老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

現実を模刻する物語・柴田勝家『アメリカン・ブッダ』

 

 

 自分はいつも下記の別サイトで本の感想を書いているのですが、この柴田勝家氏の短編集アメリカン・ブッダについては、特に表題作が仏教をテーマにした作品という事もあるので、出張版でこちらに感想を載せたいと思います。本当は感想書きがメインで、このブログはサブ扱いなんですが、更新頻度が逆転しつつあるのが何とも悩みどころ。

 

dogbtm.blog54.fc2.com 

 さて、自分は某大学の仏教学部で仏教美術を学び、かれこれ20年前くらいに卒業した人間なのですが、その前から仏教や美術についてどこかで学んでいたのかというと、そんな事はありませんでした。興味はありましたが、お寺の跡継ぎという訳でもなく、進路選択は完全に自分の興味優先でしたし、仏教美術を専攻する事に決めたのも大学に入ってからでした。学問も美術も完全に素人です。

 

 そういう素人が卒業制作として、自らの手で仏像などに代表される仏教美術を作る事を目標にゼミに臨む訳ですが、それは基本的に『模刻(もこく)』になります。既にある他者の絵を忠実に再現する事を『模写』と言いますが、その彫刻版をやる訳です。そして当然ですが、最初は全くできません。これは当然の話で、ゼミが始まるまで絵画や彫刻等の基礎的な技術を学んできた訳でもない素人が、国宝や重要文化財に指定されている様な彫刻を模刻するというのは簡単ではありません。

 

 なぜ『できない』のか。そして、なぜ『できる様になる』のか。

 

 それは対象を何度も見て、何度も考えるからです。

 『自分がなぜこの彫刻に魅力を感じるのか』『この彫刻を構成している要素は何か』という事を自問自答する。考える。手を動かす。一度作ったものを壊してやり直す。また考える。立ち止まる。もう一度歩き出す。その試行錯誤の末に、素人ながらわかってくるもの、見えてくるものがあります。

 

 なぜ自分は美術に心動かされるのだろうという事。

 なぜ自分は仏教美術が好きなのだろうという事。

 歴史の中で、なぜ人々の信仰は変化しつつも途絶える事なく続いて来たのかという事。

 自分の中の信仰とは何かという事

 

 それらひとつひとつを自分の中で再発見して行く事。そうした理解の深まりが、作品としての彫刻に還元されて行く、昇華されて行く瞬間があります。だから、「対象を写し取る」というよりも、「自分という存在を一度通した結果を再出力する」様な手順で模刻は完成に近付いて行く事になります。それは「制作を通して技量が上がったから再現できた」というよりも、『ひたすら制作対象と自己の対話を続けたら、新しい視座に至った』という方が近いかもしれません。

 

 物語としての手触りは違いますが、本著に収録されている『邪義の壁』を読んだ時に感じたのは、この『新しい視座に至る』までの感覚でした。

 

 宗教・信仰というのは『教義を学び理解する』だけでなく、『信仰対象を見つめ、自己と対比させる』という行為によって成り立っています。仏教において仏像とは信仰対象であると同時に、自己を対比させる為の壁、ないし鏡の様な存在であって、仏像を見つめる時、そこに自分自身の姿を重ね合わせる事でその差異を捕まえる事が出来る様な、一種の『ものさし』としての役割を担っていると自分は考えています。

 

 自分自身を見つめ直す事を『内観』と言ったりしますが、自分で自分を見つめ直す事は意外と難しい訳です。そこに『自己を投影する事ができる存在としての信仰対象』が挟まる事によって、「自分の内面を一旦スクリーン(信仰対象)に映して眺めてみる」事ができる様になります。「自分を見つめる自分という視点」を、「自分自身の外側に置く」為には、視点を自分自身から引き剥がすよりも、自分の内面を外側に投影する方がいい。そして、その為のスクリーンとして仏像は機能する――というと随分システマチックに聞こえるかもしれませんが、言葉にするとこんな感じでしょうか。そして、その内観を経て新しい自分が立ち上がって来る瞬間があるのです。

 

 その上で、本著の表題作である『アメリカン・ブッダ』を読むと、小説家としての柴田勝家氏もまた、彫刻と小説というジャンルの違いこそあっても、この『模刻』と同じ事をしていると感じます。誤解がない様に最初に書いておくと、柴田氏が誰かの小説をお手本に書いているという意味ではないです。「小説家が自らの言葉で『仏教を語り直す』事によって、その本質を捕まえようとしている。そしてそれは成功している」という事です。

 

 『アメリカン・ブッダ』は、ネイティブアメリカン(作中ではあえてインディアンと書かれています)の青年が仏教的な信仰を持ち、それを他者に語る姿が描かれるのですが、それは既存の仏教そのものではなくて、作家、柴田勝家氏によって『語り直された仏教』なんですね。そして『語り直す』為には、まずそのものの本質に対する理解がなくてはならない。

 

 当然、元ネタはあります。仏教学を学んだ人、仏教を信仰する人なら、様々な言葉が思い浮かぶはずです。『阿含経』『四苦』『四諦八正道』『六道輪廻』といった言葉たちです。ですが、あえてそれらの言葉を使わず、それらが持つ意味や物語を捕まえて、現実のネイティブアメリカンの信仰とも融合させ、それでいて仏教の本質からは外さずに、もう一度練り直し、語り直す。それは模刻の手法だと思います。そして模刻の目的は手本を模す事、再現する事ですが、そこには不思議と『製作者自身』が乗るものです。どこかで、必ず作者本人が垣間見える瞬間がある。小説ではそれを『作家性』と呼ぶのかもしれません。

 

 伝統宗教を信仰する人々、継承する人々は、「自分達が受け継いで来たものを、そのまま次代に伝える」事を目標にされている事が多い様に思います。それは尊い事だし、価値ある事だと思います。その一方で、自分を通して、自分が見聞きした教えを語り直す事の意味、意義もまた大きなものです。

 

 現代を生きる自分たちが、自分たちの言葉によって伝統宗教の教えを語り直す時、現在と過去の距離はぐっと近付くはずです。そこには新たな理解と、共感が生まれる。『アメリカン・ブッダ』が、「仏教の教えを生きるネイティブアメリカンの青年」というフィクションを描く時、そこには当然、『物語のネタ的な面白さ』は計算に入っていると思いますが(だって実際凄く面白いし)それだけではない。この「それだけではない」という部分が凄く大きいし、効いていると思います。

 

 仮にこの物語的な改変が入る事によって、作品全体が仏教の本質から外れて行くとすれば、物語としてのエンタメ的な面白さも薄れる訳です。読む人が読めば『嘘だな』という事が伝わってしまう。でも逆に自分は凄く『ありそう』だと思いました。だからこそこの『物語という名の嘘』がくっきりとした輪郭を持って立ち上がって来る。虚構としての強度が高い。それは言ってみれば『確かな手触りがある』という事です。

 

 虚構を物語る事が、現実を語る事と結ばれる。同じにはならなくても、限りなく近似値に迫って行く。それは模刻が決して本物と同じものにはならないままで、本質を捕まえて行く事に似ています。模刻という行為によってしか迫れないものに迫って行く事。物語るという行為によってしか語れない現実、本質を捉えるという事。それらは恐らく同じ行為です。対象が彫刻か、小説かという違いがあるだけで。

 

 そうだとすれば、小説家というのは仏教的に言うところの『方便』『比喩』を駆使して、現実を語り直す人々だと考える事もできますね。自分が小説を好きな理由も、恐らくこのあたりにありそうです。

 

 仏教に興味をお持ちの方は、表題作以外にも『刺さる』話が目白押しですので、この機会にぜひ読んでみて下さい。そして感想をお聞かせ願えれば幸いです。

 

