り』でもあります。

 

 何かを願う事を、祈る事を止めてしまっても良いのか。

 それが、自分が本を読む事を諦め切れない理由なのかもしれません。それは無駄な事かもしれないし、祈りは届く保証なんてないものです。でも、それでいい様な気もします。そもそも人が生きて行く事にしたって、成功が保証されているものではないのだし。

 

 と、ここまで書いたところで、結論には至らないのですが。

 

 だったら、自分はどうしたいんだろうという事を、今これから考えてみようと思います。自分の中に、もう一度物語に向き合ってみようという想いが持てるのかどうか。可能性というものをもう一度信じてみるつもりがあるのかどうか。正直まったく分かりません。

 

 SNSにしても、また帰って来るかもしれません。でも、もう二度と戻って来ないかもしれません。どっちに転ぶかは自分でも分かりません。もう諦めた方が楽な様にも思えるし、それでは寂しいとも思えます。だから少し、距離を置く事にしました。

 

 『さようなら』と言うのも『また今度』と言うのも何か違う気がします。約束できる事は何もないですし。だから何だか締まらないけれど、今日はここまでです。

 

 明日はどうなるかなんて、自分でも分かりません。