老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

キャンセルカルチャーの危うさを考える・その『正しさ』はいつまで正しいのか

前回からの続きとして。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 自分がいわゆる『キャンセルカルチャー』つまり特定の人物や思想、価値観を『排除』して行く事によって『より良い社会』が作れるだろうという考え方を受け入れ難いのは、その何かを排除して行く、或いは規制して行くという方向性に対して危うさを感じるからだ。

 

 それは主に次の3点に集約される。

 

・キャンセルされたものは取り戻せない

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる

・キャンセルの効果は検証されない

 

 

<キャンセルされたものは取り戻せない>

 

 一例として、日本の刃物文化について語る。

 昭和に行われた『刃物追放運動』(刃物を持たない運動)の事をご存知だろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

 これは、1960年(昭和35年)に全国に展開された社会運動であり、当時社会問題化していた増加する少年犯罪の中でも、特に刃物を用いた暴力犯罪への対策として『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする運動』の事を指す。

 

 具体的には鉛筆削り器の普及推進や、少年に対する刃物販売の規制要求、更には青少年が刃物を持ち歩くことを助長するような内容の映画、テレビ、ラジオ、出版物、広告等についても関係業者に自主的規制を要望するという徹底した内容で、これによって主に『肥後守』と呼ばれる折りたたみナイフを製造する事業者等が販売不振による大打撃を受けた。

 

 なぜこの問題を取り上げるのかと言えば、この運動が一定の成果を上げた一方で、確実にそれまであった『刃物を身近に置き、使いこなす文化』をキャンセルし、社会のあり方を変えてしまった一例としてわかりやすいものだからだ。

 

 当時、非行問題を解決するにあたって、その非行の根本原因を追究するのではなく、非行に走る若者の教育に力を入れるのでもなく、ひとまず凶器になり得る刃物を子どもたちから取り上げるという対応がとられた事が良かったのか悪かったのかと言われれば、その判断は難しい。当時には当時の切迫した事情があったのだろう。ただどうしても、安易だという印象は残る。

 

 安全な刃物の使い方を習得させ、凶器となり得るものをみだりに他人に向けない様にと教育するよりも、刃物自体を取り上げてしまえば早く運動の成果が出る。それは現在のキャンセルカルチャーにしても同じで、扱いの難しい問題について議論し、意見を交換し、より良い方向性を模索するよりも、問題があるとされる個人、或いは行為や表現そのものを一方的にキャンセル=排除してしまった方が、より早く、確実な成果が見込めると思われている。

 

 ただそうした、言ってしまえば安易な排除を選択した結果、排除された側がどうなるのかという事を、自分達は考えてみる必要がある。

 

 刃物追放運動を振り返れば、刃物文化のキャンセルによってナイフは自分達の暮らしから遠ざけられ、社会からの理解が得られない、低い地位に追いやられてしまった。

 

 以後、日常での居場所を追われたナイフは、専らドラマ等で殺人犯の凶器として登場し、ナイフといえば非日常のもの、あるいは危険な凶器というイメージが定着する。何度か訪れたアウトドアブームによっても、その悪い印象を完全に払拭する事は叶わず、今でもナイフと言えば、その言葉だけでも単純に『怖い』という印象を抱く人が少なくない。

 

 挙句、実際の殺傷事件でもナイフはしばしば凶器として用いられ、あの秋葉原無差別殺傷事件以後は、銃刀法の改正により更にダガー(刃渡り5.5cm以上の剣)の所持禁止が盛り込まれる等、規制は強まる一方だった。「凶器となるナイフを規制するよりも、犯罪そのものを抑止する方法はないのだろうか」とか「犯人の動機を究明して、犯罪抑止に繋げる努力をすべきなのではないか」といった穏当な意見が聞き入れられる事はなく、度重なる規制強化に異議を唱えようにも、愛好家が規制推進派の決定を覆すほどの存在感を示す事はできなかった。既に社会の大半の人々にとってナイフは不要なものになっていた。つまり、これ以上規制されようが社会から消されようが何ら影響がないものになっていた。

 

 一度キャンセルされたものが再評価される事は稀だ。

 

 自分達はキャンセル後の社会を次の標準として生活して行く。子どもたちがナイフの代わりに鉛筆削り器をあてがわれた社会では、刃物も、刃物の安全な使い方も、刃物を自分で研ぐ技術も最早不要なのだ。不要になったものは評価されないし、捨てられて行く。それを取り戻す事はできないというよりも、その必要自体がなくなる。

 

 

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる>

 

 キャンセルの手前にゾーニングというものがあるとして、自分がそれを今ひとつ信用できないのは、結局はそれが『対象を社会の隅に追いやる行為』なのではないかという疑念を持っているからだ。

 

 先に述べた様に、刃物については製造禁止とも販売禁止とも言わないが、『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする』『製造業者やメディアに自主的規制を要望する』というキャンセル=ゾーニングが行われた。

 

 その結果、子どもが刃物を持つ機会は減り、生活の中で刃物は不要なものになり、重要度が下がり、需要も減って行き、刃物文化は衰退した。

 ただ単に、子どもに刃物を持たせる事は危険なのではないか、犯罪を誘発しているのではないかという懸念で始めた運動、それも自主規制や指導といった法規制に至らないレベルのゾーニングの要求』で、ナイフは日本の刃物文化とともに傍流に追いやられた。

