老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

東京オリンピックから遠く離れて

 昨日、父が再入院した。

 

 入院は以前から分かっている病気の治療の為で、2週間程度で退院できる見込みだから、本人も家族も慌ててはいない。

 でも面会はできないし、病棟には入院患者しか入れない。コロナ禍だからだ。

 

 自分は病院の入口の前で、車から降りずに父を見送る。父がひとりで手荷物を抱えて病院に入って行くのを当然の様に思っている自分がいて、慣れの怖さを感じた。自分が父に付き添えない事も、面会ができない事も、本当なら異常な事だった。でもそれはいつの間にか『当然』になってしまっている。

 

 オリンピックの開催が近付いている。

 

 その事が冗談の様に聞こえる。

 

 それでも自分は月曜日になれば普通に出勤する。

 

 テレビでは水泳の池江選手に対して、東京オリンピックの開催に反対して欲しいとか、代表を辞退して欲しいという要求を送っている人がいて、それが池江選手個人のSNSに直接届いているというニュースが流れたらしい。それを報じたとあるテレビ番組の司会者が、代表選手個人に対して要求を突き付ける人々の事を『卑劣だ』と言ったそうだ。

 

 『卑劣』

 

 強く、鋭い言葉だなと思う。

 

 自分は『酷だ』と思った。

 選手個人は間違いなくオリンピックには出たいだろうし、日本代表という立場もある。社会人選手には自らが所属する会社に対する責任もある。そうした選手個人に代表辞退を要求する事は酷だ。でも、卑劣という言葉はより強く自分の中に響いた。

 

 言葉の選び方。言葉尻。言葉狩り。色々と言われるかもしれないけれど、『卑劣』という言葉を使うなら、東京五輪を開催する為に池江選手個人の努力と復活を感動的な物語として取り上げ、広告塔として使う行為は、反対派から見て『卑劣』な行為にあたらないのかとも思ってしまう。

 

 自分が発した強い言葉は、必ず同じ鋭さで自分に帰って来る。そういう事に無頓着になってしまうのは、結局自分達がお互いに『自分の視点』でしか物事を見ず、相手の立場に立って考え、語るという事をしないからだろう。

 

 そして同時に自分は職場で『全国障がい者スポ-ツ大会』の地方大会中止を知った。

 自分は社会福祉法人で働いていて、職場には重度知的障がい者が多く入所している。

 

 驚きは無かった。昨年も中止だったからだ。そして今大会の開催可否の判断が待たれていたのだけれど、今年も中止になった。

 そもそも、入所施設でクラスターが発生すれば大変な事になるから、参加申込の時点で今回は見送る事が決まっていた。中止の知らせを見ても驚きは無かったし、特に何か行事予定が変わるという事もない。

 

 自分は施設の廊下に出る。そこに貼ってある写真は、一昨年の大会の時に撮ったものだ。コピー用紙にカラー印刷しただけのものだから、もう色褪せている。

 

 新しい写真は、今年も撮れない。

 

 そこで不意に、自分の中の何かが駄目になった。

 

 そして池江選手個人に代表辞退を迫り、『卑劣』だと言われた人々の事を思い出した。選手個人に相手が傷付く程の強い言葉を集団で投げ付ける事は確かに『卑劣』かもしれない。でも自分がどちらの側に近いのかと言えば、今この瞬間は間違いなく『卑劣』だと名指しされた人々に近い気持ちだっただろうと思う。

 

 何が大事で、何が取るに足らないか。誰がその線引きをしているのか。

 

 4年に一度のオリンピック・パラリンピック。それも次がいつになるか分からない自国開催での五輪は誰が見ても尊くて、貴重で、大切だ。もしかしたら一生に一度の機会。だから何があっても、どんな犠牲を払ってもやる。

 一方で毎年行われる障がい者スポ-ツ大会は、2年連続で中止されても仕方ない。

 

 いや、自分も分かってるよ。物事には優先順位や格付けがある事は。

 

 世界のトップアスリートが世界一を競う大会と、障がい者が健常者の何倍も時間をかけて50mを走ったり、ソフトボール投げをしたりするだけの、毎年行われる大会とではどちらが優先されるべきで、実際に優先されるか分かってる。

 

 でも駄目だった。今日だけはなぜかそれをそのまま『当然』の事として飲み込む事が出来なかった。

 

 東京オリンピックの開催が大事な事だと分かっている。池江選手だけじゃなく、全ての代表選手をオリンピックに出場させてあげたい気持ちもある。できる事なら無事に五輪が開催され、無事に閉会式を迎えて欲しいと思ってるよ自分も。信じてもらえないかもしれないけれど、本当に、心からそう思う。

 

 でもその一方で、オリンピックの開催に比べれば取るに足らない事だとされてきた事がいくつある?

 

 一昨年の障がい者スポ-ツ大会の写真に写っている、こう言っちゃ何だけど本当に安っぽい、参加賞みたいな金メダルと、オリンピック・パラリンピックで授与されるメダルの『重み』の違い。本当に子どもの玩具みたいな大会のメダルを見て、オリンピックとの違いが分からない程自分も馬鹿じゃないと思う。分かってるよ。何回も繰り返すけれど、本当に分かってる。

 

 でも。

 

 この色褪せた一昨年の写真を見ながら、「来年はスポーツ大会ができるかな」ってご利用者に言われても返す言葉がない自分達の事なんて一顧だにしない社会が、オリンピックの開催と中止で平行線の議論を続けている。滑稽だと思うし、恐らくどれだけの人々が反対だと言ってもオリンピックは開催されるんだろう。それを見て「何で自分達だけスポーツ大会ができないの?」なんて言うご利用者はいないだろうし、実際オリンピックが始まってしまえば皆選手の事を応援してくれるよきっと。嘘偽りなく、頑張れって言ってくれる。

 

 でも。

 

 それを今日は、素直に認める事ができないんだ。

 『でも』という言葉が何回も出て来てしまうんだ。

 

 入院中の父を見舞う事ができないのも

 いつまでも自粛を続けなければならない事も

 自分が原因で施設内クラスターが発生したらどうしようと怯え続ける毎日も

 年間行事のほとんどが中止されて、一昨年の写真が貼りっぱなしの廊下を歩く事も

 それを見て寂しさを感じる事も

 その感情をぶつける相手がいない事も

 誰を責めるのもお門違いだと知りながらそれでも誰かを責めたくなってしまう事も

 

 それらが皆『当然』で、オリンピックが開かれる事も『当然』だと言うのなら、その当然の様に格付けされた自分達の間にある『差』を、差別という言葉の片割れの意味を、そのつじつま合わせを、日々感じる理不尽さの答え合わせを、この自分にも納得できる様に誰か教えてくれないか?

 

 少なくとも今日、自分はこの『当然』を、この『差』を飲み込む事が出来なかった。

 じゃあ明日は? 明後日は? 何十年か先に今日の事を振り返った時は?