 

開き直りと、捨て鉢で生きて行く人の辛さ

 最近、身の回りで色々な事があって物を書いたり読んだりしている心のゆとりが無く、正直「生きてる感」があまりしないんですが、それでも書いておいた方がいいかなと思ったので書きます。

 

 これから書く上で、自分の個人情報をあまり明かしたくないので個人名や内容は出しませんが、まあ実話だと思って下さい。といっても過去の記事等を読めば特定は簡単でしょうから、あまり掘り返さず、「ああ、こういう人はいるよね」「こういう事ってあるよね」と身近な問題に置き換えて考えてみて下さい。

 

 さて、「有名になりたい」「お金が欲しい」みたいな事って誰でも考えると思います。自分もお金は欲しいなーと切実に思います。何か選択する時に、お金がない事がネックになって片方の選択肢が選べないっていう事は多々ありますが、それが完全に無くなる事はないにしろ、選択肢が増やせる程度にお金があった方が生きやすい事は確かです。

 

 で、その「有名になりたい」「お金が欲しい」という欲求を満たす為に何をするかって人それぞれだと思いますが、中には「別に他人に迷惑がかかろうが構わない」っていう人がいます。そういう人とはなるべく関わり合いになりたくないんですが、ちょっと個人的に接点が出来てしまい、嫌な思いをした、という話です。

 

(ちなみに、自分は『絶対に他人に迷惑をかけるな』とは言っていません。そんな事は不可能だし、『お互い様』の精神で生きて行く方が皆幸せになれます。ここでは『故意に他人を食い物にする』類の行為を、良くないのではないかと言っています)

 

 自分が直接、具体的に何か酷い事をされたという訳ではないので安心して頂きたいんですが、まあ他人を介してちょっと巻き込まれたくらいの関係です。

 

 奥歯にものが挟まった様な書き方で申し訳ないんですが、そんな事があって、相手はどんな人なんだろうと調べてみたら、最近の流行に乗っかって色々な事に手を出している人だという事が分かりました。

 

自称青年実業家

様々な事業を立ち上げるが、中には法的にグレーなものもある

地方選挙に何度か出馬する(いずれも落選)

ユーチューバー活動(若干不謹慎系?)

 

 箇条書きにしても、結構「ありふれてるな」って思います。今は居ますよね、こういう人。

 

 自分は彼が経営する、ある事業で接点が出来たんですが、正直こんなにナメた方法で、相手先に迷惑がかかる事を承知の上で「楽して金が取れるからやる。だって違法じゃないし(かといって完全に合法でもないけど)」を地で行かれると「もう少し体裁を取り繕え」とは思います。少しはオブラートに包めよっていう。

 

 恐らくですが、彼には『お手本』がいるんだと思います。『目標』と言い換えてもいい。

 

 彼がやっている事業にしても、全国的に見て新しい、オリジナリティがあるっていうものではないんですよ。既に他の誰かが立ち上げた後で、話題になったサービスを自分でもやるっていう形を取っている。だからまあパクリというか、後追いですね。それを競争相手が少ない地方でやる。そこに勝ち目があると彼は思っている。

 

 地方選挙に立候補する事も、競争相手の少なさという意味では同じ事で、まあ当選すればラッキーだし、落選しても売名にはなるっていうスタンスでやっていて、それは正直、NHKから国民を守る党の立花孝志氏とそのフォロワーがやっている選挙活動と大差ない訳です。(あそこまで過激ではないですが)本気で国政や地方自治に取り組もうとしている訳じゃない。N国の候補者は政見放送でメチャクチャな事を言ったりして、当然批判もあるけれど、名前が知られる様になれば応援してくれる人も増える。立花党首は「1000万人から石を投げられても、10万人のコアなファンがいれば一定の発言力が持てるし飯が食える」っていうビジネスモデルを実践した人なのかなと思っているんですが、自分が接点を持った彼も、恐らく立花氏の様な人の生き方をお手本にしているのだろうと思います。

 

 自分の欲望に忠実に、承認欲求を満たしながら、なるべく楽にお金が稼ぎたい。もしそれが可能なら、他人に被害や不快感を与えても構わない。だって他にも同じ様な事をやってる人がいて、彼等はテレビに出て、SNSでは桁違いのフォロワー数を持っていて、動画だって凄く再生されている。応援してくれる人達が大勢いる。羨ましい。自分だってそうなりたいし、なれるはずだ。手段を選ばなければ。

 

 そんな価値観で生きようとしている人を見掛けた時に、自分にできる事って何だろうと思うんですよ。もちろん自分自身が被害を受けない為には距離を取った方が良い訳ですが、逆に彼等の価値観を放置しておくと、開き直りと捨て鉢を生存戦略に選ぶ人が増えて、どんどん世の中が荒れて行く気がするんですよね。実際にはもう手遅れなくらいそうなっている気もしますが、何より自分は彼等の背後に『辛さ』を感じるのです。特に立花氏の様なその道の「先頭集団を走っている人」ではなく、「彼等を追い掛けている人達」の方に。

 

 思いやりなんか無くていい。倫理観なんてかなぐり捨てればいい。自分さえ良ければいい。

 だって真面目に生きていたって、社会はそれに報いてくれなかったじゃないか。

 

 そういう種類の『辛さ』がある。言い換えれば、『やるせなさ』がある。

 

 『善く生きる』事に見返りを求めたら、それはもう『善く生きる』とは言えないのではないか、というのは誰しも思うでしょうが、実際問題として、真面目にコツコツ生きている人が報われる事なく、迷惑系ユーチューバーだろうが無責任政治家だろうが何だろうが、手段を選ばなかった者が勝つ社会では、『善く生きる』事に対する動機付けが弱まって行く様に思います。そうして、『善く生きようとしたのに報われなかった自分』というものを見付けてしまう時、自分達の倫理観は反転するのかもしれません。

 

 『もうどうでもいい。自分は自分のやりたい様にやってやる』って。

 

 でもその『やりたい様にやる事』って、皆が本当に最初から『やりたい事』だったのかなっていう疑問はある訳です。たった今『開き直った』だけ。たった今『捨て鉢になった』だけ。その結果のやぶれかぶれが、自分が本当に『やりたい事』だったのかって、相当疑わしいと思いませんか?

 

 こう言うと、「本音で生きる勇気もない臆病者が、何か負け惜しみを言って自己弁護を始めたぜ」って言われるでしょうし、そういう側面が無いとは言いませんが、もしも普通に善く生きようとする人達が幸せに生きられる社会があれば、他人を踏み台にしなくても生きられる訳じゃないですか。『北斗の拳』で、モヒカン刈りにトゲ付き肩パッド姿で略奪行為に走っている連中だって、地球が核の炎に包まれなければ気のいいバイク野郎として生きて行けたかもしれないし、きっとそっちの方が良かったに違いない。自分が気にしているのは、平たく言えばそういう事です。

 

 この今の社会のダメさ加減の象徴としての『批判を無視して自己中心的に立ち回った奴が勝つ』風潮。それは本当に自分達が目指すべき方向性なのか、疑った方がいいと自分は思います。傍若無人な個人を批判するだけではなく、社会全体の価値観を是正しなければならない。そう感じます。

 

 加えて最後に。自分と接点を持った彼について。決して個人を特定されたくはないですが、どこかで彼にこの文章を読んで欲しいなとは思います。自分の事だって気付かなくてもいいから。決して改心して欲しいなんて上から目線の事は言いませんし、言えませんが、ちょっと立ち止まって、自分自身の事を考え直してもらいたいと思います。次に会う時は、握手したいとまでは言いませんが、互いに会釈しても気まずくない程度の関係にはなりたいと思うので。

