老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

台風19号による被災と、過剰な自己責任論に対する怒り

 いつもなら、「です・ます」調か、「だ・である」調で文章を書いている。でも、今回自分は結構怒っているので、おそらく乱れた文章を書くだろう。不快に思われる方もいるかもしれないから、先にその旨お断りしておく。

 

 自分は福島県にある社会福祉法人で働いている。ご利用者は重度の知的障がいを持つ方々が中心で、施設入所者であったり、グループホームで暮らしていたり、自宅から日中活動の為に通所していたりする。

 

 法人の入所施設は台風19号の水害を免れたが、作業所のひとつが床上浸水し、先日はその片付けに追われた。福島県と言っても自宅は内陸部にあり、東日本大震災の時も津波被害には遭わなかったし、今回の台風の水害にも遭わなかったから、自分にとっては人生で初めて行う床上浸水の片付けで、慣れない作業と、建物に流れ込んだ泥が発する悪臭で疲れ果てた。

 

 床に水を流しながら、建物の中の泥を掻き出す。泥まみれの机や椅子を運び出す。濡れた畳の重さに閉口し、マスクをしても防げない悪臭に顔をしかめる。体力勝負だが、まだ自分達の様に人海戦術が使える職場は恵まれている方で、これが個人宅で高齢世帯だったらと考えるとぞっとする。

 

 移動が間に合わなかった自動車が水没して自走不能になっている。水が引いた田畑には「ここまで水が来た」という印の様に、流された家財道具が点在している。そして建物の中には一度浮かんでから横倒しになったらしい冷蔵庫。

 

 休憩時間にスマホで情報収集をすると、結構な広範囲で床上浸水の被害があったらしい事が分かる。そして、SNS上には『浸水被害の可能性がある様な所に住んでいるのが悪い』という最近流行りの自己責任論。疲れもあって、自分はイライラする。

 

 その前から、『ホームレスが避難所に入ることを拒否された』というニュースを目にしていた。「税金払ってない奴を助ける義理はない」という直球の発言から「ホームレスを避難所に招き入れて他の人が感染症になったらどうする」といった様な「一応、理論武装してみました」というレベルの、実際はホームレスを病原菌扱いする差別発言まで様々だった。でも本当は単純な話なんだよな。言ってる事はさ。

 

 『俺らは、お前らを助けないぜ』

 

 ただそれだけの話なんだ。要約すると。

 

 助けたくても助ける余裕がない。それはまあ分かる。自分自身が既に辛くて、他人を助けるのに必要な負担をこれ以上背負えない。勘弁してくれってのは誰でも思う。特に余裕がない時はそうだ。自分だってそうだ。今この疲れてる時に、向こう三軒両隣まで全部手を貸して泥掃除してこいと言われたら躊躇する。で、他人を助ける余裕がない事を半端に恥じる心だけはあるもんだから、ちょっと頭をひねって『自己責任』とか言ってみる。助けを求めてる相手に非がある事にして、「自分が相手を助けない事」をキレイに正当化してみたりする訳だ。良心が傷まない様にさ。

 

 もっと積極的に、弱者を切り捨てて楽になろうっていう奴もいる。背負った荷物が重いから、その負担に耐えかねてそこらに投げ出して行こうとする奴だ。社会保障費の負担が重ければ高齢者や障がい者を叩き、生活保護受給者に唾を吐く。ネットの隅々まで巡回しては、引きこもりやホームレス、貧困世帯を「自己責任」という棒で叩いて回る事を自分達の正義だと勘違いしてる。自分自身が抱えてる辛さとか、余裕の無さとか、将来に対する不安なんかを紛らわせる手段に弱者を使ってる。でも自分は思うんだ。

 

 そういう極端な自己責任論で、弱い人間を叩いて回ってさ、それでお前らは本当に楽になったのかい?

 

 水没した家に住んでる人間を「そんな所に住んでるのが悪いんだ」って言って嗤うのは別にいいけどさ。自分だって「この建物、あと数十メートル横に立ってれば水没しなくて済んだのに」って思いながら泥掃除してた訳だし。でもそこで自己責任がどうとか言っても、現実に目の前に存在する泥まみれの建物は片付かない訳ですよ。本当に何にもならない。クソ程の役にも立たない。だから自分は心の中で文句をたれながら手を動かす。自己責任自己責任と壊れたレコードみたいに繰り返すしか能がない連中に構っている暇がない。

 

 そして、数日経って今この文章を書きながら、結構な数の老人ホームや障害者支援施設やグループホームが床上浸水の被害に遭った事を知り、「これは本当に自己責任なのか」って疑い始めている。

