老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

『日本人のための芸術祭』という愚行

 

 

 上に貼った様に、職場の休み時間にネットで見掛けたニュースで、「『日本人のための芸術祭』なる催しが開かれ、『嫌韓かるた』なる作品が展示されて物議を醸している」という事を知った。これはひとつ言及しておこうと思ったのだけれど、よく調べたら主催者が日本第一党だったという事で、既に半分ぐらい真面目に評論する意欲を喪失している。

 

 正式名称は『あいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」』だそうだ。これを『日本人のための芸術祭』などと言ってしまう辺りに、かの政党の限界が見える。ネット上にアップされていた動画でいくつか展示作品を見たが、評価に値しない。もっと言えば、品がない。

 

 この様に書くと相手は怒るかもしれないが、表現者として作品を公表するという事は、それがどの様に解釈され、批評され、また場合によっては酷評される事も前提として受け入れるという事であり、(もちろん作者の側にはその不本意な批評について反論する権利がある訳だが)その覚悟が無いのであれば芸術という場に足を踏み入れるべきではないとだけ言っておく。

 

 まず、『あいちトリエンナーレ2019・表現の不自由展』について、「『表現の自由』と言っておけば、それがいかなる表現であっても許されるのか」という問題提起をしたのは、むしろ保守派だった筈である。河村たかし名古屋市長に至っては、『日本国民に問う! 陛下への侮辱を許すのか!』というプラカードを掲げて座り込みをする等、「『表現の自由』には一定の制限がかけられるべきだ」という立場を鮮明にしていた。

 

 前提として、それがいかなる表現であろうが行政による検閲行為は違憲である。

 

 その上で、人種差別的な主張等を行う為に、芸術表現の形を借りて、表現の自由の名の下にヘイトを垂れ流す様な行為が認められるべきかという問題がある。例えば対立する勢力が、互いに相手を貶めようとする表現を芸術の名を借りて行うならば、その応酬はどんどん過激化し、醜い表現が社会に蔓延する事になる。そんな地獄を自分達がどの様に回避して行くか。それについてならばまだ議論の余地があるだろう。

 

 しかし今回の『日本人のための芸術祭』なる催しの中で行われたのは、「相手が表現の自由だと言うのなら、自分達も表現の自由を盾にして、相手が嫌がる表現で仕返ししてやろうぜ」という、「それが許されるのは小学校低学年までなんじゃないか」というレベルの愚行だった。

 

 これは『表現の不自由展』に対するカウンターとして自分が想定していた中でも最低レベルの反応であり、「幼稚園辺りで、親や先生から『自分がされたら嫌な事は、相手にもしてはいけません』という人としての基本を教わらなかったのか」と思わず確認したくなる。

 

 作品自体にしても、彼等が問題視した表現(写真を焼く等)の剽窃や焼き直しが見られる訳で、「自分達が否定していた相手の表現手法をパクる」という致命的な格好悪さに気付け、という話でしかなく、正直こんなレベルの表現に『芸術』という自分達が大切にしてきた場を踏み荒らされたくはない。吐き気がする。

 

 そして、こんなレベルの展示に『日本人のための芸術祭』などという冠を付けてしまう辺りが、逆に(一部の)日本人の劣化を象徴する様で、自分はむしろ展示の内容よりもこの『日本人のための芸術祭』という言葉を問題にしたい。

 

 あなた方の言う『日本人』とは誰の事を指しているのか。

 

 在日韓国・朝鮮人を除外したいという事は言わなくても分かる。

 では、日本で生まれた2世や3世は『日本人』か?

 様々な国からやって来て、帰化した人々は『日本人』か?

 

 きっと、あなた方が言う『日本人』の枠は、もっと狭い筈だ。

 

 障がい者は『日本人』か?

 LGBTは『日本人』か?

 ホームレスは『日本人』か?

 生活保護受給者は『日本人』か?

 

 自分達と意見を異にする人々は『日本人』か?

 

 ここまで言ったら気付くだろう。『日本人のための芸術祭』とか、威勢の良い事を言いながら、その『日本人』の中に、あなた方の仲間の中に、社会的弱者や少数派や貧困世帯、あるいは障がい者等は入っていないし、入れるつもりもないという事が。もちろん自分も入っていないだろうし、あなた方が定義する、ごく狭い『日本人』のお仲間に入れて頂かなくても結構だが、俗に言う『在日認定』という奴がなぜ根拠もなく繰り返されるかといえば、あなた方が言う『日本人』の枠には、本来の国籍や出自がどうあれ、あなた方が考える『よい日本人』しか入れられないからだ。なぜかといえば、それらの人々と自分達を一緒にされたくないという心の狭さが、ゆとりの無さが、あなた方の集団を形作る一因になっているからだ。そのくせ無邪気に「自分達には誰が『よい日本人』か選ぶ権利がある」とでも思っているらしい所が鼻につく。

 

 言うまでもなく日本は少子高齢化労働人口が減少し、政府は外国人技能実習制度という問題のある仕組みを回してでも外国から労働者を確保しなければならないと躍起になっている。本気で国際協調について考えなければ国が傾く所まで来ているにも関わらず、『狭義の日本人』しか大切に出来ない集団に何が期待できるのか。

 

 例えばタイから、ベトナムから、中国から、韓国から労働者がやって来る。彼等を二級市民の様に扱って、自分達はその上に立てると根拠なく思っているのだとしたら、それは思い上がりだ。日本がこれまで積み立ててきた国際的な信用は、外国人技能実習生に対する扱いや労働条件の劣悪さが知れ渡る様になればそのうち枯渇する。日本人が頭を下げても誰も働きに来てくれない日がやって来るかもしれない。むしろ自分達が出稼ぎに行かなければならない時代が来るのかもしれない。その時に、まだ『日本人のための芸術祭』なんていう内向きの集会で盛り上がっている余裕があると本気で考えているのか。

 

 本当に日本という国を愛していると言うのなら、さっさと狭い蛸壺から出て、今やるべき事をやれ。

『宇崎ちゃんは遊びたい』の献血ポスターに対する批判は、性的表現や表現の自由の問題ではない

 この問題、何だかネット上で深夜まで議論されていて、SNSでも流れて来るので関心の高さが伺えるのだけれど、個人的には「男性である自分が何かしら言及する事って凄く難しい問題」だと感じている。

 

 でも何か、『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』の問題の時には表現の自由に行政が割り込むのは良くないよ」という意識を共有していた表現者の間でも、特に女性の場合は「このポスターは不愉快だしキャンペーンとして不適切だ」という意見が散見されるので、「自分が考える表現の自由に関する許容範囲」を第三者と共有するのは難しいのかなという印象を受けてしまう。

 

 ただ、自分はこの問題について男女間のすれ違いというか、議論の前提がそもそも噛み合っていない様な気がしていて、その事についてだけは少し自分の中でまとめておこうと思った。

 