嘱託殺人・尊厳死・安楽死・優生思想が雑に語られる事について

 

www.yomiuri.co.jp

 この問題について書くつもりはありませんでした。

 自分が語るべきなのかどうか悩む問題というのは常にあって、その中でも特に『自分が結論に至っていない問題に口を挟む事』にはためらいがあります。ただ、先日の嘱託殺人の件からこれらの問題があまりにも雑に語られている様な気がするので、自分の頭の中を整理する意味でも書き留めておきたいと思いました。

 

 <父の入院と『尊厳死安楽死』>

 

 先日、父が病気で入院する事になりました。病名は伏せますが軽いものではなく、1ヶ月以上の入院と手術を要するものです。

 父は手術で病巣を切除し、手術後も投薬、服薬で治療を継続しなければならないのですが、先の事は分からないとしても、まだ寛解・完治の望みがあります。ですが、いわゆる『末期』とされる病状の方々の中には、はっきりと『余命宣告』を受ける方もいます。

 

 完治の見込みが無い重篤な病や、重い障がい、治療法が確立されていない難病等を持つ方々について、尊厳死』を認めるか否かを考える時、自分は他人事ではなく「父のこれから」を意識せずにはいられません。もしも父の病気が末期であって、余命幾許もない状態だったとしたら、本人や家族はどうすべきなのか。どんな道を選べるのか。自分の悩みはそこにあります。

 

 一般の人々が軽々しく言う『雑な意見』として、「本人が死にたいなら死なせてやったらいいんじゃないの? 今は薬で安楽死する方法があるんでしょう?」というものがあると思います。でもここには本来「(主に手術などの)患者にとって負担の大きい治療を望まない事」「病気による苦痛を緩和する為の治療(緩和ケア)を受けた上で暮らす事」「一切の治療を拒否する事」「投薬による安楽死を選ぶ事」という様々な選択肢があるはずです。そして、主に体の痛みに対するケアが必要な様に、心に対するケアもあってしかるべきだと自分は思います。

 

 「死にたい」と思った事がある人は多いはずです。自分にもあります。

 

 ただ、こう言ったらお叱りを受けるかもしれませんが、今生きてますよね。皆さんも、自分も。それは「死にたい」という思いが本気じゃなかったからではないはずです。

 

 以前に、本の感想を書いているブログの方で引用した事があるんですが、遠藤浩輝氏の短編漫画で『女子高生2000』という作品があります。その中で漫画家と編集者がこんな会話をしています。

 

「矢作さん 初恋っていつです?」

「あ――? 何じゃあいきなり」

「上手く相手に気持ち伝えられました?」

「いや……別にどうする事もできなかったよ。 最初は皆そんなもんだろ?」

「「死のう」とか思いませんでした?」

「何で思わにゃならんのだ?」

「……俺は思いましたよ」

「でも今生きてんじゃん」

「……」

「……そうっすね」

 

 確かに自分達は死にたいと思った。でも生きている今があるという事は、自分達の心はそれだけ揺らいでいるという事です。不真面目だった訳でも、本気じゃなかった訳でもない。

 

 その『心の揺らぎ』の中で、自分達にとっての『尊厳のある死』とは何でしょうか?

自分にはまだその答えが見えて来ません。

 

 尊厳死安楽死という言葉が雑に語られる一方で、「じゃあ自分達の『尊厳』って何ですか?」という議論がまともに行われているとは思えないという問題もあります。そうした前提となる議論を避けつつ、「安楽死、本人が望むなら別にいいんじゃないですか?」という意見を他人事の様に投げる事も可能でしょう。でもそれって、自分や家族に同じ問題が降り掛かってきた時に、同じ様に言えますか?

 

 実際、入院している父にしても、見舞いに行くと「大変だね」「悪いね」って言うんですよ。その「周囲に対する気づかいや申し訳なさ」が「もう治療はいいんじゃないか、自分はもう十分生きたんじゃないか」という気持ちに変わって行く事はあり得る事だなと思います。自分もそう思う日が来るのかもしれない。もっと恐ろしいのは周囲から尊厳死を選ぼうと思わされる日』が来るかもしれないという事ですが。

 

 

 障がい者の周りにある『善意』が人を殺す日>

 

 一方、自分は社会福祉法人で働く職員です。こんな記事を書いた事もあります。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

   さて、今回の嘱託殺人の件でも、難病や障がいという部分、あるいは逮捕された医師のSNS上での発言と絡めて、「優生思想的だ」「相模原障害者施設殺傷事件の植松死刑囚の思想に通じている」という批判が行われました。ある意味、それは正しい事ですが、自分から見ると優生思想というのは、やはりナチスのイメージが大きいせいか黙っていても警戒される部分が大きいと思います。毒キノコで言えば、見るからに毒々しい色をしたカエンタケやベニテングダケみたいなものですね。(もっともベニテングダケは猛毒ではないらしいですが)

 

 ただ、毒キノコにも「食用キノコによく似た見た目なのに毒がある」という奴がいて、誤食による被害が大きいのはむしろ見た目がしいたけみたいな毒キノコだったりします。それと同じ様に、「一見『善意』に見えるもの」あるいは「本当に『善意』から行われる事」の中に、結果として優生思想や『命の選別』につながるものはあるのだろうと思います。

 

 どういう事か。一般論として書きます。

 

 障がい福祉の現場では、上の記事でも触れた通り、入所施設が足りません。順番待ちの列が長く伸びています。

 

 障がい者本人よりも彼等の事を心配しているのは、その親です。

 「自分が介護できなくなった時、わが子はどうなるのか」という心配は常にあります。彼等にとって一番安心できるのは、信頼の置ける入所施設に子どもを預ける事です。多くの保護者は「自分が死んでも、子どもが入所施設を終の棲家として暮らして行ける」という安心を求めています。そして実際、全国的に入所希望の問い合わせは非常に多いです。住んでいる県をまたいで、遠方からの入所希望もあります。中には悲鳴の様なものもあります。

 

 「高齢で入院中の親の介護と、障がいを持つわが子の介護が重なってしまってどうにもならない。自分にはもう無理だ」

 

 切実な思いは凄く伝わって来ます。緊急性もあると思います。でも自分達福祉施設の職員や、相談支援専門員、地方自治体の福祉課職員は確認しなければなりません。

 

 「入所はご本人の希望ですか?」

 

 ここで二の句が継げなくなってしまう方がいます。例えば重度の知的障がいを持つ方の意思を確認する事の難しさもありますが、本人が入所を明確に拒否している場合、強制的に入所させる事は実質的に不可能です。

 

 『姥捨て山』の様な話だと思う方もいるかもしれません。でも現実問題として、親が亡くなった後に自立して生活して行く事が困難な程の障がいを持っている方の場合、その親が「何とかして自分が生きている間に子どもの受け入れ先を探さなければならない」と思う事は全くの『善意』だと思います。悪意をもって同じ事をする親がいないとは言いませんが。

 

 ここに、安楽死尊厳死の合法化』というものが雑に投げ込まれたらどうなると思いますか?

 

 本人の意思確認が困難な程の重度知的障がい者の親が「自分が死んだらわが子は生きて行けない」と思い、実際に入所先は見付からず、在宅での支援も限界がある中で、子どもにとっての『尊厳ある生』『尊厳ある死』のどちらに救いを求めるか。後者を選ばない保証は無いんですよ。そしてその時、社会制度として、全くの善意にもとづいて『尊厳死』を認め、合法化した自分達は『善意で人を殺す』事になるわけです。

 

 amazarashiの『つじつま合わせに生まれた僕等』の歌詞ではないですが、『善意で殺される人』について、自分達は「そんなつもりじゃありませんでした」って言って許されるんでしょうかね?

