老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『神仏分離を問い直す』を読んで自分を問い直す

 

 

 

 ちょっと前にTwitterで呟きましたが、法藏館神仏分離を問い直す』を読んでいます。

 自分は大学で仏教を学んでいたので、Twitter経由でこの本を知った時には「これだ!」と思って小躍りしたのですが、そもそも大多数の人にとっては神仏分離って何よ』という話だと思うので、間に説明を挟みつつ、この本で書かれている様な『多面的な物事のとらえ方』というものが今の自分達には欠けているんじゃないの?という話に繋げたいと思います。

 

 最初にこの本について少しだけ書くと、この様な専門書は論文的な硬い文章で書かれている事が多くて全体的に『硬い』『とっつきにくい』印象を持たれる事が多いかと思うのですが、本著は『神仏分離150年シンポジウム』の内容をまとめたもので、話し言葉で書かれている分、非常に読みやすいです。入門書として非常に優れており、個人的にこの様な良著は「もっと売れろ」と思っているので念を送っておきます。

 

 さて『神仏分離』ですが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』という言葉で聞いた事がある人もいるのではないでしょうか。漫画を読む人なら、「和月伸宏氏の『るろうに剣心』京都編で十本刀の一人である“明王”の安慈こと悠久山安慈(二重の極みの人)が寺を焼かれ、身寄りのない子ども達が亡くなり、復讐者として立つきっかけになった事件の大本」と言うとうっすらと思い出すかもしれません。

 

 史実に話を戻すと、大政奉還から王政復古の大号令、更には戊辰戦争という流れを経て、徳川幕府による統治体制は終わり、明治政府による新たな統治体制に移行する事になります。その流れの中で、宗教界も大きな変革を迫られる事になった訳です。

 

 詳しくは自分の説明などよりも1000倍は面白い本著をお読み頂くとして、ざっくりと言うと、その変化とは神仏習合(しんぶつしゅうごう)』から『神仏分離』へ、という流れでした。

 

 神仏習合とは、日本土着の神祇信仰(神道)と、大陸から伝来し、日本に定着した仏教が融合し、新しい信仰体系として再構成(習合)された宗教現象の事を差すとされています。仏教伝来の初期には、ざっくり言うと仏教の『仏』は「何かとなりの国から来た神様」という扱いで、日本古来の神と同じ様な扱いを受けました。よってこれもまたざっくり言うと、『神≒仏』的に、神も仏も同じ様に祀るという状態となり、それが長らく続く事になります。

 

 これが仏教と神道の両者にとって何の摩擦もなく行われたかというとそんな事もなく、長い歴史の中では本地垂迹(ほんちすいじゃく)』に見られる様に「仏教の仏が人々を救う為に、神の姿になって降りて来るのだ」という考えが広まる一方、「いやいや、逆に仏が神の権化であって、神が主体なのだ」という反本地垂迹的な考え方に傾いた時期等もあり、言ってみれば「ラーメン屋の元祖と本家」みたいなマウントの取り合いが行われた事もあります。

 

 もっとも、民草からすれば「どっちのラーメンも美味いよ」もとい「いずれにせよ自分達を救ってくださるというありがたい存在」であった訳で、その信仰のあり方も含めて両者は互いに影響を与え合いつつ(時にはトムとジェリー的に仲良く喧嘩しつつ)日本人の信仰を支えて行く事になります。

 

 それが明治維新と前後して大きな転機を迎えます。

 

 これまで習合されていた神と仏は分離されるべきだという流れが起こりました、これまた詳しい説明は本著をお読み頂きたい訳ですが、その『神仏分離』の流れは、仏教界からすれば『法難』と言われる様な受難でした。具体的には寺が廃されたり、仏像が壊されたりしました。地方の民俗資料館等に行くと、縦に割られた木彫の仏像等に「これは廃仏毀釈運動の際に壊された仏像です」等のキャプションが付けられて展示されている事があるかと思います。先に書いた『るろ剣』のエピソードは、仏教界から見た、そして明治政府に敵対するキャラクターの側から見た歴史観をもとにしたものだと言えます。

 

 一方、神道にとって、これはある意味で習合状態からの独立でした。

 本地垂迹的な考え方の下では、(実際は必ずしもそうではない訳ですが)『仏が本地にあって、神がその垂迹であるという考え方は納得が行かない』という考え方が根強くあり、ネット上で廃仏毀釈神仏分離等で検索をかける際にも、寺(仏教)側が書いた解説と神社側が書いた解説では全く異なった書き方になっている場合があります。

 「やっぱり神仏習合はおかしい。それが神仏分離であるべき姿になったのだから、廃仏毀釈運動が一部過激化したのは仏教界にとって悲劇だったかもしれないが、考え方としては自然な事だ」という趣旨のまとめ方をしているサイトもあります。これらは神道側から見た歴史観であると言えます。

