老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

百田尚樹氏の著作を『ヨイショしろ』と言われたので無視して本気で感想を書く。

 新潮社のキャンペーンが炎上した。

 百田尚樹氏の新作を『ヨイショする感想』を書いて応募する事。作者を『気持ちよくさせた人』20名に1万円分の図書カードを進呈する事。この内容が「お金でレビューを買う行為」「品がない」「『ヨイショする』という事はおだてるという事で、内心褒めるつもりがない作品を無理に褒めろという風に聞こえる」「何より作者に対して失礼」等と批判された為だ。結局、キャンペーンは中止された。

 

 自分の意見はTwitterにも書いたけれど、自分の様な「感想を書くのが好き」っていう本読みは、別に頼まれなくても無報酬でも、素晴らしい作品を読んだと思ったら感想を書く。それを「ヨイショして」って呼びかけるのは違うと思う。出版社なら言葉を選ぶという事を覚えてもらいたい。釈迦に説法とはいえ。

 

  自分は長い事本が好きな人間として、自分のブログで感想書きをしている。それによって直接報酬を得ている訳ではないし、作者や出版社から頼まれている訳でもない。でも、書く事が好きだから、書き続けている。中には偶然にも作者や訳者、出版関係者の目に留まる事もあるけれど、それは望外の喜びという奴で、狙って書いている訳ではない。そもそも狙うなどという事が無理だし。

 

 そんな自分からすると、今回のキャンペーンは悪手だし、作家に対して失礼だと思う。だから「頼まれてもいない百田作品の感想を本気で書く」事にする。決してヨイショではなく。これは「作品の感想を書くというのは本来こういう事なんじゃないの?」という、自分から今回のキャンペーンの企画者に対する意見のつもりだ。天邪鬼なだけとも言う。

 

 作品には『永遠の0』を選んだ。というか、正直に言えばこれ以外の著作は未読なのだ。『海賊とよばれた男』は以前勤めていた会社の経営者等、管理職の方々から再三「読め。あれは今読むべき本だ」と言われ続けていたのだけれど、逆にその圧が強くて、会社を辞めた今でもまだ読む気になれずにいる。(そうしたら今の勤め先のトップにも勧められたので気が向いたら読むかもしれない)

 

 実は『永遠の0』については過去に一度感想を書いている。まだ百田氏の人となりや思想、政治信条などを知る前に、作品を読んで受けた印象だけで書いたので、ある意味一番先入観の無い感想になっている筈だ。一応、貼っておこう。 

 

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 そして以下に書くのが、今現在の感想というか、かつて書いた感想のリライトになる。本当は感想を書く上での礼儀としてきちんと再読したかったのだけれど、時間の関係で要所をかいつまんで読む形になってしまった事をまずお詫びしたい。そして感想の中で本作の結末に触れる事になるので、ネタバレについても予めお断りしておく。

 それでは、始める。

 

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 自分は今40代前半だ。父は終戦の年に生まれた。陸軍の一兵士として戦争に参加した父方の祖父は、戦地から戻ったものの、自分が生まれる前に亡くなった。祖母は戦争の事を孫である自分に語ろうとはしなかった。

 母方の祖父は海軍だった。その他には親戚のおじさんは落下傘部隊の一員で、頭の中にまだ銃弾の破片が残ったままになっているのだと聞いた事がある。その二人も、もう亡くなった。母方の祖母もまた、戦争の事を語らなかった。

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 そして、『永遠の0』で自らの実の祖父、宮部久蔵の事を調べようと奔走する佐伯健太郎もまた、戦争を知らない。

 

 読者が戦争を知らない世代である事と、健太郎が同じ様に戦争と祖父の事、そして神風特別攻撃隊の事を知らない事は、物語を読み進める上でリンクして行く。自分は健太郎の目を通して、かつてあった特攻の事実と日本の敗戦、そして戦後の姿を垣間見る。

 

 戦争経験者が後世に多くを語らなかった事を悔やむ向きもあるかもしれない。でも、口にしたくない過去というものもある。大学の後輩は、自らの祖父に「戦争で人を殺したのか」と問うた。その問いに答える事は、辛かっただろうと思う。

 

 誰にとっても生きるのに困難な時代だった。そんな時代を素晴らしいものとして称賛する事は、少なくとも自分には出来ない。

 

 ただ、本作には「特攻隊員や特攻の事実を賛美している」という批判があった。宮部久蔵という人物が魅力的に描かれている事もその理由の一つとされた。ただ、どうだろう。永遠の0』は特攻を賛美する小説なのだろうか。

 

 作者がどの様な思いを本作に込めたのかは作者以外知り様の無い事であり、答え合わせは出来ない。ただ自分は、逆ではないかと思うのだ。自分などは、宮部久蔵その人が魅力的に描かれれば描かれる程、「特攻というものは許し難い失敗だったのだ」という思いを強くする。それは何故か。

 

 この物語で、宮部は死ぬ。それも「自分が生き残る為に他者を殺す」か「自分が死んで他者を生かす」かという選択を迫られた上で、自らの死を選ぶ。最近も話題になった『トロッコ問題』では、選択者の手に委ねられているのは第三者の命だ。しかしここでは、自分の命が選択肢の片側に乗せられている。

 