 

 善意だったんです。悪気はなかったし、他意もなかったんです。

 ただ目の前で苦しんでいる人が、穏やかに死を迎える『権利』を、自分達は認めてあげるべきだと思っただけで、それは本当に『善意』だった筈なんです。優生思想や、ましてや命の選別などではなくて、彼等の事を何とかしてあげたくて、何とかしなきゃいけないと思って、その苦しみを取り除いてあげたくて、だから自分達は尊厳死を認めたのに。こんなつもりじゃなかったのに。

 

 そう言って涙を流しながらでも、全くの善意からでも、人が死ぬのは同じですが。

 

 少なくとも自分には、まだ尊厳死の是非に結論を出す能力はないと思います。

 だから父の事も含めて『我が事として』考えなきゃいけないし、考えている間は、悩んでいる間は、安易な結論にすがりついてはいけないんだろうと思います。その為には、今すぐ目の前で行われている雑な議論に参加する前に、自分の中でもっとこの問題を煮詰めなければならないんでしょうね。きっと。

『人種的に正しい表現』だけでは受け止めきれない『祈り』のために

 作家の浅井ラボ氏がこんな事を呟いていらっしゃいました。

 

 

  

 

 自分は仏教美術専攻で大学を出た人間なので、ちょっと色々考えてみたいと思います。キリスト教の信仰については門外漢なのでキリスト像の表現についてはほとんど触れられないと思いますが、そこから転じて「『人種的に正しい仏像』みたいなものに意味はあるの?」「『人種的に正しい仏像』が生まれたら、自分達の信仰はどうなるの?」という問いは、こう言っては何ですが割と面白いですよね。興味深い。

 

 「人種差別に端を発した問題を面白いとは何事だ」とお叱りを受けるかもしれませんが、そうした現在進行形の諸問題について、ここでは一端脇に置きます。更に、仏像の誕生から細かく説明しようとすると本1冊分文章を書く羽目になるのでザクザク端折ります。もっと言えば自分がこれから書く事は、「こうした学説がある」という様な確かなものではないです。あくまで個人の所感、感想の域を出ないと思って下さい。ただ、このテーマはすごく面白いので、探せば『世界各地の仏像は何人として表現されているのか』というテーマの、きちんとした論文はある筈ですし、卒論のテーマだったという方もいるかもしれません。本もあるかもしれない。何なら自分が読みたいくらいの話なので情報をお待ちしています。

 

 さて、仏陀(釈迦 ゴータマ・シッダールタ)は実在の人物ですが、何せ写真も無い時代ですし、彼がどんな顔をしていたのかという事は、想像するしかありません。最初の仏像が制作されたのは、ガンダーラ仏にしろマトゥラー仏にしろ、彼の死後(入滅後)かなりの年月が経過してからです。釈迦の生没年は様々な説があってかなり開きがありますが、一説には紀元前5世紀から紀元前4世紀を生きた人物とされます。それに対してガンダーラやマトゥラーで盛んに仏像が作られる様になったのは1世紀後半から2世紀頃という事なので、この時点で「生前の仏陀の姿を写し取り、後世に遺す為に仏像を作る」という目的は達成し得ない事になります。そもそも仏像が産まれるよりも前、原始仏教では偶像崇拝を禁止していました。

 

 であれば何を求めて仏像が作られるに至ったかという事ですが、異文化の影響等、様々な理由が考えられます。『神格化』もその理由のひとつかもしれません。例えば仏陀の特徴としてよく『三十二相』と言われたりします。仏陀には、他の人々とは違う32の特徴があるよ」という感じで、経典に記されています。これもひとつの神格化でしょう。

 

 有名なのは『白毫相(びゃくごうそう)』でしょうか。仏像の眉間に点があるアレです。あれはホクロではなく、白く輝く長い毛で、右巻きに収まっているとされ、伸ばすと一丈五尺の長さがあるとされています。

 他にも「手足の指の間に水かきのような膜がある」など、常人にはない特徴があるとされ、仏像でもその様に表現されていたりします。ですが当然の事ながらそんな人間はこの世に存在しません。

 

 ではなぜその様なあり得ない特徴を付与したかといえば、偉大な人物である仏陀を神格化し、常人と区別する為です。またその特徴のひとつひとつに意味を持たせる(例えば「水かきは人々をもらさず救う事のあらわれである」など)事で、仏教の教義を視覚的に理解させる為でもあります。

 

 以前にも書いた気がしますが、「『悟り』とは何か」を言葉で説明したところで、それは目に見えず、手で触れられない『概念』です。人は『概念』を信じられる様にはできていません。あるいは可能だったとしても、困難です。そこで仏像をはじめとする仏教美術『存在感』を利用する事は、言い換えれば『概念』に形を与えて『実在』にしてしまう試みです。

 

 仏像を作る事で、「悟った人の姿とは、この様なものだよ」というひとつの『回答』を目の前に示す事。それは『概念』を『実在』の側に引き寄せる事です。形のないものに形を与えてしまう。そうすれば自分達は『悟り』を見る事も、触れる事もできる。乱暴に聞こえるかもしれませんが、実際乱暴な事です。でなければ浄土をその目で見る為に伽藍配置を徹底的に追求する様な事はしません。

 

 目に見えないもの。その手で触れられないもの。しかし自分達が渇望してやまないものを、何とか手にしたい。この目で見たい。そうした欲求が、数々の芸術や文化を生み出して来ました。それは悪く言えば『欲望』かもしれませんが、自分にはそれが、不確かな希望を『信じたい』という切実な想いの結実であるかの様に思えます。それこそが『信仰』なのではないかとすら思う。そうした意味では、仏像もまた『悟り』や『救い』を欲する人々が残した『祈り』であり『信仰』そのものだと自分は思います。

 

 ですから、何らかの形で「仏陀が生きていた当時の、平均的なインドの人々の顔」というもの復元し、そこから『人種的に正しいであろう仏陀の顔』というものを導き出したとして、その顔を『正しい仏陀の顔』として信仰の中心に据える事が可能かというと、おそらく答えは否です。学術的な面白さはあると思います。でもそれだけでは信仰に結び付かないでしょう。もしかすると今なら髪の毛やヒゲの一本一本までリアルに再現したCGの仏陀も作れるかもしれませんし、実際、既にどこかにはあるでしょうが、それがどんなに人間としての仏陀の顔をリアルに再現していたとしても、『本物』と読んで差し支えないものだったとしても、そこには自分の想いを、『信仰』を投影する事が難しい。自分はその様に思います。

 

 そして自分の想いを投影するという事で言えば、仏像にはもうひとつの役割があると自分は考えます。それは『悟りに至る道標』です。

 

 仏像は悟りを得た人の姿の具現です。それと自分を照らし合わせる事は、『自分の中のブレや迷い』を見付け出す手がかりになります。

 

 北極星の位置を頼りに夜の海を進む様に、揺れ動かない基準点を設けて、その基準と自分とのズレを確認する事。実は仏像でもそういう事が出来るのではないかと自分は思っています。同じ位置から、同じ仏像を鑑賞したとしても、受ける印象が随分違って感じる事はままあるのですが、それはなぜなのだろうと考えると、恐らく『自分の側が変化している』という事だと思います。

 

 迷っていたり、悩んでいたりする時には、自分の中の軸が大きくブレている様な気がします。そのブレは比較対象がない日常生活の中ではあまり感じられないのですが、仏像という揺れ動く事のない軸を持った存在を前にして、その軸を基準に重ね合わせてみると、いかに自分自身がグニャグニャな人間かというのがよく分かります。もっとも人間というのは生きていて、絶えず変化している訳で、仏像の様に微動だにしない軸を持つ事は難しいのでしょうが。

 

 言い換えれば、仏像は『鏡』でもあります。仏像を鑑賞する時、実はそこに自分の姿を投影していて、自分自身を内観している。自分というものを投げかける対象としての仏像があって、その投げかけ、問いかけに対して、言葉ではないけれども『答え』を返してくれる。『悟りに至る道標』と書いたのは、その様な意味です。

 

 そういう対象として仏像を考える時に、仏教が各地に広まって行く中で、その土地の文化と融合し、様々な表情を持った仏像が生まれて来た事は、必然であると言えるのかもしれません。なぜならそれを作る仏師や、信仰の対象として祈りを捧げる人々にとって、自分の祈りを刻むに足る、託すに足る存在としての仏像である為には、それが『人種的に正しい事』よりも、重要な事があるからです。

 

 更に言えば、これから先ももっと表現の幅を持った仏像が、仏教文化が、仏教美術が登場したって良いとすら思います。それが人間として実在した仏陀の姿からどれだけかけ離れた存在に変化していたとしても、そこに人々の祈りがあるのなら、それは仏像として『本物』だと思える筈だからです。

 

 『正しさ』とは何ですか?