 

 断言してもいい。これ『お前ら』のせいだろ。

 

 『お前ら』は言いすぎたか。じゃあ『俺ら』でいい。自分もその中の一人って事から逃げても仕方ない。だから言い直す。これ本当は全部『俺ら』のせいだろ。

 

 障害者施設や老人ホームが辺鄙な場所にあるのは、それを街中に作ろうとすると決まって「それが必要な施設だとは理解しているが、ウチの近所に作るのは絶対に許さない」って奴が出るからだ。前にもあっただろ児童相談所の開所反対運動とか。そして、辺鄙な場所にあって、交通の便も悪くて、災害時にちょっと不安な川の側とか、すぐ裏手が山になってて急斜面で、土砂災害が心配だとか、造成地で地盤が軟弱だとか、そういう防災上不安がある土地は地価が安いってのもある。

 

 金が無い社会福祉法人とか、貧困世帯とか、そういう人達が「何で川の水が溢れたら水没する様な土地に住んでるのか」って言えば、それは『俺ら』が彼等を阻害してるからだ。仲間外れにし、のけものにして、仲間の輪の中に入れてやらないからだ。一緒にいたくないと心のどこかで思ってるからだ。少なくとも彼等の『自己責任』じゃない。

 

 もっと言えば、彼等をそういう環境に追いやって暮らしている事の後ろめたさが、俺らに自己責任論を叫ばせる理由のひとつでもある。「俺らが狭量で無慈悲な訳じゃない。あいつらが努力して金を稼がないのが悪いんだ」って言っておけば、俺らのチンケな良心が傷まない様に、心に麻酔がかけられる。『俺ら』の悪さを『お前ら』のせいにすり替えれば、『悪いのは俺じゃねぇ!』って声高に叫ぶ事が出来るからだ。

 

 でも、思い直すとさ、これって誰も楽になってねぇんだわ。

 

 他人を責めてる俺らも、俺らに責められてる弱い立場の人達も、どっちも助かってない。誰にとってもプラスじゃない。マイナスにマイナスを積み重ねて行く様な事を平気でやっててさ、それで『俺ら』は本当に満足なのか?

 

 だから自分は『俺ら』に対してキレてる訳ですよ。バカじゃねぇの? っていう。

 

 こんなマイナス積み重ねてる手間と暇と金があれば、もっと世の中有意義になる筈だったんだよ。例えば老人ホームを姥捨て山みたいな山の中じゃなく、ドーンと街中の一等地に建てたりしてさ。仕事帰りに「父さん、最近調子はどうなの?」なんて親孝行が出来る環境にしたって良かった訳だ。それを、年老いた人達を見たくないとか、福祉に出す金はないとか言って辺鄙な場所に追いやるから、「本当はもっと様子を見に行きたいんですけどなかなか時間が無くてすいません」みたいな言い訳が通る様になってる。まあ人によってはそっちの方が都合が良いってのもあるんだろうけど。

 

 だからそういう、「本当は自分達の怠惰や狭量さに原因がある事を、他人の自己責任に付け替える」様な真似はそろそろ卒業しないとな、と思う。お互いに。

 

 だってそれは『俺ら』の心が傷まないっていうだけで、相手も助けないし俺らも助からないという最悪の無駄だからだ。いい気になったバカが通る道だからだ。その『俺らの馬鹿さ加減』を知って、卒業する時は今なんだ。

 

 だから、俺らの中で辛い思いをしている奴がいたら、誰かを頼るべきなんだ。自己責任とか言ってても誰も助けに来ちゃくれない。自分だって誰かを頼っていい。誰かに助けを求められたら、出来る範囲で助けようとすればいい。「絶対に、頼られた自分が自力で助けなきゃいけない」なんて事はないってのがミソだ。自分だけで無理なら数人がかりで助ければいいし、実際、社会福祉ってのはそういうモンだ。『自己責任』なんて無い。皆が誰かを助けられるし、皆が誰かに助けてもらえる。それが『お互い様』っていう生き方だ。『自己責任』なんていう狭い価値観に縛られた生き方なんて捨てちまえよって思う。

 

 自己責任に縛られない生き方を『俺ら』が選べるかどうか。それがこの社会が良くなって行けるかどうかという事に、きっと繋がっている。それに気付いて欲しい。辛いなら辛いって言ってくれ。助けてくれって言ってくれ。それを笑わない人間だって、『俺ら』の中にはいる筈なんだから。