 最初に結論から書いてしまうと、今回の問題は『表現の自由』の許容範囲に関する問題でもなければ、「女性キャラクターの胸が大きく描かれていて性的だから、公的なキャンペーンには不適当だ」という『性的表現に関するゾーニング』の問題でもないと思う。では何かというと、これは昔から続いている男女の意識差の問題というか、男性社会のあり方に対してフェミニスト達が異議を唱え続けて来たその活動の延長線上にある問題なのだろうと思う。

 

 「キャラクターの胸が大きく誇張されていてセクハラ表現だ」というのは、たまたま今回批判の的になっただけで、本質的な問題ではない。あくまでも男性である自分の受け止め方の中では。

 

 何を根拠に言っているのかというと、ちょっと回りくどい説明が必要になる。

 

 これが本当にキャラクターの性的表現やゾーニングの問題だったとすると、『宇崎ちゃんが駄目なら~は良いのか?』という類似するキャラクターについて、延々と議論がなされ、その中で『このキャラクターも駄目だ』という膨大なリストを作成しなければならなくなる。現に『うる星やつら』のラムちゃんとか、キューティーハニーとか、峰不二子とか、様々なキャラクターについて「これらは全部アウトなのかどうか」と確認を求める、主に男性側の主張がある。でも意外と、同じ様に胸が大きいとか、露出度が高いとかいう単純な理由でアウトだとされる例は少ない。

 

 「時代によって、例えば昭和なら許されていたかもしれないけれど今は駄目」とか、「子ども番組としては駄目なんじゃないか」とか、様々な意見はある様だけれど、何が性的表現としてアウトになるかという基準を一律に定める事は、「今回の宇崎ちゃんはアウトだ」としている人達の中でも意見の一致に至っていない気がする。この点についても「境界線を明確に定義すると、アウトのラインギリギリまでを突いてくる人が出るから」とか様々理由はある様なのだけれど、本当にそうかな、それだけが理由かな、と自分は思う。

 

 この「アウトとされる境界線が曖昧だ」という事で、「誰が見ても明確な基準が決められないなら、それは単に見る側の個人的な許容範囲の問題になってしまう」という、いわゆる『個人のお気持ち』問題に結論を求める人や、宇崎ちゃんアウト派のダブルスタンダードを追求する人まで入り乱れていて、余計にこの問題の本質論から離れて行っている様にも思う。

 

 何が言いたいかというと、女性が本当に許せないのは「宇崎ちゃんの胸が大きい」という事ではなくて、「宇崎ちゃんがこれまでフェミニストが抗議して来た『男性社会の価値観』に乗っかっている」事なのではないかと思うのだ。

 

 この部分を説明する前提として、専業主婦問題の話をする。

 

 長年フェミニストとして活動して来られた方に田嶋陽子氏がいる。田嶋氏は「専業主婦は奴隷」という過激な発言をした事もあるが、討論番組等で「自分は専業主婦として暮らしていて幸せだし不自由を感じていない」という女性論客に対して「それは騙されている」という趣旨の事を言っている。

 

 「専業主婦は奴隷」というのは、言い換えれば「仕事を持たない女性は経済的に自立していない事で、(それを本人が納得していたとしても)夫である男性に対して従属的な立場に置かれている。その事に自覚的にならなければならない」という事だ。だから女性の自立を是とする田嶋氏からすれば、本人が納得しているかどうかとは関係なく、専業主婦という生き方はそれ自体が否定されなければならないという事になる。田嶋氏にとってこの主張は、同性からの反感を買う事にも繋がっていて、問題の根深さを感じさせるのだけれど、ここにもまた誤解がある。

 

 田嶋氏は、専業主婦をしている女性個人を厳しく批判したり、人格攻撃したりしているのではなく、『専業主婦』という「男性社会の中で旧来求められて来た女性のあり方」を批判し、攻撃しているのだ。だから、専業主婦個人の性格や属性は関係ない。口調がきついので毎回個人攻撃の様に聞こえるけれど。

 

 今回の件で言い換えれば、フェミニストは「宇崎ちゃんのキャラクターが性的表現であり、公共の場での掲示がセクハラである」という部分を批判している様に見えて、その実、「宇崎ちゃんというキャラクターが男性社会の旧来の価値観を是認し、補強している事」を批判しているのだと言えるのではなかろうか。だから、性的表現のゾーニングという議論を積み重ねても、実際この問題は解決しない。

 

 具体例を挙げる。

 単純に、女性キャラクターの絵が性的だというなら、美少女戦士セーラームーン』だって割と性的だったと自分は思う。自分は年の離れた妹がいて、昔は一緒にアニメ版を見ていた。その中で、毎回挿入される『変身バンク』があって、当時は結構エッチだなと思った気がする。一度キャラクターがシルエットになって、体のラインが出た後に、リボン状のエフェクトが体に密着して、あのレオタードにミニスカートを足した様なコスチュームになって変身完了するまでの流れだ。

 

 子ども番組だから肌の露出は無いけれど、明らかに裸だよね、という事が想像出来る訳だし、変身後のコスチュームにしても体のラインがくっきり出るものだ。でも、同じ女性から「アニメのセーラームーンはキャラクターの表現が卑猥だった」「ゾーニング的に今ならアウトだと思う」という発言はあまり聞かない。今でも当時の変身アイテムを模した大人用のコスメ用品なんかも出ていて、人気を博していると聞く。

 

 プリキュア等も同じ扱いだと思うけれど、むしろ「女の子だっていつも男の子に助けられるヒロインじゃなく、格好良く戦ったっていい」「世間が考える『女の子らしさ』を押し着せられなくてもいい」という、女性にとって、フェミニズムにとってプラスの意味でのアイコンになっている気がする。特にセーラーウラヌスとか。

 

 自分は男だから、セーラームーンを観た時の印象って「女の子主体の戦隊ヒーロー」だったのだけれど、戦隊ヒーローものに登場する女性の多くが「男性主体の戦隊ヒーローの中での紅一点というポジション」だったのに比べて、セーラームーンがエポックメイキングだったのは、やはり「女の子が主役(主体)である」という事だったんじゃないかと今は思う。だから、同性からの支持が高い。峰不二子にしてもそうだと思う。強い女性で、あのルパンを手玉に取ってしまう。

 

 対して、宇崎ちゃんはどうかというと、(まあ本来比べる様なものではないと思うのだけれど)男性側のリビドーというか、俗っぽく言えば「男好きがする」女の子像なのだろうと思う。「ウザ絡みしてくる後輩キャラクターなのに、胸が大きくて先輩に好意を持っていて、どこか憎めないから何となく許されてしまうし、むしろ好意を持たれている」みたいな。大体、「漫画の上でのギャグというか、ネタなのだとしても女の子が自分からわざわざ『SUGOI DEKAI』って胸にプリントされてるTシャツ着る?」というのもある。同性である女性からすると『男目線でデザインされたキャラクター』感がある事は否めない。

 

 自分は男性だから、宇崎ちゃんみたいなキャラクターを普通に消費出来るし、これまでもして来たと思う。でも女性の立場、特にフェミニストの立場からすると、男性に都合よくデザインされたキャラクターは「リアルな女性に対しても男性がそうした『都合良さ』を求めている事のあらわれ」の様に見えるし、「男性的価値観の押し付け」の様に感じられて受け入れられない、という事があるのかもしれない。ここは自分にとっては想像するしか無い範囲の事だけれど。