 それは人種的に正しい表現だけを意味しますか?

 人種的に正しくない表現を全て刈り取って行った先に、何が残りますか?

 

 自分はつい、そんな事を考えてしまうのです。

『本当だったら~出来ていたかもしれない』という呪い

 いつもの記事と違って、とりとめがない事をそのまま出力したくなったので適当に書いて行く。ひとりごとに近いかな。

 

 同級生の友人が車を買った。正確には昨年の1月に契約して、何と1年待ってようやく今年の1月中旬に納車されたらしい。スズキのジムニー(JB64)だ。でもあまり遠出もしない内にコロナ騒動があって外出自粛が求められる様になり、気軽にドライブにも出掛けられないとこぼしている。

 

 彼は四駆が好きで、新車を手に入れるまでは中古で買ったパジェロミニに乗っていた。これもパートタイム四駆で良い車だったけれど、古い車だからあちこち故障したりもして、新型ジムニーが出るというので思い切って契約する事になった。3ドアのクロスカントリー車だから、世間の『お父さん』が買おうものなら家族からクレームが入りそうな車だ。室内空間が広い訳でもないし、スライドドアが付いている訳でもない。だからきっと、お金がある人は趣味車としてセカンドカーにするんだろう。

 

 彼にも自分にも、そんな余裕は無いのだけれど。

 

 自分も友人も気付けば40代だ。本当なら結婚して家庭を持っていてもおかしくないし、むしろこれからそうするには遅過ぎるくらいだ。職場の同僚は「結婚して家庭を持つから、もう自分の趣味だけで車は選べない」と愚痴っていた。ちょっと嬉しそうに。それは自分と友人には縁がない悩みであり幸せの形で、ちょっと胸がざわつく。

 

 家庭を持っていない事。子どもを育てていない事。「本当だったら自分達も結婚して家庭を持っていてもおかしくない歳なんだよな」という言葉を飲み込んで、互いに口にしない事。友人が運転するジムニーの助手席に座らせてもらいながら、そんな事を考える。

 

 『未婚男性は一人前の大人ではない』という風潮はまだある。特にここは田舎だから。でも仕方ない。人間なんてそれほど好きじゃない。他人に手を伸ばしたり、自己アピールするのは得意じゃないし、経済的に家族の人生に責任を持てる程の稼ぎもない。友人はどうだか知らないけれど、少なくとも自分自身はそうだ。何より怖い。立派な大人や親になれる気がしない。不幸になる人間を増やす事はない。

 

「いい車だよね」

「まあね。ただ納車まで長かったし、納車早々にスタッドレスタイヤが必要になったから出費が大変。タイヤ高いし」

「それを承知で買ったんだからいいんじゃないの」

「まあね。で、そっちは新車買わないの? もう随分乗ってるでしょあの軽自動車」

「今年で14年か。でもまあ走行距離10万kmも行ってないから、まだ乗れるよ。新車は羨ましいけど、最近は軽もお高いから--」

 

 そんな会話をしながら、自分はもっと別な事を考えている。

 

 両親が自分を育ててくれた様に、自分も時が来れば家庭を持つのかな、と漠然と思っていた。父親と自分の人生を重ね合わせて考えていた。でも当たり前の話だけれど、思っているだけでは何も始まらない。なかなか給料が上がらないなと思いながら30代になり、上司のパワハラに心が折れて転職をした。転職先の会社も待遇は似た様なものだった。独身で、家庭の都合で有給を取ったりせず、どれだけサービス残業させても文句を言って来ない社員は扱いやすいらしい。そして再度の転職をして今に至る。いつも自分ひとりの人生で手一杯で、気が付いたら40代になっていた。

 

 今の職場で、「結婚しないのか」と心配してくれた上司がいて、街コンの様なものを紹介してもらった事がある。参加するにはプロフィールを書いて出さなければいけないらしくて、用紙をもらったのだけれど、そこに書くべき事が何もない事に気付いて怖くなり、結局はうやむやにしてしまった。いまさら、という感覚もあった。自分が異性だったら自分自身を選ぶとは思えなかった。

 

 友人の運転で自宅に戻る。新車のテールランプの明かりが遠ざかって行くのを見送る。友人も頑張って来た。だから人生のご褒美として、これくらいの贅沢が許されてもいいと思う。ただ自分の趣味で車を買う程度の事が『贅沢』かと言われると辛いけれど。それでもそう思ってしまうのだから仕方ない。

 

 振り返ると玄関横に自分の軽自動車が停まっていて、昔を思い出して苦笑する。

 

 地元に帰って来て、最初の就職先が決まった時に、通勤に必要だからとろくに選びもせずに父の手配で買った新車だった。どちらかというと女性向けに売り出された車で、インテリアもエクステリアも全体的に丸みを帯びて愛嬌がある車だ。

 金がないので父の退職金を借り、月々返済した。急いで使う必要があったので、一番安いグレードで、色も内装も関係なく即納車可能な車を選んだと思う。確か当時の乗り出し価格で100万だった。14年前はそういう事ができた。

 

「自分で稼いだらこれを売って、今度は自分で好きな車を選んで買えば良いよ」

 

 父とそんな事を話した記憶がある。だが、そんな機会は無かった。

 ローンを組んでとか、最近なら残価設定で新車に乗ろうと考えた事は無かった。借金をする事はリスクとしか思えなかった。

 

 友人にそそのかされた訳ではないけれど、自動車メーカーからカタログを取り寄せてみる。なぜか友人がジムニーを契約しに行く時に同行したので知ってはいたけれど、最近の軽自動車は割と高い。自分でよく吟味して車を買うという事をした事がないので今ひとつ勝手が分からず、カタログ片手にネットで見積を出したら200万近くになって笑った。これなら今乗っている車が2台買える。まあ今はそんなに安い軽自動車も無いのかもしれないけれど。

 

 家を建てるとか、家庭を持つとか、家族の為に大きな車に乗るとか、そういう自分の年齢相応の『本当だったら』を数える時、200万以下の軽自動車を買うかどうかなんて凄く小さな事でつまづいている自分を再発見する。つい『本当だったら今頃は』とか『本当だったら~出来ていたかもしれない』とか考える。でも同時に思う。

 

 その『本当』って何だよ。

 

 言葉は悪いけれど、クソみたいだ。本当にクソみたいな話だ。

 でもそういう『本当だったら』が、今の社会にはあふれている気がする。

 

