老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題③ 対話なき規制という不毛

 前回まではこんな流れだった。

  

kuroinu2501.hatenablog.com  

kuroinu2501.hatenablog.com 

 さて、ここからが本番。

 自分の中でも「これが正解」と思える答えは得られていない。

 

 『表現の自由』について論じる時、そこには必ず「他者を不快にさせたり傷付けたりする表現でも『表現の自由』と言っておけば公にする事が許されるのか」という批判がある。

 

 『あいちトリエンナーレ2019』の『表現の不自由展・その後』では、主に次の2作品が「不快な表現」として炎上した。

 

①大浦信行氏の『遠近を抱えて PartII』

 映像作品。昭和天皇の写真をコラージュして作成された自作が焼却されるシーンが「昭和天皇の肖像を燃やした灰を足で踏む表現」として拡散、批判された。

 

②キム・ソギョン氏・キム・ウンソン氏の『平和の少女像』

 日本ではいわゆる『慰安婦像』として知られる事になった。

 近年日本ではいわゆる『吉田証言』が事実に基づかないものだったとして、2014年に朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われた事を契機に「慰安婦を軍が強制連行した事実は無かった」「慰安婦問題なるものは捏造である」という歴史観が広まりを見せ始めている。

 その中で少女像は「ありもしない罪を日本人に突き付けている」「世界各地に少女像や徴用工像を置く事は、日本人の国際的な信用を失墜させる為の政治活動だ」といった批判に晒されている。

 

 まず自分は、上記の作品を実際には見る事が出来ておらす、表現の不自由展のサイト上で公開されている写真だけを見た状態だ。参考に、公式サイトを貼る。

 

censorship.social 

 作品について論じる上で、実物を見ていないというのは致命的だと思うのだが、「作品公開の機会が奪われる」事の弊害とは正にそれで、作品を見るという事がそもそも出来ないので、正確な判断が出来なくなる。

 

 写真で見れば十分、という意見もあるだろうが、実際に各地の博物館や美術館に足を運ばれる方なら、実物を目の当たりにした時の印象は、縮小された写真で見ただけでは分からない様々な気付きを与えてくれるものだと理解してくれる事と思う。それが出来ない、という事がまず残念ではある。

 

 次に、個別の作品について。

 まず、①に関して言えば、以下の記事に詳しい。

 

news.yahoo.co.jp

 

 ただ、創作には「言葉によって表現しきれないものを具象化する」という側面がまずあって、このインタビューの中で言及できないものを表現する為に、大浦氏の創作があるのだという気がする。

 

 そして大浦氏には、『自作が収録された図録を燃やされた』という経験がまずある。芸術家にとって、それは究極の否定だと思う。社会が自分の表現を受け入れなかった。その事実は重い。でも、創作というのはそこで止まれないものなのだと思う。自分の表現が否定され、それこそ自作が燃やされた灰が踏まれる様な痛みを大浦氏は経験した。そこから新たな表現が生まれたとして、それもまた否定されるというのは『天皇』という存在をモチーフにする創作、素材にする創作は何であれ許さないというタブー視が、可視化されてはいないけれど日本人の中に強く存在するという事なのかもしれない。

 

 それは大日本帝国憲法の第3条にある『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(天皇神聖にして侵すべからず)』という規範の名残なのか、戦後の昭和天皇の歩みを踏まえた上で「故人に対する礼節を欠く」とみなされているのかは判然としないが、その「不可侵」という扱いが良いか悪いか、今後も日本人の中に受け継がれて行くのかはこれから考える必要があるだろう。

 

 次に②に関しては、彫刻作品である事、鑑賞者が横に座れる事、少女の姿をしている事など、色々と見るべき点がある様に思う。

 

 慰安婦問題全体に関して論じようとするといくら書いても足りなくなるのだろうけれど、自分が前から思っていた事として、少女像が真に「日本人の国際的な信用を失墜させる」「過去の慰安婦問題で日本人を徹底的に糾弾する」という目的で作られていたのであれば、もっと激しい表現にする事はいくらでも出来る筈だ、という疑問がある。

