老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『本当だったら~出来ていたかもしれない』という呪い

 いつもの記事と違って、とりとめがない事をそのまま出力したくなったので適当に書いて行く。ひとりごとに近いかな。

 

 同級生の友人が車を買った。正確には昨年の1月に契約して、何と1年待ってようやく今年の1月中旬に納車されたらしい。スズキのジムニー(JB64)だ。でもあまり遠出もしない内にコロナ騒動があって外出自粛が求められる様になり、気軽にドライブにも出掛けられないとこぼしている。

 

 彼は四駆が好きで、新車を手に入れるまでは中古で買ったパジェロミニに乗っていた。これもパートタイム四駆で良い車だったけれど、古い車だからあちこち故障したりもして、新型ジムニーが出るというので思い切って契約する事になった。3ドアのクロスカントリー車だから、世間の『お父さん』が買おうものなら家族からクレームが入りそうな車だ。室内空間が広い訳でもないし、スライドドアが付いている訳でもない。だからきっと、お金がある人は趣味車としてセカンドカーにするんだろう。

 

 彼にも自分にも、そんな余裕は無いのだけれど。

 

 自分も友人も気付けば40代だ。本当なら結婚して家庭を持っていてもおかしくないし、むしろこれからそうするには遅過ぎるくらいだ。職場の同僚は「結婚して家庭を持つから、もう自分の趣味だけで車は選べない」と愚痴っていた。ちょっと嬉しそうに。それは自分と友人には縁がない悩みであり幸せの形で、ちょっと胸がざわつく。

 

 家庭を持っていない事。子どもを育てていない事。「本当だったら自分達も結婚して家庭を持っていてもおかしくない歳なんだよな」という言葉を飲み込んで、互いに口にしない事。友人が運転するジムニーの助手席に座らせてもらいながら、そんな事を考える。

 

 『未婚男性は一人前の大人ではない』という風潮はまだある。特にここは田舎だから。でも仕方ない。人間なんてそれほど好きじゃない。他人に手を伸ばしたり、自己アピールするのは得意じゃないし、経済的に家族の人生に責任を持てる程の稼ぎもない。友人はどうだか知らないけれど、少なくとも自分自身はそうだ。何より怖い。立派な大人や親になれる気がしない。不幸になる人間を増やす事はない。

 

「いい車だよね」

「まあね。ただ納車まで長かったし、納車早々にスタッドレスタイヤが必要になったから出費が大変。タイヤ高いし」

「それを承知で買ったんだからいいんじゃないの」

「まあね。で、そっちは新車買わないの? もう随分乗ってるでしょあの軽自動車」

「今年で14年か。でもまあ走行距離10万kmも行ってないから、まだ乗れるよ。新車は羨ましいけど、最近は軽もお高いから--」

 

 そんな会話をしながら、自分はもっと別な事を考えている。

 

 両親が自分を育ててくれた様に、自分も時が来れば家庭を持つのかな、と漠然と思っていた。父親と自分の人生を重ね合わせて考えていた。でも当たり前の話だけれど、思っているだけでは何も始まらない。なかなか給料が上がらないなと思いながら30代になり、上司のパワハラに心が折れて転職をした。転職先の会社も待遇は似た様なものだった。独身で、家庭の都合で有給を取ったりせず、どれだけサービス残業させても文句を言って来ない社員は扱いやすいらしい。そして再度の転職をして今に至る。いつも自分ひとりの人生で手一杯で、気が付いたら40代になっていた。

 

 今の職場で、「結婚しないのか」と心配してくれた上司がいて、街コンの様なものを紹介してもらった事がある。参加するにはプロフィールを書いて出さなければいけないらしくて、用紙をもらったのだけれど、そこに書くべき事が何もない事に気付いて怖くなり、結局はうやむやにしてしまった。いまさら、という感覚もあった。自分が異性だったら自分自身を選ぶとは思えなかった。

 

 友人の運転で自宅に戻る。新車のテールランプの明かりが遠ざかって行くのを見送る。友人も頑張って来た。だから人生のご褒美として、これくらいの贅沢が許されてもいいと思う。ただ自分の趣味で車を買う程度の事が『贅沢』かと言われると辛いけれど。それでもそう思ってしまうのだから仕方ない。

 

 振り返ると玄関横に自分の軽自動車が停まっていて、昔を思い出して苦笑する。

 