 不景気になって、それが長く続いて、日本は経済大国だと胸を張っていた大人達はプライドを粉々にされた。終身雇用は崩壊してリストラの嵐が吹き荒れ、定年や年金の受給開始年齢はどんどん先送りにされた。人生設計が狂った人が大勢いた。そのうちロスジェネが生まれ、非正規雇用は増え続け、しまいには「『非正規雇用』という言葉を使うな『パートタイム労働者』『有期雇用労働者』と言え」という話になった。外国人労働者の協力無しには経済が回せない所まで行っていながら『外国人技能実習生』という建前であたかも「進んでいる自分達が彼等にものを教えてやっている」かの様に振る舞い、上から目線を正そうとしない国になった。それもこれも『本当だったら俺達は』という考えに囚われているからじゃないのか。

 

 本当は『本当だったら』なんて考えても何の慰めにもならない。自分がそうだからよく分かる。でも同時に、その言葉が持っている魅力というか、魔力もよく分かる。

 

 本当だったら今頃は手に入れていただろう、というものがあって、でもそれを手に入れられなかった時、せめてその代わりになる『何か』があって欲しいと弱い自分は思ってしまう。経済的な余裕の代わりにとか、パートナーがいない代わりにとか。失ってばかりでは辛いから、手が届かなかったものばかりでは悲しいから、代わりのものを何か見付けようとする。そういう時に怖いのはきっと特定の『思想』とか『価値観』がするりと入り込んで来る事で、中でもアメリカにおける『Make America Great Again』の様に、あるいは日本における美しい国へ』の様に、自分の中のプライドを刺激する様な、慰めてくれる様なものが受け入れられ易いのかもしれないと思う。『本当だったら俺達は』って言う為に。歴史修正主義とか言われるものの正体も、多分その辺だろうと自分は思っている。『本当だったら俺達は』っていう言葉がこだましているだけだ。

 

 でもそれらは自分を慰撫してくれるだけで、現実問題を解決する役には立たないし、むしろ毒になる事の方が多い。言い換えれば『呪い』に近い。そしてそういう呪いが自分には見える。自分自身がそうだから、余計に気になるのかもしれない。

 

 どうすればその『呪い』に縛られずに生きて行く事が可能なのか。それを自分はこれから考えて行くのかもしれない。或いは考える事に失敗して同じ様な呪いにハマるのかもしれない。どちらに転ぶかは分からないけれど、今の気持ちは忘れないようにここに書いておく。『本当だったら』なんて考えは、何の役にも立たないって。

原始仏教から『心理的ソーシャルディスタンス』を考える

 ここ最近、カルト関係、仏教関係の記事が続いているのですが、今回もその流れで書きます。予想以上に反響があり、今はこういった信教の問題や、また宗教以外にもカルト的な抑圧にさらされる環境(ブラック企業とか)に悩んでいる方が多いのかなと思います。その悩みをすぐに解決するのはなかなか難しいと思うのですが、色々な事を考えるきっかけにして頂ければと思います。前回はこの様な内容でした。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 今回は、前回書いた『自灯明・法灯明』という考え方についてのまとめの様なものになります。具体的にはSNSが普及した現代において自分達が陥りやすい問題点を踏まえ、昨今言われる『ソーシャルディスタンス』という考え方も取り入れつつ、心理的ソーシャルディスタンス』について考えて行こうと思います。

 

 

 さて、突然ですが『真理』って何でしょうね?

 

 

 唐突に切り出しましたが、この『真理』という言葉もオウム真理教事件の影響で、ずいぶん『胡散臭い』イメージが付いてしまいました。オウム真理教が信者を死亡させたり、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしたりしたのが昭和63年から平成元年にかけてなので、その頃から数えればもう30年以上が経過した事になります。地下鉄サリン事件が平成7年で、そこから数えても25年が経過しており、当時生まれていなかった人からすれば、「新興宗教団体が教団施設内で毒ガスを作り、それを地下鉄にばら撒いた」なんていう話をしても、フィクションだと思われてしまうでしょう。

 

 でもこれは、実際に起こった事です。

 

 当時、事件が社会に与えた影響は凄まじく、様々な人々が教団や信者、教団幹部、そして教祖である麻原彰晃(本名・松本智津夫)の事を分析しようと試みていました。

 なぜ彼等は反社会的な行動に走ったのか。それも殺人やテロという重罪です。その事に対する論理的な説明を社会は求めていました。

 

『洗脳(マインドコントロール)されていて、教祖の命令に逆らえなかったから』

 

 いつしかそんな理由で皆が納得する様になりました。

 新興宗教というのは信者の価値観や倫理観を、厳しい修行や薬物投与で書き換えてしまうのだ。そして自分を失った人々が、教祖の言いなりになってテロ活動を行ったのだ、という考え方です。それは、ある一面では正しいかもしれません。

 

 しかし、同時にオウム真理教の信者達は『真理』を追い求める人々でもあった筈です。

 何が正しいのか、何を信じて生きて行くべきか。人生の中でそんな大きなテーマについて悩む事は誰にでもあります。無数にある選択肢の中から、正しいもの、信じるに値するものを掴みたい。そして叶うなら『真理』を知りたい。

 

 では、それ程までに重要な『真理』って何でしょうね?

 

 最初の問いにループして戻って来ました。

 真理とは何かを、短い言葉で説明する事は難しいのですが、ひとつ確かな事があります。

 

『真理は、誰が語ったかによらず、真理である』

 

 まあ、たった今考えたフレーズですが。

 

 仏教における真理を説明する時によく言われるのは万有引力の法則とニュートンの関係』『地動説とコペルニクスの関係』です。簡単に言えば、ニュートン万有引力の法則をまとめる前から、世界には既にそれが真理として存在していたのであり、コペルニクスの地動説以前、つまり天動説が信じられていた頃から、地球は太陽の周りを回っていたのだ、という事です。ニュートンコペルニクスはそれらの真理を『発見』したのであり、彼等がそうした法則を作り出したのではないという事です。

 

 誰が発見し、誰が語っても、誰の目から見ても真実である事。変わる事がないもの。

 ここではそうしたものを『真理』と呼びます。

 

「科学的な真理は自分の外側、この世界の法則を指し示し、宗教的、哲学的な真理とは、人間の心や精神といった内面に見出される」という人もいます。

 

 科学的な真理。宗教的、哲学的な真理。そのいずれも、真理はそれ自体で成り立っているのであって、誰が言ったか、誰が発見したかでその内実が変わる事はありません。人が定めるものではなく、また、人が定めるまでもなく存在しているものです。逆に言えば、どんな立派な人が語ったところで、真理でないものを真理にする事はできないという事です。

 

 ですが日々の暮らしの中で、自分達は『それを言ったのは誰か』という事を非常に気にしています。そうした姿勢は、果たして正しいと言えるでしょうか?