 

 例えばうら若い女性が、日本兵に髪を掴まれて引き摺られて行く像だったり、銃剣を突き付けられた女性が連行されていく様が描かれた像だったり、そうした直接的な表現で、誰が見ても酷いと感じる生々しい像を作る事は可能だったと思う。そう考えると、少女像というのは抑えられた表現に思える。

 

 少し考えてみると、元慰安婦の方々が存命である事で、直接的に過去の辛い記憶を想起させる様な表現は憚られるという点もあるし、あまりにも凄惨な光景を表現するのは、屋外に、老若男女、誰の目にも触れられる形で展示する像としてはそぐわないという理由があるのだろうと思う。ただその上で、我々日本人に対しての表現として見れば、過去の行為に対する糾弾と取られる様な強い表現を敢えて避けている様にも感じられる。

 

 ただ少女がそこに座っている。鑑賞者は、その隣に座る事が出来る。少女の方を向いても良いし、少女が見つめているであろう先を一緒に眺めても良い。そこから、何が見えるか。

 

 こうした鑑賞を経ずに、少女像を『プロパガンダだ』と言って何かを喝破した気になるのは実は簡単な事であって、そう言い切ってしまえば楽に気持ち良くなれる訳だ。自分も日本人だから、「日本人はかつてこんなに酷い事をしたんですよ。どう思いますか世界中の皆さん。これが許されますか?」といった責め方をされたとすれば辛いし、見たくない、聞きたくないという気持ちがある。でもその上で、なぜ表現の形がこの少女像になったのだろう、という疑問はやはりあって、それを明らかにするにはやはり鑑賞する機会は必要なのだと思う。鑑賞とは「作品との対話」であって、作品に込められた作者の意図を読み解こうとする行為でもある。作者が元慰安婦の人々をどの様に見ているか。また、今の日本と日本人をどの様にとらえているのか。それは鑑賞しないと見えて来ないし、伝わって来ないのだ。

 

 上記から分かる様に、検閲的なやり方で鑑賞機会が失われるという事は、作品を理解しよう、読み解こうという行為に対しては明らかにマイナスだ。何せ、人の目に触れる機会を奪ってしまう。そうすると、「こんなものは芸術や表現として認めない」という一方の主張のみがクローズアップされて、製作者の意図は掻き消される事になる。それで良いのか、という危惧は常にある。

 

 ただ一方で「ある表現によって確かに傷付けられた」という人々の思いについて、「それは表現の自由だから」と言って一切取り合わないというのもまた問題なのであって、その究極が記憶に新しいフランスの『シャルリー・エブド襲撃事件』だ。

 

ja.wikipedia.org

  詳細は割愛するが、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を繰り返し掲載したシャルリー・エブド誌は、この襲撃事件の前から既に編集部に火炎瓶が投げ込まれる等の重大事件を起こされていた。

 

 襲撃事件は日本でも大々的に報道されたが、肝心の風刺画がどんなものであったかは伏せられた。仮にシャルリー・エブド誌が掲載していた風刺画そのものが報道で取り上げられ、日本国内でも拡散されていたら反発が起きるのは明らかであり、日本の報道機関はそれに配慮したのだろうと思う。

 

 ただ当時、第三書館が『イスラム・ヘイトか、風刺か』という小冊子を刊行して風刺画を収録し、自分はそれを読んだ。この本は特に発禁等になる事もなく、今でも売られている様だ。自分は書店で購入したが、当時は(恐らく今も)書店の棚に並べられる事はなく、店舗在庫としてバックヤード等に仕舞われているものを出してもらい、直接手渡しで買う必要があった。平積みなどもってのほかだったのだが、これはイスラム教徒に対しての配慮というよりも、この本を売る事で「店側や客がイスラム過激派の攻撃対象になるのではないか」とでも言う様な恐れ(偏見)によって成されていた様に思う。街中で本を剥き出しにして持ち歩いてはならないかの様な緊迫した空気が漂っていた。