 

 この通り、仏教側から見れば『法難』『受難』であった事が、神道側から見れば『本来あるべき姿への回帰』であったという様に、歴史というものは『多面的な物事のとらえ方』をした時に、全く異なる表情を見せるものです。それを忘れ、一面的な物事の見方をしていると、物事の本質を見誤る事になります。更に言えば、この『仏教と神道』という宗教界の問題だけで神仏分離が語れる訳もなく、『江戸幕府から明治政府へ』『大政委任から大政奉還へ』という政治の流れ、日本の統治体制の切り替わりという大きなうねりの中で、日本人の信仰は大きな影響を受けたのだと言えるでしょう。現在は政教分離といって、政治と宗教は切り離されていて然るべきだという事になっていますが、かつては鎮護国家(学校で習いましたよね?)という考え方もあった位ですから両者の距離はもっと近く、互いに密接に関係し合っていた訳です。

 

 さて、ここまでが『前段』です。

 

 「待てやコラ」という声が聞こえて来そうではありますが、もう少しだけお付き合いの程を。

 先程書いた様な、『仏教と神道の軋轢』『日本の統治体制の変化』といったものだけで神仏分離を語る事もまた一面的なものの見方である、というのが本著があらわす「神仏分離『問い直す』」という部分にかかわって来る訳です。

 

 神仏習合期の仏教と神道の『対立』なるものは、どれ程のものだったのか。その中で民衆の信仰とはどんなものだったのか。また神仏分離を経た後に、社会にはどの様な変化がもたらされたのか。それらは様々な角度から今現在も研究されているテーマです。取り組んでいる方も学者や研究者だけではなく、宗教界等にもこのテーマに取り組んでいる方はいらっしゃいます。そうした方々は、それぞれの見識や研究テーマ、自身の立場から見える数多くの『面』を自分達に提供してくれています。

 

 自分はせっかく大学で仏教美術を学んだので、自分なりの受け止め方をする訳ですが、仏像(というか彫刻全般)は、多数の『面』によって構成された多面体なんですね。昔のポリゴンの荒い3D格闘ゲームのキャラクターや、3Dプリンターで出力された表面の荒い立体物なんかを思い浮かべてもらえるとわかりやすいかと思いますが、立体というのは多数の『面』の集合体です。(結論まで行くとこの『面』というのも無くなって行く訳ですが、そこに到達するまでの理解としては『面』はあります)

 

 普通の1から6までのサイコロは6面ダイスとも言いますが、100面ダイスになるとぱっと見の見た目がほぼほぼゴルフボールになります。どの面が上になっているのかわかりにくいので通常はまあ使わないんですが、それはさておき、この世界の立体物というものが多面体であるのと同じ様に、思想や信仰といったものも多面体であり、一面にばかり固執すると全体像を見誤るという事が起きます。そしてそれは、自分達が陥りやすい落とし穴でもあると言えます。

 

 近年、特にSNSが普及してくると、「自分の意見は絶対正しい」という、妙な自信に満ち溢れた人が増えた様に思います。SNSは本質的に承認欲求を満たす事に特化したツールなので、自分と意見が近い人や自分を褒めてくれる人を近づける一方、反対意見や対立する価値観を遠ざけて行きます。その結果何が起こるのかと言うと、客観性も何もなくただ自分が正しいと信じて疑わない人々が量産されて行く結果になるのですが、その落とし穴にはまっている本人は、その事に気付いていないという事がままある訳です。これは本著でもその重要性が説かれているところの『問い直す』姿勢から程遠いと言えます。

 

 何かを、自分を『問い直す』という事は、今自分が持っている価値観やものの見方を一度脇に置いて、まっさらな状態で、別角度から同じ問題を見つめ直すという事です。あるいは自分が見ている『面』とは全く異なる『面』を見ている人と交流し、意見を交換する事です。そうする事で見えてくるもの、というよりも、そうしないと見えてこないものが社会にはたくさんあります。でも意識しないと、そうした『問い直す』姿勢を自分達は忘れがちです。なぜなら、ひとつの考え方に固執していた方が『楽だから』です。何かを学び直す必要もない。自分を変える必要もない。そういう『楽』に流れがちなのが人間です。もちろん自分もそうです。

 

 そこで、「いや、それじゃまずいでしょ」という事を思い出す必要がある訳ですが、自力でそう気付くのは案外難しいものです。だから本著が必要とされてきます。本著は神仏分離を問い直すという、歴史・宗教の専門書であると同時に、『問い直す』という事の重要性を広く一般に説く良著だと言えます。

 

 どうでしょう。自分達が見ている世界は、平面化していませんか?

 一面だけを見て、全体を理解したつもりになっていませんか?

 そうした気付きを、本著は与えてくれているのだと思います。