 

 かくして、宇崎ちゃんの献血ポスターはここまで叩かれる事になっているのではなかろうか。献血を呼びかけるポスターという公的な役割を期待されている媒体に、男性的価値観を体現した様なキャラクターが掲載される事で『お墨付き』が与えられる事に対する危惧というか。でもこれって「『表現の不自由展・その後』で慰安婦を象徴する少女像が展示されたら、慰安婦問題について政府や自治体がお墨付きを与えたと思われないか」と危惧している保守派と同じ論理をなぞっているとも言えるのだけれど。

 

 以上を踏まえて、男性である自分が思う事は、「男って女性からここまで信用されてないのか」という寂しさだったりする。

 

 別に、漫画やアニメで宇崎ちゃん的なキャラクターが人気だったり、性的表現を匂わせる漫画やアニメがあっても、フィクションをフィクションとして楽しんでいる範疇では、それが即座に「男性が女性の人権を侵害し、男性的価値観を押し付ける事」には繋がらない筈だと思う。でも、女性はそこまで今の男性を信用していない。むしろ今回の様な表現が、男性全体の本質的欲望から滲み出した表現だと思っている。よって、この表現自体について今の段階で強く抗議しないと、いずれ現実の女性が男性からの人権侵害や、セクシャルハラスメントや、もっと言えば性的暴行の標的にされるのだと思われている。

 

 個人的には、そんな事は無いんじゃないかと反論したいし、どんな形であれ表現規制に繋がる様な流れは作りたくない。でも自分が男性という立場から何を言っても、恐らく女性には信じてもらえないだろうという諦めもある。自分はそんなつもりはないよ、と言っても、「やましい事がある男は皆そう言うんだ」と言い切られたら返す言葉がないから。

 

 だからこの問題は、表現規制や性的表現のゾーニングの話ではなく、男性が女性からの信頼を喪失しているという本質的な問題をどうにかしないと、これから先も類似の問題が定期的に発見されてはまた炎上するのだと思う。本当は両性の和解が必要なのだけれど、その答えは、今は見えない。

台風19号による被災と、過剰な自己責任論に対する怒り

 いつもなら、「です・ます」調か、「だ・である」調で文章を書いている。でも、今回自分は結構怒っているので、おそらく乱れた文章を書くだろう。不快に思われる方もいるかもしれないから、先にその旨お断りしておく。

 

 自分は福島県にある社会福祉法人で働いている。ご利用者は重度の知的障がいを持つ方々が中心で、施設入所者であったり、グループホームで暮らしていたり、自宅から日中活動の為に通所していたりする。

 

 法人の入所施設は台風19号の水害を免れたが、作業所のひとつが床上浸水し、先日はその片付けに追われた。福島県と言っても自宅は内陸部にあり、東日本大震災の時も津波被害には遭わなかったし、今回の台風の水害にも遭わなかったから、自分にとっては人生で初めて行う床上浸水の片付けで、慣れない作業と、建物に流れ込んだ泥が発する悪臭で疲れ果てた。

 

 床に水を流しながら、建物の中の泥を掻き出す。泥まみれの机や椅子を運び出す。濡れた畳の重さに閉口し、マスクをしても防げない悪臭に顔をしかめる。体力勝負だが、まだ自分達の様に人海戦術が使える職場は恵まれている方で、これが個人宅で高齢世帯だったらと考えるとぞっとする。

 

 移動が間に合わなかった自動車が水没して自走不能になっている。水が引いた田畑には「ここまで水が来た」という印の様に、流された家財道具が点在している。そして建物の中には一度浮かんでから横倒しになったらしい冷蔵庫。

 

 休憩時間にスマホで情報収集をすると、結構な広範囲で床上浸水の被害があったらしい事が分かる。そして、SNS上には『浸水被害の可能性がある様な所に住んでいるのが悪い』という最近流行りの自己責任論。疲れもあって、自分はイライラする。

 

 その前から、『ホームレスが避難所に入ることを拒否された』というニュースを目にしていた。「税金払ってない奴を助ける義理はない」という直球の発言から「ホームレスを避難所に招き入れて他の人が感染症になったらどうする」といった様な「一応、理論武装してみました」というレベルの、実際はホームレスを病原菌扱いする差別発言まで様々だった。でも本当は単純な話なんだよな。言ってる事はさ。

 

 『俺らは、お前らを助けないぜ』

 

 ただそれだけの話なんだ。要約すると。

 

 助けたくても助ける余裕がない。それはまあ分かる。自分自身が既に辛くて、他人を助けるのに必要な負担をこれ以上背負えない。勘弁してくれってのは誰でも思う。特に余裕がない時はそうだ。自分だってそうだ。今この疲れてる時に、向こう三軒両隣まで全部手を貸して泥掃除してこいと言われたら躊躇する。で、他人を助ける余裕がない事を半端に恥じる心だけはあるもんだから、ちょっと頭をひねって『自己責任』とか言ってみる。助けを求めてる相手に非がある事にして、「自分が相手を助けない事」をキレイに正当化してみたりする訳だ。良心が傷まない様にさ。

 

 もっと積極的に、弱者を切り捨てて楽になろうっていう奴もいる。背負った荷物が重いから、その負担に耐えかねてそこらに投げ出して行こうとする奴だ。社会保障費の負担が重ければ高齢者や障がい者を叩き、生活保護受給者に唾を吐く。ネットの隅々まで巡回しては、引きこもりやホームレス、貧困世帯を「自己責任」という棒で叩いて回る事を自分達の正義だと勘違いしてる。自分自身が抱えてる辛さとか、余裕の無さとか、将来に対する不安なんかを紛らわせる手段に弱者を使ってる。でも自分は思うんだ。

 

 そういう極端な自己責任論で、弱い人間を叩いて回ってさ、それでお前らは本当に楽になったのかい?

 

 水没した家に住んでる人間を「そんな所に住んでるのが悪いんだ」って言って嗤うのは別にいいけどさ。自分だって「この建物、あと数十メートル横に立ってれば水没しなくて済んだのに」って思いながら泥掃除してた訳だし。でもそこで自己責任がどうとか言っても、現実に目の前に存在する泥まみれの建物は片付かない訳ですよ。本当に何にもならない。クソ程の役にも立たない。だから自分は心の中で文句をたれながら手を動かす。自己責任自己責任と壊れたレコードみたいに繰り返すしか能がない連中に構っている暇がない。

 

 そして、数日経って今この文章を書きながら、結構な数の老人ホームや障害者支援施設やグループホームが床上浸水の被害に遭った事を知り、「これは本当に自己責任なのか」って疑い始めている。

 

 断言してもいい。これ『お前ら』のせいだろ。

 

 『お前ら』は言いすぎたか。じゃあ『俺ら』でいい。自分もその中の一人って事から逃げても仕方ない。だから言い直す。これ本当は全部『俺ら』のせいだろ。

 

