老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

キャンセルカルチャー=排除はより良い社会を作れるか

 

 

 『情況2022年 4月号』を興味があって、読んでみた。特集はキャンセルカルチャーについて。この問題について釈然としないものを感じている人、感じた事のある人は読んでみると良いかもしれない。

 

 キャンセルカルチャーという言葉について考えてみる時に、まあネット上でありがちな事ではあるのだけれど、語る人によって言葉の定義が結構曖昧で、また曖昧であるが故に複数の問題がごった煮になってしまっている気がする。

 その上、そこに絡んでいる諸問題、例えばポリティカル・コレクトネスやフェミニズムジェンダー論等が多数存在する事が、余計にこの問題をわかりにくくしているのではないかとも思う。

 

 本特集の冒頭、塩野谷恭輔氏の『キャンセル・カルチャー試論』の中で、同氏は『オックスフォード現代英英辞典』を引き、キャンセルカルチャーの定義を下記の様に引用している。

 

同意できない言動をとった人物に対して、人々がコミュニケーションを拒絶することで、その人物を社会生活や職業から排除すること。

 

 この定義通りであれば、話はもう少しシンプルだ。ただ、同氏は続けて以下の様にも述べている。

 

 また、管見の限りでは、排除されるのは対象となった人物だけでなく、しばしばその人物が関わった作品や周囲の人々にまで及ぶこともあるようだ。

 

 誰かがハラスメント等の問題を起こす。または差別発言をする。すると、その人物が関わった仕事、作品、出版物、その他諸々がキャンセルの対象になる。そして問題を起こした人物を擁護した人、価値観を共有すると思われる人、交友関係にある人等も同様に排除の対象になる。なぜなら上記の通り対象者とのコミュニケーションを拒絶する事、対象者を社会生活や職業から排除する事で、間違った価値観や倫理観(それを持つ人物や集団そのものを含む)を排除して、『正しい』価値観や倫理観によって構成される、より良い社会の実現を目指す事がキャンセルカルチャーという社会運動の目的だからだ。

 

 キャンセルカルチャーが『排除』をベースにしているというのは、この特集の原稿執筆者のひとりである藤崎剛人氏が、同じく原稿執筆者である山内雁琳氏を名指しして「山内雁琳に書かせるなどという暴挙」「もしも山内雁琳の文章が今号の『情況』に掲載されていたならば、私は『情況』の不買運動を呼びかけるつもりでいる」(その後藤崎氏は実際に自身のTwitter上で不買の呼び掛けを行った)等と書いている事で皮肉にも裏付けられている。

 

 ちなみに、その藤崎氏が寄せた原稿の題名は『キャンセルカルチャーは存在しない』であり、同氏はまたその冒頭で以下の様に述べている。

 

キャンセルカルチャーは存在しない。ただキャンセルされるべき者がいるだけである。差別やハラスメント、誹謗中傷の加害者はキャンセルされるべき人間である。しかし彼をキャンセルされるべき人間としたのはキャンセルカルチャーという文化ではない。差別者は文化のせいではなく自らの差別行為のせいでキャンセルされるのだ。何か悪しきことをした人間が、自分が批判されているのは自身の悪しき行為のせいではなく悪しき行為を批判する文化のせいだと言い出したら、ぞっとすることであろう。その人は全く罪の意識を覚えずに差別を行っていることになる。

 

 以下、記事中ではより強い言葉が、言ってしまえば糾弾が続く。

 

 自分は思う。確かにこの混沌とした社会の中から『間違ったもの』を排除して行き、『正しいもの』だけを手元に残して行けば、いつか正しいものだけで構成された『正しい社会』が出来上がるのではないかと考える人もいるだろう。でもその様に正しいものと間違ったものを切り分けていく者の『正しさ』は、一体誰が保証するのか。その判断が間違っていないという事を、どうやって納得させるのか。

 

 そしてそれ以上に、正しい社会の実現を目指す為の手段が『排除』をベースにしていて良いのか。

 

 確かにハラスメントは無くすべきだ。また人種にしろ性別にしろ、差別はない方がいい。誰に言われるまでもない。ただ、差別的だとされた人々と対話をするのでもなく、議論を交わすのでもなく、意見を交換するのでもなく、自らを『正しい側』だと認識している個人や集団がその力で相手を一方的に社会から排除して行くというやり方で、果たしてハラスメントや差別のない健全な社会は実現できるのか。

 

 間違ったものを排除して行けば、やがて正しい社会が出来上がるというのは、正しいようでいて、実は間違った方法論ではないか。

 

 藤崎氏の言う『キャンセルされるべき人間』という強い言葉に、自分は恐怖を抱く。なぜなら、自分がこれまで誰をも傷付けず、差別せず、間違わずに生きてきたなどと言える自信がないからだ。自分でも気付いていないだけで、自分は誰かを深く傷付けた過去を持っているかもしれない。いや、今この時も誰かを傷付けてしまっているかもしれない。

 

 自分は、『キャンセルされるべき人間』かもしれない。

 

 自分がキャンセルカルチャーと呼ばれる社会運動に感じる違和感とは、言ってみれば「なぜ彼等はそんなに自信があるのだろう」という事だ。そう、『自分が正しい』という事について。

 

