老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

選ばれなかった僕等と選ばれた彼等を結ぶ様に『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(ネタバレあり)

 まあ、こんな辺境のブログに辿り着く様な方はもう劇場版を観て来た人だと思うのだけれど、それでも一応「ここから先はシン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレ前提で話を進めますよ」と警告しておく。未見の方はこの文章を読んでいる暇があったら劇場に行って下さい。

 

 

 さて、『エヴァを語る』という事は、昔から『自分を語る』事と重なる部分があって、エヴァを語るのと同時にオタクの自分語りが始まる事に辟易している方も多いと思う。「自分は作品論が読みたいのであって、お前さんの自分語りに付き合いに来た訳じゃない」というのはもっともだ。でも、それでもなお『エヴァンゲリオンについて語る時に僕たちの語ること』の多くが自分語りになってしまうのは、この一連の物語がそれを観る自分達の『心のどの辺りに刺さったのか』『エヴァによって刻み付けられた傷はどんな形なのか』という事が、各々が作品を語る上での鍵になってしまう事がままあるからなのだろうと思う。

 

 例えば何か映画を見て、その映像表現に注目する人もいれば物語に注目する人もいる。そうかと思えば役者の演技を第一に見る人もいるし、世界観から物語では直接描かれていない裏側を紐解く人もいる。そのどこからでも映画は語れるし、同じ映画を見る人が100人いれば100人の作品論がそこにはある。中でもエヴァンゲリオンという作品は各々の興味を惹くフックがたくさんあって、登場人物の誰を軸にしても、どの角度から見直しても作品について語る事が出来てしまう。

 だからどうしても、『自分とエヴァの関係性』というものが作品論の軸になり易いし、自分自身とエヴァの関係性の中から見えてくるものを自分達は語りたくなってしまう。

 

 だからこれから自分が書く事も、ある年代の、あるひとりの男性はこの作品をどう観たのかという事に集約されて行くのだろうし、それ以上のものにはきっとならない。その事をまずお詫びしておく。

 

 さて、自分が好きになるキャラクターの傾向のひとつに『他者から生き方を定められた存在』『役割を背負わされた存在』というものがある。

 

 それはエヴァ綾波から始まって『Fate/stay night』のセイバー(アルトリア)や『ロード・エルメロイII世の事件簿』のグレイ等、自分以外の誰かから背負わされた役割や使命が第一にあるキャラクターが、その役目以外に『自分自身を生きる事』『自分の願い』を見付けて行く物語に対する執着と言っても良いかもしれない。

 

 その執着はどこから来るのかと言うと、恐らくそれは『大人に指図され続けた思春期』と、そこから投げ出された今の間にあるのだろうと思う。

 

 今40代前半の自分が14歳だった頃、大人達はまだ自信に満ちていて『人生の正解』を持っているかの様に生徒を管理していた。成績を上げ、良い高校、大学に進学し、安定した企業に就職する事が『人生の正解』だった最後の世代だ。

 クラスメイトの多くは少し上の世代から影響されて、尾崎豊山田かまちに憧れてみたり、厳しい校則に反発してみたりと、『大人は分かっちゃくれないが、分かった風な口を利かれるのはもっとムカつく』という、まだどこか大人達に対する期待や信頼を残しているが故のひねくれた反発をしていたと思う。

 

 ただ、そうこうしている間に長い不況がやって来て、かつての大人達は自信を失い、子ども達に語るべき価値観を持たなくなり、「後は自己責任で何とかしろ。俺達も正解なんか知らん」とばかりに自分達を投げ捨てた。自分達はシンジにとってのゲンドウの様な『戦って倒すべき親』としての大人を失った。自力で叩き壊すべき壁としての大人達は勝手に崩れ去り、振り上げた拳を叩き付ける相手もいないままで自分達はとぼとぼと歩き出した。道標もないまま。

 

 そういう自分達の世代が、今の若者から『うっせえわ』と片手で蹴散らされたのにはちょっと苦笑するけれど。

 

 自分達の世代は、自分達にとっての『大人』がそうであった様な『殴りがいのある壁』になってあげる事すらできなかった。それについては、ごめんよ、と思う。

 

 下の世代にとって模範になる事も反面教師になる事も失敗した自分達は、『大人になる』事にも『大人をやる』事にも失敗した。望まれた生き方に従う事も、それに抗って新しい自分像を描く事にも失敗した。だから『選ばれた責任を背負って生きる物語』にも、そこから抜け出して『自分自身を見付ける物語』にも同じ様に胸を突き刺されてしまう。

