老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

今、自分達の過ちに気付く為に・森下直貴 佐野誠 編著『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』

 

 

 近年、『生きるに値しない命』という趣旨の言葉を聞く事が増えた気がしています。例えばそれは相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚が言う『心失者』という造語が指し示す人々の事でもあるし、自民党衆議院議員杉田水脈氏が言う『生産性がない』人々の事でもあるのでしょう。また少子高齢化によって社会保障費の負担が現役世代に重くのしかかる様になり、高齢者や生活保護受給者に対しても彼等の生存権に対する異議が公然と唱えられる様になりました。

 

 自分達が現在直面しているこれらの問題は、これまでに無い、全く新しい問題ではありません。歴史を振り返れば、国家や社会、個人の思想によって『生きるに値しない命』だとされた人々はいました。その最たるものが、本著で考察されているナチス安楽死思想でしょう。

 ならば自分達は、過去の問題を再考する事によって、現在日本で起きている問題を解決する為の道筋を探さなくてはなりません。

 

 本著の内容について語る前に言っておきたいのですが、自分は社会福祉法人障がい者福祉に携わっています。そんな自分からすると、『生きるに値しない命』という言葉が社会の中で平然と使われる事には強い抵抗があります。それはなぜでしょうか?

 

 自分が思うに、その言葉を使う側は「障がい者」や「生活保護受給者」「高齢者」といった『カテゴリー』について語っている気がします。そういったカテゴリーに分類された『個人』を見ている訳ではないんですね。結果として、個人の尊厳が軽視されている様に感じられる。これは外国人や特定の人種についても同じ傾向があると思います。実在する個人ではなく、自分の中に思い描いた相手の属性を見ている。

 

 でも自分にとって、例えば「障がい者」というのは、『毎日職場で会っている誰それさん』なんですよ。名前があって、生きている個人であり、知人なんです。だから、仮に障がい者が『生きるに値しない命』だと言うのなら、その言葉を自分に向けた時点で、「あなたの職場に入所している誰それさんは、生きるに値しない」と言っているに等しい。仮にその言葉を自分が批判する事なく聞き流したとすれば、その先に待っているのはカテゴライズされた『匿名の誰かの死』ではなく『目の前にいる知人の死』に他なりません。

 

 ですから自分は『生きるに値しない命』が存在するという主張には、明確に反対します。でなければ、いつか目の前にいる人が殺される事になるからです。社会によって。自分達によって。そう、その時は自分も共犯になるのです。

 

 さて、前置きが長くなりましたが、本著にはナチス安楽死思想の中核になったとされる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁 ――その基準と形式をめぐって』(以下『解禁』)というテキストが全訳された上で収録されています。1920年にドイツで出版された書籍であり、著者は法学・哲学博士のカール・ビンディング教授と、医学博士のアルフレート・ホッヘ教授です。

 

 その『解禁』を全訳収録した上で出版されたのが、本著の旧版にあたる『「生きるに値しない命」とは誰のことか ――ナチス安楽死思想の原典を読む』であり、この旧版の出版が2001年でした。そこから19年が経った現在、自分達はまだこの『生きるに値しない命』という問題に対して有効な回答を導き出せていません。ですから、相模原の事件や近年の情勢を鑑みて、本著が『新版』として刊行された事は英断だと思います。容易に答えが導き出せないからといって、考える事を止めてしまう訳には行かない問題というものがこの社会には厳然と存在するからです。

 

 さて、あえて『解禁』を全訳して収録する事は、その思想に感化される者を生み出すかもしれないリスクを伴います。批判的な考察が添えられていたとしても、読者がその部分を読まずに『解禁』の思想だけを自分の中に取り入れる事は可能だからです。ですが19年前に出版された旧版の時点で、そのリスクを踏まえた上であえて『解禁』の全訳収録に踏み切った事には大きな意義があると思います。それは『解禁』を読む事で『優生思想』の源流に近い部分を知る事が可能だからです。そして実際に本著を読むと、その発生状況が今の日本と非常によく似ていてぞっとします。例えばホッヘ教授が記した部分について引用すると、以下の通りです。

 

(前略)経済面に関する限り、〔精神遅滞の人たちの中でも〕白痴の人たち〔最重度の知的障碍者(Vollidioten)こそは、完全なる精神的な死のすべての前提条件を一番に満たすと同時に、誰にとっても最も重荷となる連中(Existenz)となろう。