 

 自分は今日の事を忘れているんだろうか。

 それともこれを当然の事だと飲み込める様になっているんだろうか。

 

 分からない。本当に分からない。

伊是名夏子氏を『モンスタークレーマー』だとする今の日本で、『蛇の尾』として生きるという事

 最初に書いておくと、自分は福島県民で、現在は社会福祉法人障がい者福祉の仕事に携わっています。対象は重度の知的障がい者です。障がい支援区分で言うと、区分5から区分6の方々です。ちなみにこの区分は6が最高です。

 

 なぜ最初にこれを書くかというと、今の日本では『何を言ったか』よりも『誰が言ったか』の方が重要視され、無名の一般人が言う事など無視されるのが常だからです。一般人の正確な発言よりも、社会に影響力を持っている方が間違えて発信した情報の方に重きが置かれる。皆が後者を信用する。SNSのフォロワーの数がそのまま信頼度に直結する。そういう社会で、自分がどんなバックボーンを持っているのかを最初に明らかにする事で、少しでも自分の発言に耳を傾けてもらいたいが故の予防線です。嫌らしいですね。自分でもそう思います。

 

 さて、先日この伊是名夏子氏のブログの記事が炎上しました。 

 

blog.livedoor.jp

blog.livedoor.jp 

 『JRで車いすは乗車拒否されました』というタイトルで、車椅子での駅利用についてJRの職員に対応を求める中でトラブルがあった、という記事です。

 

 自分は単純に「こういう事もあるだろう」と思います。

 

 全ての駅がバリアフリー化され、身体障がい者でも利用できる環境が整っている事は理想ですが、現実はそうではありません。障がい者側の要求が通る事もあるし、現状ではどうしても対応できない事もある。伊是名氏の要求は現時点でのJRには対応が難しいものだったけれど、JRの受け答えも(伊是名氏のブログの内容によれば)事務的で、伊是名氏側からすれば『自分が身体障がい者である事を理由にした一方的な拒絶』の様に感じられた。これは一般乗客=健常者とJRの間でも起こり得るトラブルでしょう。

 

 何がここまで炎上する理由になるのかと戸惑いました。こうした顧客とのトラブルは何も顧客が障がい者でなくとも日常的に起こるものだからです。自分は若い頃にコンビニの深夜勤務をしていた事がありますが、ここで書くのもどうなんだと思う様なクレームの数々を捌いて来ました。拒絶するしかなかった要求もあるし、店側や自分の配慮で何とかなったケースもあります。今回の件もそれと同じでしょう。

 

 でも、今の日本の『自称多数派の価値観』によれば、伊是名氏は『モンスタークレーマー』なのだそうです。なぜって、Googleで『伊是名』と検索して出て来る「他のキーワード」の項目に『伊是名 クレーマー』と出る程度には皆さん検索している様なので。そして、『伊是名 夫』というキーワードも出て来ますが、これって必要な情報ですか? 「旦那の顔が見たい」という下世話な欲求と、「家族旅行の移動手段くらいお前が何とかすればいいだろ」という意見を送る為の相手を探している様にしか見えませんが。

 

 さて、話を元に戻します。伊是名氏はモンスタークレーマーなのでしょうか? それとも活動家なのでしょうか?

 

 少なくとも、本を出版し、コラムニストと名乗っておられるので、「全くの一般人ではないだろう」という指摘は的外れではないのかもしれません。ただ、社会や政治に対してなにがしかの対応を求める事を『活動』と言うのであれば、国民は何らかの形で日々『活動』をすべきだろうと思いますし、『活動家』であるべきだと思います。例えば自治体に「コロナ対応のワクチン接種はいつになりますか? それはもう少し早まりませんか?」と言うのも活動だし、北朝鮮がミサイルを撃つ度に「日本のミサイル防衛は大丈夫なんだろうか? もっと防衛費を増やして、イージス・アショアだって配備を再検討すべきなんじゃないか」と意見するもの活動だし、慰安婦問題がこじれて「韓国との外交では日本はもっと毅然とするべきだ」と述べるのも活動なら、労働者が「生活が苦しい。最低賃金を引き上げて欲しい」と要求するのも活動です。更に言えば「原発の汚染水を海に流すというのは漁業関係者として絶対に容認できません」と意見するのも活動です。

 

 『活動家』という言葉を、「自分にとって相容れない発言・要求をする組織化された厄介者」程度の雑な括りで使っていませんか?

 

 自分達はもっとこの社会に対して、政治に対して要求=活動すべき事がある筈だし、それは政治的な立場に左右されるものではありません。自分の意見は正当な『要求』であって、反対派の意見は厄介な『活動』だという程度に幼稚化された言葉遊びの殴り合いをしているから、この国は良くならないんですよ。恐らく。

 

 この考え方に照らせば、伊是名氏は活動家です。自分達全員がそうである様に。そしてそれは国民として当然の事です。

 そしてこうした活動は、政府や企業を一方的に困らせているのではなく、むしろ助けています。社会をより良い方向に変革して行くという意味で。

 

 例えば今回、伊是名氏の要求に対してJRの駅員の方が言った、バリアフリー法』の要件である「利用者3000人以下の駅は対象ではありません」という文言ですが、これは今年、令和3年4月1日から改正されました。以下のNHKの記事がよくまとまっているので引用します。

 

www3.nhk.or.jp 

 要点を整理すると、

 

 ・これまで1日平均の利用客3,000人を基準にしていたものを、2,000人にする。

 ・主な理由は、以前の基準値では小規模な駅でのバリアフリー化が進まないから。

 ・利用客数基準では地方と都会のバリアフリー格差も発生するから。

 

 という3点です。

 つまり政府与党も、なかなかバリアフリー化が地方の小さな駅まで整備されて行かない現状に不満と危機感を持っているという事です。でなければそもそも法改正など通りません。そこにはパラリンピックの開催という事情も含まれています。しかし、実際にバリアフリー化に対応するのは例えばJRという民間企業です。政府が命じて無理矢理やらせるという事はできないし、整備計画に口出しをするという事もできません。だから、バリアフリー法という基準を見直す事で、民間企業に対して『より早く、幅広い対応』を求めている訳です。

 

 今回の件でも、バリアフリー化の費用をJRに負担させたら、地方の不採算な駅が無くなるぞ(だからバリアフリー化なんていう過度な要求をするな)』という脅しめいた意見が散見されるのですが、その心配があるのなら、バリアフリー化への助成拡大』や『生活インフラとしての地方駅の維持』という要求を国=政府なりJRなりに強く要求すべきです。自分達健常者が強い者に意見できない事を、障がい者は現状の不便に耐えていろ』という形に転嫁して行く事は有り体に言って『恥』だと思います。

 

 もっと言えば、JRが設備投資という負担を抱える事で地方の不採算な駅が統廃合されて行く事を懸念するのなら、自分達は事故や自殺を防止する為のホームドアの設置が呼び掛けられ、実際に整備が始まった時にも同じ心配をするべきでしたし、ホームドアの設置に公費から『鉄道施設総合安全対策事業費補助』として補助金が出ている事にも過度な設備投資への要求だとして反対すべきでした。また地方の小さな駅にいつまで経ってもホームドアが整備されなかったとしても諦めるべきですし、ホームドアが設置されない事で事故や自殺が減らず、その度に列車の運行が止まったとしても、それを仕方ないと受け入れなければならない事になります。

 

 健常者の安全や利便性に関わる投資は『良い投資』で、バリアフリーに関わる投資は『過剰な負担』という説明に筋が通ると思いますか? 自分は思いません。

 

 

 次に、障がい者間の格差の問題』について少し書きます。この問題は本当に複雑です。

 

 一口に『障がい者』といっても、今回の伊是名氏の様に『自分の口で意見が言える障がい者(特に身体障がい者に多いと思いますが)がいる一方で、彼等の後ろには『自分の口で意見を表明できない障がい者が多数いるという事です。それは主に重度の知的障がい者です。

 

 以前にも書きましたが、重度の知的障がい者は、選挙に行く事もできません。字を書けない=候補者の名前を書けないからです。そして字が書けたとしても、正しく書けたか、書いた候補者が障がい者福祉にとって積極的な候補か、逆に極端な事を言えば「障がい者福祉なんてどんどん縮小してしまおう。財政が苦しいから」と考えている様な、障がい者福祉から見ればマイナスの価値観を持った候補なのか判断ができません。入所施設の職員は投票所まで付添はしますが、代筆はできませんし、もちろんどの候補者に入れた方が良いなどと指示もできません。(仮に指示したとしても重度の知的障がい者はその指示通りにはできません)

 

 以前、『投票用紙に書いてある日本語が不自然だ』という事例を持ち出して、「これは外国人勢力による選挙への組織的な工作の証拠である」と猛烈に抗議していた方がいらっしゃいましたが、その方には『知的障がい者だって選挙に行く』という事が見えていないのだろうと思いました。

 

 自分達職員には、ご利用者が投票用紙にどんな字を書いているか分かりません。もしかしたら、無効な文字を書いているのかもしれない。候補者ではない人の名前(例えば自分の名前とか)を書いて投票してしまっているのかもしれない。でも、それでも彼等は恵まれている方です。少なくとも投票所に行って、投票用紙に文字を書く事はできている。でも、そもそも投票所に行けない、字が書けないという知的障がい者は、投票所に行ける知的障がい者の何倍もいます。