 

 思春期だった頃、自分達の中には、TV版の相田ケンスケの様な『何者かになる事』『選ばれる事』への無邪気な憧れがあって、それはシンジがエヴァパイロットである事を羨む一方で、彼が背負わされた責任の重さに考えが至らない様な『子どもの部分』だったのだろうと思う。

 

 今回の新劇場版で、ケンスケやトウジが大人になり、自分に出来る事を、自分の役目を背負って生きている姿を観た時、シンジにもケンスケにもなれなかった自分は複雑な心境だった。

 社会に対する影響力を持ち、自分の言葉や価値観を強く発信して行く人々がいる一方で、居ても居なくても変わらない様な生き方をしている『モブ』としての自分自身がここにいる。その自分の中にはまだ『何者かになりたい』と願う子どもがいて、だから自分はいつまでも『大人じゃない』んだろう。

 

 大人になるという事は、この身に責任を引き受けるという事だから。

 

 一方で、『生き方を他者から規定された存在』としての綾波に対する感情は、きっと自分が選べなかった『自分自身を生きる事』への歪んだ憧れなのだろうと思う。

 

 どんな生き方を与えられようと、それに殉じて生きなくてもいい。自分自身の願いを見付けて、その為に生きていい。いや、その為に生きたかったのはきっと自分自身で、でも自分にはそれが出来なかったから。

 

 中途半端に身体だけ大人になり、信じてもいない価値観の為に、周囲と歩調を合わせて何とか生きている。ボロを出さない様に、諦めて全部受け入れた風を装って、でも時々納得出来ないと愚痴をこぼしながら、これは仕方ない事だと自分自身を説得しようとして、それすら失敗してみっともなく生きている。必死に働いてお金を稼いで、自分の稼ぎで何かを買って、「これが欲しかったんだよ」って言いながら、でも本当に欲しかったものはこれじゃないんだって事にも心のどこかで気付いているみたいな酷い生き方をしている。『正しく』生きたくて、弱い人の味方でいたくて、キレイな事を言ってみたりして、でもそれはどこか上辺なんじゃないかと自分自身の言葉と本性を疑いながら、自分の中の汚れを誰かに指摘されるのが怖くて、それを必死に背中に隠して生きている。

 

 だから自分は、この映画に登場する人々の選択を映画館の客席からただ見送る。

 

 どの選択が正しいとか、こういう選択をして欲しかったとか、そんな事を言う権利は自分にはない。皆がそれぞれの道を選んで、エヴァという舞台から去って行く姿を見送りながら、結局20年以上前からどこに進んだのか、進めたのかも定かではない自分自身を振り返るだけだ。自分がそんなだから、シンジやアスカや綾波の姿が、より一層輝いて見えるだけだ。

 

 現実がhappily ever afterで終わらない様に、この映画で描かれた後の物語として、また彼等は苦悩する事もあるのかもしれない。社会は平等じゃないし、他者とは分かり合えない。言葉は誤解されるし気持ちはすれ違う。

 

 でも、彼等は歩き始める事を選んだ。

 

 その先にあるのが祝福でも後悔でも、時計の針を先に進める事を選んだ。

 

 選んだ事には責任が伴うとしても、その責任を飲み込んで行った。

 目の前にいる相手の手を握る事を選んだ。

 自分自身の願いに背を向けなかったし、ごまかしの言葉を口にしなかった。

 

 だから、これでいいんだと思う。

 少なくとも、この映画を見て自分はすっきりした気持ちで映画館を出た。

 自分自身を振り返れば問題は山積みだし、社会は壊れかけているかもしれない。そんな中でも自分は自分自身の事で手一杯で、果たすべき責任から逃げている様な気もする。その事を負い目に感じる日もある。今もそうだ。

 

 でも、こんな自分にも出来る事を見付けて、それをやって行くしかない。

 

 選ばれたチルドレンであり『運命を仕組まれた子供たち』としてのシンジ達は、大人に背負わされた、仕組まれた生き方ではなく自分自身の願いを見付けた。

 選ばれなかったケンスケ達は自ら大人としての責任を果たした。

 

 選ばれなかった僕等と選ばれた彼等の物語は背中合わせでひとつだ。どちらが良いとか悪いとか、上だとか下だとか、正しいとか間違っているとかいう事はない。それらは物語としてひとつに結ばれて、自分の目の前にある。

 

 じゃあ、自分自身は?

 

 この映画は自分にとって、結局そういう存在になるんだろうと思う。