老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

cakesのホームレス記事は何が間違っているのか②

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 前回の記事で、『なぜ自分達の人権意識は低いままなのか』という問題についての回答を宿題にしていました。今回はそれについて書きます。

  前回自分はその理由を『日本の教育の失敗』だと書きました。そして『失敗というよりも、人権について学習する機会を与えて来なかった』とも書きました。

 

 具体例を出します。自分は40代男性ですが、自分が中学生だった30年ほど前には、全国の中学校で丸刈り校則』の是非が問われていました。念の為に説明すると、丸刈り校則というのは男子生徒の髪型を丸刈りにすることを強制的に定めている学校教育での校則の事です。女子も「おかっぱ頭にするか、黒いヘアゴムで髪を束ねる事」という校則がありました。

 

 当時ですら、この校則は時代錯誤ではないかという保護者からの声があり、自分が中学校に進学する時にも校則見直しの要望が多くありました。それに対する学校側からの回答は「ようやく生徒の非行が収まって来たところであり、現在校則を改正する事は検討できない」というものでした。この意味が分かるでしょうか?

 

 人権意識を生徒に教えるべき教員が、既にこの有様だったという事です。

 

 当時、生徒の非行について教員=大人がどんな対応をしていたかと言えば、理不尽な校則を守らせ、守れない者には体罰を加えるという極めて雑なものでした。学校の秩序を守る為ならば体罰は容認されていました。

 

 例えば夏休みの間に男子生徒が髪を伸ばし、休み明けに角刈りやスポーツ刈りのまま登校して来ると、生活指導の男性教師が生徒を指導室に呼び出し、椅子に座らせた上で、その座った椅子から転げ落ちる程の力で顔面を殴る様な事も平然と行われていました。それは言ってみれば『見せしめ』であり、校則違反=教師への反抗・校内秩序を乱す行為には体罰という制裁が課せられるのだという事を、校則違反をした生徒だけでなく、その他の生徒にも理解させる為の行為でした。

 

 今では信じ難い事かもしれませんが、当時は殴られた生徒の両親も、「校則違反をした我が子が悪い」という姿勢で、教師の体罰が問題視される事はありませんでした。今でも「教師の体罰が許されていた頃が良かった」という妄言を呟いている方がまれにいらしゃいますが、そうした大人たちの人権意識など推して知るべしという事です。

 

 人権というものについて、自分達は学校で習った筈です。でもそれは『日本国憲法には基本的人権の尊重や法の下の平等が定められているよ』という一行知識で終わってしまっていて、『自分が持っている人権』と『他者が持っている人権』を互いが尊重した上で、具体的にどの様な人間関係や社会、共同体や国家を構築して行くべきかという具体的な中身は何もありませんでした。そこにあるのはただひとつです。

 

 『ムラ社会への帰属意識

 

 これだけです。

 その『ムラ社会』の範囲は様々です。家、学校、職場、市や町、社会構造、国家。日本ではそれらの多くが『ムラ社会』として成立していました。ムラの中の秩序を維持する為には、個人の権利や人権はことごとく無視されました。学校で人権について本質的な事を子どもに教えられる大人などいなかったし、自分も教わった覚えがありません。むしろ個人の権利を主張する様な事は、大人だろうが子どもだろうが『わがまま』として忌み嫌われるのがこの国でした。人権屋という別称を聞いた事もあるかもしれませんね。

 

 例えば自分が勤めた会社の中には、産休や育休を取得しようとする女性社員に対して、他の女性社員が「産休はともかく育休を取るなんて、周りの迷惑を考えていない。自分は子どもを産んだらすぐに職場復帰したのに、彼女は会社に迷惑を掛けているのが分からないのか」と言っていましたし、有給休暇を取得しようとする時に、理由書を提出させ、その理由について社長が納得しないと単なる欠勤として処理する様な慣例が『常識』として通用している企業もありました。

 

 ムラ社会での悪は、ムラの秩序を乱す事です。

 

 要求の正当性や人権意識などそこでは何の意味もありません。だからブラック企業も、各種のハラスメントも、非正規雇用が増え続ける事も、外国人技能実習生が使い潰され捨てられる事も含めて、人権無視がどこまでもまかり通る事になるのです。ムラの秩序という正義を守る為に。

 

 極論を言えば自分より上の世代で、義務教育の中で人権についてまともな教育を受けた大人などいないと思います。それでも高い人権意識を持つ事ができている人は、自分の様にそれが必要とされる職業に就いたから学べた人か、義務教育を終えてから高校や大学で習ったか、さもなければ独学だろうと思います。

 

 もうひとつ絶望的な事を書きます。

 

 自分は福島県民ですが、ある県議会議員についてよく知っています。なぜ知っているかというと、彼は自分が中学生の頃に『丸刈り校則』を支持していた中のひとりだからです。確かその頃は市議会議員だったでしょうか。彼の名誉の為に名前は伏せます。

 

 その議員が県議会議員選挙に立候補した2015年に、市民団体『ダイバーシティ福島』が立候補予定者77名に対してダイバーシティ(多様性)の尊重に関するアンケート』を実施しました。回答者は39名。回収率は50.6%で、既にこの時点で関心の低さが分かります。

 diversity-fukushima.jimdofree.com

  その県議会議員はこの時の選挙に当選しただけでなく、今現在も県議会議員ですが、彼のアンケートの回答はお世辞にも人権意識が高いとは言えないものです。以下何点か引用してみましょう。

  

 性的マイノリティの直面する困難を解決するための以下ⅰ~ⅵのような施策は福島県において必要であると思いますか?A~Dのうちで、最もよく当てはまる答えに○をつけてください。また、明確な理由がある場合は併せてお答えください。

 

ⅰ 性的マイノリティに対する差別を禁止する条例を制定する

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【B】

理由:記入なし

 

ⅱ (婚姻に準ずる)同性パートナーシップ制度などを導入する

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【B】

理由:記入なし

 

ⅲ 同性愛・トランスジェンダー性同一性障害などを含めた性の多様性に関する学校教育を充実させる

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【B】

理由:記入なし

 

ⅳ 性的マイノリティに対する差別や権利侵害に特化した相談窓口・救済機関等を設置する

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【B】

理由:記入なし

 

ⅴ 各種申請書類などの公文書における不必要な性別欄を削除、または柔軟な対応を行う

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【C】

理由:記入なし

 

ⅵ 公的施設におけるユニバーサルトイレ(男女の性に関係なく誰でも利用可能なトイレ)の設置を推進する

【A】はい 【B】いいえ 【C】わからない 【D】その他

回答:【B】

理由:記入なし

 

1-5. 性的マイノリティが直面する困難に関して、ご自身のお考え等を自由にお書きください。

回答:記入なし

 

 質問については「いいえ」か「わからない」と答え、記述式の部分は全て「記入なし」です。そして賭けてもいいですが、彼に5年後の今同じ質問状を送ったら、同じ様に「いいえ」「わからない」「記入なし」で回答すると思います。5年の間、何も勉強していないし、その必要性も感じていないでしょう。なぜならムラ社会では人権問題についての高い意識など求められないし、無知なままでも選挙で勝てるからです。他にも『民族的マイノリティについて』『男女共同参画社会の推進について』という設問もありますが、回答内容は似た様なものです。

 

 そしてこの日本では、彼と同レベルの大人たちが会社を経営し、学校教育や地方自治や国政の中で責任ある役職を得ています。彼等は自分達が知っている『ムラ社会の原理』でこの国を動かしている訳です。今現在も。人権について何も知らないままで。

 

