老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

人の罪の島で生きるという事・根本聡一郎『人財島』

 

 

 自分が『人材』ではなく『人財』という言葉を初めて聴いたのは、確か7、8年前だったと思う。

 当時は運送会社で事務をしていた。その時の上司であり経営者一族でもある専務は、どこかで聞きかじって来たらしい『人財』という言葉を、さも自分が思い付いたかの様に得意気に語っていた。

 

 会社の為に自ら率先して働く社員は、かけがえのない財産になる『人財』

 会社の中で与えられた仕事だけをこなす指示待ち社員は『人材』

 会社にただいるだけで役に立たない社員は『人在』

 会社にいる事が組織にとって害になる社員は『人罪』

 

 社員は『人財』になる為に日々努力しなければならず、努力を怠れば『人罪』に落ちて行くのだというのがその時の上司の言葉だった。そして今、本作を読んで改めて調べ直してみたのだけれど、この『人財』『人罪』という造語を最初に用いたのが誰かという事はもう辿れなくなっていた。しかも4種類だった人材の区分はいつの間にか6種類に増えていて、「かつて会社に貢献した功績があっても、今は過去の栄光に溺れて威張り散らすだけになり、新しいものを受け入れない社員は用済みだから『人済』」「仕事ができない事を他の社員や会社に責任転嫁する社員は会社に災いをもたらす『人災』」といった言葉遊びの様なものが追加されていた。

 

 こうした造語や、誰が最初に唱えたかも分からない様な謎のマナーというのは厄介で、皆がその存在を信じて唱え始めると、それがどんなにでたらめなものであっても、この現実の中で存在感を増して行く。『上級国民』という言葉もその類だろうと思う。こうして誰かが無責任に作った言葉は独り歩きして、この社会の『規範』にすり替わって行く。

 

 本作『人財島』では、人財サービス大手の大企業が瀬戸内海に浮かぶ離島を再開発し、次世代人材を育成する大規模施設『人財島(たからじま)』として運営を開始したという設定で物語が始まる。一次産業から三次産業まで様々な業種の研修施設を備え、一見、労働者のキャリアアップにとって素晴らしい島の様に見える『人財島』だったが、その実、島の内部ではAIやGPS内臓のウェアラブル端末による徹底した個人管理が行われており、外部との通信手段を取り上げられた労働者達は『人財(タカラ)』『人材(マルタ)』『人在(アリ)』『人罪(ツミ)』という4つのランクに区分けされ、島を出る事も許されない状態に追い込まれていた。

 

 労働の対価は日本円ではなく『JP(ジンザイポイント)』で支払われる。まるで『カイジ』に登場するペリカの様なものなのだが、多額のJPを支払って『人財』ランクに上がらない限り、労働者は島から出る事が許されない。そんな中で、運営企業から出向の名目で島に送られた主人公は、人財島の実態を知って愕然としながらも、何とかこの島を仲間と共に脱出する方法を探そうとする。

 

 本作をブラックユーモアに満ちたエンタメ小説として読む事はできる。だが、自分はとてもそんな気にはなれなかった。なぜなら、本作で描かれている問題は、程度の差はあっても全て現実に存在しているからだ。自分達が暮らしている、この日本の中に。

 

 以前、別のブログで『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した ~潜入・最低賃金労働の現場~』という本の感想を書いた事がある。 

 

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  この本で書かれている様な、労働者を秒単位で管理して追い込んで行く過酷な労働実態は『人財島』の中でもそのまま登場する。そして、近年問題になっているひきこもりの解決策として、ひきこもり状態にある人を、その家族等からの依頼を受けて強引に部屋から連れ出し、同じ様な境遇の人々と共同生活させたり、作業所で働かせたりする『引き出し屋』の様な問題もまた作中に登場する。本作では連れ出される先が架空の人財島であるだけで、それは現実に存在する問題なのだ。

 

 この通り、過酷な労働条件で労働者を酷使する『人財島』は、現実問題の一部を強調し、物語として再構成する事で、島からの脱出を描いたエンタメ小説して読む事もできる様にしているだけで、実際には現実にある問題をそのまま読者の側に突き付けているとも言える。自分達はこれから先も『人財』という言葉を信じて生きて行くのか否かという事を。

 