 地元に帰って来て、最初の就職先が決まった時に、通勤に必要だからとろくに選びもせずに父の手配で買った新車だった。どちらかというと女性向けに売り出された車で、インテリアもエクステリアも全体的に丸みを帯びて愛嬌がある車だ。

 金がないので父の退職金を借り、月々返済した。急いで使う必要があったので、一番安いグレードで、色も内装も関係なく即納車可能な車を選んだと思う。確か当時の乗り出し価格で100万だった。14年前はそういう事ができた。

 

「自分で稼いだらこれを売って、今度は自分で好きな車を選んで買えば良いよ」

 

 父とそんな事を話した記憶がある。だが、そんな機会は無かった。

 ローンを組んでとか、最近なら残価設定で新車に乗ろうと考えた事は無かった。借金をする事はリスクとしか思えなかった。

 

 友人にそそのかされた訳ではないけれど、自動車メーカーからカタログを取り寄せてみる。なぜか友人がジムニーを契約しに行く時に同行したので知ってはいたけれど、最近の軽自動車は割と高い。自分でよく吟味して車を買うという事をした事がないので今ひとつ勝手が分からず、カタログ片手にネットで見積を出したら200万近くになって笑った。これなら今乗っている車が2台買える。まあ今はそんなに安い軽自動車も無いのかもしれないけれど。

 

 家を建てるとか、家庭を持つとか、家族の為に大きな車に乗るとか、そういう自分の年齢相応の『本当だったら』を数える時、200万以下の軽自動車を買うかどうかなんて凄く小さな事でつまづいている自分を再発見する。つい『本当だったら今頃は』とか『本当だったら~出来ていたかもしれない』とか考える。でも同時に思う。

 

 その『本当』って何だよ。

 

 言葉は悪いけれど、クソみたいだ。本当にクソみたいな話だ。

 でもそういう『本当だったら』が、今の社会にはあふれている気がする。

 

 不景気になって、それが長く続いて、日本は経済大国だと胸を張っていた大人達はプライドを粉々にされた。終身雇用は崩壊してリストラの嵐が吹き荒れ、定年や年金の受給開始年齢はどんどん先送りにされた。人生設計が狂った人が大勢いた。そのうちロスジェネが生まれ、非正規雇用は増え続け、しまいには「『非正規雇用』という言葉を使うな『パートタイム労働者』『有期雇用労働者』と言え」という話になった。外国人労働者の協力無しには経済が回せない所まで行っていながら『外国人技能実習生』という建前であたかも「進んでいる自分達が彼等にものを教えてやっている」かの様に振る舞い、上から目線を正そうとしない国になった。それもこれも『本当だったら俺達は』という考えに囚われているからじゃないのか。

 

 本当は『本当だったら』なんて考えても何の慰めにもならない。自分がそうだからよく分かる。でも同時に、その言葉が持っている魅力というか、魔力もよく分かる。

 

 本当だったら今頃は手に入れていただろう、というものがあって、でもそれを手に入れられなかった時、せめてその代わりになる『何か』があって欲しいと弱い自分は思ってしまう。経済的な余裕の代わりにとか、パートナーがいない代わりにとか。失ってばかりでは辛いから、手が届かなかったものばかりでは悲しいから、代わりのものを何か見付けようとする。そういう時に怖いのはきっと特定の『思想』とか『価値観』がするりと入り込んで来る事で、中でもアメリカにおける『Make America Great Again』の様に、あるいは日本における美しい国へ』の様に、自分の中のプライドを刺激する様な、慰めてくれる様なものが受け入れられ易いのかもしれないと思う。『本当だったら俺達は』って言う為に。歴史修正主義とか言われるものの正体も、多分その辺だろうと自分は思っている。『本当だったら俺達は』っていう言葉がこだましているだけだ。

 

 でもそれらは自分を慰撫してくれるだけで、現実問題を解決する役には立たないし、むしろ毒になる事の方が多い。言い換えれば『呪い』に近い。そしてそういう呪いが自分には見える。自分自身がそうだから、余計に気になるのかもしれない。

 

 どうすればその『呪い』に縛られずに生きて行く事が可能なのか。それを自分はこれから考えて行くのかもしれない。或いは考える事に失敗して同じ様な呪いにハマるのかもしれない。どちらに転ぶかは分からないけれど、今の気持ちは忘れないようにここに書いておく。『本当だったら』なんて考えは、何の役にも立たないって。