 障害者施設や老人ホームが辺鄙な場所にあるのは、それを街中に作ろうとすると決まって「それが必要な施設だとは理解しているが、ウチの近所に作るのは絶対に許さない」って奴が出るからだ。前にもあっただろ児童相談所の開所反対運動とか。そして、辺鄙な場所にあって、交通の便も悪くて、災害時にちょっと不安な川の側とか、すぐ裏手が山になってて急斜面で、土砂災害が心配だとか、造成地で地盤が軟弱だとか、そういう防災上不安がある土地は地価が安いってのもある。

 

 金が無い社会福祉法人とか、貧困世帯とか、そういう人達が「何で川の水が溢れたら水没する様な土地に住んでるのか」って言えば、それは『俺ら』が彼等を阻害してるからだ。仲間外れにし、のけものにして、仲間の輪の中に入れてやらないからだ。一緒にいたくないと心のどこかで思ってるからだ。少なくとも彼等の『自己責任』じゃない。

 

 もっと言えば、彼等をそういう環境に追いやって暮らしている事の後ろめたさが、俺らに自己責任論を叫ばせる理由のひとつでもある。「俺らが狭量で無慈悲な訳じゃない。あいつらが努力して金を稼がないのが悪いんだ」って言っておけば、俺らのチンケな良心が傷まない様に、心に麻酔がかけられる。『俺ら』の悪さを『お前ら』のせいにすり替えれば、『悪いのは俺じゃねぇ!』って声高に叫ぶ事が出来るからだ。

 

 でも、思い直すとさ、これって誰も楽になってねぇんだわ。

 

 他人を責めてる俺らも、俺らに責められてる弱い立場の人達も、どっちも助かってない。誰にとってもプラスじゃない。マイナスにマイナスを積み重ねて行く様な事を平気でやっててさ、それで『俺ら』は本当に満足なのか?

 

 だから自分は『俺ら』に対してキレてる訳ですよ。バカじゃねぇの? っていう。

 

 こんなマイナス積み重ねてる手間と暇と金があれば、もっと世の中有意義になる筈だったんだよ。例えば老人ホームを姥捨て山みたいな山の中じゃなく、ドーンと街中の一等地に建てたりしてさ。仕事帰りに「父さん、最近調子はどうなの?」なんて親孝行が出来る環境にしたって良かった訳だ。それを、年老いた人達を見たくないとか、福祉に出す金はないとか言って辺鄙な場所に追いやるから、「本当はもっと様子を見に行きたいんですけどなかなか時間が無くてすいません」みたいな言い訳が通る様になってる。まあ人によってはそっちの方が都合が良いってのもあるんだろうけど。

 

 だからそういう、「本当は自分達の怠惰や狭量さに原因がある事を、他人の自己責任に付け替える」様な真似はそろそろ卒業しないとな、と思う。お互いに。

 

 だってそれは『俺ら』の心が傷まないっていうだけで、相手も助けないし俺らも助からないという最悪の無駄だからだ。いい気になったバカが通る道だからだ。その『俺らの馬鹿さ加減』を知って、卒業する時は今なんだ。

 

 だから、俺らの中で辛い思いをしている奴がいたら、誰かを頼るべきなんだ。自己責任とか言ってても誰も助けに来ちゃくれない。自分だって誰かを頼っていい。誰かに助けを求められたら、出来る範囲で助けようとすればいい。「絶対に、頼られた自分が自力で助けなきゃいけない」なんて事はないってのがミソだ。自分だけで無理なら数人がかりで助ければいいし、実際、社会福祉ってのはそういうモンだ。『自己責任』なんて無い。皆が誰かを助けられるし、皆が誰かに助けてもらえる。それが『お互い様』っていう生き方だ。『自己責任』なんていう狭い価値観に縛られた生き方なんて捨てちまえよって思う。

 

 自己責任に縛られない生き方を『俺ら』が選べるかどうか。それがこの社会が良くなって行けるかどうかという事に、きっと繋がっている。それに気付いて欲しい。辛いなら辛いって言ってくれ。助けてくれって言ってくれ。それを笑わない人間だって、『俺ら』の中にはいる筈なんだから。

百田尚樹氏の著作を『ヨイショしろ』と言われたので無視して本気で感想を書く。

 新潮社のキャンペーンが炎上した。

 百田尚樹氏の新作を『ヨイショする感想』を書いて応募する事。作者を『気持ちよくさせた人』20名に1万円分の図書カードを進呈する事。この内容が「お金でレビューを買う行為」「品がない」「『ヨイショする』という事はおだてるという事で、内心褒めるつもりがない作品を無理に褒めろという風に聞こえる」「何より作者に対して失礼」等と批判された為だ。結局、キャンペーンは中止された。

 

 自分の意見はTwitterにも書いたけれど、自分の様な「感想を書くのが好き」っていう本読みは、別に頼まれなくても無報酬でも、素晴らしい作品を読んだと思ったら感想を書く。それを「ヨイショして」って呼びかけるのは違うと思う。出版社なら言葉を選ぶという事を覚えてもらいたい。釈迦に説法とはいえ。

 

  自分は長い事本が好きな人間として、自分のブログで感想書きをしている。それによって直接報酬を得ている訳ではないし、作者や出版社から頼まれている訳でもない。でも、書く事が好きだから、書き続けている。中には偶然にも作者や訳者、出版関係者の目に留まる事もあるけれど、それは望外の喜びという奴で、狙って書いている訳ではない。そもそも狙うなどという事が無理だし。

 

 そんな自分からすると、今回のキャンペーンは悪手だし、作家に対して失礼だと思う。だから「頼まれてもいない百田作品の感想を本気で書く」事にする。決してヨイショではなく。これは「作品の感想を書くというのは本来こういう事なんじゃないの?」という、自分から今回のキャンペーンの企画者に対する意見のつもりだ。天邪鬼なだけとも言う。

 

 作品には『永遠の0』を選んだ。というか、正直に言えばこれ以外の著作は未読なのだ。『海賊とよばれた男』は以前勤めていた会社の経営者等、管理職の方々から再三「読め。あれは今読むべき本だ」と言われ続けていたのだけれど、逆にその圧が強くて、会社を辞めた今でもまだ読む気になれずにいる。(そうしたら今の勤め先のトップにも勧められたので気が向いたら読むかもしれない)

 

 実は『永遠の0』については過去に一度感想を書いている。まだ百田氏の人となりや思想、政治信条などを知る前に、作品を読んで受けた印象だけで書いたので、ある意味一番先入観の無い感想になっている筈だ。一応、貼っておこう。 

 

dogbtm.blog54.fc2.com

 そして以下に書くのが、今現在の感想というか、かつて書いた感想のリライトになる。本当は感想を書く上での礼儀としてきちんと再読したかったのだけれど、時間の関係で要所をかいつまんで読む形になってしまった事をまずお詫びしたい。そして感想の中で本作の結末に触れる事になるので、ネタバレについても予めお断りしておく。

 それでは、始める。

 

