老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『DEATH STRANDING(デスストランディング)』と『ゲーム実況』から社会を見直す

 皆さん『DEATH STRANDING(デスストランディング)』(以下デススト)やってますか? 自分は現実の仕事とゲーム上の北米大陸を往復する日々です。(未クリア)

  

 

 国道建設にハマっているのですが、どこまで引いたとか言うとネタバレかもしれないので自重します。

 

 さて、以下デスストの面白さについて延々と語っても良いのですが、デスストのテーマを借りると現実の自分達が暮らす社会について様々な問題提起ができるな、という気付きがあったので、今回はその話をします。

 

 未プレイの方の為にデスストがどんなゲームかというと、『おつかいゲー』です。おつかいゲーといえば、「~に行ってきて」「~を取ってきて」「~を倒してきて」という課題(おつかい)をこなして行くタイプのゲームで、そもそも『おつかいゲー』といえばつまらないゲームを揶揄する為の言葉でした。指示された事を次々こなすだけで飽きてしまうとか、頼まれるおつかいが理不尽でモチベーションが保てないとか、単純にゲームバランスが悪いとか。『おつかいゲー』という言葉にはそういうネガティブなイメージがありました。そう、デスストが出るまでは。

 

 デスストでは主人公のサムが『伝説の配達人』と言われる様に、北米大陸の各地に荷物を運び、ネットワークを修復し、分断された都市やシェルターで暮らす人々を『繋ぎ直して』行きます。指示を受けて、指定された荷物を目的地まで運ぶというのは『おつかい』に他ならないのですが、それがこれまでの『おつかいゲー』から脱却できたのは、ゲームデザインの妙と物語性の高さ、そして『プレイヤー同士の繋がり』を強く意識させるシステムに理由がありました。

 

 例えば荷物を配達する為に川を渡らなければならないとして、自分が苦労して橋をかけたとします。その橋は他のプレイヤーにも共有され、誰かがその橋を渡れば、橋をかけた自分は「いいね」と評価してもらえます。同様に、誰かが自分を助けてくれる事もあり、こちらも「いいね」を返してあげる事ができます。こうして『自分の為にした事が、誰かを助ける事に繋がり、また誰かが自分を助けてくれる。しかもそれが評価され、社会的に肯定されて行く』という好循環が生まれる訳です。

 

 これはゲームの中での話ですが、現実の社会に置き換えて考えてみると、とても理想的な社会・個人のあり方であると言えます。互いに助け合う事でより良くなって行く社会のモデルケースがここにあると言っても過言ではないでしょう。

 

 ただ、現実の社会にあるのは『善意』だけではありません。『悪意』も社会には存在しています。『悪意』の代表格としては利己的な考えや自己中心的な価値観があります。自分が良ければそれでよい。その為に他人を出し抜く、欺く、裏切る、貶す等、様々な『悪意』が存在しています。そしてそこから『差別』も生まれてきます。デスストで言う『分断』という奴ですね。

 

 現実世界でも、分断の象徴とでも言うべき様々な『壁』が既に生まれています。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp 

 自分達が仲間だと認めた人間だけを助ける。或いは評価する。その一方で自分達と異なる価値観を持っている人を排除して行く。仲間内の殻の中に閉じ籠って行く。そうした流れは、世界を細かく切り分けて行き、人々は孤立し、社会は分断されて行きます。

 

 ここで考えなければならないのは、『自分達はこの社会をどうして行きたいのか』という事です。どう変えて行ったら良いのか。そこに自分はどんな関わり方が出来るのかという事です。

 

 社会の中で、『善意』と『悪意』の総量は常に変化しています。ここからは自分の考えですが、社会全体をより良く変化させて行きたいと願うのなら、この社会の中で『善意』の方を増やして行くべきです。なぜなら、『悪意』に基づく行動は、短期的には誰かを出し抜いたり騙したりする事で自分の利益を増やすとしても、長期的に考えればいずれ自分の首を絞める行為になると考えるからです。

 

 話が抽象的になってきたので具体的な話に戻します。

 

 ゲームと言えば、『ゲーム実況』という動画配信のスタイルがありますね。自分も好きでよく観ます。

 今でこそ有名なゲーム実況者がゲーム会社とコラボしてCMに出演したりしていますが、かつてはゲーム実況そのものがゲーム業界的にマイナスなものと考えられていた時期がありました。

 その時系列について自分は詳しくないのですが、ゲーム実況というジャンルにあったネガティブなイメージとはおおむね次の様なものだと思います。

 

・ゲーム実況を見て満足してゲームを買わないユーザーがいる(かもしれない)