「――ハラスメントは良くない事です」

「はい」

「人種差別は良くない事です」

「もちろん」

「性差による偏見や差別、加害も良くない」

「そうですね」

「良くない事、間違った事は社会にない方が良い」

「その通りかもしれません」

 

「――よろしい。でも貴方は、過去にこんな酷い発言をしていませんでしたか?」

 

 その『過去』は、5年前かもしれない。10年前かもしれない。もう覚えていないほど昔かもしれない。もしくは去年かもしれない。先月かもしれない。昨日かもしれない。

 

 キャンセルカルチャーによる批判には時効がない。

 

 昔は許されていたとか、時代が変わったとか、他の人だってやっていたとか、その場では誰からも咎められなかったなんていう言い訳をキャンセルカルチャーは許容しない。自分ですら忘れている様な過去の発言だって、SNSという地層を掘り返せばいくらでも発掘できるし第三者にだって発掘される。アカウントに鍵をかければいいってものでもないし、アカウントごと削除したってスクリーンショットだとかがどこかに保存されていないとも限らない。

 

 そんなつもりじゃなかったんですと言えば、どんなつもりだったんだと言われる。

 謝れば本心を疑われる。

 無視すれば一方的に断罪される。

 それも、一対一ではなく、一対多で。

 

 説明させる事が目的じゃない。対話が目的じゃない。価値観を改めさせる事が目的じゃない。改心させる事が目的じゃないし、更生させた上でもう一度社会に迎え入れる事が目的じゃない。ただ排除される。「こんな奴に二度と発言の場を与えるな」と平気で言われる。

 

 『排除』をベースにした社会運動というのはつまるところそういう事で、だからこそキャンセルカルチャーには危うさを感じる。そしてもうひとつ自分が疑問を抱くのは、そうした排除の要求に対して、『キャンセルされるべき人間』が所属する企業なり組織なりが、むしろ積極的に排除に加担して行く事だ。

 

 本人から辞意を伝えられて受理する場合もあれば、組織の側から引責辞任を求める場合もあるだろう。でもつまるところそれは単なる組織側のリスク管理に過ぎない様にも思う。批判の対象になっている個人を組織内部に抱えたままでいる事のリスク。任命責任や説明責任等を問われる事のリスク。適切な研修を受けさせる等、意識改革にかかる時間と経費。明らかに辞任なり辞職なり、いなくなってもらった方が楽だ。

 

 ただこれも、まだかろうじて理解できなくもないと思えるのは、その排除の対象が人間だからだ。

 

 個人の資質によっては、正直これから考え方をあらためるのは難しいだろうと感じる人もいるし、自身の差別的な価値観を変えられないまま社会の中で長く活動して来た人もいる。差別的な言動があったとしても社会的地位や実績のために見逃されて来てしまった様な人や、むしろ差別的な言動が組織の中で逆に評価されてしまった様な人もいる。そういった人々は、少なくとも社会的に責任のある地位や職責からはもう退いてもらうしかないのだ、後進に席を譲ってもらうしかないのだと言われてもまだ納得できるかもしれない。

 

 ただ問題は、キャンセルの対象が人間だけではない事だ。

 

 ある特定の表現や作品。それは漫画だったり小説だったり、映画だったりゲームだったり芸術だったりするが、その表現そのもの、またそれを内包する、あるジャンル全てが不健全だ、不道徳だ、差別的だとしてキャンセルの対象になる事がある。

 

 それはもう藤崎氏が言う様な『キャンセルされるべき人間』個人の過失、自己責任の領域を超えてしまっている。明らかにキャンセルを求める側が、ある一定の尺度を持って、許されるものと許されないもの、社会に残すべきものと排除すべきものをジャッジし始めているし、そのジャッジには『法の不遡及』の様な理念も存在しないから、今現在の価値観で過去の作品が不可とされたり、思わぬ所にまでキャンセルの手が伸びていたりする。

 

 そうしたある種の文化とも言える大きな対象にキャンセルを求める時、自分達はその『排除』がどんな意味を持ち、後の社会にどんな影響を及ぼすかという事を、正しく評価できているだろうか。その影響の大きさを見据えた上で、それでもキャンセルするべきだという覚悟をもって批判していると言えるだろうか。

 

 自分には、今行われているキャンセル、つまり『社会からの排除』の要求が、そこまで熟慮した上で行われている様には思えない時がある。むしろもっと反射的に、個人や集団の『不快』や『不安』という感情からキャンセルの要求が立ち上がっている様に思えてしまう。

 

 こうした事を書くと、「そんなに何も考えずにキャンセルを求めているなんて事はあり得ない」「キャンセルを求められる側に瑕疵がなければ、キャンセルされる事などない」とお叱りを受けるかもしれない。ただ自分は、批判される側に何ら落ち度がなくとも行われてしまったキャンセル=社会からの排除を知っているし、その影響について語る事もできる。そして一度排除されたものが再び社会に受容される事の困難さも知っている。だからこそ排除をベースにした社会活動には慎重であって欲しいと言っている。一度社会から排除されたものが戻って来る事はほぼないのだから。

 

 そのキャンセルとは何だったのか。その排除によって社会はそれ以前よりも良くなったのか。排除によって失われたものは何だったのか。排除や規制の強化はより良い社会の構築に寄与するのかという事を次回書いてみたいと思う。