老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『宇崎ちゃんは遊びたい』の献血ポスターに対する批判は、性的表現や表現の自由の問題ではない

 この問題、何だかネット上で深夜まで議論されていて、SNSでも流れて来るので関心の高さが伺えるのだけれど、個人的には「男性である自分が何かしら言及する事って凄く難しい問題」だと感じている。

 

 でも何か、『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』の問題の時には表現の自由に行政が割り込むのは良くないよ」という意識を共有していた表現者の間でも、特に女性の場合は「このポスターは不愉快だしキャンペーンとして不適切だ」という意見が散見されるので、「自分が考える表現の自由に関する許容範囲」を第三者と共有するのは難しいのかなという印象を受けてしまう。

 

 ただ、自分はこの問題について男女間のすれ違いというか、議論の前提がそもそも噛み合っていない様な気がしていて、その事についてだけは少し自分の中でまとめておこうと思った。

 

 最初に結論から書いてしまうと、今回の問題は『表現の自由』の許容範囲に関する問題でもなければ、「女性キャラクターの胸が大きく描かれていて性的だから、公的なキャンペーンには不適当だ」という『性的表現に関するゾーニング』の問題でもないと思う。では何かというと、これは昔から続いている男女の意識差の問題というか、男性社会のあり方に対してフェミニスト達が異議を唱え続けて来たその活動の延長線上にある問題なのだろうと思う。

 

 「キャラクターの胸が大きく誇張されていてセクハラ表現だ」というのは、たまたま今回批判の的になっただけで、本質的な問題ではない。あくまでも男性である自分の受け止め方の中では。

 

 何を根拠に言っているのかというと、ちょっと回りくどい説明が必要になる。

 

 これが本当にキャラクターの性的表現やゾーニングの問題だったとすると、『宇崎ちゃんが駄目なら~は良いのか?』という類似するキャラクターについて、延々と議論がなされ、その中で『このキャラクターも駄目だ』という膨大なリストを作成しなければならなくなる。現に『うる星やつら』のラムちゃんとか、キューティーハニーとか、峰不二子とか、様々なキャラクターについて「これらは全部アウトなのかどうか」と確認を求める、主に男性側の主張がある。でも意外と、同じ様に胸が大きいとか、露出度が高いとかいう単純な理由でアウトだとされる例は少ない。

 

 「時代によって、例えば昭和なら許されていたかもしれないけれど今は駄目」とか、「子ども番組としては駄目なんじゃないか」とか、様々な意見はある様だけれど、何が性的表現としてアウトになるかという基準を一律に定める事は、「今回の宇崎ちゃんはアウトだ」としている人達の中でも意見の一致に至っていない気がする。この点についても「境界線を明確に定義すると、アウトのラインギリギリまでを突いてくる人が出るから」とか様々理由はある様なのだけれど、本当にそうかな、それだけが理由かな、と自分は思う。

 

 この「アウトとされる境界線が曖昧だ」という事で、「誰が見ても明確な基準が決められないなら、それは単に見る側の個人的な許容範囲の問題になってしまう」という、いわゆる『個人のお気持ち』問題に結論を求める人や、宇崎ちゃんアウト派のダブルスタンダードを追求する人まで入り乱れていて、余計にこの問題の本質論から離れて行っている様にも思う。

 

 何が言いたいかというと、女性が本当に許せないのは「宇崎ちゃんの胸が大きい」という事ではなくて、「宇崎ちゃんがこれまでフェミニストが抗議して来た『男性社会の価値観』に乗っかっている」事なのではないかと思うのだ。

 

 この部分を説明する前提として、専業主婦問題の話をする。

 

 長年フェミニストとして活動して来られた方に田嶋陽子氏がいる。田嶋氏は「専業主婦は奴隷」という過激な発言をした事もあるが、討論番組等で「自分は専業主婦として暮らしていて幸せだし不自由を感じていない」という女性論客に対して「それは騙されている」という趣旨の事を言っている。

 

 「専業主婦は奴隷」というのは、言い換えれば「仕事を持たない女性は経済的に自立していない事で、(それを本人が納得していたとしても)夫である男性に対して従属的な立場に置かれている。その事に自覚的にならなければならない」という事だ。だから女性の自立を是とする田嶋氏からすれば、本人が納得しているかどうかとは関係なく、専業主婦という生き方はそれ自体が否定されなければならないという事になる。田嶋氏にとってこの主張は、同性からの反感を買う事にも繋がっていて、問題の根深さを感じさせるのだけれど、ここにもまた誤解がある。

 

 田嶋氏は、専業主婦をしている女性個人を厳しく批判したり、人格攻撃したりしているのではなく、『専業主婦』という「男性社会の中で旧来求められて来た女性のあり方」を批判し、攻撃しているのだ。だから、専業主婦個人の性格や属性は関係ない。口調がきついので毎回個人攻撃の様に聞こえるけれど。

 

 今回の件で言い換えれば、フェミニストは「宇崎ちゃんのキャラクターが性的表現であり、公共の場での掲示がセクハラである」という部分を批判している様に見えて、その実、「宇崎ちゃんというキャラクターが男性社会の旧来の価値観を是認し、補強している事」を批判しているのだと言えるのではなかろうか。だから、性的表現のゾーニングという議論を積み重ねても、実際この問題は解決しない。