 自分は思う。本作は小説として『人財島』という舞台を設定したが、実際にはこの日本全体がひとつの大きな『人財島』なのではないか。『人財』『人罪』といった労働者のランク分けは、正社員と派遣労働者契約社員といった形で既に存在するのであって、しかもそれは個人の努力で超えて行ける壁ではなくなっている。企業が繰り返し唱える様に、勉強し、資格を取得し、人材としての価値を高めて行けば、いつか自分達は『人財(タカラ)』になれるのかというとそんな事はなく、『人材(マルタ)』や『人在(アリ)』として使い潰されるのではないか。そしてこの『恐れ』は被害妄想ではないのではないか。

 

 そして自分達はいつの間にか区分けされたランク毎に、異なる『階層(レイヤー)』の中で、それぞれ自分が立っている場所から見える景色だけを見て生きている。

 

 その例えとして適切かどうかは分からないが、昔『Ingress』という位置情報ゲームをやっていた事がある。『ポケモンGO』や『ドラゴンクエストウォーク』等の先駆けになったゲームで、プレイヤーは2つの陣営に分かれて陣取り合戦をする。そのゲームの面白さのひとつが「見慣れた現実の風景が、ゲームのプレイヤー達には全く違ったものに見える」という事だった。自分が住む町の、何気ないランドマークが戦いの舞台に変わる。いつもは通り過ぎるだけだった石碑や祠が陣取り合戦の為の重要な戦略拠点になる。いつも通っている郵便局が、相手陣営にとっての補給基地として強固にガードされている。それはそのゲームのプレイヤーという階層に参加しなければ見えない景色だった。意図的に参加しようとしなければ見えない階層というものが、現実の世界の上を薄く覆っている。今で言えばAR(拡張現実)もそうだ。それを見る為の手段を介して、初めて知覚できる階層がある。

 

 ゲームの話はさておき、現実の自分達も、自分が立っている階層から見えるものが正しいと思い込んでいて、別な階層で生きている人々の現実を見ていない。『人財島』の中にいる人々の実態を、本土で暮らす人々が全く知り得ないのと同様に、同じ国で、同じ町で暮らしていても、自分達は異なる階層で生きている人々の事を知らない。その階層を超えて、相手に近付こうとしない限りは。

 

 自分は今、社会福祉法人で働いている。そこでは重度の知的障がいの人々が入所施設で暮らしている。自分が今見ている景色は、かつて運送会社で働いていた自分からは見えなかった景色だ。障がい者や、その家族がどんな暮らしをしているか。彼等はどんな人々か。

 

 自分の場合は転職をして、自分が立っている階層が変わったから、ようやく彼等の姿が見えた。そして価値観も変わった。自分は元々裕福な人々が暮らす階層では生きていなかったから、富裕層の階層から見える景色は知らないけれど、今では営利企業で働いていた頃と、障がい者福祉の現場という2つの階層から見える景色を知っているし、そこにどんな人々が暮らしているかが見えている。

 

 きっと自分達は、こうして誰かが決めた境界線をそれぞれの立場から踏み越えて行く必要があるのだろうと思う。例えば営利企業が効率化を最大限に求めて行く社会には、当然『生産性が低い』とされてしまう人々の居場所はないし、存在意義もない。同様に障がい者や、生活保護受給者や、働けなくなった高齢者はこの国でどんどん『人罪』扱いされて行っている。社会のお荷物だと言われ、疎外されて行っている。前回の記事にも書いた通りに。 

 

kuroinu2501.hatenablog.com 

 『生きるに値しない命』という概念は『人財』や『人罪』といった言葉を信じている人々がいる限り、そうした言葉によってエネルギーを与えられている限り、滅びる事はない。自分達は何とか自らが『人財』として認められる様に、『人罪』にならない様にともがきながら、自分よりも生産性が低いとされる人々を蹴落とそうとする。自分の両肩に他の誰かが重荷の様にのしかかっている気がして、相手の事を『人罪』だと断じ、罵る。自分達は、本当はそうした言葉によって形作られている階層から出なければならないのではないか。『人財』という言葉を否定しなければならないのではないか。

 

 それをせずに、自分は『人財』でなければならないと信じて生きて行く限り、この日本という国は丸ごと『人罪島』だ。『人財島』ではない。自分は『人財』だと信じている人々によって、『人罪』だとされる人々が切り捨てられて行く事を許すという『罪』を、自分達全員が共犯関係になって維持し続けているという意味での『人の罪の島』だ。

 

 そこからはどんな景色が見えるだろう。それは決して、明るい未来ではない筈だ。