老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

伊是名夏子氏を『モンスタークレーマー』だとする今の日本で、『蛇の尾』として生きるという事

 最初に書いておくと、自分は福島県民で、現在は社会福祉法人障がい者福祉の仕事に携わっています。対象は重度の知的障がい者です。障がい支援区分で言うと、区分5から区分6の方々です。ちなみにこの区分は6が最高です。

 

 なぜ最初にこれを書くかというと、今の日本では『何を言ったか』よりも『誰が言ったか』の方が重要視され、無名の一般人が言う事など無視されるのが常だからです。一般人の正確な発言よりも、社会に影響力を持っている方が間違えて発信した情報の方に重きが置かれる。皆が後者を信用する。SNSのフォロワーの数がそのまま信頼度に直結する。そういう社会で、自分がどんなバックボーンを持っているのかを最初に明らかにする事で、少しでも自分の発言に耳を傾けてもらいたいが故の予防線です。嫌らしいですね。自分でもそう思います。

 

 さて、先日この伊是名夏子氏のブログの記事が炎上しました。 

 

blog.livedoor.jp

blog.livedoor.jp 

 『JRで車いすは乗車拒否されました』というタイトルで、車椅子での駅利用についてJRの職員に対応を求める中でトラブルがあった、という記事です。

 

 自分は単純に「こういう事もあるだろう」と思います。

 

 全ての駅がバリアフリー化され、身体障がい者でも利用できる環境が整っている事は理想ですが、現実はそうではありません。障がい者側の要求が通る事もあるし、現状ではどうしても対応できない事もある。伊是名氏の要求は現時点でのJRには対応が難しいものだったけれど、JRの受け答えも(伊是名氏のブログの内容によれば)事務的で、伊是名氏側からすれば『自分が身体障がい者である事を理由にした一方的な拒絶』の様に感じられた。これは一般乗客=健常者とJRの間でも起こり得るトラブルでしょう。

 

 何がここまで炎上する理由になるのかと戸惑いました。こうした顧客とのトラブルは何も顧客が障がい者でなくとも日常的に起こるものだからです。自分は若い頃にコンビニの深夜勤務をしていた事がありますが、ここで書くのもどうなんだと思う様なクレームの数々を捌いて来ました。拒絶するしかなかった要求もあるし、店側や自分の配慮で何とかなったケースもあります。今回の件もそれと同じでしょう。

 

 でも、今の日本の『自称多数派の価値観』によれば、伊是名氏は『モンスタークレーマー』なのだそうです。なぜって、Googleで『伊是名』と検索して出て来る「他のキーワード」の項目に『伊是名 クレーマー』と出る程度には皆さん検索している様なので。そして、『伊是名 夫』というキーワードも出て来ますが、これって必要な情報ですか? 「旦那の顔が見たい」という下世話な欲求と、「家族旅行の移動手段くらいお前が何とかすればいいだろ」という意見を送る為の相手を探している様にしか見えませんが。

 

 さて、話を元に戻します。伊是名氏はモンスタークレーマーなのでしょうか? それとも活動家なのでしょうか?

 

 少なくとも、本を出版し、コラムニストと名乗っておられるので、「全くの一般人ではないだろう」という指摘は的外れではないのかもしれません。ただ、社会や政治に対してなにがしかの対応を求める事を『活動』と言うのであれば、国民は何らかの形で日々『活動』をすべきだろうと思いますし、『活動家』であるべきだと思います。例えば自治体に「コロナ対応のワクチン接種はいつになりますか? それはもう少し早まりませんか?」と言うのも活動だし、北朝鮮がミサイルを撃つ度に「日本のミサイル防衛は大丈夫なんだろうか? もっと防衛費を増やして、イージス・アショアだって配備を再検討すべきなんじゃないか」と意見するもの活動だし、慰安婦問題がこじれて「韓国との外交では日本はもっと毅然とするべきだ」と述べるのも活動なら、労働者が「生活が苦しい。最低賃金を引き上げて欲しい」と要求するのも活動です。更に言えば「原発の汚染水を海に流すというのは漁業関係者として絶対に容認できません」と意見するのも活動です。

 

 『活動家』という言葉を、「自分にとって相容れない発言・要求をする組織化された厄介者」程度の雑な括りで使っていませんか?