 

 この本の中には問題になったムハンマドの風刺画以外にも、東日本大震災後の原発事故で奇形化した日本人』といった風刺画が収録されていて、実際福島県民である自分は不快だった。「原発事故で奇形化した日本人」が何を「風刺」しているのか。漫画調の絵でムハンマドが茶化される事が何の「風刺」なのか。意味を理解しようとするより先に『不快』『怒り』が来る。

 

 この様に、誰かが『表現の自由』によって何かを発表する時、その表現によって傷付き、不快な思いをし、怒りを覚えるという事は実際にある。そんな時、自分達はどうすべきなのか。表現の自由とは、何をどこまで表現する事を許すのか。

 

 まず、テロによって相手の命を奪う事は論外だ。これは全ての人が共有できる価値観だと信じる。

 

 次に来るのは抗議だと思うが、「抗議の声に対して表現者が一切の対話を拒絶する」或いは「抗議する側が表現者の意図を無視し一切の対話を拒絶する」という問題がある。

 

 『シャルリー・エブド襲撃事件』の時、殺害された人々に対する連帯として「民主主義と表現の自由への直接攻撃」といった強い言葉が使われた。「テロには屈しない」という姿勢が強調され、『私はシャルリー(Je suis Charlie)』というスローガンが連呼された。ただ、その一方で、あの風刺画が極めて侮辱的であり、イスラム教徒を不快にさせる様な挑発的な内容ではなかったか、という自省の声を上げる事は難しくなって行った。『私はシャルリー』とは言えても、『私はシャルリーではない(Je ne suis pas Charlie)』とは言えない空気が醸成されて行った。シャルリー・エブドを批判する事と、テロリストを擁護する事は同じではない筈だが、『私はシャルリー』という言葉には強い同調圧力があった。自分はこれを正常な対話が成立する状況だとは考えられない。

 

 「表現の自由があるのだから自分の表現は無制限に許されている」とするのも、「自分を不快にさせる表現の自由など認めない。今すぐに公開を止めろ」と言うのも、方向性が違うだけで同じ様に害悪であり暴力だ。そこには対話がない。もっと言えば、対立する価値観を持った両者が、互いに相手を批判する為の表現を『表現の自由』の名の下に何の配慮もなく垂れ流す様になれば、それはまだ血が流されていないだけで、実質的には「戦争」だと思う。

 

 具体的に言えば、昨今問題になっている『ヘイト』的な表現が、それに当たる。

 

 自分達は考える必要がある。

 シャルリー・エブドの風刺画はイスラム教徒に対するヘイトだったのか?

 大浦信行氏の『遠近を抱えて』は、昭和天皇を批判するものだったのか?

 (また天皇批判は国家や国民に対する批判や侮辱だとまで言えるのか?)

 「『平和の少女像』は芸術ではなく政治活動に過ぎない、プロパガンダなのだ」「あれは日本人全体に対するヘイトなのだ」という一部の評価は正しいか。

 

 そしてそういう事を、政府や司法と言った公権力の介入によって判断・規制させるのではなく、本来なら表現者と鑑賞者が意見を交わす事で解決しなければならない。表現者には自省が必要だし、鑑賞者には自分が行う特定表現に対する拒絶が、相手の表現の自由を奪うに値する正当な理由があるか自らに問い質す義務がある。

 

 そういう意味で、『表現の不自由展・その後』が中止に追い込まれた事、『あいちトリエンナーレ2019』の補助金不交付の方向性が示された事は、日本の芸術・文化にとって大きな後退だと思うし、世界に対して「日本の表現者や鑑賞者、また言論人、政治家や行政府に至るまで、冷静な議論をする余地を持たないという意味で幼稚である」という事を知らしめる結果になったと思う。

 

 次も同じ様に展示を潰せば解決するのか? 日本人はいつまでもこんな姿勢で良いのか?

 自分はそうは思わない。