老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題② 廃仏毀釈とバーミヤン渓谷の石仏破壊から考える

 前回はこちら。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 前回の最後で、「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題に入って行くと予告した訳だが、その前に過去の歴史を今一度振り返ってみたい。

 

 政府が特定の価値観を是とし、これに反するものを批判・排斥して行く過程というのは過去にもあった。自分が学んだ仏教美術の歴史の中でも有名なのは、明治新政府が『神仏分離令神仏判然令)』を発した事で始まる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動』である。

 

 これに関しては詳細に書こうとすると本1冊書いても収まらないので割愛するが、大まかな流れとしてはそれまでの『神仏習合(しんぶつしゅうごう)』(神道の神と仏教の仏が区別されずに祀られている状態)を廃して、神道と仏教とを分けると共に、明治新政府神道天皇を柱とした統治体制の構築を目指した事がある。実現はしなかったものの、神道国教化という方針もあった。(いわゆる国家神道とはまた別の話)

 

 神仏分離という考え方は、直ちに仏教排斥に繋がるものではなかった訳だが、結果として廃仏毀釈運動が起こり、寺院が解体されたり、仏像や仏具といった文化財の多くが破壊されたりする等、仏教界にとっては受難だった。実際、鉈で叩き割られたと思しき仏像や、砕かれた石像・石碑等を各地で見る事が出来る。(ただ、これに関しては当時の民衆が寺請制度によって特権的な地位を占めていた仏教教団に対する不満を募らせていた事も一因であるとの見方もあり、明治新政府に全ての責任があると言えるのか、という問題もある)

 

 ともあれ、時の政府が神道を選んだが故に仏教が廃仏毀釈の流れの中で多くを失った様に、恣意的に「ある表現・文化は称揚し、あるものは取り締まる」という様な事をすると、取り返しが付かない結果を招く事があるのだと心に留めておきたい。現在の日本では、もちろん仏教美術仏教文化というものは世界に対して日本が誇れるものだと多くの人が認めているけれど、たった150年程前には日本人が自分達の手でそれらを叩き壊していた訳だから。

 

 そして破壊してしまったものは、修復したとしても二度と元には戻らない。

 

 話は変わるが、2001年にタリバンバーミヤン渓谷の石仏を爆破した時、自分はなんて酷い事をするんだと憤った。イスラム原理主義者は単に石仏を偶像崇拝の象徴として爆破した訳だが、自分の立場からすれば仏像とは祈りだったからだ。

 

 信仰を持つ人々が救われたいと願った祈り。それが具象化されたものが仏像なのであって、仏教を信仰する人々は単に偶像としての仏像を有難がって拝んでいる訳ではないのだという事。仏像の向こうには形のない信仰というものが息づいている事。それに祈るという事は、過去の、現在の、或いは未来に存在するであろう誰かと、自らの祈りとを重ね合わせているのだという事。それは自らを掘り下げる内観でもあるという事。それらの価値観を仏教徒以外の人々とも共有できるかどうかについて考えた。

 

 結論から言えば、難しいかもしれないが、それは出来る。当時のタリバンの石仏爆破は、何よりもまず数多くのイスラム指導者達によって批判された。自分にとっての信仰が大事なものであるならば、目の前の相手が胸の内に秘めている信仰もまた同じ様に尊重されるべきだというのは、異なる神(仏)を信仰していたとしても分かる筈だ――というのは、まあ理想論だと言われるのだろうが、実際に多くのイスラム教徒は世界各地で異なる信仰を持つ人々と共存している。彼等は共に手を取り合える隣人だと思う。

 

 この、「異なる価値観を持って生きている人々と共存して行く術を探る」というのは、昨今の『ヘイト』や『自国第一主義』という問題を考える上でも大事な事だ。社会に不寛容が蔓延して行くという事は、実は誰にとっても「生き苦しい」のではないかと思う。

 

 そして、話を『表現の不自由展・その後』に戻して考えるならば、一度は表現規制によって展示が不可能とされた作品を集めて、もう一度現在の自分達の目で鑑賞してみるという事は、こう言っては何だがとても興味深い試みである様に思う。

 

 なぜ、かつてはそれらの表現が許されなかったのか。

 今なら、それらの表現はどう受け止められるのか。

 

 そう考える事で見えて来るものもあるのではないか。

 その様に考えると、今回文化庁補助金の交付を止めた事について支持する人々が主張する「過去に問題になった作品を集めて再展示するなんて、荒れる事が分かっているにも関わらず十分な対策を行わなかったのが悪い」「確信犯的な炎上商法だ」という批判は、いささか近視眼的である様に思う。

 

 繰り返すが、150年前の日本人は仏像を叩き壊していた。

 タリバンは2001年に石仏を爆破した。

 

 当時はそれが『正しい事』だと思われていた。今はどうだろう。

 

 自分達が生きている今は、言ってみれば『歴史の最前線』である訳だが、だからといって自分達が今下している価値判断が、過去の歴史の教訓と照らし合わせて絶対に間違いのない、言ってみれば最新版にアップデートされたものだと言えるのかといえば、そんな保証はどこにもない。『歴史は繰り返す』とはよく言われる訳だが、人間は同じ過ちを繰り返してしまう事もある。そしてその過ちに気付く度に、自己反省と軌道修正を行って来た。

 

 間違ってしまった事は仕方がない。過去は取り消せない。

 しかしそれを自覚したなら、反省と共にこれからの方向性を変えて行くべきだ。

 今、自分が信じている価値観が絶対的な正しさを持たないのと同じ様に、自分達はよりよい未来を選択して行くべきだ。まずはここまでの価値観を共有して行きたいと思う。

 

 そして次回は前回の予告通り「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題について考える。これは難しくて、自分も色々と考えている最中だ。恐らく『シャルリー・エブド襲撃事件』についての話になるだろう。でも基本は、先に述べた様に自分達はいかにして異なる価値観を持って生きている人々と共存して行くのか、という事がメインテーマになるのだと思う。