 

 障がい者であっても、投票をする権利はあります。でも、その権利を行使できない状態で暮らしている障がい者がいます。彼等は政治という場から無視されているに等しい状態であり、それが『当たり前』だと思われていて、判断能力が無いのだから無視されていても『仕方ない』と思われているという事です。

 

 だから、特に重度の知的障がい者には『代弁者』が必要とされます。

 

 社会や政治に対して意見が言えない。その存在が無視される。

 

 そうした中にあって、障がい者の立場に立って、自分達の意見を代弁してくれる候補者や、支援団体や、ジャーナリストなり著名人といった存在は必要です。そこには、自分の口で社会や政治に対して意見を言う能力を持った身体障がい者も含まれます。

 

 自分が言うのも変な話ですが、誤解を恐れずに言えば伊是名氏は障がい者として『恵まれている』方です。

 

 結婚して、子育てをして、自分の名前で本も出して、社会に対して『積極的に関わる』事ができている。それは施設で暮らしている方々には難しい事です。その事は伊是名氏も知っていると思います。だから、『意見できる障がい者』としての責任があるとお考えなのかなとも思います。自分の背後に、社会から半ば無視された障がい者が数多く存在する事を知っている。だからこそ『代弁者』の自覚として、自分から要求を取り下げたり、諦めたりする事に抵抗がある。それが今回の様な問題のきっかけになる事はあるとしても。

 

 もちろん、同じ障がい者であっても、「伊是名氏に自分の代弁をして欲しいとは思わない」という人もいると思います。例えば自分が全ての健常者の代表であるかの様に意見を言ったり、障がい者の事を誰より分かっている風に代弁者面をしたりしていたら「何言ってんだコイツ」と思われるだろうなと思います。それは自然な事で、当然の事です。自分達はひとりひとり違う価値観を持って生きているのだから。

 

 同じ障がい者だからと言って、福祉関係者だからといって、全員が同じ方向を向いている訳じゃない。例えば以前書いた様に入所施設というものに悪いイメージを持っている障がい者もいれば、それを必要としている障がい者もいる。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

  そうした事実を踏まえた上で、障がい者の中にも格差がある事を認めた上で、それでもこの社会から疎外された生活をしている人々が少しでも減る様に、生活しやすい様にして行く為に何が出来るかを、自分は考えたい訳です。なぜなら、自分だってそんなに楽な暮らしをしている訳でもなければ、社会的な地位が高い訳でもないからです。

 

 次に多数派からこぼれ落ちるのは、自分かもしれないからです。

 

 そう、自分は何より自分自身の為に、今この長い文章を書いている訳です。たまの休みに半日使って。どこかから原稿料が出る訳でもないのに。なぜならこれは自分にとっての利益にもなると思っているから。そう言われた方が綺麗事を並べられるより信用できると思う方もいるかもしれませんので、敢えて書きましたが。

 

 冒頭で少しだけ書きましたが、自分は福島県民です。漁業関係者ではありませんが。

 そして福島県では今、原発事故で発生した汚染水の処理について漁業関係者を中心に大反対があるにも関わらず、政府は海洋放出を決定する方針の様です。

 

www.minyu-net.com

 ほら、ここでまた多数派が少数派を無視したでしょう?

 

 よく、多数派に属する人々が「正しい意見なら多数の賛成が得られるのは当然なのだから、過半数の賛成が得られない事、例えば政権が取れない事は、少数派の主張が間違っているという事の証明だ」と言います。でもそれって、『自分が多数派に属しているから言えるだけの事』に過ぎないと思いませんか?

 

 障がい者福祉の問題で言えば、自分は多数派である健常者の側にいます。極端な話、現状何も困っていないし、バリアフリー化が今後一切進まなくても苦痛を感じない。少なくとも老人になるまでは。でも、原発事故の処理という問題では、福島県民は全国から見て少数派です。そして福島県民全員が今回の海洋放出に反対という訳でもありませんから、反対派の数は全国民から比較すれば明らかに少ないという事です。逆に県外にも反対派はいるでしょうが、多くの方にとって今回の問題は他人事です。

 

 この様に、『いつか自分も少数派になる』という事を知っておくべきです。

 

 今は多数派の側にいて問題ない。でも、今日にも交通事故に遭って、高次脳機能障害になれば今日から自分は重度障がい者です。多数派と少数派とを分けている壁は、そんなに強固なものではないんですよ。そんな中で『弱者を切り捨てて行こうぜ』という価値観に基づいて生きて行く事は、結局『いつか自分が切り捨てられる行為に手を貸す』という事です。

 

 今の日本は、『自分の尾を食べる蛇』です。

 

 自分が蛇の頭と同じだと思っていられる間はいい。でも、尻尾は徐々に食べられていて、いつかは自分が食べられる側に回る。その時が来てから、蛇の頭が考えている事が間違っていた事に気付いたって遅いと思うんですよ、自分は。そして自分が食べられる番はそう遅くないのかなとも思っている。

 

 だから、これを書きました。自分の為に。

 

 それが誰かに、もっと言えば蛇の頭に届く事までは期待しません。

 でも、自分が蛇の頭だと思っている誰かには届いて欲しいと思っています。

『須賀川特撮アーカイブセンター』に見る、地域振興における文化財の活用について

 随分と硬い題名で始まりましたが、要するに『地元民がようやく特撮アーカイブセンター行ったよ』という話です。ですが、それだけだと味気ないので、これまでの地域振興における須賀川市『やらかし』的な話とも絡めて行きたいと思います。

 『須賀川特撮アーカイブセンター』に関しては以下のツイートに写真を掲載していますので御覧下さい。

 

 

 で、内容的には大満足ですし、「特撮が好きなら半日は過ごせるだけの収蔵品の数々が皆様をお待ちしております」というポジティブな内容だけ書いてもいいと思います。その方が地元民としてもきっとプラスになります。ただ、悲しいかな我が地元は先に述べた通り、これまで様々な事を『やらかして』来たので、ちょっと釘を刺しておこうという思いもあり、「頑張れ!」という叱咤激励も兼ねて厳しい事も書きます。

 

 上で書いた通り、自分は福島県須賀川市で生まれ育ちました。

 

 須賀川市には郷土の偉人として、二人の『円谷』がいます。

 ひとりは『特撮の神様・円谷英二もうひとりは東京オリンピック マラソン銅メダリスト・円谷幸吉です。

 

 さて、この事をご存知だった方は何人いるでしょうか?

 

 まあ、自分のブログの読者は多くないので誰も知らなくてもおかしくはないのですが、それに加えて地元は元々情報発信力が弱くて、宣伝とか広報って苦手なんです。

 

 東京オリンピックと特撮と言えば、NHK大河ドラマ『いだてん』がありましたね。そしてもちろんシン・ゴジラも大きな話題になりました。

 ですが、そのふたつの『大きな波』に対して、地元須賀川はいまひとつ乗れていなかった様な気がします。

 

 須賀川市は今でこそ円谷英二ゆかりの地、そしてウルトラマンの街として『M78星雲 光の国』との姉妹都市『すかがわ市M78光の町』を標榜していますが、もっと昔にはゴジラの町』を目指していた時期がありました。

 

 地元には『乙字ヶ滝』という小さい滝(一応「日本の滝百選」のひとつみたいです)があり、そこにゴジラの卵』ゴジラの足跡』というモニュメントを設置していました。それに加えて、山肌をライトアップしてゴジラの輪郭を浮かび上がらせる、なんていう事もしていました。それらは自治体主導ではなく、地元の青年会議所によるささやかな町おこしプロジェクトだった様です。

 

 でもそれらは令和3年3月現在、全て撤去されています。

 

 確かゴジラの卵は一部破損した後、不審火で焼失して再建されず、ゴジラの足跡(といっても地面を掘って固めただけに近いものでしたが)は埋め戻され、ライトアップは火災の原因になるのではとか、或いは節電という事で撤去されたと聞きます。