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 自分は今40代前半だ。父は終戦の年に生まれた。陸軍の一兵士として戦争に参加した父方の祖父は、戦地から戻ったものの、自分が生まれる前に亡くなった。祖母は戦争の事を孫である自分に語ろうとはしなかった。

 母方の祖父は海軍だった。その他には親戚のおじさんは落下傘部隊の一員で、頭の中にまだ銃弾の破片が残ったままになっているのだと聞いた事がある。その二人も、もう亡くなった。母方の祖母もまた、戦争の事を語らなかった。

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 そして、『永遠の0』で自らの実の祖父、宮部久蔵の事を調べようと奔走する佐伯健太郎もまた、戦争を知らない。

 

 読者が戦争を知らない世代である事と、健太郎が同じ様に戦争と祖父の事、そして神風特別攻撃隊の事を知らない事は、物語を読み進める上でリンクして行く。自分は健太郎の目を通して、かつてあった特攻の事実と日本の敗戦、そして戦後の姿を垣間見る。

 

 戦争経験者が後世に多くを語らなかった事を悔やむ向きもあるかもしれない。でも、口にしたくない過去というものもある。大学の後輩は、自らの祖父に「戦争で人を殺したのか」と問うた。その問いに答える事は、辛かっただろうと思う。

 

 誰にとっても生きるのに困難な時代だった。そんな時代を素晴らしいものとして称賛する事は、少なくとも自分には出来ない。

 

 ただ、本作には「特攻隊員や特攻の事実を賛美している」という批判があった。宮部久蔵という人物が魅力的に描かれている事もその理由の一つとされた。ただ、どうだろう。永遠の0』は特攻を賛美する小説なのだろうか。

 

 作者がどの様な思いを本作に込めたのかは作者以外知り様の無い事であり、答え合わせは出来ない。ただ自分は、逆ではないかと思うのだ。自分などは、宮部久蔵その人が魅力的に描かれれば描かれる程、「特攻というものは許し難い失敗だったのだ」という思いを強くする。それは何故か。

 

 この物語で、宮部は死ぬ。それも「自分が生き残る為に他者を殺す」か「自分が死んで他者を生かす」かという選択を迫られた上で、自らの死を選ぶ。最近も話題になった『トロッコ問題』では、選択者の手に委ねられているのは第三者の命だ。しかしここでは、自分の命が選択肢の片側に乗せられている。

 

 そこで自らの死を選ぶ事が出来る様な高潔な人間が死なねばならなかった。

 

 それは軍が、ひいては国家が、彼等に死ねと命じたからだ。

 

 この場で特攻隊員は全員が志願したのだとか、いや、強制されたのだという議論を繰り返すつもりはない。そもそも、特攻という無謀な作戦が承認されなければ、志願も強制も存在し得なかったからだ。だが実際に特攻という作戦は立案され、承認を受け、その為の兵器が製造され、兵士は死地に向かわされた。『永遠の0』によれば正に『十死零生』の作戦に、国を守るという、個人には重過ぎる使命を背負わされた若者が投入され、その命を散らした。

 

 軍は兵士の命を犠牲にして、より多くの敵兵を屠れば戦争に勝てるのだという妄執に取り憑かれた。空でも、海でも特攻は行われた。人間魚雷『回天』についての小説『出口のない海』もある。以下に以前書いた感想を置く。

 

dogbtm.blog54.fc2.com

 

 こうして宮部たち特攻隊員が戦後を生きる道は絶たれた。本来なら戦後を生き、日本の戦後復興に力を尽くす事も、個人としての幸福を追求する事も出来た筈の命が失われた。その事実を賛美する事など誰が出来るだろうか。

 

 こうした事を書くと、「特攻の否定=特攻隊員の尊厳を踏みにじった」ととらえる人が必ず現れる。「特攻が愚策なら、特攻隊員は犬死にだとでも言うのか」と叫ぶ人々だ。自分は、逆だと思う。特攻隊員ひとりひとりの犠牲が重く尊いからこそ、特攻という愚策が二度と繰り返されない事が大事なのだ。その為には、特攻隊員の尊厳や名誉とは全く別の所で、『特攻は愚策だった』と言い続けなければならないのだ。

 

 そして、「日本が開戦に踏み切らなければ、いずれ西欧列強に植民地化されていたのだ」「特攻は愚策であり悲劇だったかもしれないが、そこまでの犠牲を払って戦い続ける意思を示したからこそ、戦後日本はアメリカの州のひとつになる事もなく、現在の形を維持出来たのだ。(だから特攻には意味があったのだ)」という意見にも、明確に反対しておく。

 

 アメリカが戦後日本を自国の州のひとつとして飲み込み、日本語教育を排し、改名を迫り、日本文化を悉く破壊する様な占領政策を取らなかったのは、特攻に見られる様な日本人の毅然とした精神に怯んだのだ、という考え方は美しいかもしれないが、日本人の愛国心や自尊心を慰撫するだけで根拠がない。

 

 日本は、戦争に負けた。ある人は「日本国憲法アメリカに押し付けられた、お仕着せの憲法だ」と繰り返し主張する。考えてみればいい。国の根幹とも言うべき憲法を他国に押し付けた(とされる)様な、強大な力を持つアメリカが、特攻や「一億玉砕」のスローガンに後押しされた日本人の抵抗運動に怯むものだろうか。実際には抵抗する術もなく、疲弊し、飢え、貧しさに耐えている日本人から何を奪う事も、戦勝国であるアメリカには容易かったと見るべきだ。そうしなかったのは、その方が統治体制の構築にとって得策だとみなされたからに過ぎない。また、「日本人の抵抗」が本当に功を奏したのだとすれば、それは特攻で命を散らした英霊達ではなく、日本の戦後を生き抜いた人々の戦いの成果だったのだと考えるべきだと自分は思う。

 

 本作でも、宮部の死を語るかつての戦友達は、それぞれの戦後を生き抜いて現在に至っている。

 

 特攻隊員のみならず、兵士が生き残る事は「生き恥」だとされた時代だった。戦友は死に、自分は生き残る。それが罪であるかの様に重くのしかかる時代だった。実際に、人間魚雷『回天』の搭乗員だった橋口寛大尉は何度も上官に血書で出撃を嘆願するも、指導的立場にあった事から叶わず、終戦を迎えた後の8月18日に、回天の中で拳銃自殺しているという。自分が生き残るという事が、罪だとでも言うかの様に。

 

 誰かが彼に言うべきだった。「生きてくれ」と。地面に額を擦り付けてでも懇願すべきだった。

 

 英霊とされた戦死者に出来る事は、見守る事だけだ。実際の戦後を支えたのは「生き恥」に耐えた多くの名も知られていない人々の努力だった。宮部の家族をかつての戦友が守った様に。実際に、自分の祖父母がそうであった様に。そうした人々の日々の暮らしが、生の営みが、日本の復興を支えていたと自分は信じる。

 

 『永遠の0』を読むと、いつも自分はこの様な感想を抱くのだ。それはもしかすると、作者からすれば『誤読』なのかもしれない。「自分はそんなつもりで書いた事は一度もない」と言われるかもしれない。でも、作者の手を離れた小説は、物語は、この様にして読者の手に届き、読者が望む様に、悪く言えば『好き勝手に』読まれて行く。独自に解釈され、意味を上書きされ、読者ひとりひとりが、自分だけの読書体験を得る。それを否定する事は、生みの親である作者にも出来ない。