 だから、日本には人権意識が根付かないのでしょう。皆が『家庭ムラ』『学校ムラ』『会社ムラ』『日本ムラ』の和を乱さない為に、自分の人権が無視されても仕方ないと思って生きている訳ですから。

 

 これを変えようと本気で思うのなら、遠回りに思えてもやはり『教育を変える』しか手はないのだと思います。件の県議会議員の様に、人権無視が染み付いた世代の大人はもう自分の考えを変えられないでしょう。そういう方々が役目を終えて引退して行き、人権意識が高い世代と入れ替わって行くのを待つしかないのです。その為には現状の、何もしていないに等しい人権教育を変えなければならない。

 

 だから、前の記事で言及したcakesのホームレス記事の様に「この人は人権について考えた事があるのだろうか」という文章を読んでも、自分はそれを「個人の人権意識の低さ」だとは思えないんですよ。それは「自分達全員の人権意識の低さ」がベースになっているからです。もっと言えば、自分達の人権意識は、この日本の現状を容認しているというだけで既に「マイナスからのスタート」だと思った方が良いと思います。誰も本当は人権なんて気にしていないし、知らないんです。かろうじて自分達がこの社会を維持できているのは、『ムラ社会の掟』に従っているからで、それは人権意識から最も遠い価値観なんですよ。

 

 その受け入れ難い前提を受け入れた上で、自分達に何ができるか。

 あのcakesの記事が、せめてそうした問題を考える契機になれば良いと思います。

 

cakesのホームレス記事は何が間違っているのか①

 元記事を拡散したくないのでリンクは貼りません。

 

 最初に注意点を書きます。

 自分は普段、誰かの意見を『間違っている』とはっきり言い切るのはなるべく避ける様にしています。相手の意見にも正しい側面はあるし、自分の意見が間違っている事もあるからです。ただ今回は、その前提条件を踏まえた上で表題にはっきりと『間違っている』と書く事にしました。理由は後で述べます。

 

 もう一点として、問題になっている元記事を書いた方を個人攻撃する意図はありません。今回問題になっているのは、記事を書いた方の資質の問題ではなく、自分達が共有している『人権意識の低さ』の問題だと考えているからです。そしてこれは個人が書いた記事の内容を批判すれば解決できるという問題ではありません。

 

 さて、記事を書いたのは『夫婦でホームレスの人たちを取材している』方です。その方はホームレスの方々が住処も含めて様々なものを自作するなど、工夫を凝らして生活している事に『魅力』を感じ、支援のボランティア等も行いながら『取材』を行い、記事を書いています。

 

執筆者はcakesクリエイターコンテストで優秀賞を受賞し、該当記事はこれからcakesで『”作る”ホームレスたち』というタイトルで連載されるシリーズの第1回目でした。同じ方はnoteでもルポとして数々のホームレス関連記事を書いています。

 

 まず、自分が『間違っている』と思うのは『ホームレスの方々が持っている魅力を発信する』というスタンスなのですが、その原因は執筆者の『無邪気さ』です。以下引用します。

 

毎日決まった時間に起きて、朝食をとり、準備をして、仕事に出勤、帰って来たら夕食を食べ、お風呂に入って寝る、というルーティーンのなかにももちろんそれなりの幸せは感じている。

しかし、ときどきそんな自分とは違う生きかたを覗きに行きたい気持ちが生まれる。

 

私たち夫婦が田舎の河川敷ホームレスの人たちを3年間も継続して取材し続けていられるのは、おじさんたちの生活を見て感じた異世界性が大きい要素なのだ。

 

とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている。

そのうえで、おじさんたちの日々からみえてくる様々な工夫や生活の知恵を追いかけたい。それは、私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある。

 

  あえて意地悪な言い方をします。つまり興味本位なんですよね。

 

 興味本位が悪いのかと言えば、取材対象に興味を持って調べるというのは基本であって、それ単体で悪いとは言えないかもしれません。でも「興味本位でホームレスの生活を覗きに行ったら、思いのほか興味深かったので皆さんにもお伝えしますね」というスタンスは、社会問題に触れる記事として無邪気過ぎる気がします。

 

 更に、noteに書かれている記事を追って行くと、『ホームレスと現代アート』『ホームレス人生ゲームの制作』などという記事が目に付くのですが、「ホームレスの方々を取材して、彼等から聞き取った内容をマスに記載した人生ゲームを作ろう」というのは、人権意識の低さが如実に現れていると思います。

 

 もっと言えば、『ホームレスのおじさんから豊かさを考える』という記事の中では、「ホームレス生活はストレスがない」「ホームレスは意外とお金に困っていない」「ホームレスはゆとりのある時間の中で生活している」かの様な内容が続きます。そしてホームレスの方々が持っている『何とかして生きていくエネルギー』が自分達とは違う『豊かさ』であるかの様に語られるのです。まるで、『ホームレスの方々(の一部)は好きでホームレス生活をしているのだ。ホームレス生活とはライフスタイルだ』とでも言うかの様な内容ですが、本当にそうでしょうか?

 

 こう書くと、『「ホームレスは大変」「ホームレスは苦労している」「ホームレスは助けを必要としている」という形でしか彼等の情報を発信できないのは逆に差別的ではないか』『実際好きでホームレスでいる人もいるだろう』という話も出てきます。ですが『差別感情を持たない事』と『ホームレス生活に魅力を見出す事』は同じですか? 自分は違うと思います。

 

 例として言うと、自分は障害者支援施設で働いています。

 

 『ホームレス』を『重度知的障がい者』に置き換えて考える時、彼等を差別しない事と、知的障がい者の暮らしをただ魅力的に紹介する事はイコールで結べると思いますか?

 

 知的障がい者は障害基礎年金や介護給付費の支給を受けています。施設に入所できていれば、裕福ではないものの身の回りの事や食事で困る事はありません。自由な外出ができる訳ではありませんが、余暇も楽しんでいます。大変な事もありますが、みんな笑顔で暮らせています。でも自分達は、そこに『魅力』を見出したりはしません。自分の生活と横に並べて比較したりする事もありません。確かに生活が保証され、年金も貰え、仕事をしなくても生きて行ける暮らしです。集団生活の中のトラブル以外にはストレスも少ないでしょう。食事と、余暇と、軽作業で一日が終わります。穏やかな暮らしですが、この生活を魅力的な暮らしとして発信して良いと思いますか?

 

 自分達、施設職員はそういう事をしません。業務上の守秘義務以前に人権意識があり、『けじめ』があります。

 

 自分達は職員として、常に人権意識を高く持ってご利用者に接する事を求められます。人権意識の低下は即座に『虐待』という重大事故に繋がるからです。だから自分達は、興味本位の取材者とは違って、常に人権という言葉を頭の片隅に置くとともに『絶対に踏み越えてはならないライン』を設定しています。

 

 自分達は、差別や虐待について自己チェックと相互チェックをしながら日々働いています。ご利用者と仲良く話す事はあります。一緒に余暇や行事を過ごして笑ったりする事もあります。でも自分達は『職員』であって彼等の『お友達』ではありません。

 

 頼りにされる事はあります。冗談を言い合う事もあります。信頼関係もあります。でも、『職員』と『お友達』は違います。そこに明確なラインを引いている事、『絶対に踏み越えてはならないライン』を設定し、『けじめ』を付けて馴れ合わない事で、自分達は『無邪気な人権侵害』が起こらない様にしています。逆に、ここまで緊張感のある関係を維持する事を常に意識していないと、『無邪気な人権侵害』は防げないんですよ。

 

 問題の記事を書いた方は、ボランティア活動などを通じて、ホームレスの方々と個人的な信頼関係を築いたのだと思います。信頼関係があるから、皆さんは取材を受けてくれたのだと思います。そうした人達の暮らしぶりを「クラスの面白い同級生を紹介する」様なノリで伝えたり、人生ゲームに落とし込んだりするのは『友達感覚』だからできるんだろうと思います。でも、ホームレス生活をしている人と取材者が友達感覚で付き合って、彼等の暮らしを面白コンテンツとして無邪気に発信した結果がこの人権侵害です。

 

「やっぱりホームレスはあの暮らしが好きでやってるんだな。楽しそうじゃん」

 

 記事を読んで、こう勘違いした人が増える事が、何とかホームレス生活から抜け出したいと思っている人にとってどんな意味を持つと思いますか?