 

 そして須賀川市からゴジラの面影が薄れた頃に、『シン・ゴジラ』が公開されます。

 

 『シン・ゴジラ』公開の3年前、須賀川市ウルトラマンの町』になる事を目指していました。

 2013年5月には先に述べた『M78星雲 光の国』との姉妹都市提携が発表され、須賀川駅前にウルトラマンの石像が作られます。そして2015年には中心市街地にウルトラマンや怪獣のモニュメントが設置され、その後も数を増やして行きます。

 それ自体は良い事かもしれませんが、結果として地元は前述した大きなブームに乗りそこねました。

 

 福島県須賀川市も、東日本大震災からの復興を目指す中で一番の問題は『人口減少』だと思います。福島県全体としては当然原発事故の影響もありますし。そんな中で『どうやって地域振興をして行くか』というのは大きなテーマです。この町をどの様にデザインして行くか。何を軸にするか。どんな将来像を描くか。

 

 地元民の自分が言うのもなんですが、須賀川市は『観光の街』という印象は薄いです。東北新幹線の停車駅を持つ白河市郡山市ほど都心からのアクセスも良くなく、(何せ在来線の東北本線は30分や1時間に1本の本数しか運行していません)スキーシーズンを中心に多くの人で賑わう猪苗代周辺や、観光の街として栄える会津やいわきほどの知名度もない。そんな中で『町の賑わい』をどの様に取り戻して行くかについては、相当頭を悩ませた事でしょう。

 

 そこで須賀川市は郷土の偉人である円谷英二』の功績を街づくりの軸にする事にしました。(これは推測ですが)

 

 これに対しては様々な意見があると思います。

 実は、数年前に須賀川市から市民へのアンケート調査がありました。確か『ウルトラマンを用いた町おこしやモニュメントの設置』に関する郵送によるアンケートだったと思います。

 

 原文のデータを無くしたので何を書いたか記憶が曖昧なんですが、自分はそのアンケート用紙の解答欄では書ききれないだろうと思って、最初から『以下別紙』としてA4の用紙4枚分程度に要望や意見を書き殴って同封しました。(面倒なオタクムーブ)

 担当者に読んで頂けたかどうかは分かりませんが、確かこんな内容です。

 

東京都現代美術館で開催された特撮博物館』が大盛況だった事。(自分も行きました)

・同じ福島県の三春町にある福島さくら遊学舎で福島ガイナックス(現・福島ガイナ)によって主催された『特撮のDNA』展が盛況だった事。(これも行きました。そしてこの盛況が須賀川市民として悔しかった)

なぜ円谷英二の出身地である須賀川市で、これらの展覧会が開けないのか。また須賀川市立博物館等の既存施設を活用して常設展示できないのかという事。(ちなみに、今はどうだか知りませんが、自分が子どもの頃に博物館に常設展示されていたのは『シュガロン』のスーツ1体だけでした。なぜシュガロンなんだ・・・。そしてアレはまだ博物館にあるのか?)

なぜ須賀川市ゴジラに関連した町おこし事業を継続できなかったのか。止めるべきではなかったのではないかという事。

 

 そして上記の内容に加えて、ウルトラマンによって町おこしをするのなら、中途半端で止めないで欲しい事」を書きました。より端的に言うなら『やるならどんな結果であれウルトラマンと心中するつもりでやって欲しい』的な事を書きました。当時の自分は特に「三春町に先を越された事」が悔しかったらしく、多分怒っていました。(三春町の方、いらっしゃったら申し訳ないです)

 

 そして今、中心市街地にある須賀川市民交流センター『tette(テッテ)』内には円谷英二ミュージアム(現在は令和3年2月13日に発生した地震の影響で休館中)ができ、上で書いた様に須賀川特撮アーカイブセンター』ができました。須賀川市は今度こそ本気で『特撮の町』を目指そうとしているのかもしれません。

 

s-tette.jp

 

www.city.sukagawa.fukushima.jp

 

mediag.bunka.go.jp

 

 これには、もちろん賛否があるだろうと思います。

 

 市民の全てが特撮に興味があるかというとそうではないだろうし、『円谷英二ミュージアム』も『須賀川特撮アーカイブセンター』も入場料無料で開放されています。そうした施設の運営費や、市内のモニュメントの整備費、維持管理費がどうなっているのか気にする方もいるでしょう。先のアンケートにしても、明確に『反対だ』という意見を送った方もいると思います。

 

 自分としては、これで少しでも地元が活気付いてくれれば良いと思いますが、それは全ての市民の願いではないかもしれないし、これが地域振興にとってプラスになるかどうかは未知数です。でも、ここまで来たら『特撮で地域振興をやろうとしましたが失敗したので事業を打ち切ります』という訳には行かないと思います。

 

 特撮が観光資源にならなかった。地域振興に繋がらなかった。人口減少が止まらなかった。

 

 これは、十分考えられる事です。元から観光地としてのポテンシャルが高い訳ではない地元須賀川市の人間として言わせてもらえば十分あり得る話だと思います。

 

 でも、須賀川市がこれからやろうとしている事は、特撮文化というものの力を借りた文化財の活用』による町おこしです。そこにある文化財は、須賀川市須賀川市民の所有物ではありません。それらは『円谷英二の出身地であり、特撮文化に対する理解がある町、須賀川市』という『信用』によって、『一時的にお預かりする事を許されている文化財=宝』です。その信用が維持されるかどうかはこれからの頑張り次第であるとも言えます。だからこそ繰り返しになりますが、仮に町おこしの成功という結果が伴わなかったとしても、途中で投げる訳には行かない。そういう責任を、自分達の住む市は担ったという事です。

 

 文化財を観光資源として活用する事は、多くの地方自治体で行われている事です。でもそれらが、過去・現在・未来からの『預かりもの』であるという事は忘れてはならない点だと自分は思います。自分はこれでも一応『仏教美術』という文化財について学んだ人間でもあるので特にそう言いたくなるのかもしれませんが、文化財を活用する』のは今を生きる自分達の都合でしかなく、その成否とは別に、文化財を守って行く責任は我々にあるという事です。須賀川市はその責任を引き受ける選択をしたのですから、「今度は『消えたゴジラの卵』の二の舞にならない様にしっかりやって行きましょうよ」という事です。

 

 長々と書きましたが、これは多分そういう単純な、でも重要な話なのです。

選ばれなかった僕等と選ばれた彼等を結ぶ様に『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(ネタバレあり)

 まあ、こんな辺境のブログに辿り着く様な方はもう劇場版を観て来た人だと思うのだけれど、それでも一応「ここから先はシン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレ前提で話を進めますよ」と警告しておく。未見の方はこの文章を読んでいる暇があったら劇場に行って下さい。

 

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森会長の辞任から見えて来る自分達のダメさ加減

 ここ数日、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会森喜朗会長の女性蔑視発言に関連するニュースを見ていて、年が明けても酷い話題が続くなと思っていました。それで、この男女差別を男性である自分の目線から見て何か書くべきかと思っていた矢先に、今度は辞任から川淵三郎氏への後継指名と白紙撤回という報道が立て続けにあり、何かもう全てが『今の自分達のダメさ加減』を煮詰めた様な話だなと思ってげんなりしました。

 

 そう、『自分達のダメさ加減』です。『男社会のダメさ加減』ではなく。

 

 それはある意味ではこの国の『世代間格差』の問題でもあるし、年功序列の悪い部分だけが生き残った』この国で、必然的に発生した問題だとも言えます。

 

 また少し昔話をさせて下さい。

 

 自分は数年前までとある中小の運送会社で事務方として働いていました。

 そこは同族経営「創業者の会長の兄弟が社長」みたいな、地方によくある組織図の会社でしたが、起業からある程度年月が経って経営もそれなりに落ち着き、もう会長、社長は一切実務にかかわらなくても良くなって毎月の役員報酬を貰うだけ。その下の専務がまあまあ同族の中でも一人気を吐いてやってます、という様な有様でした。

 