 

 本当の感想は、作者や編集者、出版社が望む形に書かせる事は出来ないのだ。

 読者の思いは物語と自分の心の関係性の中だけにあり、そこには誰も手を付ける事が出来ないのだから。

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題③ 対話なき規制という不毛

 前回まではこんな流れだった。

  

kuroinu2501.hatenablog.com  

kuroinu2501.hatenablog.com 

 さて、ここからが本番。

 自分の中でも「これが正解」と思える答えは得られていない。

 

 『表現の自由』について論じる時、そこには必ず「他者を不快にさせたり傷付けたりする表現でも『表現の自由』と言っておけば公にする事が許されるのか」という批判がある。

 

 『あいちトリエンナーレ2019』の『表現の不自由展・その後』では、主に次の2作品が「不快な表現」として炎上した。

 

①大浦信行氏の『遠近を抱えて PartII』

 映像作品。昭和天皇の写真をコラージュして作成された自作が焼却されるシーンが「昭和天皇の肖像を燃やした灰を足で踏む表現」として拡散、批判された。

 

②キム・ソギョン氏・キム・ウンソン氏の『平和の少女像』

 日本ではいわゆる『慰安婦像』として知られる事になった。

 近年日本ではいわゆる『吉田証言』が事実に基づかないものだったとして、2014年に朝日新聞による慰安婦報道の取消が行われた事を契機に「慰安婦を軍が強制連行した事実は無かった」「慰安婦問題なるものは捏造である」という歴史観が広まりを見せ始めている。

 その中で少女像は「ありもしない罪を日本人に突き付けている」「世界各地に少女像や徴用工像を置く事は、日本人の国際的な信用を失墜させる為の政治活動だ」といった批判に晒されている。

 

 まず自分は、上記の作品を実際には見る事が出来ておらす、表現の不自由展のサイト上で公開されている写真だけを見た状態だ。参考に、公式サイトを貼る。

 

censorship.social 

 作品について論じる上で、実物を見ていないというのは致命的だと思うのだが、「作品公開の機会が奪われる」事の弊害とは正にそれで、作品を見るという事がそもそも出来ないので、正確な判断が出来なくなる。

 

 写真で見れば十分、という意見もあるだろうが、実際に各地の博物館や美術館に足を運ばれる方なら、実物を目の当たりにした時の印象は、縮小された写真で見ただけでは分からない様々な気付きを与えてくれるものだと理解してくれる事と思う。それが出来ない、という事がまず残念ではある。

 

 次に、個別の作品について。

 まず、①に関して言えば、以下の記事に詳しい。

 

news.yahoo.co.jp

 

 ただ、創作には「言葉によって表現しきれないものを具象化する」という側面がまずあって、このインタビューの中で言及できないものを表現する為に、大浦氏の創作があるのだという気がする。

 

 そして大浦氏には、『自作が収録された図録を燃やされた』という経験がまずある。芸術家にとって、それは究極の否定だと思う。社会が自分の表現を受け入れなかった。その事実は重い。でも、創作というのはそこで止まれないものなのだと思う。自分の表現が否定され、それこそ自作が燃やされた灰が踏まれる様な痛みを大浦氏は経験した。そこから新たな表現が生まれたとして、それもまた否定されるというのは『天皇』という存在をモチーフにする創作、素材にする創作は何であれ許さないというタブー視が、可視化されてはいないけれど日本人の中に強く存在するという事なのかもしれない。

 

 それは大日本帝国憲法の第3条にある『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス(天皇神聖にして侵すべからず)』という規範の名残なのか、戦後の昭和天皇の歩みを踏まえた上で「故人に対する礼節を欠く」とみなされているのかは判然としないが、その「不可侵」という扱いが良いか悪いか、今後も日本人の中に受け継がれて行くのかはこれから考える必要があるだろう。

 

 次に②に関しては、彫刻作品である事、鑑賞者が横に座れる事、少女の姿をしている事など、色々と見るべき点がある様に思う。

 

 慰安婦問題全体に関して論じようとするといくら書いても足りなくなるのだろうけれど、自分が前から思っていた事として、少女像が真に「日本人の国際的な信用を失墜させる」「過去の慰安婦問題で日本人を徹底的に糾弾する」という目的で作られていたのであれば、もっと激しい表現にする事はいくらでも出来る筈だ、という疑問がある。

 

 例えばうら若い女性が、日本兵に髪を掴まれて引き摺られて行く像だったり、銃剣を突き付けられた女性が連行されていく様が描かれた像だったり、そうした直接的な表現で、誰が見ても酷いと感じる生々しい像を作る事は可能だったと思う。そう考えると、少女像というのは抑えられた表現に思える。

 

 少し考えてみると、元慰安婦の方々が存命である事で、直接的に過去の辛い記憶を想起させる様な表現は憚られるという点もあるし、あまりにも凄惨な光景を表現するのは、屋外に、老若男女、誰の目にも触れられる形で展示する像としてはそぐわないという理由があるのだろうと思う。ただその上で、我々日本人に対しての表現として見れば、過去の行為に対する糾弾と取られる様な強い表現を敢えて避けている様にも感じられる。

 

 ただ少女がそこに座っている。鑑賞者は、その隣に座る事が出来る。少女の方を向いても良いし、少女が見つめているであろう先を一緒に眺めても良い。そこから、何が見えるか。

 

 こうした鑑賞を経ずに、少女像を『プロパガンダだ』と言って何かを喝破した気になるのは実は簡単な事であって、そう言い切ってしまえば楽に気持ち良くなれる訳だ。自分も日本人だから、「日本人はかつてこんなに酷い事をしたんですよ。どう思いますか世界中の皆さん。これが許されますか?」といった責め方をされたとすれば辛いし、見たくない、聞きたくないという気持ちがある。でもその上で、なぜ表現の形がこの少女像になったのだろう、という疑問はやはりあって、それを明らかにするにはやはり鑑賞する機会は必要なのだと思う。鑑賞とは「作品との対話」であって、作品に込められた作者の意図を読み解こうとする行為でもある。作者が元慰安婦の人々をどの様に見ているか。また、今の日本と日本人をどの様にとらえているのか。それは鑑賞しないと見えて来ないし、伝わって来ないのだ。

 

 上記から分かる様に、検閲的なやり方で鑑賞機会が失われるという事は、作品を理解しよう、読み解こうという行為に対しては明らかにマイナスだ。何せ、人の目に触れる機会を奪ってしまう。そうすると、「こんなものは芸術や表現として認めない」という一方の主張のみがクローズアップされて、製作者の意図は掻き消される事になる。それで良いのか、という危惧は常にある。

 

 ただ一方で「ある表現によって確かに傷付けられた」という人々の思いについて、「それは表現の自由だから」と言って一切取り合わないというのもまた問題なのであって、その究極が記憶に新しいフランスの『シャルリー・エブド襲撃事件』だ。

