老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

東京オリンピックから遠く離れて

 昨日、父が再入院した。

 

 入院は以前から分かっている病気の治療の為で、2週間程度で退院できる見込みだから、本人も家族も慌ててはいない。

 でも面会はできないし、病棟には入院患者しか入れない。コロナ禍だからだ。

 

 自分は病院の入口の前で、車から降りずに父を見送る。父がひとりで手荷物を抱えて病院に入って行くのを当然の様に思っている自分がいて、慣れの怖さを感じた。自分が父に付き添えない事も、面会ができない事も、本当なら異常な事だった。でもそれはいつの間にか『当然』になってしまっている。

 

 オリンピックの開催が近付いている。

 

 その事が冗談の様に聞こえる。

 

 それでも自分は月曜日になれば普通に出勤する。

 

 テレビでは水泳の池江選手に対して、東京オリンピックの開催に反対して欲しいとか、代表を辞退して欲しいという要求を送っている人がいて、それが池江選手個人のSNSに直接届いているというニュースが流れたらしい。それを報じたとあるテレビ番組の司会者が、代表選手個人に対して要求を突き付ける人々の事を『卑劣だ』と言ったそうだ。

 

 『卑劣』

 

 強く、鋭い言葉だなと思う。

 

 自分は『酷だ』と思った。

 選手個人は間違いなくオリンピックには出たいだろうし、日本代表という立場もある。社会人選手には自らが所属する会社に対する責任もある。そうした選手個人に代表辞退を要求する事は酷だ。でも、卑劣という言葉はより強く自分の中に響いた。

 

 言葉の選び方。言葉尻。言葉狩り。色々と言われるかもしれないけれど、『卑劣』という言葉を使うなら、東京五輪を開催する為に池江選手個人の努力と復活を感動的な物語として取り上げ、広告塔として使う行為は、反対派から見て『卑劣』な行為にあたらないのかとも思ってしまう。

 

 自分が発した強い言葉は、必ず同じ鋭さで自分に帰って来る。そういう事に無頓着になってしまうのは、結局自分達がお互いに『自分の視点』でしか物事を見ず、相手の立場に立って考え、語るという事をしないからだろう。

 

 そして同時に自分は職場で『全国障がい者スポ-ツ大会』の地方大会中止を知った。

 自分は社会福祉法人で働いていて、職場には重度知的障がい者が多く入所している。

 

 驚きは無かった。昨年も中止だったからだ。そして今大会の開催可否の判断が待たれていたのだけれど、今年も中止になった。

 そもそも、入所施設でクラスターが発生すれば大変な事になるから、参加申込の時点で今回は見送る事が決まっていた。中止の知らせを見ても驚きは無かったし、特に何か行事予定が変わるという事もない。

 

 自分は施設の廊下に出る。そこに貼ってある写真は、一昨年の大会の時に撮ったものだ。コピー用紙にカラー印刷しただけのものだから、もう色褪せている。

 

 新しい写真は、今年も撮れない。

 

 そこで不意に、自分の中の何かが駄目になった。

 

 そして池江選手個人に代表辞退を迫り、『卑劣』だと言われた人々の事を思い出した。選手個人に相手が傷付く程の強い言葉を集団で投げ付ける事は確かに『卑劣』かもしれない。でも自分がどちらの側に近いのかと言えば、今この瞬間は間違いなく『卑劣』だと名指しされた人々に近い気持ちだっただろうと思う。

 

 何が大事で、何が取るに足らないか。誰がその線引きをしているのか。

 

 4年に一度のオリンピック・パラリンピック。それも次がいつになるか分からない自国開催での五輪は誰が見ても尊くて、貴重で、大切だ。もしかしたら一生に一度の機会。だから何があっても、どんな犠牲を払ってもやる。

 一方で毎年行われる障がい者スポ-ツ大会は、2年連続で中止されても仕方ない。

 

 いや、自分も分かってるよ。物事には優先順位や格付けがある事は。

 

 世界のトップアスリートが世界一を競う大会と、障がい者が健常者の何倍も時間をかけて50mを走ったり、ソフトボール投げをしたりするだけの、毎年行われる大会とではどちらが優先されるべきで、実際に優先されるか分かってる。

 

 でも駄目だった。今日だけはなぜかそれをそのまま『当然』の事として飲み込む事が出来なかった。

 

 東京オリンピックの開催が大事な事だと分かっている。池江選手だけじゃなく、全ての代表選手をオリンピックに出場させてあげたい気持ちもある。できる事なら無事に五輪が開催され、無事に閉会式を迎えて欲しいと思ってるよ自分も。信じてもらえないかもしれないけれど、本当に、心からそう思う。

 

 でもその一方で、オリンピックの開催に比べれば取るに足らない事だとされてきた事がいくつある?

 

 一昨年の障がい者スポ-ツ大会の写真に写っている、こう言っちゃ何だけど本当に安っぽい、参加賞みたいな金メダルと、オリンピック・パラリンピックで授与されるメダルの『重み』の違い。本当に子どもの玩具みたいな大会のメダルを見て、オリンピックとの違いが分からない程自分も馬鹿じゃないと思う。分かってるよ。何回も繰り返すけれど、本当に分かってる。

 

 でも。

 

 この色褪せた一昨年の写真を見ながら、「来年はスポーツ大会ができるかな」ってご利用者に言われても返す言葉がない自分達の事なんて一顧だにしない社会が、オリンピックの開催と中止で平行線の議論を続けている。滑稽だと思うし、恐らくどれだけの人々が反対だと言ってもオリンピックは開催されるんだろう。それを見て「何で自分達だけスポーツ大会ができないの?」なんて言うご利用者はいないだろうし、実際オリンピックが始まってしまえば皆選手の事を応援してくれるよきっと。嘘偽りなく、頑張れって言ってくれる。

 

 でも。

 

 それを今日は、素直に認める事ができないんだ。

 『でも』という言葉が何回も出て来てしまうんだ。

 

 入院中の父を見舞う事ができないのも

 いつまでも自粛を続けなければならない事も

 自分が原因で施設内クラスターが発生したらどうしようと怯え続ける毎日も

 年間行事のほとんどが中止されて、一昨年の写真が貼りっぱなしの廊下を歩く事も

 それを見て寂しさを感じる事も

 その感情をぶつける相手がいない事も

 誰を責めるのもお門違いだと知りながらそれでも誰かを責めたくなってしまう事も

 

 それらが皆『当然』で、オリンピックが開かれる事も『当然』だと言うのなら、その当然の様に格付けされた自分達の間にある『差』を、差別という言葉の片割れの意味を、そのつじつま合わせを、日々感じる理不尽さの答え合わせを、この自分にも納得できる様に誰か教えてくれないか?

 

 少なくとも今日、自分はこの『当然』を、この『差』を飲み込む事が出来なかった。

 じゃあ明日は? 明後日は? 何十年か先に今日の事を振り返った時は?

 

 自分は今日の事を忘れているんだろうか。

 それともこれを当然の事だと飲み込める様になっているんだろうか。

 

 分からない。本当に分からない。