 同族経営の会社というのは経営陣が縁故で独占されるので、外からやって来た一般社員にとっては「年間一日も出社せずに役員報酬を得ている取締役」だの「一日中ネットを見て時間を潰している役員の隣の席で営業成績を罵倒される一般社員」だのといった地獄が見られる動物園の様な場所でした。檻の中の動物は自分達でしたが。

 

 当然専務は実務一切を仕切っているので、これから自分が継ぐ事になるであろう会社の経営については、会長、社長よりもシビアです。だから営業に行き、新しい仕事を取って来ようと東奔西走していました。ただ、決定権を持っているのは会長、社長ですから、彼等を契約に同意させなければならない訳です。

 

 一方、会長、社長はもう仕事人生のゴールに辿り着いてウイニングランをしている気分ですから、現状維持さえできればリスクを取って新しい仕事に手を出すメリットがないです。結果、専務が取って来た仕事をろくに精査せずに蹴ったり、そうかと思えばいらない設備投資を勝手に決めて来て巨額の損失を出したり、銀行に頼まれて不要な融資を受けてみたり、社外の『~会会長』みたいな名誉職を引き受けて「仕事してる感」をアピールしてみたりとろくな事をしません。

 

 当然、専務は怒りますが、会長にしてみれば『俺の会社』なので、自分が何もかも決めるのは当然であって、定年もないから死ぬまで会長職でいるつもりだと思います。そして次は社長が会長になってまた同じ事をするでしょう。

 

 専務から見れば、古い価値観に凝り固まった会長がいつまでも漬物石の様に頭の上にのっているのは我慢がならず、常に愚痴をこぼしていましたが、そんな彼も部下にとっては『古い考え方でパワハラを仕掛けて来る上司』でした。

 

 若い男性社員は、未婚であればプライベートを楽しみたいし、既婚者であれば育児はもちろん家庭の事もしたい訳です。だからせめて休日は仕事を離れて自身や家庭に注力したい。でも専務の持論は『男は仕事に人生を捧げるもの』『仕事は遊び。休日も仕事の事を常に考えろ』『俺は給料を払ってお前らに経験を積ませ、勉強をさせてやっている』というもので、当然『男性社員の育休』はおろか有給すらもない様な状態でした。だって誰も有給日数の管理なんてしてなかったし。(普通に違法)例えば「子どもの学校行事で会社を休みたい」なんて言えない企業風土を作っていたのは間違いなく専務でした。

 

 ですが、こうした『世代間の価値観の違い』があるのは当然です。

 

 親の世代の考え方が違う。

 自分が親や教師から受けて来た教育が違う。

 社会全体の価値観、男性に求められる役割が違う。

 年齢が違う事で、将来に向けたビジョンや目標が違う。

 

 つまり個人の性格や資質以外にもその人が置かれた状況で価値観は大きく変わって来るんですよね。会長だって起業したばかりの時は脱法だったり違法だったりする手段を使ってでもガツガツと仕事をしていたと聞きました。例えば過積載とか。大きな声では言えませんが。

 

 ただ、こうした個人の価値観の違いや変化、世代間のギャップを、三者が『矯正』するのは無理です。これは実感としてあります。自分自身で、自らの価値観を見直そうとしない限りは。

 

 問題なのは、『古い価値観を持った人が組織のトップであり続ける事』『仕事ができる、能力がある事と、彼の価値観とは関連性が無い事』そして『日本人が年功序列を覆せない事』です。

 

 『古い価値観を持った人が組織のトップであり続ける事』の弊害は、先の例にも挙げた通り『新しい動きをことごとく阻害する事』です。

 

 古い価値観で安定している人は変化を求める必要などないし、新しい事に挑戦する必要もない。だからそれらの変化を『リスク』と判断して全て阻害します。そして『自分自身の成功体験を判断基準にしている事』もこれを助長します。「自分はこれで成功してきた。だから変わる必要なんてない」という事ですね。以前の会社で会長が専務の取って来た仕事を蹴った様に。そして男性社員が家庭の為に休む事を専務が許さなかった様に。これが中小企業なら、その先にあるのは業績の悪化ですし、不当な扱いを受けた社員に辞められる事なので、結果として最悪『会社が潰れる』という事になるのでしょう。ですがこれが国家、政治のレベルになると、『国が潰れる(国際的な信用を失う事も含む)』という悲惨な結末になるし、自分達は会社を辞める様に『日本人である事を辞める』訳には行かない訳ですから、『会社(国)と一緒に共倒れになる』という地獄が待っている訳です。海外に移住するっていうのは誰でも出来る事ではないですしね。

 

 次に『仕事ができる、能力がある事と、彼の価値観とは関連性が無い事』ですが、極論、差別主義者だろうがパワハラ・セクハラ上等のモラルが無い人物だろうが、会社を経営して成功する人はいますし、芸術や芸能分野で結果を出す人もいます。大企業の社長や著名人の言動が差別的だと炎上する事がありますが、彼等はその社会的に許容されない価値観とは全く別の所で『結果』を出していて、それは『評価』を受けている。そしてそうした評価を『実績』として積み重ねて来た人物は、それをもとに社会に対する『影響力』を持つ事になります。簡単に言えば『無視できなくなる』という事です。

 

 そして、現状日本ではそうした人々の持っている『無視できない影響力』がこの国のあり方を決めているといっても過言ではないと思います。それを打ち消そう、変えさせて行こうとするならば、今回の森氏の辞任がそうである様に、無名の個人も含めた様々な人々の反対意見を束ねて行くしかない訳です。だって無名の自分の意見と、森氏の発言が同じ重みで取り扱われる事なんてない訳じゃないですか。かつてブラック企業の社員だった自分が経営者に意見なんてできなかったのと同じ様に。そして仮に意見できたとしてもそんなものは聞き入れられなかった様に。それが良いか悪いかというよりも、事実として。

 

 だから自分達が森氏に対する反対意見を個々に述べて行く事や、それを束ねて行く事を『83歳の老人の発言を言葉狩りの様にあげつらい、過去の業績を全否定し、集団リンチの様に辞任に追い込んだ。彼の名誉を不当に傷付けた』と言われるのであれば、そうした意見を述べる事ができる方は、これまで組織の中で相手の立場が上だというだけで自分の全人格を否定される様な不当な扱いを受けずに済んだ方なのだろうなと思います。それ自体は良い事だし、幸せな事だろうと思いますが。

 

 それから『日本人が年功序列を覆せない事』についてですが、民間レベルでは成果主義というものが導入され、リストラの嵐が吹き荒れ、年功序列なんていうものはすっかり否定された様に思えるかもしれません。でも実際それは民間の、それも一部での話であって、社会的にはまだまだ年功序列的な特権が残っていますよね。主に政治の分野ですが。

 

 今現在、どの様な姿勢で政治に携わっているかではなく、『地盤・看板・鞄』といったものを受け継いだ人物が二世議員、三世議員として権力を世襲して行く。そして派閥の長とされる大物議員が政党内で自分の意見を通して行く。

 

 これ、よく考えるとおかしな話で、国会議員はそれぞれの選挙区で選ばれた国民の代表なのですが、その中にも上下関係が存在し、若手議員は大物とされる年配の議員に意見できない訳ですよね。若手とベテランと、どちらの意見に合理性があるか、今の時代の価値観に即しているかではなく、キャリアや両者の力関係で意思決定がされて行く。

 

 結局、実力主義の荒波に揉まれて苦労しているのは民間の、それも立場が弱い労働者だけで、年功序列で敬われている方々は自分の価値観を時代に即してアップデートする必要も感じないままよろしくやっている訳です。人権意識や、平等意識も低いままで。そしておそらく、政府や地方自治体の一部はこうした人権意識の遅れた人々によって運営されています。

 

 もしも今回の件で、日本人が自分達を代表する様な要職にある方々の行動を正せないのなら、それは彼等の遅れた人権意識がそのまま自分達国民の総意だと思われても仕方がない話です。これが何を表しているかと言うと、冒頭で言った様に『自分達のダメさ加減』なんですよ。

 