 この負担の一部は〔国家〕財政上の問題であって、これは施設の年度収支報告書を調べることで計算できる。私は全ドイツの該当する施設にアンケートを送って必要な資料を入手すべく努めた。そこからわかったことであるが、精神遅滞の人たち(Idioten)の養護にこれまでは年間一人あたり平均一三〇〇マルクかかっている。ドイツには今〔施設外で〕存命している者と施設で養護されている者との両方を合わせると、すべての精神遅滞の人たちは推定でほぼ二万人から三万人になる。それぞれの平均寿命を五〇年と仮定すると、容易に推察されるように、何とも莫大な財が食品や衣服や暖房の名目で国民財産から非生産的な(unproduktiv)目的のために費やされることになる。

 

 (中略)

 

 これらのお荷物連中(Ballastexistenzen)に必要とされる経費があらゆる面で正当なものであるのかという問題は、過去の豊かな時代には差し迫ったものではなかった。しかしいまや事情は変わったから、我々はそれに真剣に取り組まざるをえない。

 

 つまり1920年のドイツでは『生産性がない人間を養護しておく余裕はない』という近年日本で広がりつつある価値観と同じ思想が既に登場しています。平たく言えば「国家財政に余裕がないのだから、お荷物連中を養護しない事は正当だ」と言っているのです。これが生存権の侵害でなければ何でしょうか?

 

 しかしここで逆転現象が起きます。障がい者生存権を侵害しようとする側は国家財政の危機という現実問題が見えている現実主義者であり、障がい者を擁護する者は、人権擁護で目が曇って現実を見ようとしない理想主義者だ」という主張がまかり通る様になる訳です。いわゆる『お花畑』という揶揄は、これにあたると自分は考えています。

 

 さて、どちらが『お花畑』なのでしょうか?

 

 自分は、百歩譲って人権擁護の考え方がお花畑なのであれば、『生産性がない』『お荷物連中』という言葉を平気で使う側もお花畑の住人だろうと思います。そのお花畑に咲いている花の種類が違うだけの事です。特に、為政者がこれを口にする場合は。

 

 現実の見え方というものは、それを見ている人の立ち位置で大きく変わるものですが、人権擁護の立場から見る現実とはこうです。

 要するに「自分達は貧しくなったから、負担を減らす為に弱い者から順番に切り捨てて行きたい」と言っているんです。しかも過去の豊かな時代には差し迫った問題ではなかったと認めながら、今後はお金の都合で生きていて良い人間と、そうでない人間を切り分けると宣言している訳です。倫理観の問題ではなく、経済財政の問題だと。仮に為政者がこれを口にしたとしましょう。では、自分達が貧しくなった事の責任は誰にありますか? その責任の一端が政治家や自分達有権者の側にある事は明白なのですが、その責任を弱い立場の人々に押し付けた上で切り捨てて行く事のどこが『現実的』であり『正当だ』と言えるのでしょうか? 

 

 自分達は、結局『自分が見ていたいと思う現実』に目を向けているだけなんですよ。

 

 だから見えている『現実』が、こんなにも違う。

 自分達はこの社会を構成する一員として知る必要がある訳です。自分達が陥りかけている危険な思想がどこから来て、自分達をどこに連れて行こうとしているのかを。

 

 今後、立場の弱い人々から切り捨てられていく社会が『現実』として容認されたとすれば、その先に待っているのは『自分が切り捨てられるまで必死で逃げ続けるマラソンでしょうね。(というより、それは既に始まっている訳ですが)

 自分の背後からどんどん足場は崩れて行く。そこから落ちたら二度と這い上がれない暗闇が足元にあって、走れなくなった人や転んだ人を順番に飲み込んで行く。そこから逃げなければならないから、必死に走って走って走り続ける。でもいつか追い付かれるんでしょう。それが何年先か、何ヶ月先か、あるいは今日か明日かの違いです。

 

 人命を『有用性』『生産性』という軸で切り捨てて行った過去の歴史において、その先にあったのはおびただしい人々の死でした。ドイツの場合、虐殺の実行犯はナチスだったかもしれません。しかし民衆はナチスの蛮行を支持し、或いは黙認しました。厳しい言い方をすれば民衆は『共犯』でした。日本でも1948年に施行された旧優生保護法下で、障がい者やその疑いをかけられた者に対して強制的な不妊手術が行われましたが、この旧優生保護法は実に1996年まで存続していました。更に言えば強制不妊手術の被害者に一時金を支払う救済法が制定されたのは2019年ですし、被害実態の調査は現在もなお継続中です。この事を、自分達はどう受け止めて行くのでしょう。

 

 自分達はこれから進む道を間違えない為というよりも、既に間違えてしまった道から正しい道へと戻る為に、様々な事を学ばなければならないのだろうと思います。それを怠った時にどうなるのか。それはおそらく、加害者の共犯だった自分達が、今度は被害者と同じ列に並ぶ事になるのでしょう。そうなる前に、気付くべきだと思います。