 この友達感覚の無邪気さがあの記事の間違いです。差別しない事、平等に扱う事は対象を友達扱いする事ではありません。『差別しない事』と『友達になる事』を履き違えてはならないのです。絶対に。だから自分は今回『間違っている』と言い切るのです。

 

 ではなぜ自分達は、時にこうした間違いを犯してしまうのでしょうか?

 

 それは自分達の人権意識が低いからなのですが、ではなぜ自分達の人権意識が低いのかと言えば、それは『他者の人権』以前に『自分の人権』というものを知らないからです。自分の中に、自分自身の人権についての意識がないから、「相手も自分と同じ様に人権を持っている」「お互いの人権を侵害しない事が大事なんだ」という意識が共有出来ないんですね。

 

 ではなぜ、自分達の人権意識は低いままなのか。

 自分はそれを『日本の教育の失敗』だと思っています。失敗というよりも、人権について学習する機会を与えて来なかったという事かもしれませんが、明日以降、その問題点についてまとめてみたいと思います。

40代のおっさんが創作BL小説を書いたら人生観が変わった話をする

 10月は1回もブログを更新しなかったんですが、ここを放置して何をやってたかというと、小説書いてました。まあアマチュアなので長編でもないし「これから公募新人賞に出すぞ」とか「自分もいつかプロ作家になってやるんだ」みたいな夢を抱いている訳ではないんですが(20代の頃は作家になりたかった)「また書きたくなったから書いた」としか言えないです。それもストレートの40代男性が、人生初の創作BL(ボーイズラブ)小説を。

 

 この記事のタイトルを読んで「釣りですか?」と思われた方がいるでしょうし、社会問題について語る場として設けたブログで何を血迷ったと思われるでしょうが、ちゃんと書いたよ、という意味で、ちょっと恥ずかしい気もしますが拙作を置いておきます。念の為、18禁とかではないです。まあ中年男性が書いたものなので、これが創作BL小説の枠内にちゃんと入っているのかというと若干怪しいですが、そのつもりで書いてはいます。

  

www.pixiv.net 

 さて、まず「何で書いた?」という話になると思いますが、きっかけは9月25日の足立区議会で白石正輝議員が「LだってGだって法律に守られてるじゃないかなんていうような話になったんでは、足立区は滅んでしまう」などと発言した事でした。

 

 このブログでも過去に言及しましたが、自民党衆議院議員杉田水脈氏が新潮45に寄稿した『「LGBT」支援の度が過ぎる』という記事があります。その中で杉田氏は『彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです』という発言をして大問題になった訳ですが、要するに白石議員の発言はそれと同類だなという気がしました。その後発言は撤回されるのですが、問題視された当初は「謝罪も辞職もしない」というコメントを出していた時期もあり、政治信条としてその様な方なんだなという気はします。またその後、春日部市の9月議会で井上英治市議が、同市の市民からパートナーシップ制度導入や差別撤廃を求める請願書が提出された事に対して『左翼の作戦』と発言した事が明らかになるなど、この少数派に対する厳しい態度は保守派を自認する政治家の中で標準化されている気さえします。

 

 そんな中で、創作界隈で最初に動いたグループがありました。

 『足立区滅亡創作SFアンソロジーという同人誌の企画がそれです。

  

privatter.net

 コンセプトの項目に書かれている通り『百合やBLで滅亡する・滅亡した・しそうな足立区』を描くという企画で、主催者は、半分程度は差別的な市議の言動に対するカウンターとしてこれを放つつもりだったのだと思います。おそらく残りの半分は「世界が滅ぶ系の世界観で描かれる恋愛はエモい」的な、作家特有の「この題材で書いたら良いものが書けそうな気がする」というエゴです。自分もそういう所はあるので分かってしまいます。自分の思い違いだったら申し訳ないですが。

 折しもSF小説界隈ではSFマガジンが『百合特集』を組んだ事に大きな反響が寄せられたりするなど、『百合とSF』というものが注目される様になっていました。

 

 しかし結果としてこの企画は主催者の想像以上に拡散され、批判される事になります。

 「実際に差別を受けて苦しんでいる人がいる問題を、創作の『ネタ』にして楽しんでいいのか、『消費』していいのか」という批判です。実際にLGBTの当事者の方々が、「自分達は昔からここにいるし、自分達がいたって足立区は滅ばないよ」という意思表明を『私たちはここにいる』というTwitterハッシュタグを使って発信し始めていた事もあり、この同人誌の企画は中止されます。

 

www.huffingtonpost.jp 

 自分はこの騒動を遠くから眺めていて、なぜか悲しかった。そしてふと思ってしまいました。

 「風刺とか、自分の創作活動のネタとかじゃなく、実際にこの問題で困っている人に寄り添う様な形での創作ってあり得ないものだろうか」と。でもそれは難しい事です。自分自身が「ネタにするつもりはない」と考えて書いたとしても、その問題の当事者が「ネタにされた」「面白おかしく消費された」と感じる事はあるからです。

 

 自分は福島県民なのですが、「東日本大震災原発事故を題材にした創作物とどう向き合うか」という事を考える時には、やはり複雑な感情があります。過去に別のブログで岩井俊二氏の『番犬は庭を守る』という長編小説の感想を書いた事がありますが、ここに書いた事は当時の、偽らざる自分の気持ちです。

 

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 過去の自分の発言を振り返れば、冒頭に挙げた小説も書くべきではなかった。そう思う事もあります。今からでも削除して『無かった事』にするべきだろうかと悩んだ事もあります。差別を受けている人をネタにした小説だと思われるかもしれないし、そもそもプロでもない自分の実力では上手く書く事はできないかもしれない。でも書こう。書きたい。そう自分は思ってしまいました。そして公開する事にしました。それは自分の中のスイッチを入れられた様な感覚があったからです。

 

 自分が白石議員の議会発言やコメントを見ていた中で『この発言がスイッチになった』というものがあります。それは氏が問題発言後に受けたインタビューの中での言葉でした

  

mainichi.jp 

 この中で白石議員は『これまで、LGBTについて学んだことは?』と聞かれ「私のまわりにはまったくいないし、ニュースの報道の範囲しか知りません。会ったことがない」と答えています。 要するに、「会った事もない人たちの事なんか知らないし、大した問題だと思っていない。勉強するつもりもない」と言っているに等しい訳です。あまりにも想像力がない発言だと思います。自分がここで言う『想像力』とは『思いやり』の事です。

 

 そしてこれは、過去の自分に跳ね返ってくる言葉でもありました。

 