 自浄能力がない。間違った事を間違っていると主張できない。権力や地位のある人間に意見できない。「名指しされているのは女性だから自分は関係ない」とか「長いものには巻かれろの精神で生きてた方が楽だから」みたいな事なかれ主義が、こんなダメな社会をダメな状態のまま温存して来てしまった。それで結果誰が苦しんでいるのかといえば、女性だけじゃなく国民全体が苦しんでいるし、今回の様に非難された時に『何が問題にされているのか全く理解できない』様な人々を大量生産してしまった訳です。何が問題にされているのか全く理解できないから、問題の当事者である森氏が後継者を指名して、しかもそれが川淵氏であるという間違いも起きる。それは森氏や川淵氏や他の委員の問題だけではなくて、彼等に間違っていると強く言えない自分達の問題なんですよね。

 

 最後に、こうして本来『女性蔑視』の問題であったものを、男性も含めた日本人全体の問題の様に言い換える事自体、本来は問題なのかもしれないという事は述べておきます。

 それは『Black Lives Matter』を『All Lives Matter』と言い換えてはならないという話とも少し重なるかと思いますが、自分が今回、あえてそれに近い事を書いているのは、結局こうしないと世の男性はこの問題を我が事としてとらえられないんじゃないかと思ったからです。

 

 近年『フェミニズム』という言葉に嫌悪感を覚える男性が増えた気がしています。(自分の気のせいであれば良いのですが)

 それは、今までの男性のあり方に対する強い批判を、どうしても『自分自身への批判』として受け止めてしまうからだと思います。自分自身、男性や男性社会に対する批判を強く向けられるのは痛い部分もあります。

 

 ただ、実際問題として、今回の森氏の発言の様な『既におおよそ決定している内容について意見されたくない』(『わきまえない』意見によって会議が長引くのが『恥』だというのはつまりそういう事だと自分は認識しています)という上からの押し付けや、意見する機会もなく密室で決まった方針に振り回される下々の苦労というのは、男性だって苦しめられてきた問題だろうと思うのです。企業で言えば経営者の様な『上の立場』の人間が勝手に決めて来た事を、現場が苦労して実現する事(そしてできなければ責任を取らされる事)はむしろ男性にとって日常茶飯事ではないでしょうか? そして、それについて反発する事も、意見する事も認められない事が普通だった。発言権なんて存在しなかった。

 

 そういう捉え方をすれば、今回の森氏の発言の直接の標的にされた女性達の反発が、何となくでも分かるのではないか、共感できるのではないかと思い、あえてこの様な書き方をしてみました。上でも少し書きましたが、会社は辞める事ができます。(自分も辞めました)でも、女性は女性である事を辞められない訳ですから。(男性が男性である事を辞められないのと同じ様に)

 

 こうした古い価値観を前に、今を生きている自分達がより良い社会を目指すならば、やはり議論は避けられないと思います。その議論の為の前提として意見を述べる事を拒否する、或いは意見される事を拒絶するというのは、単に失言ではなく組織の長としてふさわしくないし、そうした人物に意見できない自分達のダメさ加減、社会全体の風通しの悪さもまた是正されなくてはならない。自分は今回、その様に考えました。皆さんは、いかがですか?

 

落ちぶれた僕らにとって『おぼっちゃまくん』はなぜ笑えない漫画になったか

 景気の悪い話は年内で終わらせて、来年は少しでも希望が持てると良いなと思ったのでこんな「書いてる自分ですら読みたくない様な記事」を書いているんですが、その中で小林よしのり氏は『コロナ論』を描くくらいなら『おぼっちゃまくん』の続きでも描いてたらいいのに」と書こうとして、既に『新・おぼっちゃまくん』が始まっていた事を今知りました。正直一生知らなくても良かった。

 

 何でこんな書き出しなのかというと、このコロナ禍もそうですけど、自分の様な中年って『失う事に慣れ過ぎた』部分があって、バブル崩壊リーマンショックだ震災だロスジェネだコロナ禍だっていう流れの中で『日々失い続けているものに気付かない』状態になってしまったんですよね。そして若い世代はもう『景気が良かった頃を知らない』状態になってしまっている。更にそうした『世代間格差』っていうのは、まあ縮まらないんですよ。

 

 じゃあ日本にとってバブルの頃が一番良かったのかというとそれはそれで問題がありますが、それを棚上げして言うなら「少なくとも貧困問題は今よりマシだった」と言えるんじゃないでしょうか。

 

 それが何で『おぼっちゃまくん』の話に繋がるのかと言うと、あの漫画は今40代前半の自分が小学生の頃にコロコロコミックで連載されていたんです。どんな漫画なのか知らない方はWikipediaを読んで頂ければと思います。(自分はこれから小学生の頃の記憶に頼って記事を書くので詳細は記憶違いなどあるでしょうけど、単行本とか持ってないのでご了承下さい)

 

 この漫画の主役は『おぼっちゃまくん』という並外れた金持ち(巨大財閥の御曹司という設定)なんですが、そのクラスメイトに『貧ぼっちゃま』というキャラクターがいるんです。彼も昔は裕福な家柄だったんですが、親が事業に失敗したか何かで没落して生活保護以下の暮らしをしているんですね。で、代表的な台詞が『落ちぶれてすまん』なんですよ。ただ彼には落ちぶれても元上流家庭だというプライドもあって、『前半分だけ立派な服を着ている』というキャラなんです。後ろ半分は裸なんですけどね。あと、確か履いている靴は『靴底がないから実質裸足』っていう。

 

 冷静に考えたら「前半分だけ立派な服」なんていう特殊アイテムを買うにしろ作るにしろ余計なコストがかかって仕方がないと思うんですが、そこはギャグ漫画としてのわかり易さが優先されているので突っ込んでも意味はないです。意味があるのは、貧ぼっちゃまは自分が『落ちぶれた』という事を自覚していたという事です。現実に生きる自分達と違って。

 

 デフレという言葉で片付けてしまいがちなんですが、自分達の生活ってどんどん『お金をかけない』方向にシフトしていて、それは自分も含めてお金がない人にとっては歓迎すべき事でもあるんですが、言い換えれば『市場規模の縮小』とか『経済の後退』とか『ゆとりの無い暮らし』でもあって、これがずっと続いているんですよね。自分達が『落ちぶれた』事から目を逸らしている間にも。

 

 例えばユニクロがフリースを売り始めた頃、ユニクロの服が何て言われていたかというと、実は自分の周りでは『オタクの人民服』っていう言葉があったんです。自嘲として。要するにこうです。

 

 ①ユニクロの服は安い割に質が良いし見栄えもそこそこ

 ②オタクは服にかけるお金があったら趣味に回したい

 ③だからオタクがこぞってユニクロの服を買う

 ④オタクは皆ユニクロの服を着ている→オタクの人民服

 

 『オシャレにお金を使わない事が恥ずかしい』という価値観が、まだかろうじて生き残っていた時代でした。まあそんな価値観もその後すぐに死んで、ファストファッションのブランドが時代の寵児として君臨する様になり、オタクの人民服は『日本人の人民服』になりましたが。

 

 『Levi's』や『EDWIN』の様な1本1万円前後のデニムを普通に履いていた人も「ユニクロがこの価格で出して来るならこれでいいや」になって行き、結果として大手のブランドも価格競争に参加せざるを得ない状態になりました。だってユニクロのデニムやチノパンなら2~3千円で買えるわけじゃないですか。まあユニクロじゃなくしまむらでもいいんですが、ただ着るだけなら品質的に問題ないもの(その代わり生産現場や販売員の労働環境には大問題があるんですが)が安く買えるのに、あえてそれ以上のお金を出して高い品物を買う事は、必然的に『贅沢』になって行くんですよね。

 

 こうして、かつての『普通』が『贅沢』に切り替わって行って、自分達は『落ちぶれた事に気付かなくなった』んだと思います。

 

 だって『着ている服は貧ぼっちゃまみたいに後ろ半分が無い訳じゃないけど、服にかけるお金は半分以下になった』じゃないですか。これ、ギャグ漫画だったら『落ちぶれてすまん』って言わなきゃいけない所なんですよ。全然笑えないけど。