 

 具体例を挙げる。

 単純に、女性キャラクターの絵が性的だというなら、美少女戦士セーラームーン』だって割と性的だったと自分は思う。自分は年の離れた妹がいて、昔は一緒にアニメ版を見ていた。その中で、毎回挿入される『変身バンク』があって、当時は結構エッチだなと思った気がする。一度キャラクターがシルエットになって、体のラインが出た後に、リボン状のエフェクトが体に密着して、あのレオタードにミニスカートを足した様なコスチュームになって変身完了するまでの流れだ。

 

 子ども番組だから肌の露出は無いけれど、明らかに裸だよね、という事が想像出来る訳だし、変身後のコスチュームにしても体のラインがくっきり出るものだ。でも、同じ女性から「アニメのセーラームーンはキャラクターの表現が卑猥だった」「ゾーニング的に今ならアウトだと思う」という発言はあまり聞かない。今でも当時の変身アイテムを模した大人用のコスメ用品なんかも出ていて、人気を博していると聞く。

 

 プリキュア等も同じ扱いだと思うけれど、むしろ「女の子だっていつも男の子に助けられるヒロインじゃなく、格好良く戦ったっていい」「世間が考える『女の子らしさ』を押し着せられなくてもいい」という、女性にとって、フェミニズムにとってプラスの意味でのアイコンになっている気がする。特にセーラーウラヌスとか。

 

 自分は男だから、セーラームーンを観た時の印象って「女の子主体の戦隊ヒーロー」だったのだけれど、戦隊ヒーローものに登場する女性の多くが「男性主体の戦隊ヒーローの中での紅一点というポジション」だったのに比べて、セーラームーンがエポックメイキングだったのは、やはり「女の子が主役(主体)である」という事だったんじゃないかと今は思う。だから、同性からの支持が高い。峰不二子にしてもそうだと思う。強い女性で、あのルパンを手玉に取ってしまう。

 

 対して、宇崎ちゃんはどうかというと、(まあ本来比べる様なものではないと思うのだけれど)男性側のリビドーというか、俗っぽく言えば「男好きがする」女の子像なのだろうと思う。「ウザ絡みしてくる後輩キャラクターなのに、胸が大きくて先輩に好意を持っていて、どこか憎めないから何となく許されてしまうし、むしろ好意を持たれている」みたいな。大体、「漫画の上でのギャグというか、ネタなのだとしても女の子が自分からわざわざ『SUGOI DEKAI』って胸にプリントされてるTシャツ着る?」というのもある。同性である女性からすると『男目線でデザインされたキャラクター』感がある事は否めない。

 

 自分は男性だから、宇崎ちゃんみたいなキャラクターを普通に消費出来るし、これまでもして来たと思う。でも女性の立場、特にフェミニストの立場からすると、男性に都合よくデザインされたキャラクターは「リアルな女性に対しても男性がそうした『都合良さ』を求めている事のあらわれ」の様に見えるし、「男性的価値観の押し付け」の様に感じられて受け入れられない、という事があるのかもしれない。ここは自分にとっては想像するしか無い範囲の事だけれど。

 

 かくして、宇崎ちゃんの献血ポスターはここまで叩かれる事になっているのではなかろうか。献血を呼びかけるポスターという公的な役割を期待されている媒体に、男性的価値観を体現した様なキャラクターが掲載される事で『お墨付き』が与えられる事に対する危惧というか。でもこれって「『表現の不自由展・その後』で慰安婦を象徴する少女像が展示されたら、慰安婦問題について政府や自治体がお墨付きを与えたと思われないか」と危惧している保守派と同じ論理をなぞっているとも言えるのだけれど。

 

 以上を踏まえて、男性である自分が思う事は、「男って女性からここまで信用されてないのか」という寂しさだったりする。

 

 別に、漫画やアニメで宇崎ちゃん的なキャラクターが人気だったり、性的表現を匂わせる漫画やアニメがあっても、フィクションをフィクションとして楽しんでいる範疇では、それが即座に「男性が女性の人権を侵害し、男性的価値観を押し付ける事」には繋がらない筈だと思う。でも、女性はそこまで今の男性を信用していない。むしろ今回の様な表現が、男性全体の本質的欲望から滲み出した表現だと思っている。よって、この表現自体について今の段階で強く抗議しないと、いずれ現実の女性が男性からの人権侵害や、セクシャルハラスメントや、もっと言えば性的暴行の標的にされるのだと思われている。

 

 個人的には、そんな事は無いんじゃないかと反論したいし、どんな形であれ表現規制に繋がる様な流れは作りたくない。でも自分が男性という立場から何を言っても、恐らく女性には信じてもらえないだろうという諦めもある。自分はそんなつもりはないよ、と言っても、「やましい事がある男は皆そう言うんだ」と言い切られたら返す言葉がないから。

 

 だからこの問題は、表現規制や性的表現のゾーニングの話ではなく、男性が女性からの信頼を喪失しているという本質的な問題をどうにかしないと、これから先も類似の問題が定期的に発見されてはまた炎上するのだと思う。本当は両性の和解が必要なのだけれど、その答えは、今は見えない。