 自分は紆余曲折を経て、今は社会福祉法人障がい者福祉に携わっています。生活支援員ではないですが、裏方として。施設には障がい支援区分が5や6(6段階で6が最も重い)の重度知的障がい者が多くいます。そして恥ずかしい事ですが、自分もまたこの仕事に就く前は、障がい者福祉の事など何も知りませんでした。想像した事も無かったし、自分が暮らす地域にこんなに多くの障がいを持つ方やその家族が暮らしていて、それぞれ悩みや困り事を抱えて生きているんだなんて事を知らずに生きてきてしまいました。そしてもしかすると、現職に転職しなければ一生知らなかったかもしれない。何だ、白石議員と同じ事を自分もしてたじゃないか、という事です。白石議員を批判した自分の言葉が跳ね返って来て心臓に突き刺さった訳です。自分もまた想像力がない、思いやりがない人間だったなという事に気付いてしまいました。

 

 だったら、今からでも想像力を発揮してみるしかないんじゃないか。

 

 それが創作の動機の半分です。

 40代の、LGBTの問題に直接触れた事も無いストレートのおっさんが、調べられる範囲で調べて、残りは想像して、自分自身の悩みも投影して、自分が作った架空の登場人物たちを通して絞り出せるものを全部絞り出したら、同性愛者である事で悩んでいる人たちの気持ちを言葉で表す事ができるか。彼等の理解者や支援者を表す『ally(アライ)』になれるなんて思いもしないけれど、それでも何も知らないままこの問題について「あー、自分にはわかんないですね。自分はゲイじゃないから」みたいな態度でいいのか。

 

 そう思ったのです。成功したかどうかは分かりません。

 

 そして残りの半分の動機は怒りでした。今思えば完全にキレていました。

 それは『人間の想像力を舐めんな』という事です。

 

 自分は小説が好きです。昔うっかり大学のサークルで「SF小説が好きです」って言ったら「こんな読書量でSF好きだとか名乗んな」って全否定された事を一生忘れないと思いますがそれはそれとして小説が好きです。読書が好きです。だから知っています。

 

 自分たちは、想像力だけで宇宙の果てにだって行けるんですよ。

 作家も、読者も。

 

 そんな場所に行った事がある人なんて誰もいないけれど。何なら時間も世界も超えて、自分がまだ見た事もない場所へ、現実には一生辿り着く事がない場所へ、自分たちは行ける。宗教的な概念とか『悟り』みたいなものも人間の想像力の結晶の様に思う事はあります。まだ世界のどこにも存在しなかった概念を、確かに自分の力で掴み取った人がいる。想像力を駆使する事によって。

 

 それを「見た事が無いものや聞いた事がないものなんてわからなくて当然ですよね。知る必要も感じないですね」っていう態度で来られたら、それは人間の想像力の敗北であり、言い換えれば思いやりの全否定じゃないですか。だから直接白石議員に「あの発言を撤回しなさい。もっとこの問題について勉強しなさい」っていう直接的な抗議をする方が手続きとして正当なんだろうなと思いつつも、自分はそれと違う方法で、想像力を駆使する事でカウンターを入れてやりたかった。そういう気性の荒さというか、短絡的な所が自分の中にもあった。だから自分は『足立区滅亡創作SFアンソロジー』に関わった人たちを笑えないし、全否定する気にはなれないんですよ。「お前もやっぱり同類だろうが」って言われたら、一緒に怒られるしかない。怖いんですよね。この文章も、ここまで書いて消すかどうか今悩んでいるくらいには。でも結局、創作ってどんなに理由を後付けしてもその根源的な動機って自己満足じゃないですか。

 

 自分が書きたいから、書いた。

 

 それ以外の理由って全部後付けなんだろうなと今は思います。怒られても仕方ない。

 でも、自分はもう書いてしまったし、その事で叱られる事があったら叱られよう、間違いがあったら、勉強し直そう。そう思う事にしました。そうする事が、「本当は謝罪も発言撤回もしたくなかったけど、周りに言われて渋々謝った」かの様に思われている白石議員の姿勢に対する、自分自身の回答になればいいなと思います。自分もそうだった様に、自分自身の無知に気付いて、痛い目にあって、恥ずかしい思いをして、知ろうと思わない限り人間って変わって行かないですよ。特に大人は。(自分が立派な大人であるかどうかは別として)

 

 だから「自分は当事者じゃないから、~の問題には何も言えないな。言うべきじゃないな」っていう事はLGBTの問題に限らず色々とあるし、(先に挙げた原発事故の問題とか)「当事者でもないのに黙ってろよ」っていう怒りが湧く事もある。お互いがそう思う事は、それはそれで自然な事なんですが、自分はその考えを少しずつ改めて行く事にしました。障がい者福祉でもそうですが、当事者以外の理解者を増やして行かないと、結局世の中の仕組みを大きく変えて行く事はできないんですよね。多数決による意思決定が社会を動かしている限りは。

 

 だから自分は、自分が得た気付きを、忘れない様にここに書いておく事にしました。

 多分、これからも考え続けるだろうと思います。

人の罪の島で生きるという事・根本聡一郎『人財島』

 

 

 自分が『人材』ではなく『人財』という言葉を初めて聴いたのは、確か7、8年前だったと思う。

 当時は運送会社で事務をしていた。その時の上司であり経営者一族でもある専務は、どこかで聞きかじって来たらしい『人財』という言葉を、さも自分が思い付いたかの様に得意気に語っていた。

 

 会社の為に自ら率先して働く社員は、かけがえのない財産になる『人財』

 会社の中で与えられた仕事だけをこなす指示待ち社員は『人材』

 会社にただいるだけで役に立たない社員は『人在』

 会社にいる事が組織にとって害になる社員は『人罪』

 

 社員は『人財』になる為に日々努力しなければならず、努力を怠れば『人罪』に落ちて行くのだというのがその時の上司の言葉だった。そして今、本作を読んで改めて調べ直してみたのだけれど、この『人財』『人罪』という造語を最初に用いたのが誰かという事はもう辿れなくなっていた。しかも4種類だった人材の区分はいつの間にか6種類に増えていて、「かつて会社に貢献した功績があっても、今は過去の栄光に溺れて威張り散らすだけになり、新しいものを受け入れない社員は用済みだから『人済』」「仕事ができない事を他の社員や会社に責任転嫁する社員は会社に災いをもたらす『人災』」といった言葉遊びの様なものが追加されていた。

 

 こうした造語や、誰が最初に唱えたかも分からない様な謎のマナーというのは厄介で、皆がその存在を信じて唱え始めると、それがどんなにでたらめなものであっても、この現実の中で存在感を増して行く。『上級国民』という言葉もその類だろうと思う。こうして誰かが無責任に作った言葉は独り歩きして、この社会の『規範』にすり替わって行く。

 

 本作『人財島』では、人財サービス大手の大企業が瀬戸内海に浮かぶ離島を再開発し、次世代人材を育成する大規模施設『人財島(たからじま)』として運営を開始したという設定で物語が始まる。一次産業から三次産業まで様々な業種の研修施設を備え、一見、労働者のキャリアアップにとって素晴らしい島の様に見える『人財島』だったが、その実、島の内部ではAIやGPS内臓のウェアラブル端末による徹底した個人管理が行われており、外部との通信手段を取り上げられた労働者達は『人財(タカラ)』『人材(マルタ)』『人在(アリ)』『人罪(ツミ)』という4つのランクに区分けされ、島を出る事も許されない状態に追い込まれていた。

 

 労働の対価は日本円ではなく『JP(ジンザイポイント)』で支払われる。まるで『カイジ』に登場するペリカの様なものなのだが、多額のJPを支払って『人財』ランクに上がらない限り、労働者は島から出る事が許されない。そんな中で、運営企業から出向の名目で島に送られた主人公は、人財島の実態を知って愕然としながらも、何とかこの島を仲間と共に脱出する方法を探そうとする。

 