 

 自分達はもっとこの社会に対して、政治に対して要求=活動すべき事がある筈だし、それは政治的な立場に左右されるものではありません。自分の意見は正当な『要求』であって、反対派の意見は厄介な『活動』だという程度に幼稚化された言葉遊びの殴り合いをしているから、この国は良くならないんですよ。恐らく。

 

 この考え方に照らせば、伊是名氏は活動家です。自分達全員がそうである様に。そしてそれは国民として当然の事です。

 そしてこうした活動は、政府や企業を一方的に困らせているのではなく、むしろ助けています。社会をより良い方向に変革して行くという意味で。

 

 例えば今回、伊是名氏の要求に対してJRの駅員の方が言った、バリアフリー法』の要件である「利用者3000人以下の駅は対象ではありません」という文言ですが、これは今年、令和3年4月1日から改正されました。以下のNHKの記事がよくまとまっているので引用します。

 

www3.nhk.or.jp 

 要点を整理すると、

 

 ・これまで1日平均の利用客3,000人を基準にしていたものを、2,000人にする。

 ・主な理由は、以前の基準値では小規模な駅でのバリアフリー化が進まないから。

 ・利用客数基準では地方と都会のバリアフリー格差も発生するから。

 

 という3点です。

 つまり政府与党も、なかなかバリアフリー化が地方の小さな駅まで整備されて行かない現状に不満と危機感を持っているという事です。でなければそもそも法改正など通りません。そこにはパラリンピックの開催という事情も含まれています。しかし、実際にバリアフリー化に対応するのは例えばJRという民間企業です。政府が命じて無理矢理やらせるという事はできないし、整備計画に口出しをするという事もできません。だから、バリアフリー法という基準を見直す事で、民間企業に対して『より早く、幅広い対応』を求めている訳です。

 

 今回の件でも、バリアフリー化の費用をJRに負担させたら、地方の不採算な駅が無くなるぞ(だからバリアフリー化なんていう過度な要求をするな)』という脅しめいた意見が散見されるのですが、その心配があるのなら、バリアフリー化への助成拡大』や『生活インフラとしての地方駅の維持』という要求を国=政府なりJRなりに強く要求すべきです。自分達健常者が強い者に意見できない事を、障がい者は現状の不便に耐えていろ』という形に転嫁して行く事は有り体に言って『恥』だと思います。

 

 もっと言えば、JRが設備投資という負担を抱える事で地方の不採算な駅が統廃合されて行く事を懸念するのなら、自分達は事故や自殺を防止する為のホームドアの設置が呼び掛けられ、実際に整備が始まった時にも同じ心配をするべきでしたし、ホームドアの設置に公費から『鉄道施設総合安全対策事業費補助』として補助金が出ている事にも過度な設備投資への要求だとして反対すべきでした。また地方の小さな駅にいつまで経ってもホームドアが整備されなかったとしても諦めるべきですし、ホームドアが設置されない事で事故や自殺が減らず、その度に列車の運行が止まったとしても、それを仕方ないと受け入れなければならない事になります。

 

 健常者の安全や利便性に関わる投資は『良い投資』で、バリアフリーに関わる投資は『過剰な負担』という説明に筋が通ると思いますか? 自分は思いません。

 

 

 次に、障がい者間の格差の問題』について少し書きます。この問題は本当に複雑です。

 

 一口に『障がい者』といっても、今回の伊是名氏の様に『自分の口で意見が言える障がい者(特に身体障がい者に多いと思いますが)がいる一方で、彼等の後ろには『自分の口で意見を表明できない障がい者が多数いるという事です。それは主に重度の知的障がい者です。

 

 以前にも書きましたが、重度の知的障がい者は、選挙に行く事もできません。字を書けない=候補者の名前を書けないからです。そして字が書けたとしても、正しく書けたか、書いた候補者が障がい者福祉にとって積極的な候補か、逆に極端な事を言えば「障がい者福祉なんてどんどん縮小してしまおう。財政が苦しいから」と考えている様な、障がい者福祉から見ればマイナスの価値観を持った候補なのか判断ができません。入所施設の職員は投票所まで付添はしますが、代筆はできませんし、もちろんどの候補者に入れた方が良いなどと指示もできません。(仮に指示したとしても重度の知的障がい者はその指示通りにはできません)

 

 以前、『投票用紙に書いてある日本語が不自然だ』という事例を持ち出して、「これは外国人勢力による選挙への組織的な工作の証拠である」と猛烈に抗議していた方がいらっしゃいましたが、その方には『知的障がい者だって選挙に行く』という事が見えていないのだろうと思いました。

 

 自分達職員には、ご利用者が投票用紙にどんな字を書いているか分かりません。もしかしたら、無効な文字を書いているのかもしれない。候補者ではない人の名前(例えば自分の名前とか)を書いて投票してしまっているのかもしれない。でも、それでも彼等は恵まれている方です。少なくとも投票所に行って、投票用紙に文字を書く事はできている。でも、そもそも投票所に行けない、字が書けないという知的障がい者は、投票所に行ける知的障がい者の何倍もいます。

 

 障がい者であっても、投票をする権利はあります。でも、その権利を行使できない状態で暮らしている障がい者がいます。彼等は政治という場から無視されているに等しい状態であり、それが『当たり前』だと思われていて、判断能力が無いのだから無視されていても『仕方ない』と思われているという事です。

 

 だから、特に重度の知的障がい者には『代弁者』が必要とされます。

 

