老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

なぜ自分達はカルトを信じてしまうのかという話

 何だか安倍昭恵氏がカルト的な思想に傾倒しているらしい』という内容の記事を見掛けてしまい、暗澹たる気持ちになりました。マジかーっていう。そして「これ本当かな?」と疑う一方で「まあ、可能性はあるな」と思う自分もいます。詳しくは以下の記事を参照して下さい。

 

note.com

 

 記事の内容をそのまま信じるかはお任せしますが、最初に言っておくと、「人がカルトにハマるのは、その人が愚かだからではなく、そもそも全ての人の心にはカルト的な思想を信じたくなってしまう脆弱性があるから」というのが自分の持論です。その事については後述します。

 

 かつて一連のオウム真理教事件が起きた時、自分は「これは宗教についてちゃんと学ぶ機会を持たないと、自分も騙されるだろうな」と思いました。そして紆余曲折の末、お寺さんの子供でもないのに大学で仏教を学ぶ事にした訳ですが、今にして思えばこの時の判断に間違いはなかったと思います。だって定期的にこういう事があるし。

 

 オウム真理教の事件も、もうよく覚えていないとか、物心付く前だったという方がいそうなので、一応Wikipediaのリンクを置いておきます。

 

 

ja.wikipedia.org 

 自分が宗教やカルトの問題というと「何か言わないと!」みたいに食い付いてしまうのはこの経歴のせいなんですが、特に専門家や学者という訳ではなく、ちょっと宗教に興味がある一般人の言う事なので、以下はそのつもりで話半分くらいに思って読んでみて下さい。

 

 さて、大学で信仰というよりも学問として仏教や仏教文化、そして比較宗教概論を学ぶという事をすると、少なくとも大抵の新興宗教の教義についてツッコミを入れられる程度の基礎教養は身につきます。今回の件で言えば

 

 「弥勒菩薩の下生(げしょう・仏が世の人を救うためにこの世に出現すること)が56億7000万年後だからって、何でそれが567=コロナウイルスなんだよ! てかサンスクリット語を舐めるな!」(細か過ぎて伝わらないツッコミ)

 

 という事です。いや、「コロナ567はミロク369だった!」ってドヤ顔で言われてもさぁ……。それはもうとんちの世界というか単なる語呂合わせで、笑点だったら座布団を根こそぎ持って行かれるレベルのネタだと思うんですが。

 

 ちなみに日本における仏教関係の名詞というのは、おおむねかつてのインドにおけるサンスクリット語梵語)が中国に伝わって漢訳された際に、音写(おんしゃ)と言って、元々のサンスクリット語の読みに対して漢字をあてた事によって出来ています。日本で言ったら「英語をカタカナ表記する」様なものですかね。なので弥勒(みろく)は、369でもましてや567でもなく、その大本はサンスクリット語のmaitreya(マイトレーヤ)です。この時点でどこがミロク=369(567)なんだっていう話ですね。マイトレーヤといえばオウム真理教ホーリーネームとか勝手な事を言って幹部信者に名乗らせたせいで情報汚染というか検索汚染が甚だしくて大迷惑なんですが、断じて上祐氏の別名ではないです。

 

 話は逸れますが、サンスクリット語といえば大学時代の先生曰く「きちんと修めようと思ったら10年かかる」分野であり、名詞であれば男性・中性・女性、更に単数・双数・複数、果ては「~が・~の・~に・~を」といった格でも語形変化するので、英語学習の様に単語帳を片手に暗記しようとするとまず高確率で躓きます。

 

 「馬が」「馬の」「馬を」みたいなサンスクリット語の語形変化を「えーと、アシュヴァス、アシュヴァム、アシュヴェーナ、アシュヴァーヤ……」とかぶつぶつ呟いて覚えようとしている人がいたらまず間違いなく仏教学部生だと思いますが、多分一般の人には念仏にしか聞こえないと思うので優しくスルーして下さい。

 

 閑話休題。この様にカルトと呼ばれてしまう様な新興宗教というのは、「元ネタから都合の良い部分をパクって切り取り、これまた都合良く組み合わせる」という事を平気でやります。しかもそのパクリ方が雑で、ちょっと調べれば元ネタに行き付く様なものでもスナック感覚でパクって来るので、出来上がった教義は継ぎ接ぎだらけです。ボロが出る、というレベルではなく、どこがボロじゃないか探すのが難しいレベルなのですが、侮ってはいけません。

 

 信じてしまう人は、それでも信じるからです。

 