 本作をブラックユーモアに満ちたエンタメ小説として読む事はできる。だが、自分はとてもそんな気にはなれなかった。なぜなら、本作で描かれている問題は、程度の差はあっても全て現実に存在しているからだ。自分達が暮らしている、この日本の中に。

 

 以前、別のブログで『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した ~潜入・最低賃金労働の現場~』という本の感想を書いた事がある。 

 

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  この本で書かれている様な、労働者を秒単位で管理して追い込んで行く過酷な労働実態は『人財島』の中でもそのまま登場する。そして、近年問題になっているひきこもりの解決策として、ひきこもり状態にある人を、その家族等からの依頼を受けて強引に部屋から連れ出し、同じ様な境遇の人々と共同生活させたり、作業所で働かせたりする『引き出し屋』の様な問題もまた作中に登場する。本作では連れ出される先が架空の人財島であるだけで、それは現実に存在する問題なのだ。

 

 この通り、過酷な労働条件で労働者を酷使する『人財島』は、現実問題の一部を強調し、物語として再構成する事で、島からの脱出を描いたエンタメ小説して読む事もできる様にしているだけで、実際には現実にある問題をそのまま読者の側に突き付けているとも言える。自分達はこれから先も『人財』という言葉を信じて生きて行くのか否かという事を。

 

 自分は思う。本作は小説として『人財島』という舞台を設定したが、実際にはこの日本全体がひとつの大きな『人財島』なのではないか。『人財』『人罪』といった労働者のランク分けは、正社員と派遣労働者契約社員といった形で既に存在するのであって、しかもそれは個人の努力で超えて行ける壁ではなくなっている。企業が繰り返し唱える様に、勉強し、資格を取得し、人材としての価値を高めて行けば、いつか自分達は『人財(タカラ)』になれるのかというとそんな事はなく、『人材(マルタ)』や『人在(アリ)』として使い潰されるのではないか。そしてこの『恐れ』は被害妄想ではないのではないか。

 

 そして自分達はいつの間にか区分けされたランク毎に、異なる『階層(レイヤー)』の中で、それぞれ自分が立っている場所から見える景色だけを見て生きている。

 

 その例えとして適切かどうかは分からないが、昔『Ingress』という位置情報ゲームをやっていた事がある。『ポケモンGO』や『ドラゴンクエストウォーク』等の先駆けになったゲームで、プレイヤーは2つの陣営に分かれて陣取り合戦をする。そのゲームの面白さのひとつが「見慣れた現実の風景が、ゲームのプレイヤー達には全く違ったものに見える」という事だった。自分が住む町の、何気ないランドマークが戦いの舞台に変わる。いつもは通り過ぎるだけだった石碑や祠が陣取り合戦の為の重要な戦略拠点になる。いつも通っている郵便局が、相手陣営にとっての補給基地として強固にガードされている。それはそのゲームのプレイヤーという階層に参加しなければ見えない景色だった。意図的に参加しようとしなければ見えない階層というものが、現実の世界の上を薄く覆っている。今で言えばAR(拡張現実)もそうだ。それを見る為の手段を介して、初めて知覚できる階層がある。

 

 ゲームの話はさておき、現実の自分達も、自分が立っている階層から見えるものが正しいと思い込んでいて、別な階層で生きている人々の現実を見ていない。『人財島』の中にいる人々の実態を、本土で暮らす人々が全く知り得ないのと同様に、同じ国で、同じ町で暮らしていても、自分達は異なる階層で生きている人々の事を知らない。その階層を超えて、相手に近付こうとしない限りは。

 

 自分は今、社会福祉法人で働いている。そこでは重度の知的障がいの人々が入所施設で暮らしている。自分が今見ている景色は、かつて運送会社で働いていた自分からは見えなかった景色だ。障がい者や、その家族がどんな暮らしをしているか。彼等はどんな人々か。

 

 自分の場合は転職をして、自分が立っている階層が変わったから、ようやく彼等の姿が見えた。そして価値観も変わった。自分は元々裕福な人々が暮らす階層では生きていなかったから、富裕層の階層から見える景色は知らないけれど、今では営利企業で働いていた頃と、障がい者福祉の現場という2つの階層から見える景色を知っているし、そこにどんな人々が暮らしているかが見えている。

 

 きっと自分達は、こうして誰かが決めた境界線をそれぞれの立場から踏み越えて行く必要があるのだろうと思う。例えば営利企業が効率化を最大限に求めて行く社会には、当然『生産性が低い』とされてしまう人々の居場所はないし、存在意義もない。同様に障がい者や、生活保護受給者や、働けなくなった高齢者はこの国でどんどん『人罪』扱いされて行っている。社会のお荷物だと言われ、疎外されて行っている。前回の記事にも書いた通りに。 

 

kuroinu2501.hatenablog.com 

 『生きるに値しない命』という概念は『人財』や『人罪』といった言葉を信じている人々がいる限り、そうした言葉によってエネルギーを与えられている限り、滅びる事はない。自分達は何とか自らが『人財』として認められる様に、『人罪』にならない様にともがきながら、自分よりも生産性が低いとされる人々を蹴落とそうとする。自分の両肩に他の誰かが重荷の様にのしかかっている気がして、相手の事を『人罪』だと断じ、罵る。自分達は、本当はそうした言葉によって形作られている階層から出なければならないのではないか。『人財』という言葉を否定しなければならないのではないか。

 

 それをせずに、自分は『人財』でなければならないと信じて生きて行く限り、この日本という国は丸ごと『人罪島』だ。『人財島』ではない。自分は『人財』だと信じている人々によって、『人罪』だとされる人々が切り捨てられて行く事を許すという『罪』を、自分達全員が共犯関係になって維持し続けているという意味での『人の罪の島』だ。

 

 そこからはどんな景色が見えるだろう。それは決して、明るい未来ではない筈だ。

 

 

今、自分達の過ちに気付く為に・森下直貴 佐野誠 編著『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』

 

 

 近年、『生きるに値しない命』という趣旨の言葉を聞く事が増えた気がしています。例えばそれは相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚が言う『心失者』という造語が指し示す人々の事でもあるし、自民党衆議院議員杉田水脈氏が言う『生産性がない』人々の事でもあるのでしょう。また少子高齢化によって社会保障費の負担が現役世代に重くのしかかる様になり、高齢者や生活保護受給者に対しても彼等の生存権に対する異議が公然と唱えられる様になりました。

 

 自分達が現在直面しているこれらの問題は、これまでに無い、全く新しい問題ではありません。歴史を振り返れば、国家や社会、個人の思想によって『生きるに値しない命』だとされた人々はいました。その最たるものが、本著で考察されているナチス安楽死思想でしょう。

 ならば自分達は、過去の問題を再考する事によって、現在日本で起きている問題を解決する為の道筋を探さなくてはなりません。

 

 本著の内容について語る前に言っておきたいのですが、自分は社会福祉法人障がい者福祉に携わっています。そんな自分からすると、『生きるに値しない命』という言葉が社会の中で平然と使われる事には強い抵抗があります。それはなぜでしょうか?