・発売直後のゲームが早解きされてネタバレ的な動画がアップされる

・発売直後のゲームに批判的な動画がアップされると売り上げに悪影響がある

・ゲーム実況者は自分でコンテンツ(ゲーム)を作っていないのに、ゲームの二次利用で利益を得ている。

 

 まだあると思いますが、大体こんな所でしょう。

 だから昔のゲーム実況動画では、『発売直後のゲームで動画を作るのはマナー違反』という意見も聞かれました。発売直後で皆の関心が高いゲームの動画はとても需要があり、仮に雑な作りの動画でも一定の再生数を稼げてしまいます。さらに、ネタバレ系の動画は字幕や実況等もなく、単にムービーを切り出して動画にした様なものもあり、発売から数日の間にラスボスやエンディング、隠し要素までばらされてしまいます。ネタバレのシーンを切り出してくるだけなので動画としての独自要素は無く、「自分でコンテンツを作った」とは言えないでしょうが、それでも需要があれば再生数は稼げる訳です。更にはそれらを見て「動画で見たから買わなくていいや」と考えるユーザーが実際にいたら、当然メーカーの売り上げは落ちます。

 

 また、「このゲーム買ったんだけどクソゲーなんで買わない方がいいですよ」的な動画や、最近では『~を救いたい』なんていう題名の「このゲームのつまらない点を指摘するから直せ」という動画もありますが、メーカーからすればいずれにしても「現状このゲーム買わない方がいいよ」と言われているに等しいので、あまり歓迎できないでしょう。

 

 もしも、ゲーム実況動画の8割~9割が、こうした『ゲームメーカーの不利益になる動画』で構成されていたら、ゲーム実況というジャンル自体、もう存在を許されていなかったかもしれません。ですが実際には(いつ頃風向きが変わったのか自分は詳しくないですが)かつてマナー違反とされた新作ゲームの動画配信を、メーカーと動画配信者がコラボして公式配信として行ったりしています。これが意味する所は何でしょうか?

 

 答えは、実際の動画配信者はゲームメーカーにとってもプラスになる様な、ゲームの魅力を伝える為の動画を作っているからであり、時に問題となる動画はあるにしても、全体で見ればゲーム実況動画というジャンル全体がメーカーからもユーザーからも信用され、求められているからです。その信用と需要を担保しているのが、言い換えれば先程言った『善意』です。

 

 ゲーム実況という全体の中で『善意』と『悪意』の総量を比較した時に、善意の方が勝っている事。それが、悪意のある動画も含めたゲーム実況全体が存続して行く為の価値を担保している訳です。だからゲーム実況というジャンルは続いて来られたし、むしろメーカーとのコラボ実現等で、より価値を増して来ました。これを、自分達が暮らす社会に置き換えてみると、分かってくる事があります。

 

 自分達が暮らす現実の社会にあるのは『善意』だけではなく、『悪意』もあるのだと上で書きました。その総量は常に変化しているとも書きました。では、自分達が暮らす社会全体を、より良いものに変えて行こうとするならば、必要なのは何でしょうか。再び問いますが、それは『自分達はこの社会をどうして行きたいのか』という事でもあります。

 

 善意の総量を増やして行くのか、悪意の方を増やして行くのか。

 

 悪意と戦って相手を倒すのは、実は大変です。エネルギーも時間も必要になります。でも、自分が何かを社会に対して発信する時に、『善意を軸にするのか悪意に基づくのか』を決める事は簡単です。

 

 例えば自分が読んだ本の感想を書く時には、割と感じた事をそのまま書いていますが、これが「気に入らない所を事細かく指摘する意地悪な文章」を書こうとしても、実はその文章を書く手間とか必要なエネルギーって「良い所を見付けて伝える文章」を書こうとする時とそうそう変わらないです。酷評する文章とか書きなれていないのでそっちの方が疲れるとか気が乗らないとかはあるとしても。

 

 さあ、どっちが良いですかね。自分だったら、善意の方を選べる自分でありたいと思いますが、皆が常にそうであるか、また自分が常にそうであるかは分かりません。時には悪意が勝る事もあるかもしれない。でも、同じ力を使って善意を増やすのか、悪意を広めるのかで言ったら、この社会には善意が増えて行くべきだと思うのです。デスストの中で、人が分断から繋がりの中へ復帰して行く様に。

 

 ゲーム実況動画を作る事、本の感想を書いてみる事、自分の側にいる誰かに親切にしてあげる事、誰かから受け取った好意に感謝する事、差別や偏見を遠ざけて暮らす事、社会をより良いものにする為に何が出来るだろうかと考える事。

 

 それらは、一見すると何ら関係がない物事の様でいて、その実全てが繋がっています。

 

 あなたは、どんな社会を、そして世界を望みますか?

 

 それを見付ける為に、自分はもう少し北米大陸を彷徨う予定です。