 社会や政治に対して意見が言えない。その存在が無視される。

 

 そうした中にあって、障がい者の立場に立って、自分達の意見を代弁してくれる候補者や、支援団体や、ジャーナリストなり著名人といった存在は必要です。そこには、自分の口で社会や政治に対して意見を言う能力を持った身体障がい者も含まれます。

 

 自分が言うのも変な話ですが、誤解を恐れずに言えば伊是名氏は障がい者として『恵まれている』方です。

 

 結婚して、子育てをして、自分の名前で本も出して、社会に対して『積極的に関わる』事ができている。それは施設で暮らしている方々には難しい事です。その事は伊是名氏も知っていると思います。だから、『意見できる障がい者』としての責任があるとお考えなのかなとも思います。自分の背後に、社会から半ば無視された障がい者が数多く存在する事を知っている。だからこそ『代弁者』の自覚として、自分から要求を取り下げたり、諦めたりする事に抵抗がある。それが今回の様な問題のきっかけになる事はあるとしても。

 

 もちろん、同じ障がい者であっても、「伊是名氏に自分の代弁をして欲しいとは思わない」という人もいると思います。例えば自分が全ての健常者の代表であるかの様に意見を言ったり、障がい者の事を誰より分かっている風に代弁者面をしたりしていたら「何言ってんだコイツ」と思われるだろうなと思います。それは自然な事で、当然の事です。自分達はひとりひとり違う価値観を持って生きているのだから。

 

 同じ障がい者だからと言って、福祉関係者だからといって、全員が同じ方向を向いている訳じゃない。例えば以前書いた様に入所施設というものに悪いイメージを持っている障がい者もいれば、それを必要としている障がい者もいる。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

  そうした事実を踏まえた上で、障がい者の中にも格差がある事を認めた上で、それでもこの社会から疎外された生活をしている人々が少しでも減る様に、生活しやすい様にして行く為に何が出来るかを、自分は考えたい訳です。なぜなら、自分だってそんなに楽な暮らしをしている訳でもなければ、社会的な地位が高い訳でもないからです。

 

 次に多数派からこぼれ落ちるのは、自分かもしれないからです。

 

 そう、自分は何より自分自身の為に、今この長い文章を書いている訳です。たまの休みに半日使って。どこかから原稿料が出る訳でもないのに。なぜならこれは自分にとっての利益にもなると思っているから。そう言われた方が綺麗事を並べられるより信用できると思う方もいるかもしれませんので、敢えて書きましたが。

 

 冒頭で少しだけ書きましたが、自分は福島県民です。漁業関係者ではありませんが。

 そして福島県では今、原発事故で発生した汚染水の処理について漁業関係者を中心に大反対があるにも関わらず、政府は海洋放出を決定する方針の様です。

 

www.minyu-net.com

 ほら、ここでまた多数派が少数派を無視したでしょう?

 

 よく、多数派に属する人々が「正しい意見なら多数の賛成が得られるのは当然なのだから、過半数の賛成が得られない事、例えば政権が取れない事は、少数派の主張が間違っているという事の証明だ」と言います。でもそれって、『自分が多数派に属しているから言えるだけの事』に過ぎないと思いませんか?

 

 障がい者福祉の問題で言えば、自分は多数派である健常者の側にいます。極端な話、現状何も困っていないし、バリアフリー化が今後一切進まなくても苦痛を感じない。少なくとも老人になるまでは。でも、原発事故の処理という問題では、福島県民は全国から見て少数派です。そして福島県民全員が今回の海洋放出に反対という訳でもありませんから、反対派の数は全国民から比較すれば明らかに少ないという事です。逆に県外にも反対派はいるでしょうが、多くの方にとって今回の問題は他人事です。

 

 この様に、『いつか自分も少数派になる』という事を知っておくべきです。

 

 今は多数派の側にいて問題ない。でも、今日にも交通事故に遭って、高次脳機能障害になれば今日から自分は重度障がい者です。多数派と少数派とを分けている壁は、そんなに強固なものではないんですよ。そんな中で『弱者を切り捨てて行こうぜ』という価値観に基づいて生きて行く事は、結局『いつか自分が切り捨てられる行為に手を貸す』という事です。

 

 今の日本は、『自分の尾を食べる蛇』です。

 

 自分が蛇の頭と同じだと思っていられる間はいい。でも、尻尾は徐々に食べられていて、いつかは自分が食べられる側に回る。その時が来てから、蛇の頭が考えている事が間違っていた事に気付いたって遅いと思うんですよ、自分は。そして自分が食べられる番はそう遅くないのかなとも思っている。

 

 だから、これを書きました。自分の為に。

 

 それが誰かに、もっと言えば蛇の頭に届く事までは期待しません。

 でも、自分が蛇の頭だと思っている誰かには届いて欲しいと思っています。