 

 自分が思うに、その言葉を使う側は「障がい者」や「生活保護受給者」「高齢者」といった『カテゴリー』について語っている気がします。そういったカテゴリーに分類された『個人』を見ている訳ではないんですね。結果として、個人の尊厳が軽視されている様に感じられる。これは外国人や特定の人種についても同じ傾向があると思います。実在する個人ではなく、自分の中に思い描いた相手の属性を見ている。

 

 でも自分にとって、例えば「障がい者」というのは、『毎日職場で会っている誰それさん』なんですよ。名前があって、生きている個人であり、知人なんです。だから、仮に障がい者が『生きるに値しない命』だと言うのなら、その言葉を自分に向けた時点で、「あなたの職場に入所している誰それさんは、生きるに値しない」と言っているに等しい。仮にその言葉を自分が批判する事なく聞き流したとすれば、その先に待っているのはカテゴライズされた『匿名の誰かの死』ではなく『目の前にいる知人の死』に他なりません。

 

 ですから自分は『生きるに値しない命』が存在するという主張には、明確に反対します。でなければ、いつか目の前にいる人が殺される事になるからです。社会によって。自分達によって。そう、その時は自分も共犯になるのです。

 

 さて、前置きが長くなりましたが、本著にはナチス安楽死思想の中核になったとされる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁 ――その基準と形式をめぐって』(以下『解禁』)というテキストが全訳された上で収録されています。1920年にドイツで出版された書籍であり、著者は法学・哲学博士のカール・ビンディング教授と、医学博士のアルフレート・ホッヘ教授です。

 

 その『解禁』を全訳収録した上で出版されたのが、本著の旧版にあたる『「生きるに値しない命」とは誰のことか ――ナチス安楽死思想の原典を読む』であり、この旧版の出版が2001年でした。そこから19年が経った現在、自分達はまだこの『生きるに値しない命』という問題に対して有効な回答を導き出せていません。ですから、相模原の事件や近年の情勢を鑑みて、本著が『新版』として刊行された事は英断だと思います。容易に答えが導き出せないからといって、考える事を止めてしまう訳には行かない問題というものがこの社会には厳然と存在するからです。

 

 さて、あえて『解禁』を全訳して収録する事は、その思想に感化される者を生み出すかもしれないリスクを伴います。批判的な考察が添えられていたとしても、読者がその部分を読まずに『解禁』の思想だけを自分の中に取り入れる事は可能だからです。ですが19年前に出版された旧版の時点で、そのリスクを踏まえた上であえて『解禁』の全訳収録に踏み切った事には大きな意義があると思います。それは『解禁』を読む事で『優生思想』の源流に近い部分を知る事が可能だからです。そして実際に本著を読むと、その発生状況が今の日本と非常によく似ていてぞっとします。例えばホッヘ教授が記した部分について引用すると、以下の通りです。

 

(前略)経済面に関する限り、〔精神遅滞の人たちの中でも〕白痴の人たち〔最重度の知的障碍者(Vollidioten)こそは、完全なる精神的な死のすべての前提条件を一番に満たすと同時に、誰にとっても最も重荷となる連中(Existenz)となろう。

 この負担の一部は〔国家〕財政上の問題であって、これは施設の年度収支報告書を調べることで計算できる。私は全ドイツの該当する施設にアンケートを送って必要な資料を入手すべく努めた。そこからわかったことであるが、精神遅滞の人たち(Idioten)の養護にこれまでは年間一人あたり平均一三〇〇マルクかかっている。ドイツには今〔施設外で〕存命している者と施設で養護されている者との両方を合わせると、すべての精神遅滞の人たちは推定でほぼ二万人から三万人になる。それぞれの平均寿命を五〇年と仮定すると、容易に推察されるように、何とも莫大な財が食品や衣服や暖房の名目で国民財産から非生産的な(unproduktiv)目的のために費やされることになる。

 

 (中略)

 

 これらのお荷物連中(Ballastexistenzen)に必要とされる経費があらゆる面で正当なものであるのかという問題は、過去の豊かな時代には差し迫ったものではなかった。しかしいまや事情は変わったから、我々はそれに真剣に取り組まざるをえない。

 

 つまり1920年のドイツでは『生産性がない人間を養護しておく余裕はない』という近年日本で広がりつつある価値観と同じ思想が既に登場しています。平たく言えば「国家財政に余裕がないのだから、お荷物連中を養護しない事は正当だ」と言っているのです。これが生存権の侵害でなければ何でしょうか?

 

 しかしここで逆転現象が起きます。障がい者生存権を侵害しようとする側は国家財政の危機という現実問題が見えている現実主義者であり、障がい者を擁護する者は、人権擁護で目が曇って現実を見ようとしない理想主義者だ」という主張がまかり通る様になる訳です。いわゆる『お花畑』という揶揄は、これにあたると自分は考えています。

 

 さて、どちらが『お花畑』なのでしょうか?

 

 自分は、百歩譲って人権擁護の考え方がお花畑なのであれば、『生産性がない』『お荷物連中』という言葉を平気で使う側もお花畑の住人だろうと思います。そのお花畑に咲いている花の種類が違うだけの事です。特に、為政者がこれを口にする場合は。

 

 現実の見え方というものは、それを見ている人の立ち位置で大きく変わるものですが、人権擁護の立場から見る現実とはこうです。

 要するに「自分達は貧しくなったから、負担を減らす為に弱い者から順番に切り捨てて行きたい」と言っているんです。しかも過去の豊かな時代には差し迫った問題ではなかったと認めながら、今後はお金の都合で生きていて良い人間と、そうでない人間を切り分けると宣言している訳です。倫理観の問題ではなく、経済財政の問題だと。仮に為政者がこれを口にしたとしましょう。では、自分達が貧しくなった事の責任は誰にありますか? その責任の一端が政治家や自分達有権者の側にある事は明白なのですが、その責任を弱い立場の人々に押し付けた上で切り捨てて行く事のどこが『現実的』であり『正当だ』と言えるのでしょうか? 

 

 自分達は、結局『自分が見ていたいと思う現実』に目を向けているだけなんですよ。

 

 だから見えている『現実』が、こんなにも違う。

 自分達はこの社会を構成する一員として知る必要がある訳です。自分達が陥りかけている危険な思想がどこから来て、自分達をどこに連れて行こうとしているのかを。

 

 今後、立場の弱い人々から切り捨てられていく社会が『現実』として容認されたとすれば、その先に待っているのは『自分が切り捨てられるまで必死で逃げ続けるマラソンでしょうね。(というより、それは既に始まっている訳ですが)

 自分の背後からどんどん足場は崩れて行く。そこから落ちたら二度と這い上がれない暗闇が足元にあって、走れなくなった人や転んだ人を順番に飲み込んで行く。そこから逃げなければならないから、必死に走って走って走り続ける。でもいつか追い付かれるんでしょう。それが何年先か、何ヶ月先か、あるいは今日か明日かの違いです。

 

 人命を『有用性』『生産性』という軸で切り捨てて行った過去の歴史において、その先にあったのはおびただしい人々の死でした。ドイツの場合、虐殺の実行犯はナチスだったかもしれません。しかし民衆はナチスの蛮行を支持し、或いは黙認しました。厳しい言い方をすれば民衆は『共犯』でした。日本でも1948年に施行された旧優生保護法下で、障がい者やその疑いをかけられた者に対して強制的な不妊手術が行われましたが、この旧優生保護法は実に1996年まで存続していました。更に言えば強制不妊手術の被害者に一時金を支払う救済法が制定されたのは2019年ですし、被害実態の調査は現在もなお継続中です。この事を、自分達はどう受け止めて行くのでしょう。

 

 自分達はこれから進む道を間違えない為というよりも、既に間違えてしまった道から正しい道へと戻る為に、様々な事を学ばなければならないのだろうと思います。それを怠った時にどうなるのか。それはおそらく、加害者の共犯だった自分達が、今度は被害者と同じ列に並ぶ事になるのでしょう。そうなる前に、気付くべきだと思います。

 

 

現実を模刻する物語・柴田勝家『アメリカン・ブッダ』

 

 