 鰯の頭も信心からとは言うものの、カルトに傾倒してしまう人というと失礼ながら「こんなもの、信じる方に問題があるのでは?」とか、もっと端的に言えば「馬鹿なのでは?」という話になりがちだと思いますが、かつてのオウム真理教を振り返れば、その幹部信者には医師や弁護士、高学歴者など、単に「無知だからカルトに騙されるのだ」という一言ではくくれない人々がいた事を思い出すでしょう。

 

 当時も、元東大生の信者など「何でこんな人がオウムなんて信じたんだ」と言われていましたが、結局は深く検証される事なく『信じた奴が馬鹿だった』という雑な総括をされてしまっていた様に思います。そして、そういう雑な括りであの事件を片付けて忘れてしまった頃に、総理夫人がカルトに傾倒しているかもしれない、なんていう笑えない冗談の様な問題が出る訳です。その前にも「有名タレントや俳優、スポーツ選手が洗脳された」なんていう騒ぎが何度かありましたが、なぜ彼等が洗脳されてしまうのか、カルトに傾倒してしまうのか真面目に検証するという事は、一部の宗教関係者や研究者を除けばされて来なかった様に思います。

 

 オウム事件直後は、既存の宗教、宗派の中で「なぜカルト信者になる前に、自分達宗教家は彼等に接触できなかったのか。いち早く彼等の悩みを察して、カルトではない道に導けなかったのか」という自己反省がされていました。そうした自己反省が行われたのは、「人々の悩みに寄り添い、支える」という、あらゆる宗教がその目的とする行為を、カルトの信者集めや教祖の私利私欲に悪用された形になってしまったからです。

 

 言い換えれば、悩みや迷いを抱えて生きている人は、それを解消する為に『支え』を必要とするのであって、それが本当に信じるに足るものなのか自己検証する余裕は無いのだと思います。だから、困っている時に杖の様に差し出されたものを、つい掴んでしまう。頼ってしまう。たとえそれが周囲から見ればいかがわしい新興宗教の類であっても。

 

 例えば生き方の選択肢が無数にあって、それを自分自身で『自由』に選ぶ時、選んだ結果がどうなろうと、選択した自分には『責任』が付いて回る訳ですが、その『自由に選択する事の責任という重さ』が耐え難い時があると思うんですよ。特に進路に悩んでいる学生なんかは。

 

 何でも自由に選んでいい。選択肢は無数にある。じゃあ、その中の『正解』は?

 

 ほら、怖くないですか? 『間違う事』が。そして間違えた責任を取らされる事が。

間違えない様にと言うより、間違えた時に責任転嫁する為にも、誰かを、何かを頼りたくなりませんか?

 本当は『自由』なんて自分は欲しくないのかもしれないとは思いませんか?

 誰かに「お前はこれをやれ。これを信じていろ」とたったひとつしかないものを投げ与えられた方が楽な気がしませんか?

 

 ……脅かし過ぎたかもしれませんが、これらが冒頭で書いた「人がカルトにハマるのは、その人が愚かだからではなく、そもそも全ての人の心にはカルト的な思想を信じたくなってしまう脆弱性があるから」という持論に至った理由です。

 

 自分達の心の中には様々な迷いや弱さがあって、それに対する救いを常に、そして無意識に求めているのですが、その脆弱性を悪意のある者に利用されると、ついカルトを受け入れてしまう。それは知識や教養の有無とは別問題です。誰でも陥る可能性がある、一種の『落とし穴』です。そして一度その落とし穴に落ちた人を救い出そう、カルトから脱会させようというのは容易ではありません。自分では命綱だと思っているものを、「それは間違っているから差し出せ」と言われて素直に従う人がいますか?

 

 最後にまた怖い事を書きます。

 

 この話を、特定の新興宗教やカルトに限定した話だと思って読んでいた方が殆どだと思いますが、ここで言う新興宗教やカルトは『特定の政治思想』『特定の支持政党』『特定の歴史観』『特定の思想信条』に置き換える事が可能です。いくらでも。

 

 要するに自分が何を信じるか、信じていたいかという話なんですね、これは。

 そして自分が今信じているものは、本当に信じるに足るものなのか確かめたの? という話でもあります。

 

 だから「何でこんなでたらめな人に大勢の支持者がいるの?」とか、「失言や暴言、失策を繰り返している様な政治家が辞職を免れているのはなぜなの?」とか、もっと言えば「誰もその間違いを指摘出来ない様な、忖度される様な偶像がどうして生まれてしまうの?」という話に置き換えて考えて欲しいと思います。

 

 さて、本当に愚かなのは誰ですか?

 それが自分じゃないと言い切れますか?

 

 これは多分、そういう話なんだろうと思うのです。自分は。