 

 SNSで多くのフォロワーを抱えている人、タレント、YouTuber、コメンテーター、評論家、学者、政治家、プロスポーツ選手、作家、映画監督、役者、芸術家、他にも発言力のある人々は数多くいますが、そうした人々が言っている事を、内容を吟味せずに『この方が言っているのだから正しいのでは』と思ってしまう事は誰にでもあります。自分がファンだったり、生き方や考え方に共感できる部分が多かったりする相手ならなおさらです。

 

 逆に気に入らない相手や、自分と意見や価値観が食い違う事が多い人の言葉は、内容に関わらず『この人が言っている事だから、嘘くさいし信用できない』と思ったりする。これもままある事です。

 

 でも、相手との信頼関係や好悪はさておき、これらの反応には何ら根拠がありません。こう書くと分かりやすいでしょうか。

 

仏陀が語ったのだから、その教えは真理である』

麻原彰晃が語ったのだから、その教えは真理である』

 

 誤解を恐れずに言えば、このふたつは本質的に同じ事を言っています。その教えを聞く人=自分が、教えの正しさを判断する基準を「それを言ったのは誰か」という外的要因に委ねてしまっていて、自分で判断せず、真理に照らしていないからです。師が存命であれば、その様な他人に寄りかかった姿勢でも立っていられるでしょう。しかしこれもまた真理として、どんなに慕っている相手でも、どんなに愛する者でも、いつか別れなければならない時が来ます。『生者必滅会者定離』とも言う様に、生者は必ず死に、出会った者とは必ず別れる定めだからです。

 

 仏陀はいつか自らがこの世を去る時に、自分という支えを失った弟子達が嘆き悲しみ、執着に縛られるかもしれない事、そして場合によっては道に迷うであろう事を知っていたと考えるのが自然です。ですから入滅する前に、弟子達には『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言った訳です。これまで弟子達を導いて来た師の言葉にしては突き放した印象を受けるかもしれませんが、弟子達から師に対する執着を取り除き、真理とは誰が語ったかによらないのだと示す為には、仏陀自身の存在が弟子達の中で大きくなり過ぎる事は本意ではなかったのかもしれません。これがいわゆる『自灯明・法灯明』です。

 

 真理は仏陀が語らずとも、そして仏陀の死後も存在し続けるものです。

 確かな真理を支えにして、自立する事。師を喪ったとしても、迷う事なく生きて行く事。おそらく仏陀が弟子達に望んだのは、その事でした。

 

 逆に、集団の中で求心力を持ちたい、自分の意のままに他人を動かしたいと思えば、仏陀と逆の事をすれば良いという事になります。手の中に秘密を隠し持ち、知りたければ忠誠心を示す様に迫る。また自分が語る言葉だけが真理であるかの様に振る舞う。自分に逆らえば地獄に落ちるのだとうそぶく。そうすれば、自分が生きている間は(或いは死後も)延々と信者を縛り付け、影響力を行使し続ける事ができます。

 

 教団を作り、師となる者が弟子達に教える事は、教義に対する理解を深める為に有効である一方、こうした支配や依存、執着を生む可能性を孕んだ諸刃の剣でした。その事に対する苦悩は原始仏教の経典の中にも見る事ができます。

 押井守監督が映画『イノセンス』の中で引用した事で、一躍有名になった言葉です。

 

 『孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように』

 

 中村元先生の訳による『ダンマパダ』の第二三章『象』(岩波文庫ブッダの真理のことば 感興のことば』所収)には以下の様に書かれています。

 

 

 

 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おも)いをおちつけて、ともに歩め。

 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。――林の中にいる象のように。

 

 仲間や師を求める事と、ひとりで生きる事。そのどちらが良いのかという事は過去に論争され、おそらくは今も明確な結論には至っていません。ですが現代を生きる自分達にとっての問題とは、『既に自分達はひとりで生きる事が困難である』という事です。

 

 仏陀が生きていた時代ですら、悟りを求めて身分を捨て、出家して世俗を離れ、黙々と修行に励む様な暮らしができるのは限られた人々だけでした。更に自分達は、生まれた時から社会制度の中に組み込まれ、様々な義務や権利を与えられ、他者と密接に関わりながら生きて行く事になります。加えてSNS等が普及するとともに、『自己』と『他者』の心理的な距離』はさらに近くなりました。

 

 あるリアリティー番組の出演者がSNS上で批判に晒され、自ら命を絶つという痛ましい事件が起こったばかりですが、人と人との心の距離、心理的な距離が近くなると、過度な批判も相手に届きやすくなります。そして匿名の発言者が束になって個人を誹謗中傷する様な負の部分が日常的に見られる様になります。

 

 他にもやっている人がいるから。たくさんリツイートされるし「いいね」が付くから。動画の再生回数が稼げるから。そんな風に、隣にいる匿名の誰かも喜んで他人に石を投げている事が可視化される仕組みがあるせいで、自分達は思慮分別をなくしていく。つい流されるし、それを反省しなくなる。これでいいのかと立ち止まって考えられないし、考えようとしない。

 

 こんな自分達で満足ですか?

 

『発言力の大きな人の意見が正しいものとして無批判に流布される事』

『発言内容よりも、誰が言ったかが重視される風潮』

『集団の意見に流されて自己反省をしない事』

 現代におけるこうした諸問題を解決する手段はないものでしょうか。

 

 そのひとつが『自灯明・法灯明』ではないかと自分は考えます。

 

 この社会で、今からSNSを無くす事はできません。個人的に捨てる事はできるかもしれませんが、不便を覚悟しなければならないでしょう。仏陀の様に出家する訳にもいかない。でも『真理』というのは、時代や生活様式が変わっても無効にならないから『真理』なのだと考える時、今この社会で『自らを島とする』にはどうすれば良いかを考えれば、現代でも有効な答えが導き出せる筈です。

 

 自らが島だとすれば、それを水底に沈め、押し流そうとする大洪水は社会構造であり、他者の意思や思惑です。そんな中で、真に自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずに生きる事。それは言い換えれば、他者との心理的な距離を離して、もう一度自分の心を見つめる事です。心理的なソーシャルディスタンスを考え直すと言い換えても良いかもしれません。

 

 自分の心の置所を、一時だけでもSNSや他者から離してみる、距離を空けてみる。

 誰が言ったか。どれだけ多くの人が賛成しているか。そうした外的要因から自分の判断基準を引き剥がしてみる。

 多数派の意見を無批判に受け入れていないか、無自覚に他者を傷付ける様な行いに加担していないかを反省する。

 

 真理は誰が語ったかによらず真理である様に、誤った事や悪事はどんなに大勢の人々が支持し加担したところで正しくはならない。それを正しく判断できる自分を持つ事。大洪水でも沈まない島を持つ事。暗闇を照らす灯明を持つ事。

 

 こうした生き方を導き出す上で、SNSはおろかネットもスマホも影も形も無かった頃の原始仏教の経典に記された考え方が参考になるというのは、ちょっと面白い気もします。当然仏陀といえども今の社会のあり方を見通していた訳ではないでしょうが、真理というのは不変であり、普遍でもあって、自分達はまだ釈迦の掌の上にいて、彼の想像の範囲を超える程には遠くまで離れられていないという事なのかもしれませんね。

 

 まとまりが悪く、かなり長くなってしましましたが、オチらしきものも付いたところで、今回はこれにて。

瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか』を読む

 

 この本、待っていました。

 先日、こんな記事を書いたのですが、なぜ書いたのかというと、「本著を読む前に一度自分の中のカルト観を整理しておいて、読後にもう一度考えてみよう」と思ったからでもあります。

  

kuroinu2501.hatenablog.com

 著者の瓜生崇氏は、自らも浄土真宗親鸞会という教団に入信し、教団内では講師部に所属するまでになり、勧誘活動やネット上での教団批判対策等の仕事に従事されていた方です。その後脱会して、現在は真宗大谷派玄照寺住職としてお勤めされながら、カルト脱会の支援活動をされています。

 こうした経歴を持つ方の『カルト観』は、自分が持っているそれからさらに踏み込んだものだろうなと思っていましたが、本著を読んでみるとまさしく自分が知らなかったカルトに対する『気付き』を得る事ができました。

 

 先の記事で書いた様に、自分は大学で『学問としての仏教』『思想・哲学としての仏教』を学んだ訳ですが、では『信仰としての仏教』に精通しているかというとそうでもないと思っています。私生活で、どこかのお寺に足繁く通って法話を聴いている訳でもないですし、戒律を厳格に守って生活している訳でもありません。そして毎日熱心に読経や唱題をしている訳でもありません。

 

『信仰と生活の距離』というものを考える時、自分と信仰というものの距離は遠い様に思います。生活に密着した形で信仰を意識する事は少ないです。でも、今の自分の性格や人格を形成する要因として、大学で学んだ事は核になっていると思います。