 自分はいつも下記の別サイトで本の感想を書いているのですが、この柴田勝家氏の短編集アメリカン・ブッダについては、特に表題作が仏教をテーマにした作品という事もあるので、出張版でこちらに感想を載せたいと思います。本当は感想書きがメインで、このブログはサブ扱いなんですが、更新頻度が逆転しつつあるのが何とも悩みどころ。

 

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 さて、自分は某大学の仏教学部で仏教美術を学び、かれこれ20年前くらいに卒業した人間なのですが、その前から仏教や美術についてどこかで学んでいたのかというと、そんな事はありませんでした。興味はありましたが、お寺の跡継ぎという訳でもなく、進路選択は完全に自分の興味優先でしたし、仏教美術を専攻する事に決めたのも大学に入ってからでした。学問も美術も完全に素人です。

 

 そういう素人が卒業制作として、自らの手で仏像などに代表される仏教美術を作る事を目標にゼミに臨む訳ですが、それは基本的に『模刻(もこく)』になります。既にある他者の絵を忠実に再現する事を『模写』と言いますが、その彫刻版をやる訳です。そして当然ですが、最初は全くできません。これは当然の話で、ゼミが始まるまで絵画や彫刻等の基礎的な技術を学んできた訳でもない素人が、国宝や重要文化財に指定されている様な彫刻を模刻するというのは簡単ではありません。

 

 なぜ『できない』のか。そして、なぜ『できる様になる』のか。

 

 それは対象を何度も見て、何度も考えるからです。

 『自分がなぜこの彫刻に魅力を感じるのか』『この彫刻を構成している要素は何か』という事を自問自答する。考える。手を動かす。一度作ったものを壊してやり直す。また考える。立ち止まる。もう一度歩き出す。その試行錯誤の末に、素人ながらわかってくるもの、見えてくるものがあります。

 

 なぜ自分は美術に心動かされるのだろうという事。

 なぜ自分は仏教美術が好きなのだろうという事。

 歴史の中で、なぜ人々の信仰は変化しつつも途絶える事なく続いて来たのかという事。

 自分の中の信仰とは何かという事

 

 それらひとつひとつを自分の中で再発見して行く事。そうした理解の深まりが、作品としての彫刻に還元されて行く、昇華されて行く瞬間があります。だから、「対象を写し取る」というよりも、「自分という存在を一度通した結果を再出力する」様な手順で模刻は完成に近付いて行く事になります。それは「制作を通して技量が上がったから再現できた」というよりも、『ひたすら制作対象と自己の対話を続けたら、新しい視座に至った』という方が近いかもしれません。

 

 物語としての手触りは違いますが、本著に収録されている『邪義の壁』を読んだ時に感じたのは、この『新しい視座に至る』までの感覚でした。

 

 宗教・信仰というのは『教義を学び理解する』だけでなく、『信仰対象を見つめ、自己と対比させる』という行為によって成り立っています。仏教において仏像とは信仰対象であると同時に、自己を対比させる為の壁、ないし鏡の様な存在であって、仏像を見つめる時、そこに自分自身の姿を重ね合わせる事でその差異を捕まえる事が出来る様な、一種の『ものさし』としての役割を担っていると自分は考えています。

 

 自分自身を見つめ直す事を『内観』と言ったりしますが、自分で自分を見つめ直す事は意外と難しい訳です。そこに『自己を投影する事ができる存在としての信仰対象』が挟まる事によって、「自分の内面を一旦スクリーン(信仰対象)に映して眺めてみる」事ができる様になります。「自分を見つめる自分という視点」を、「自分自身の外側に置く」為には、視点を自分自身から引き剥がすよりも、自分の内面を外側に投影する方がいい。そして、その為のスクリーンとして仏像は機能する――というと随分システマチックに聞こえるかもしれませんが、言葉にするとこんな感じでしょうか。そして、その内観を経て新しい自分が立ち上がって来る瞬間があるのです。

 

 その上で、本著の表題作である『アメリカン・ブッダ』を読むと、小説家としての柴田勝家氏もまた、彫刻と小説というジャンルの違いこそあっても、この『模刻』と同じ事をしていると感じます。誤解がない様に最初に書いておくと、柴田氏が誰かの小説をお手本に書いているという意味ではないです。「小説家が自らの言葉で『仏教を語り直す』事によって、その本質を捕まえようとしている。そしてそれは成功している」という事です。

 

 『アメリカン・ブッダ』は、ネイティブアメリカン(作中ではあえてインディアンと書かれています)の青年が仏教的な信仰を持ち、それを他者に語る姿が描かれるのですが、それは既存の仏教そのものではなくて、作家、柴田勝家氏によって『語り直された仏教』なんですね。そして『語り直す』為には、まずそのものの本質に対する理解がなくてはならない。

 

 当然、元ネタはあります。仏教学を学んだ人、仏教を信仰する人なら、様々な言葉が思い浮かぶはずです。『阿含経』『四苦』『四諦八正道』『六道輪廻』といった言葉たちです。ですが、あえてそれらの言葉を使わず、それらが持つ意味や物語を捕まえて、現実のネイティブアメリカンの信仰とも融合させ、それでいて仏教の本質からは外さずに、もう一度練り直し、語り直す。それは模刻の手法だと思います。そして模刻の目的は手本を模す事、再現する事ですが、そこには不思議と『製作者自身』が乗るものです。どこかで、必ず作者本人が垣間見える瞬間がある。小説ではそれを『作家性』と呼ぶのかもしれません。

 

 伝統宗教を信仰する人々、継承する人々は、「自分達が受け継いで来たものを、そのまま次代に伝える」事を目標にされている事が多い様に思います。それは尊い事だし、価値ある事だと思います。その一方で、自分を通して、自分が見聞きした教えを語り直す事の意味、意義もまた大きなものです。

 

 現代を生きる自分たちが、自分たちの言葉によって伝統宗教の教えを語り直す時、現在と過去の距離はぐっと近付くはずです。そこには新たな理解と、共感が生まれる。『アメリカン・ブッダ』が、「仏教の教えを生きるネイティブアメリカンの青年」というフィクションを描く時、そこには当然、『物語のネタ的な面白さ』は計算に入っていると思いますが(だって実際凄く面白いし)それだけではない。この「それだけではない」という部分が凄く大きいし、効いていると思います。

 

 仮にこの物語的な改変が入る事によって、作品全体が仏教の本質から外れて行くとすれば、物語としてのエンタメ的な面白さも薄れる訳です。読む人が読めば『嘘だな』という事が伝わってしまう。でも逆に自分は凄く『ありそう』だと思いました。だからこそこの『物語という名の嘘』がくっきりとした輪郭を持って立ち上がって来る。虚構としての強度が高い。それは言ってみれば『確かな手触りがある』という事です。

 

 虚構を物語る事が、現実を語る事と結ばれる。同じにはならなくても、限りなく近似値に迫って行く。それは模刻が決して本物と同じものにはならないままで、本質を捕まえて行く事に似ています。模刻という行為によってしか迫れないものに迫って行く事。物語るという行為によってしか語れない現実、本質を捉えるという事。それらは恐らく同じ行為です。対象が彫刻か、小説かという違いがあるだけで。

 

 そうだとすれば、小説家というのは仏教的に言うところの『方便』『比喩』を駆使して、現実を語り直す人々だと考える事もできますね。自分が小説を好きな理由も、恐らくこのあたりにありそうです。

 

 仏教に興味をお持ちの方は、表題作以外にも『刺さる』話が目白押しですので、この機会にぜひ読んでみて下さい。そして感想をお聞かせ願えれば幸いです。

 

 