 

 そしてユニクロがオタクの人民服だった頃は、まだオタクも『趣味には全力でお金を使う』みたいな所があって、それは単に個人の可処分所得の割り振りの問題だったんですが、現在の様に貧困が大きな問題になると、結局は『被服費を削った分が他の消費に回る』事すらなくなって『被服費も削るし食費も削るけど、削れない固定費(通信費とか光熱水費とか家賃とか)だけが残る』みたいな有様になるんですよね。それに対する国の施策が「スマホの通信費が高いから安くしてやれよ」っていうものになる辺りが割と終わってる感が漂ってますけど。

 

 で、気付いたんです。「これはまだまだ萎んで行く」っていう事に。そして世代間格差は開く事はあっても縮まる事はないっていう事に。

 

 最近、個人的に気付いたのは「音楽を聴くという行為を『Spotify』で済ませようとしている自分の落ちぶれ」なんですが、これって着ている服が全部ユニクロになったのと同じで、CDアルバム1枚に3千円払う『普通』が『贅沢』に切り替わった瞬間だなって思ったんですよね。自分が無意識に趣味にかけるお金まで削ろうとしているという事に気付いてしまった訳です。

 

 Spotifyみたいなサブスクに月々定額払うとして、仮にプレミアムのスタンダードプランで毎月980円支払ったとしても「CDアルバム1枚3千円の世界」から切り替えたら「3ヶ月は好きなだけ音楽が聴ける」訳ですよ。じゃあ自分はこれまで年間何枚アーティストのCD買ってたのって聞かれれば、多分その枚数分の金額で一年回せた上でお釣りが来てしまうんです。もっとも「無料プランのSpotifyから音源を抜くツール(というかパソコン内で擬似録音するツール)」みたいなアプリが普通に売られている辺りが更に闇なんですが、正規のサービスを使うにしてもまあ常軌を逸した安さですよね。レンタルよりもまだ安い。そして違法ダウンロードしている訳ではないから良心が傷まない。映画とかテレビ番組もそうですよね。「わざわざブルーレイ買う?」っていう。「Netflixとかで良くない?」っていう。もう「レンタルショップでDVD借りるよりその方が安いじゃん、返しに行かなくていいし」っていう世界。オタクが家の棚にぎっしりDVDのパッケージを詰め込んでライブラリを作る事が『普通』だった世界が終わって、それが『贅沢』になった世界。

 

 でもそれって「自分はもう映像作品や音楽にこれ以上のお金を払うの辛いから止めるね」って言ってるのと何も変わらないんですけどね。そりゃこれだけ消費者が落ちぶれれば業界も衰退するわっていう。

 

 仮に「好きなアーティストのCDだけは買おう」みたいな『贅沢』を自分に許すとしても、そこからはみ出していく「サブスクで聴ければいいや枠」に押し込まれたアーティストにとっては、ただでさえ安いサブスクの利用料(そもそも無料版で済ませるユーザーもいる)という小銭をかき集めて運営会社の取り分を差し引き、それを更に登録アーティスト全員の楽曲再生数割合で按分したものがやっと自分達の取り分として入って来る(そこからも多分所属する音楽会社が取り分を引いたりするだろうけど)っていう『割と地獄』な状態が『これからの普通』になる訳で「パッケージで売る初回版にはPVやライブ映像入れたDVD付けますんでどうか現物買って下さい」っていうのが多分最後の手段なんだけどそれは焼け石に水だよっていう。漫画も同じ様なサブスク系、無料系のサービスが出てますし、これから同じ様になって行くんでしょう。

 

 そこで話がおぼっちゃまくんに戻るんですけど、作者である小林よしのり氏もあの漫画をもう一度描けばさすがに気付くだろうと思ったんです。何って、『自分達は落ちぶれたんだ』っていう事に。現実は多分違っていて、まだ気付かずにいるのか、気付いてて無視してるんでしょうけど。(多分後者)

 

 小林氏が個人的にお金を持っているかどうか、彼の漫画が売れているかどうかとは全く別の所で、庶民の暮らしって総じて落ちぶれたんですよ。おぼっちゃまくんの友達には親がサラリーマンをやっている庶民の男の子がいて、当時の読者層って多分その平凡な庶民の男の子目線だったと思うんです。そこから金持ちや貧乏人の奇行を見るとギャグになるっていう。でも今って、かつての中流がどんどん落ちぶれて貧ぼっちゃま化している訳で、そこから見るおぼっちゃまくんってもう笑えないんですよ。それ以前に『他人の貧乏を笑いのネタにするのってどうなんだ』っていう部分がありますが、それはそれとして。

 

 多分、今おぼっちゃまくんをリアルに描き直したら、庶民の男子はそもそもおぼっちゃまくんと同じ学校には通えないし、きっと両親は共働き(もしかしたら非正規雇用)で着ている服はファストファッションだと思うんですよね。そして貧ぼっちゃまは前半分だけ立派な服を着るなんていう余裕ももうなくなってて、本当は兄弟を子ども食堂に通わせたいんだけど、プライドが邪魔をして絶対に子ども食堂なんて使わないし生活保護だって申請しないぞみたいな妙なこじらせ方をしてるんでしょう。で、おぼっちゃまくんのライバルだった男子はSNSで人気者になろうとして『お金配りおじさん』みたいな事をしてひんしゅくを買ってるんじゃないですかね。おぼっちゃまくん本人は友達になってくれる庶民の男子ももういないから、サムスンのナッツ姫みたいにゴーマンかまして不祥事で袋叩きにされてるんじゃないでしょうか。もしくは彼の許嫁だった女子からセクハラと人権侵害で訴えられてるか。

 

 だから自分は、どうせやるならもういっそ貧ぼっちゃまを主役にするべきなんだろうと思うんです。あらゆる『落ちぶれ』にツッコミを入れさせる為に。

 

 普段着がユニクロになり、アウトドアウェアやライダースジャケットがワークマンになり、映画がネトフリになり、CDがSpotifyになり、家具がニトリに、食器や生活雑貨が百均になり、食料品等が値段はそのままで内容量が減り、それらを『落ちぶれた』と認識せずに済んでしまっている社会に『慣れてしまう』事の弊害は、それが『普通化される事ですよ。それが普通になったから、最初からそうだから、いっそ便利になったから、別におかしくないと皆が思う様になる。普通だったら改善する必要もないし、落ちぶれた身分から這い上がろうとしなくてもいいじゃないですか。皆それが『普通』なんだから。

 

 それが、まだ続くんです。きっと来年以降も。もっともっと酷くなるかも知れない。

 

 そして自分みたいな庶民以下の人間にはそれに抗う力がないし、むしろ積極的にそうしたダメなサービスを利用してでも自分の暮らしを守らなきゃいけない。収入が増える予定が無いんだから、支出を減らして行かなきゃいけない。それが負のスパイラルになる事を知った上でも。

 

 事程左様に自分達は落ちぶれている訳ですが、そろそろ怒らないと、多分ゆっくりと皆死んで行くよねっていう気がしています。来年はどうでしょうね? ちょっとは希望が見えて欲しい気もしますが。

コロナ対策『経済優先か感染対策か』という二択に対する違和感

 

 

 今になって読み返すと、刺々しさがあるツイートであまり良くない気もするので、言葉足らずだった部分を補おうとしてこの記事を書いています。何でこんなツイートをしたのかというそもそもの理由は、『コロナを恐れて経済活動を止めるな』とか『日本ではコロナで亡くなった人は少ないから恐れる必要はない』とか言い始める著名人が見受けられるからです。そして、自分は社会的に影響力のある方にそうした発言をして欲しくはないと思っています。

 

 さて12月になり、このコロナ禍を抜け出せないまま来年を迎える事は確定している訳ですが、自分は福祉・介護の現場で働く職員として、今年は『自主隔離』に近い環境で生活して来ました。『Go To トラベル』や『Go To イート』等、いわゆる『Go To キャンペーン』が始まった後もそれは変わりません。なぜかと言えば、やはり施設で暮らす方々がコロナに感染してしまう事を防がなければならないという職業倫理があるからですし、先のツイートで挙げた通り、最悪の場合、訴えられるという可能性があるからです。