 

ja.wikipedia.org

  詳細は割愛するが、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を繰り返し掲載したシャルリー・エブド誌は、この襲撃事件の前から既に編集部に火炎瓶が投げ込まれる等の重大事件を起こされていた。

 

 襲撃事件は日本でも大々的に報道されたが、肝心の風刺画がどんなものであったかは伏せられた。仮にシャルリー・エブド誌が掲載していた風刺画そのものが報道で取り上げられ、日本国内でも拡散されていたら反発が起きるのは明らかであり、日本の報道機関はそれに配慮したのだろうと思う。

 

 ただ当時、第三書館が『イスラム・ヘイトか、風刺か』という小冊子を刊行して風刺画を収録し、自分はそれを読んだ。この本は特に発禁等になる事もなく、今でも売られている様だ。自分は書店で購入したが、当時は(恐らく今も)書店の棚に並べられる事はなく、店舗在庫としてバックヤード等に仕舞われているものを出してもらい、直接手渡しで買う必要があった。平積みなどもってのほかだったのだが、これはイスラム教徒に対しての配慮というよりも、この本を売る事で「店側や客がイスラム過激派の攻撃対象になるのではないか」とでも言う様な恐れ(偏見)によって成されていた様に思う。街中で本を剥き出しにして持ち歩いてはならないかの様な緊迫した空気が漂っていた。

 

 この本の中には問題になったムハンマドの風刺画以外にも、東日本大震災後の原発事故で奇形化した日本人』といった風刺画が収録されていて、実際福島県民である自分は不快だった。「原発事故で奇形化した日本人」が何を「風刺」しているのか。漫画調の絵でムハンマドが茶化される事が何の「風刺」なのか。意味を理解しようとするより先に『不快』『怒り』が来る。

 

 この様に、誰かが『表現の自由』によって何かを発表する時、その表現によって傷付き、不快な思いをし、怒りを覚えるという事は実際にある。そんな時、自分達はどうすべきなのか。表現の自由とは、何をどこまで表現する事を許すのか。

 

 まず、テロによって相手の命を奪う事は論外だ。これは全ての人が共有できる価値観だと信じる。

 

 次に来るのは抗議だと思うが、「抗議の声に対して表現者が一切の対話を拒絶する」或いは「抗議する側が表現者の意図を無視し一切の対話を拒絶する」という問題がある。

 

 『シャルリー・エブド襲撃事件』の時、殺害された人々に対する連帯として「民主主義と表現の自由への直接攻撃」といった強い言葉が使われた。「テロには屈しない」という姿勢が強調され、『私はシャルリー(Je suis Charlie)』というスローガンが連呼された。ただ、その一方で、あの風刺画が極めて侮辱的であり、イスラム教徒を不快にさせる様な挑発的な内容ではなかったか、という自省の声を上げる事は難しくなって行った。『私はシャルリー』とは言えても、『私はシャルリーではない(Je ne suis pas Charlie)』とは言えない空気が醸成されて行った。シャルリー・エブドを批判する事と、テロリストを擁護する事は同じではない筈だが、『私はシャルリー』という言葉には強い同調圧力があった。自分はこれを正常な対話が成立する状況だとは考えられない。

 

 「表現の自由があるのだから自分の表現は無制限に許されている」とするのも、「自分を不快にさせる表現の自由など認めない。今すぐに公開を止めろ」と言うのも、方向性が違うだけで同じ様に害悪であり暴力だ。そこには対話がない。もっと言えば、対立する価値観を持った両者が、互いに相手を批判する為の表現を『表現の自由』の名の下に何の配慮もなく垂れ流す様になれば、それはまだ血が流されていないだけで、実質的には「戦争」だと思う。

 

 具体的に言えば、昨今問題になっている『ヘイト』的な表現が、それに当たる。

 

 自分達は考える必要がある。

 シャルリー・エブドの風刺画はイスラム教徒に対するヘイトだったのか?

 大浦信行氏の『遠近を抱えて』は、昭和天皇を批判するものだったのか?

 (また天皇批判は国家や国民に対する批判や侮辱だとまで言えるのか?)

 「『平和の少女像』は芸術ではなく政治活動に過ぎない、プロパガンダなのだ」「あれは日本人全体に対するヘイトなのだ」という一部の評価は正しいか。

 

 そしてそういう事を、政府や司法と言った公権力の介入によって判断・規制させるのではなく、本来なら表現者と鑑賞者が意見を交わす事で解決しなければならない。表現者には自省が必要だし、鑑賞者には自分が行う特定表現に対する拒絶が、相手の表現の自由を奪うに値する正当な理由があるか自らに問い質す義務がある。

 

 そういう意味で、『表現の不自由展・その後』が中止に追い込まれた事、『あいちトリエンナーレ2019』の補助金不交付の方向性が示された事は、日本の芸術・文化にとって大きな後退だと思うし、世界に対して「日本の表現者や鑑賞者、また言論人、政治家や行政府に至るまで、冷静な議論をする余地を持たないという意味で幼稚である」という事を知らしめる結果になったと思う。

 

 次も同じ様に展示を潰せば解決するのか? 日本人はいつまでもこんな姿勢で良いのか?

 自分はそうは思わない。

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題② 廃仏毀釈とバーミヤン渓谷の石仏破壊から考える

 前回はこちら。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 前回の最後で、「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題に入って行くと予告した訳だが、その前に過去の歴史を今一度振り返ってみたい。

 

 政府が特定の価値観を是とし、これに反するものを批判・排斥して行く過程というのは過去にもあった。自分が学んだ仏教美術の歴史の中でも有名なのは、明治新政府が『神仏分離令神仏判然令)』を発した事で始まる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動』である。

 

 これに関しては詳細に書こうとすると本1冊書いても収まらないので割愛するが、大まかな流れとしてはそれまでの『神仏習合(しんぶつしゅうごう)』(神道の神と仏教の仏が区別されずに祀られている状態)を廃して、神道と仏教とを分けると共に、明治新政府神道天皇を柱とした統治体制の構築を目指した事がある。実現はしなかったものの、神道国教化という方針もあった。(いわゆる国家神道とはまた別の話)

 

 神仏分離という考え方は、直ちに仏教排斥に繋がるものではなかった訳だが、結果として廃仏毀釈運動が起こり、寺院が解体されたり、仏像や仏具といった文化財の多くが破壊されたりする等、仏教界にとっては受難だった。実際、鉈で叩き割られたと思しき仏像や、砕かれた石像・石碑等を各地で見る事が出来る。(ただ、これに関しては当時の民衆が寺請制度によって特権的な地位を占めていた仏教教団に対する不満を募らせていた事も一因であるとの見方もあり、明治新政府に全ての責任があると言えるのか、という問題もある)

 

 ともあれ、時の政府が神道を選んだが故に仏教が廃仏毀釈の流れの中で多くを失った様に、恣意的に「ある表現・文化は称揚し、あるものは取り締まる」という様な事をすると、取り返しが付かない結果を招く事があるのだと心に留めておきたい。現在の日本では、もちろん仏教美術仏教文化というものは世界に対して日本が誇れるものだと多くの人が認めているけれど、たった150年程前には日本人が自分達の手でそれらを叩き壊していた訳だから。