 

 結局、ゾーニングとは棲み分けでも共生でもない。

 

 ある『正しさ』によって、主流に置かれるべきではないとされたものは、ゾーニングによって社会の隅に追い詰められて行く。その『排除=キャンセル』を、ゾーニングという排除よりは優しく聞こえる言葉で周囲に納得させているだけだ。

 

 

<キャンセルの効果は検証されない>

 

 刃物追放運動後に行われた統計では、犯罪の減少など、一定の成果はあったとされている。ただそれは、刃物業界が受けた打撃(製造業者の廃業や労働者の解雇)、また刃物を使いこなす技術の喪失に見合った成果だったのだろうかという疑問は残る。

 

 また、記憶に新しい秋葉原無差別殺傷事件以後の銃刀法改正では、新たにダガーの所持が禁止されたが、ダガーの所持禁止が同種の事件の再発防止や、襲われた被害者が致命傷を負う様な事態を防止する観点でどれだけ有効だったのかという検証結果を、自分は寡聞にして知らない。

 

 秋葉原無差別殺傷事件以後にも大きな被害を出した無差別殺傷事件として、京都アニメーション放火殺人事件があるが、この時はガソリンを撒いて火をつけるという手段が取られ、以後ガソリンスタンドで携行缶にガソリンを給油する際の規制が強化されたものの、その後に発生した京王線刺傷事件では規制対象ではないライター用のオイルを大量に購入するという手段で電車内での放火が行われるなど、凶器となり得るものを規制する事によって犯罪を抑止する事がどれだけ可能なのかという点については検証が不十分だ。結果として犯罪者はどの様な手段を用いてでも加害を実行するのだから、その手段に対する規制の強化は大多数の人々に不便を強いるだけに終わっていないかという疑念も残る。

 

 そして、直接凶器として犯罪に結び付くナイフやガソリンといったものにまつわる規制でもその効果が検証できない(或いは規制そのものが回避される)のだから、『残酷描写のある作品を規制したら犯罪は減らせるか』『性的描写のある作品を規制したら性犯罪は減らせるか』という検証が成立するかどうかは疑問だ。

 

 ゾーニングやキャンセルは、ある目的のために対象を排除する。

 

 ただし前述の通り、その目的が達成されたかどうかの検証は、いつも不十分な形でしか行われない。そして検証が不十分だから、排除の見直しもできない。結果として一度排除されたものや強められた規制は、見直される事も緩められる事もなく継続して行く。

 

 だからこそ最初に述べた様に、『キャンセルされたものは取り戻せない』という事にも繋がって行く。

 

 

 さて、ここまで辛抱強く読んで頂けたとしても、恐らく自分がキャンセルカルチャーに対して持っている懸念については十分伝わらないだろうと思う。なぜならナイフや刃物文化は、それだけ今の日本では『取るに足らない』ものになってしまっているからだ。

 

 規制されても誰も困らない。このまま無くなっても不便を感じない。

 

 キャンセルされる、ゾーニングされるというのはそういう事だ。

 排除された結果、その存在は軽くなり、取るに足らないものという扱いを受ける様になる。

 

 「キャンセルされる様なものを大事にしているのが悪い」と、貴方は言えるだろうか。

 

 キャンセルされるものには理由がある。キャンセルされるべき瑕疵がある。危険だとか不道徳だとか、変化する社会の価値観や倫理観に対応できないとか。だからキャンセルされても仕方ない、諦めろと言えるだろうか。

 

 そう、その様に言えるからキャンセルやゾーニングが行われているのだ。

 

 でもここで最後に知っておいて欲しいのは、貴方が大事にしているものも、その意図があればキャンセルする事は今すぐにでも可能だという事だ。

 

 ある『正しさ』を基準に対象を『排除』するのがキャンセルカルチャーであるのなら、その『正しさ』に何を代入するかによってあらゆるものを排除する事ができる。

 

 厳しい環境基準という『正しさ』を用いればガソリン車を排除できる。

 子どもたちの健全育成という『正しさ』を用いればあらゆる表現を検閲できる。

 デモ活動や政権批判が国家の秩序を乱すという『正しさ』を用いれば今のロシアの様に抵抗勢力を締め出す事さえできる。

 

 自分達は『正しさ』を基軸にして、議論でも対話でもなく『キャンセル=排除』を行う事に慣れてしまう事ができる。次から次に『正しくないもの』を探し出し、正しい社会の実現のためにそれらを排除していく事が常態になってしまう。正しくないものを社会の中に残しておいてはならないという価値観に染まってしまう。

 

 そして最も恐ろしい事には、その『正しさ』は変わって行く。

 

 前回取り上げた『情況』の記事の中に、『東京音頭の波及力とキャンセル文化』という記事がある。あの東京音頭ですら、戦中戦後の価値観の変遷=変化する正しさに翻弄されたという記事だ。

 

 自分達が今キャンセルの基準にしている『正しさ』は、いつまで正しいのか。

 今自分が手にしている正しさで、目の前にあるものをキャンセルして良いのか。

 その判断は後悔に繋がらないのか。

 

 それをもう一度考えて欲しい。そして祈るべきだ。

 自分の大切にしているものが、誰かの正しさによって次にキャンセルされる事がありませんようにと。