 

 さて、そんな自分が瓜生氏の著作を読んで「ここは踏み込んでいるな」と感じた点がいくつかあります。ひとつは、伝統宗教新興宗教(カルト)の境界線を疑う事』です。

 

 一般に「カルトはいかがわしい偽の宗教であり、伝統宗教との違いは明確である」というのは、そうしておかないと伝統宗教側の正当性に疑義が生じるからですが、両者の間を行き来した瓜生氏からすれば、そこに両者を二分する明確な境界線を引く事は難しいという事になります。カルトを定義しようとする時、伝統宗教にも同じ様な問題点が無いのか考える事は、伝統宗教の側に不安を生じさせる事になる為に、多くの場合その問題点は無視されてしまう訳です。

 

 例えるなら、世間を騒がせる様な殺人事件を起こした犯人を『異常者』として「自分達とは違う怪物なんだ」と定義すれば、『一般人』である自分達の不安が覆い隠される様なものだと思います。秋葉原通り魔事件の加藤智大や、相模原障がい者施設殺傷事件の植松聖は『異常者』で、自分達とは違う種類の人間なんだと思う事にすれば不安が軽減される。でもそれは本当なのかというと、実際は彼等と自分達の間にそんなに大きな差はないのでしょう。それと同じ事です。

 

 ふたつめの気付きは、カルトと伝統宗教との間に明確な境界線が引けない以上、『カルト信者と一般人の間にも明確な違いはない』という事です。どちらの生き方が『より良い生き方』『正しい生き方』なのかという事は、一概には決められない。そもそも『正しい生き方』というものがあるとして、それを明確に定義できるでしょうか?

 

 本著でも、カルトに引き寄せられてしまう人達について書かれている部分を読むと、他の大多数の人々が深く考えない様にして生活している『人生の目的』や『正しい生き方』というものについて、真剣に悩み、考え、自分なりの答えを求めてもがいている『真面目な人達』なのだという事に気付かされると思います。そういった悩みを意識する事なく、趣味を見付けたり、旅行をしたり、友人と遊んだりといった楽しい事、熱中できる事に注力して生きている人が多い中で、どうしても『人生の目的』といった根源的な問いから目を逸らせない人々がいるという事。そして、その中からある一定数の人々がカルトに入信してしまうという事。その事を踏まえないと、問題解決への道筋は見えて来ません。

 

 以前の記事でも書きましたが、これは『カルトに入信してしまう特殊な人々』の問題ではない訳です。本著にある様に、教祖が最初から私利私欲の為に他人を騙して信者にしてしまおうと画策したのか、それとも崇められ、期待される中でその思想や教義が先鋭化・反社会化し、暴走して行くのかは定かではないとしても、同じ様な人心掌握術を用いて活動している人は数多くいます。宗教家以外にも、著名人や経営者、政治家やインフルエンサーと呼ばれる人々の多くが、こうした人心掌握術に長けています。そうした人々にとって、自分達は『獲物』かもしれないし、既に無自覚に取り込まれてしまっているかもしれない。そうやってカルトの問題を『自分事』として考える必要性を、本著は説いている様に思えます。

 

 本著を読んで、自分の中のカルト観も揺らぎました。だから最後に、自分なりのカルトの定義を更新しておきたいと思います。

 

 自分は『迷ったら原点に立ち返る』事にしていて、この場合の原点とは大学でも学んだ原始仏教の世界です。日本語で原始仏教を学んだ人なら、おそらく誰もが一度は中村元先生の著作にお世話になっていると思います。その中からブッダ伝 生涯と思想』を読んでみました。中村先生の著作は難解な教義を優しく紐解いてくれる様な文章で、するすると読めるのでお勧めしたいです。 

 

 

 その中で仏陀が入滅する(亡くなる)前に弟子に説いたものとして『自灯明(じとうみょう) 法灯明(ほうとうみょう)』というものがあります。

 

 要約すると、死期を悟った仏陀に弟子が説法を頼むのですが、それに対して仏陀は「自分はもう悟った理法は全て説き終えたし、これ以上秘密の教えを隠している事もない。そして自分は教団を指導してゆくものでもない」と答える訳です。では仏陀亡き後に弟子達は何を頼るべきかというと『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』と言うわけです。

 

 中村先生によればこの『島』というのは、「大洪水の時でも水面下に沈まない州」の事を指しているとされ、インドでは馴染みがあるたとえだったのですが、漢訳される時に暗闇を照らす灯火を指す『灯明』とされた為に、日本では『自灯明 法灯明』として知られる様になりました。

 

 仏陀の説いた法(ダルマ)は、仏陀が入滅しても変わる事が無いものであるから、仏陀が生きていても、また死してこの世からいなくなっても、変わらず法をたよりとして、人を頼る事なく、よく自分自身を法と照らし合わせて見つめ直し、そして正しく自分自身をたよりとして生きて行きなさいという事です。他人を頼りにするものではないという事です。

 

 歴史を振り返れば、仏陀の入滅後、弟子達はその教えを経典として編纂し、後世に伝えて行く事になります。その中ではリーダーシップを発揮して、教団を率いて行く者も必要だったでしょうし、弟子達に教えを説く教育者としての役目を負う者も必要だったでしょう。そして教団はやがて分裂を繰り返し、広い世界に様々な形で仏教が伝播して行く事になります。様々な部派、宗派が生まれ、それぞれに教祖や開祖が立ち、各々の教団を率いて行く事になります。しかしその原点として仏陀が説いたのは、修行者は自分自身を灯明(島)とせよ、という事でした。

 

 この事を考えると、カルト的な教義を持つ宗教の中に多く見られる『教祖への絶対服従』『教団トップへの盲従』が、歪なものである事が分かります。宗教ではなくてもパワハラ気質で経営者への服従を求めるブラック企業や、異論や自らの非を一切認めないトップに支配された集団でも同じ事です。教祖や組織のトップが全ての実権を握っていて、信者や構成員を振り回す組織は、結局のところそのトップが倒れた後の事を想定していないし、そこで指導者や指針を失って放り出される仲間の事など一顧だにしません。頂点に立つ人間が、自分自身の今さえ良ければ後は知った事ではないと考えているからです。または権力を親族に世襲させて永続的な搾取を望んでいるからかもしれません。

 

 また、『自らをたよりとする』為には、心身ともに健やかである事が必要だと自分は思います。ですから、必要以上の労働や奉仕を求める教団、企業、組織はカルト的だと言えるのではないでしょうか。更に、自己啓発セミナー等でもよく行われる様な『自己否定』を課題に組み込んでいる組織もカルトだと思って良いと思います。参加者全員でひとりを囲んで欠点を責め、罵声を浴びせ続ける等の行為ですね。

「今のあなたがどれだけ駄目で、自分達の教えがどんなに優れているか。だからあなた自身の考えや価値観を一旦壊して捨てなさい。代わりに自分達が『正しい生き方』を身に付けさせてあげよう」なんていう事をしたり顔で吹き込んでくる組織は、『自らをたよりとする』生き方を育む上でマイナスになります。本来たよりとするものを壊せ、と言うわけですから。

 

 もしもこれを読んでいる人が、健康を損なう程の労働・奉仕・自己否定を求めてくる組織に身を置いているとしたら「これはカルトではないか。教団(組織)は自分の為を思ってくれていないのではないか」と思い直すきっかけにして欲しいと思います。自分はかつて仏教を学んだ事は自分の中でとても良い事だったと思っているので、宗教が原因で不幸になって行く人がいる現状が嫌だし、『より良く生きたい』という誰もが持っている願いに付け込んで搾取する輩が大嫌いなので、そうしたものと戦う人に本著が届いて欲しいなと思います。