老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題① 表現の自由と検閲

 『あいちトリエンナーレ2019』における『表現の不自由展・その後』に関する諸問題については、当初から自分も言及したい事が色々とあった。ただ、自分の中で結論が出ていない部分もあって躊躇していたのだが、その間に文化庁が『あいちトリエンナーレ2019』全体に対する補助金を交付しない方針を打ち出してしまった。しかも文化庁によれば「作品の内容に関する判断で交付しない訳ではないから検閲には当たらない」という事らしいが、その主張は妥当なのだろうか。流石にここまでの事があって、何も言わない訳には行かないと思う。

 

 自分は大学時代に仏教美術を学んだ。その事が自分というものを形作る上で重要な核になっていると思う。だから芸術や美術というものは、それに触れた人の人生を豊かにするものであって欲しいし、対立を生むものであって欲しくはない。これが自分の、基本的な立ち位置だ。その上で今回問題になっていると思われる事を、ひとつひとつ取り上げて行きたい。

 

 

 <『表現の自由』と『検閲』とは何か>

  日本国憲法では『第三章 国民の権利及び義務』の中で以下の様に定められている。

 

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 

 ここで考えるのは、『検閲は、これをしてはならない』と言われている主体は誰なのかという事だが、過去の最高裁判決では『行政権が主体』となって行われるものを検閲であるとしている。詳細は割愛するが、なぜ行政権が主体となって検閲行為をしてはならないと憲法に規定されたかと言えば、過去にそれをやって失敗したからだ。

 

 その失敗、大日本帝国憲法における表現の自由とは、以下の様なものだった。

 

第二章 臣民権利義務

 

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

  

 この、『法律ノ範囲内ニ於テ(法律の範囲内において)』という一文を見ても分かる様に、実際には様々な法律が表現の自由を制約していた。代表的なものは『治安維持法』だが、中には『言論・出版・集会・結社等臨時取締法』なるそのものズバリな法律まであった。

 

 ここでも詳細は割愛するが、要するに大日本帝国憲法下における表現の自由は、法律によって規制する事が出来る範囲のものだった。よって政府や軍部を公然と批判する様な表現内容は許されていなかったし、発表するにしても相当の圧力がかかっていたと見るべきだ。

 

 失政に対する批判に耐えられない政府にとっては、批判を真摯に受け止めて自ら改革する事よりも、批判する人間の口を塞いだ方が楽であり、その為には表現の自由が一部制限されている事は好都合だった。

 

 以上を前提として、表現の自由に関する日本の過去の失敗とは何かと言えば、政府に対して批判的な言説及び表現を様々な法律によって規制し、封じ込めて行った結果、正常な国家運営がなされず、敗色濃厚となった後でも戦争が継続され続け、結果としてより多くの国民を死なせる結果になった事だ。

 

 その大日本帝国憲法の失敗を受けて、日本国憲法では大日本帝国憲法にあった『法律ノ範囲内ニ於テ(法律の範囲内において)』という一文が削除された。憲法で認められている表現の自由を、法律によって制限する事は認められないとした訳だ。

 

 ここまでが、長い前置きだ。まとめると

 

①検閲を行ってはならないとされるのは行政権の主体である内閣及び政府、行政機関である。

表現の自由憲法によって規定されている。立法府である国会が表現の自由を制限する法律を定める事は出来ない。

③政府が失政に対する批判を免れる為に、検閲等の手段を用いて反対意見の封じ込めを図った事は過去にもあり、同様の事はこれからも起こり得る。

 

 といった辺りだろうか。

 

 さて、今回の『表現の不自由展』に関して多い批判として、「補助金を出す国が内容を精査するのは当然」という「政府=出資者」的な見方がある。「お金を出してもらうなら政府(出資者)の意向に沿うのは当然であって、まして政府に批判的な内容を展示するなど何事か」「政権批判は自費でやれ」というものだ。これは一見もっともらしく聞こえるのだが、上記の前提を踏まえればわかる様に、文化庁は民間企業に業務を依頼する、同じく民間の出資者や消費者とは違って、「検閲をしてはならない」という事が「憲法によって規定されている」存在である。

 

 だから仮に文化庁が「補助金を出すにあたって、全ての展示作品を事前にチェックします。展示に不適当な作品があれば撤去を求めますし、撤去を拒むなら補助金は出せません」と言えば、それは検閲だとの批判を免れない。

 

 そして文化庁が「補助金を出す展示と出せない展示」というものを(特に展示内容によって)区別する事は、特定の思想や価値観を後押しする事に繋がるから、「補助金を貰えない人達だって発表そのものを禁じられた訳ではないのだから、今度は自費で開催すればいいだけの話」という単純な理解は危険だ。自分が「補助を受けられない側」になった時の事を想像すればいい。自分以外の人がサポートを受けられるのに、自分は受けられないとなったら、それは「マイナスからスタートしろ」と言われているに等しい。逆に言えば、時の政権におもねる様な内容なら下駄を履かせてもらえるという事で、これでは公平性が担保されない。

 

 「自分は芸術家でもなければ政治活動家でもないので政府に目を付けられる恐れは無いです。だから関係ありません」という人は、学術研究の分野でも「短期的な成果を出さない研究に予算は付けない」とか「特定の学問の予算は無駄だから削る」とか、そうした動きが既にある事を考えてみるべきだ。自分が大事にしている分野が、ある日突然不当に扱われたら誰だって怒るし不公平だと思う。公平性を有しない政府というのは、端的に言って害悪だ。

 

 一方、自分達民間人が、「『表現の不自由展』の展示内容が不快だ」と思ったとして、個人的に批評・批判するのは自由だと思う。ある表現に対して、批判を述べるという事もまた表現の自由だと思うから。ただこの場合も、「批判によって展示を止めさせる」とか「文化庁にクレームを入れまくって補助金を止めさせる」なんていう権利があるとは思わない。それは自分の権利を過剰に主張して、相手の権利を侵害する行為だと思う。

 

 そして今回の件でもあった様に「国会議員や政治家、地方自治体の長に告げ口して彼等を動かす」という行為は、自分はアウトだと思うし、陳情を受けた政治家も本来なら断らなければならなかっただろうと思う。そこから検閲まではあっという間だからだ。

 

 ここまでが、一般的な『表現の自由』と『検閲』の関係だと自分は思っている。ここまでの認識を共有できていないと、どんな議論をしても噛み合わない。

 

 では個別具体的に、『あいちトリエンナーレ2019』における、『表現の不自由展』のどこが問題だったのだろうとか、よく言われる「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題に入って行く。ここからが本題なのだけれど、長くなるのでまた次回。