 そこで自らの死を選ぶ事が出来る様な高潔な人間が死なねばならなかった。

 

 それは軍が、ひいては国家が、彼等に死ねと命じたからだ。

 

 この場で特攻隊員は全員が志願したのだとか、いや、強制されたのだという議論を繰り返すつもりはない。そもそも、特攻という無謀な作戦が承認されなければ、志願も強制も存在し得なかったからだ。だが実際に特攻という作戦は立案され、承認を受け、その為の兵器が製造され、兵士は死地に向かわされた。『永遠の0』によれば正に『十死零生』の作戦に、国を守るという、個人には重過ぎる使命を背負わされた若者が投入され、その命を散らした。

 

 軍は兵士の命を犠牲にして、より多くの敵兵を屠れば戦争に勝てるのだという妄執に取り憑かれた。空でも、海でも特攻は行われた。人間魚雷『回天』についての小説『出口のない海』もある。以下に以前書いた感想を置く。

 

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 こうして宮部たち特攻隊員が戦後を生きる道は絶たれた。本来なら戦後を生き、日本の戦後復興に力を尽くす事も、個人としての幸福を追求する事も出来た筈の命が失われた。その事実を賛美する事など誰が出来るだろうか。

 

 こうした事を書くと、「特攻の否定=特攻隊員の尊厳を踏みにじった」ととらえる人が必ず現れる。「特攻が愚策なら、特攻隊員は犬死にだとでも言うのか」と叫ぶ人々だ。自分は、逆だと思う。特攻隊員ひとりひとりの犠牲が重く尊いからこそ、特攻という愚策が二度と繰り返されない事が大事なのだ。その為には、特攻隊員の尊厳や名誉とは全く別の所で、『特攻は愚策だった』と言い続けなければならないのだ。

 

 そして、「日本が開戦に踏み切らなければ、いずれ西欧列強に植民地化されていたのだ」「特攻は愚策であり悲劇だったかもしれないが、そこまでの犠牲を払って戦い続ける意思を示したからこそ、戦後日本はアメリカの州のひとつになる事もなく、現在の形を維持出来たのだ。(だから特攻には意味があったのだ)」という意見にも、明確に反対しておく。

 

 アメリカが戦後日本を自国の州のひとつとして飲み込み、日本語教育を排し、改名を迫り、日本文化を悉く破壊する様な占領政策を取らなかったのは、特攻に見られる様な日本人の毅然とした精神に怯んだのだ、という考え方は美しいかもしれないが、日本人の愛国心や自尊心を慰撫するだけで根拠がない。

 

 日本は、戦争に負けた。ある人は「日本国憲法アメリカに押し付けられた、お仕着せの憲法だ」と繰り返し主張する。考えてみればいい。国の根幹とも言うべき憲法を他国に押し付けた(とされる)様な、強大な力を持つアメリカが、特攻や「一億玉砕」のスローガンに後押しされた日本人の抵抗運動に怯むものだろうか。実際には抵抗する術もなく、疲弊し、飢え、貧しさに耐えている日本人から何を奪う事も、戦勝国であるアメリカには容易かったと見るべきだ。そうしなかったのは、その方が統治体制の構築にとって得策だとみなされたからに過ぎない。また、「日本人の抵抗」が本当に功を奏したのだとすれば、それは特攻で命を散らした英霊達ではなく、日本の戦後を生き抜いた人々の戦いの成果だったのだと考えるべきだと自分は思う。

 

 本作でも、宮部の死を語るかつての戦友達は、それぞれの戦後を生き抜いて現在に至っている。

 

 特攻隊員のみならず、兵士が生き残る事は「生き恥」だとされた時代だった。戦友は死に、自分は生き残る。それが罪であるかの様に重くのしかかる時代だった。実際に、人間魚雷『回天』の搭乗員だった橋口寛大尉は何度も上官に血書で出撃を嘆願するも、指導的立場にあった事から叶わず、終戦を迎えた後の8月18日に、回天の中で拳銃自殺しているという。自分が生き残るという事が、罪だとでも言うかの様に。

 

 誰かが彼に言うべきだった。「生きてくれ」と。地面に額を擦り付けてでも懇願すべきだった。

 

 英霊とされた戦死者に出来る事は、見守る事だけだ。実際の戦後を支えたのは「生き恥」に耐えた多くの名も知られていない人々の努力だった。宮部の家族をかつての戦友が守った様に。実際に、自分の祖父母がそうであった様に。そうした人々の日々の暮らしが、生の営みが、日本の復興を支えていたと自分は信じる。

 

 『永遠の0』を読むと、いつも自分はこの様な感想を抱くのだ。それはもしかすると、作者からすれば『誤読』なのかもしれない。「自分はそんなつもりで書いた事は一度もない」と言われるかもしれない。でも、作者の手を離れた小説は、物語は、この様にして読者の手に届き、読者が望む様に、悪く言えば『好き勝手に』読まれて行く。独自に解釈され、意味を上書きされ、読者ひとりひとりが、自分だけの読書体験を得る。それを否定する事は、生みの親である作者にも出来ない。

 

 本当の感想は、作者や編集者、出版社が望む形に書かせる事は出来ないのだ。

 読者の思いは物語と自分の心の関係性の中だけにあり、そこには誰も手を付ける事が出来ないのだから。