 

 先日、法人内部でこの訴訟の話を出した時には施設長などからも驚きや戸惑いの反応があり、「コロナ感染について法人や施設がどこまで責任を負えるか」という話になりました。正直「ここまでの責任は負えないのではないか」という話も出ました。しかし今後、もし法人内部でご利用者が感染し、重症化して亡くなってしまった場合、ご遺族が施設や法人の責任を問う為に訴訟を起こすという可能性は常にあると考えて行動しなければならないでしょう。この訴訟自体がどの様な判決になるか分かりませんが。

 

 誤解がない様に言っておかなければならないと思うのですが、自分はご遺族に対して『訴えるなんて酷い』と言いたい訳ではありません。

 

 思い返せば、東日本大震災の時に、職場や学校などで避難が間に合わず、主に津波によって亡くなられた方々が多くいました。そのご遺族の方々も、避難指示や災害時の対応について、それぞれの組織について責任を明らかにする為に訴訟に踏み切っています。また同様に、原発事故では当時の東電幹部の責任も問われています。

 

 コロナ禍も震災も、誰かが故意に招いたものではありません。それでも、そこで大切な人を亡くされた方々にとっては、『何とかして救う事はできなかったのか』という想いがあるのは当然の事です。自分が遺族であれば同じ様に考え、同じ様に訴訟を起こすかもしれません。誰かに、どこかに責任があって、そこできちんとした対応が取られていれば助けられたのではないか。そう考える事は自然ですし当たり前です。

 

 自分は今の仕事に就く前は運送会社で事務方をしていたのですが、交通事故に対する対応と似ている部分もあると思います。よく言われる事ですが、(昨今の極端なあおり運転は別として)『事故を起こしたくて運転している人』などいません。それでも事故は起こります。そして事故が起きればそこには責任が発生します。事故を起こしたドライバーにも、彼を雇用し、指導監督すべき立場である会社にも責任はあります。『事故を起こすつもりなんてありませんでした』で許される事などありません。

 

 そしてそれは、コロナ禍についても同じなのだろうと思います。

 コロナに感染したい人などいないし、故意に誰かを感染させてやろうとする人など(普通は)いないでしょうが、結果として感染が起きてしまえば、やはり自分達が責任を問われるしかないのだろうという覚悟がありますし、その覚悟を持って日々生活しています。

 

 自分の場合、最後に隣の市に行ったのは多分10月ですね。隣の県ではなく。

 職場も市内なので、通常は「月に一日も市外へ出ない」という暮らしをしています。

 そして最後に外食をしたのがいつだったか、もうはっきりとは思い出せないです。

 

 職場では『自分自身が不要不急の外出で他県に行かない事』はもちろん、『他県に住む家族を年末年始に帰省させない様に』という指示が出ています。それもはっきりと命令する事はできないので、あくまでも『要請』という形ではありますが。(従業員やその家族の行動に雇用主が大幅な制限をかける事が許される法的根拠や運営規程、就業規則の規定などないので)

 入所施設でこれですから、きっと医療従事者にはもっと厳しい『要請』が行われているのだろうなと思います。

 

 そんな中で「コロナを恐れて旅行をせず、外食をせず、政府の『Go To キャンペーン』に批判的な意見を述べる様な者は批判されて然るべきだ」という意見を目にする事があります。「自分達は政府の方針に賛同し、『Go To キャンペーン』で経済を回すんだ。経営に困っている観光業界や飲食業界を自分達が救うんだ。コロナなんて大した事はない。実際、毎年流行するインフルエンザでの関連死や、経営が行き詰まったり雇い止めを受けたりして経済的に困窮し、自殺してしまう方の方がコロナ関連死よりも遥かに多いじゃないか」という意見がそれです。

 

 一理あるとは思います。『人の死を死者数の多寡で評価する』という部分については全く同意できませんが。それを許すと多数を救う為に少数を犠牲にする事が常に正しいという地獄が待っているので。

 

 実際、観光業や飲食業は相当な打撃を受けています。休業や廃業を余儀なくされている方も多いでしょうし、『Go To キャンペーン』のおかげで何とかしのげたという方もいるでしょう。その事を否定しません。自分は職業上絶対に協力できないとしても。

 

 その上で言います。

 『Go To キャンペーン』に限らず、このコロナ禍の中で『人の往来を増やして経済を回す』という施策を行った事によって、もしも各都道府県の市中で感染爆発が起きたら、そしてそれに自分が巻き込まれた結果として施設内感染に繋がったとしたら、自分達はその責任までは負えません。

 

 自分達が背負っている責任は、現状で既に個々人が背負いきれる責任の上限まで行っています。自主隔離に近い生活をして、ギリギリのラインで暮らしているんです。それでも食料品や消耗品を買う為には買い出しに行かなければならないですし、定期的に通院しなければならない人もいます。職場以外で誰とも会わずどこにも行かずに暮らせる人などいませんし、同居する家族も同様です。子どもがいれば学校にも行くでしょう。感染経路を全て遮断する事など不可能です。そんな中で、仮に市中レベルで感染爆発が起きたら、感染予防をどれだけ行ったとしても、自分が感染するという『事故』は防げないと考えます。どんなに安全運転を心掛け、運転支援システムの付いた車両に乗っても突発的な事故を無くす事ができない様に。

 

 『経済を取るか、ご利用者の命を取るか』と言われれば、自分達に経済を取るという選択肢はありません。

 

 そもそもこの二択を迫られる事自体があり得ないと思うのですが、これって端的に言えば『経済を救う為に、お前たちが死ね』という話なんですよね。ここで言う『お前たち』というのは重症化リスクの高い高齢者や、施設入所者や、福祉・介護職員や、何よりも医療従事者の事なんですが、そういった特定の年齢や属性、職業を持った人々を危険に晒す方法でしか経済は回せないというのが現在の政府の方針の様です。

 

 でも、こうした『経済か感染予防か』という二択を、よりによって国民の判断に丸投げして来られても、こっちはこっちで既に自分の責任で手一杯なんですが、としか言えないと思いませんか? 自分は思います。「積極的に旅行に行って下さい。外食もして下さい。できるだけお金を使って下さい。でも感染予防は出掛ける側も受け入れる側も自己責任で完璧にやって下さい」って、言っている事が割と無茶苦茶だと思います。

 

 何より『経済か感染予防か』という分断線を引かれて、結果自分達国民が対立しなければならない事が理解できないですね。

 

 自分だって観光業界や飲食業界の方々が苦しい状態にある事を、仕方ないとかそのままでいいとは言えません。イベント会社等も三密回避や感染予防で中止が相次いで相当経営が苦しいとも聞いていますし、映画業界も公開延期等で相当苦しい思いをした筈です。クラスターの発生で『夜の街』などと槍玉に挙げられる事が多かった歓楽街やライブハウス等もまだ回復はできていないでしょう。それでも二択を迫られた時、絶対に経済優先を選べない立場の人々がいる事を理解した上で発言して欲しいと思うだけです。

 

 ましてや、経済優先の行動を取らない、取れない人々を『情弱』『コロナ脳』などと言って揶揄するのは、感染予防について何ら責任を負わなくてよい『外野の妄言』として受け止められても仕方ないと思うのです。「こっちは何かあったら実際に訴えられる立場なんですが、それを分かって言ってるんですよね?」って言いたくなります。それに冒頭で挙げた訴訟問題の様に、家族を亡くされた方に『それはコロナのせいではなく寿命だ』と言えますか? とある著名人は同様の発言を各所でしている様ですが、自分が当事者ではないから言えるだけの事でしょう。訴える側でも、訴えられる側でもない。そして現在経営が苦しくなっている事業主でもない。そうした『外野』が、無責任に言論人として適当な事を言い、それに賛同する人々が群がる。よく自分はまだ正気で生きてるなと思いますね。少なくとも今の所は。

 

 この正気がいつまで持つか、保証は無いですが。