開き直りと、捨て鉢で生きて行く人の辛さ

 最近、身の回りで色々な事があって物を書いたり読んだりしている心のゆとりが無く、正直「生きてる感」があまりしないんですが、それでも書いておいた方がいいかなと思ったので書きます。

 

 これから書く上で、自分の個人情報をあまり明かしたくないので個人名や内容は出しませんが、まあ実話だと思って下さい。といっても過去の記事等を読めば特定は簡単でしょうから、あまり掘り返さず、「ああ、こういう人はいるよね」「こういう事ってあるよね」と身近な問題に置き換えて考えてみて下さい。

 

 さて、「有名になりたい」「お金が欲しい」みたいな事って誰でも考えると思います。自分もお金は欲しいなーと切実に思います。何か選択する時に、お金がない事がネックになって片方の選択肢が選べないっていう事は多々ありますが、それが完全に無くなる事はないにしろ、選択肢が増やせる程度にお金があった方が生きやすい事は確かです。

 

 で、その「有名になりたい」「お金が欲しい」という欲求を満たす為に何をするかって人それぞれだと思いますが、中には「別に他人に迷惑がかかろうが構わない」っていう人がいます。そういう人とはなるべく関わり合いになりたくないんですが、ちょっと個人的に接点が出来てしまい、嫌な思いをした、という話です。

 

(ちなみに、自分は『絶対に他人に迷惑をかけるな』とは言っていません。そんな事は不可能だし、『お互い様』の精神で生きて行く方が皆幸せになれます。ここでは『故意に他人を食い物にする』類の行為を、良くないのではないかと言っています)

 

 自分が直接、具体的に何か酷い事をされたという訳ではないので安心して頂きたいんですが、まあ他人を介してちょっと巻き込まれたくらいの関係です。

 

 奥歯にものが挟まった様な書き方で申し訳ないんですが、そんな事があって、相手はどんな人なんだろうと調べてみたら、最近の流行に乗っかって色々な事に手を出している人だという事が分かりました。

 

自称青年実業家

様々な事業を立ち上げるが、中には法的にグレーなものもある

地方選挙に何度か出馬する(いずれも落選)

ユーチューバー活動(若干不謹慎系?)

 

 箇条書きにしても、結構「ありふれてるな」って思います。今は居ますよね、こういう人。

 

 自分は彼が経営する、ある事業で接点が出来たんですが、正直こんなにナメた方法で、相手先に迷惑がかかる事を承知の上で「楽して金が取れるからやる。だって違法じゃないし(かといって完全に合法でもないけど)」を地で行かれると「もう少し体裁を取り繕え」とは思います。少しはオブラートに包めよっていう。

 

 恐らくですが、彼には『お手本』がいるんだと思います。『目標』と言い換えてもいい。

 

 彼がやっている事業にしても、全国的に見て新しい、オリジナリティがあるっていうものではないんですよ。既に他の誰かが立ち上げた後で、話題になったサービスを自分でもやるっていう形を取っている。だからまあパクリというか、後追いですね。それを競争相手が少ない地方でやる。そこに勝ち目があると彼は思っている。

 

 地方選挙に立候補する事も、競争相手の少なさという意味では同じ事で、まあ当選すればラッキーだし、落選しても売名にはなるっていうスタンスでやっていて、それは正直、NHKから国民を守る党の立花孝志氏とそのフォロワーがやっている選挙活動と大差ない訳です。(あそこまで過激ではないですが)本気で国政や地方自治に取り組もうとしている訳じゃない。N国の候補者は政見放送でメチャクチャな事を言ったりして、当然批判もあるけれど、名前が知られる様になれば応援してくれる人も増える。立花党首は「1000万人から石を投げられても、10万人のコアなファンがいれば一定の発言力が持てるし飯が食える」っていうビジネスモデルを実践した人なのかなと思っているんですが、自分が接点を持った彼も、恐らく立花氏の様な人の生き方をお手本にしているのだろうと思います。

 

 自分の欲望に忠実に、承認欲求を満たしながら、なるべく楽にお金が稼ぎたい。もしそれが可能なら、他人に被害や不快感を与えても構わない。だって他にも同じ様な事をやってる人がいて、彼等はテレビに出て、SNSでは桁違いのフォロワー数を持っていて、動画だって凄く再生されている。応援してくれる人達が大勢いる。羨ましい。自分だってそうなりたいし、なれるはずだ。手段を選ばなければ。

 

 そんな価値観で生きようとしている人を見掛けた時に、自分にできる事って何だろうと思うんですよ。もちろん自分自身が被害を受けない為には距離を取った方が良い訳ですが、逆に彼等の価値観を放置しておくと、開き直りと捨て鉢を生存戦略に選ぶ人が増えて、どんどん世の中が荒れて行く気がするんですよね。実際にはもう手遅れなくらいそうなっている気もしますが、何より自分は彼等の背後に『辛さ』を感じるのです。特に立花氏の様なその道の「先頭集団を走っている人」ではなく、「彼等を追い掛けている人達」の方に。

 

 思いやりなんか無くていい。倫理観なんてかなぐり捨てればいい。自分さえ良ければいい。

 だって真面目に生きていたって、社会はそれに報いてくれなかったじゃないか。

 

 そういう種類の『辛さ』がある。言い換えれば、『やるせなさ』がある。

 

 『善く生きる』事に見返りを求めたら、それはもう『善く生きる』とは言えないのではないか、というのは誰しも思うでしょうが、実際問題として、真面目にコツコツ生きている人が報われる事なく、迷惑系ユーチューバーだろうが無責任政治家だろうが何だろうが、手段を選ばなかった者が勝つ社会では、『善く生きる』事に対する動機付けが弱まって行く様に思います。そうして、『善く生きようとしたのに報われなかった自分』というものを見付けてしまう時、自分達の倫理観は反転するのかもしれません。

 

 『もうどうでもいい。自分は自分のやりたい様にやってやる』って。

 

 でもその『やりたい様にやる事』って、皆が本当に最初から『やりたい事』だったのかなっていう疑問はある訳です。たった今『開き直った』だけ。たった今『捨て鉢になった』だけ。その結果のやぶれかぶれが、自分が本当に『やりたい事』だったのかって、相当疑わしいと思いませんか?

 

 こう言うと、「本音で生きる勇気もない臆病者が、何か負け惜しみを言って自己弁護を始めたぜ」って言われるでしょうし、そういう側面が無いとは言いませんが、もしも普通に善く生きようとする人達が幸せに生きられる社会があれば、他人を踏み台にしなくても生きられる訳じゃないですか。『北斗の拳』で、モヒカン刈りにトゲ付き肩パッド姿で略奪行為に走っている連中だって、地球が核の炎に包まれなければ気のいいバイク野郎として生きて行けたかもしれないし、きっとそっちの方が良かったに違いない。自分が気にしているのは、平たく言えばそういう事です。

 

 この今の社会のダメさ加減の象徴としての『批判を無視して自己中心的に立ち回った奴が勝つ』風潮。それは本当に自分達が目指すべき方向性なのか、疑った方がいいと自分は思います。傍若無人な個人を批判するだけではなく、社会全体の価値観を是正しなければならない。そう感じます。

 

 加えて最後に。自分と接点を持った彼について。決して個人を特定されたくはないですが、どこかで彼にこの文章を読んで欲しいなとは思います。自分の事だって気付かなくてもいいから。決して改心して欲しいなんて上から目線の事は言いませんし、言えませんが、ちょっと立ち止まって、自分自身の事を考え直してもらいたいと思います。次に会う時は、握手したいとまでは言いませんが、互いに会釈しても気まずくない程度の関係にはなりたいと思うので。