 

 そして破壊してしまったものは、修復したとしても二度と元には戻らない。

 

 話は変わるが、2001年にタリバンバーミヤン渓谷の石仏を爆破した時、自分はなんて酷い事をするんだと憤った。イスラム原理主義者は単に石仏を偶像崇拝の象徴として爆破した訳だが、自分の立場からすれば仏像とは祈りだったからだ。

 

 信仰を持つ人々が救われたいと願った祈り。それが具象化されたものが仏像なのであって、仏教を信仰する人々は単に偶像としての仏像を有難がって拝んでいる訳ではないのだという事。仏像の向こうには形のない信仰というものが息づいている事。それに祈るという事は、過去の、現在の、或いは未来に存在するであろう誰かと、自らの祈りとを重ね合わせているのだという事。それは自らを掘り下げる内観でもあるという事。それらの価値観を仏教徒以外の人々とも共有できるかどうかについて考えた。

 

 結論から言えば、難しいかもしれないが、それは出来る。当時のタリバンの石仏爆破は、何よりもまず数多くのイスラム指導者達によって批判された。自分にとっての信仰が大事なものであるならば、目の前の相手が胸の内に秘めている信仰もまた同じ様に尊重されるべきだというのは、異なる神(仏)を信仰していたとしても分かる筈だ――というのは、まあ理想論だと言われるのだろうが、実際に多くのイスラム教徒は世界各地で異なる信仰を持つ人々と共存している。彼等は共に手を取り合える隣人だと思う。

 

 この、「異なる価値観を持って生きている人々と共存して行く術を探る」というのは、昨今の『ヘイト』や『自国第一主義』という問題を考える上でも大事な事だ。社会に不寛容が蔓延して行くという事は、実は誰にとっても「生き苦しい」のではないかと思う。

 

 そして、話を『表現の不自由展・その後』に戻して考えるならば、一度は表現規制によって展示が不可能とされた作品を集めて、もう一度現在の自分達の目で鑑賞してみるという事は、こう言っては何だがとても興味深い試みである様に思う。

 

 なぜ、かつてはそれらの表現が許されなかったのか。

 今なら、それらの表現はどう受け止められるのか。

 

 そう考える事で見えて来るものもあるのではないか。

 その様に考えると、今回文化庁補助金の交付を止めた事について支持する人々が主張する「過去に問題になった作品を集めて再展示するなんて、荒れる事が分かっているにも関わらず十分な対策を行わなかったのが悪い」「確信犯的な炎上商法だ」という批判は、いささか近視眼的である様に思う。

 

 繰り返すが、150年前の日本人は仏像を叩き壊していた。

 タリバンは2001年に石仏を爆破した。

 

 当時はそれが『正しい事』だと思われていた。今はどうだろう。

 

 自分達が生きている今は、言ってみれば『歴史の最前線』である訳だが、だからといって自分達が今下している価値判断が、過去の歴史の教訓と照らし合わせて絶対に間違いのない、言ってみれば最新版にアップデートされたものだと言えるのかといえば、そんな保証はどこにもない。『歴史は繰り返す』とはよく言われる訳だが、人間は同じ過ちを繰り返してしまう事もある。そしてその過ちに気付く度に、自己反省と軌道修正を行って来た。

 

 間違ってしまった事は仕方がない。過去は取り消せない。

 しかしそれを自覚したなら、反省と共にこれからの方向性を変えて行くべきだ。

 今、自分が信じている価値観が絶対的な正しさを持たないのと同じ様に、自分達はよりよい未来を選択して行くべきだ。まずはここまでの価値観を共有して行きたいと思う。

 

 そして次回は前回の予告通り「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題について考える。これは難しくて、自分も色々と考えている最中だ。恐らく『シャルリー・エブド襲撃事件』についての話になるだろう。でも基本は、先に述べた様に自分達はいかにして異なる価値観を持って生きている人々と共存して行くのか、という事がメインテーマになるのだと思う。

『あいちトリエンナーレ2019』『表現の不自由展・その後』に関する諸問題① 表現の自由と検閲

 『あいちトリエンナーレ2019』における『表現の不自由展・その後』に関する諸問題については、当初から自分も言及したい事が色々とあった。ただ、自分の中で結論が出ていない部分もあって躊躇していたのだが、その間に文化庁が『あいちトリエンナーレ2019』全体に対する補助金を交付しない方針を打ち出してしまった。しかも文化庁によれば「作品の内容に関する判断で交付しない訳ではないから検閲には当たらない」という事らしいが、その主張は妥当なのだろうか。流石にここまでの事があって、何も言わない訳には行かないと思う。

 

 自分は大学時代に仏教美術を学んだ。その事が自分というものを形作る上で重要な核になっていると思う。だから芸術や美術というものは、それに触れた人の人生を豊かにするものであって欲しいし、対立を生むものであって欲しくはない。これが自分の、基本的な立ち位置だ。その上で今回問題になっていると思われる事を、ひとつひとつ取り上げて行きたい。

 

 

 <『表現の自由』と『検閲』とは何か>

  日本国憲法では『第三章 国民の権利及び義務』の中で以下の様に定められている。

 

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 

 ここで考えるのは、『検閲は、これをしてはならない』と言われている主体は誰なのかという事だが、過去の最高裁判決では『行政権が主体』となって行われるものを検閲であるとしている。詳細は割愛するが、なぜ行政権が主体となって検閲行為をしてはならないと憲法に規定されたかと言えば、過去にそれをやって失敗したからだ。

 

 その失敗、大日本帝国憲法における表現の自由とは、以下の様なものだった。

 

第二章 臣民権利義務

 

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

  

 この、『法律ノ範囲内ニ於テ(法律の範囲内において)』という一文を見ても分かる様に、実際には様々な法律が表現の自由を制約していた。代表的なものは『治安維持法』だが、中には『言論・出版・集会・結社等臨時取締法』なるそのものズバリな法律まであった。

 

 ここでも詳細は割愛するが、要するに大日本帝国憲法下における表現の自由は、法律によって規制する事が出来る範囲のものだった。よって政府や軍部を公然と批判する様な表現内容は許されていなかったし、発表するにしても相当の圧力がかかっていたと見るべきだ。

 

 失政に対する批判に耐えられない政府にとっては、批判を真摯に受け止めて自ら改革する事よりも、批判する人間の口を塞いだ方が楽であり、その為には表現の自由が一部制限されている事は好都合だった。

 

 以上を前提として、表現の自由に関する日本の過去の失敗とは何かと言えば、政府に対して批判的な言説及び表現を様々な法律によって規制し、封じ込めて行った結果、正常な国家運営がなされず、敗色濃厚となった後でも戦争が継続され続け、結果としてより多くの国民を死なせる結果になった事だ。

 

 その大日本帝国憲法の失敗を受けて、日本国憲法では大日本帝国憲法にあった『法律ノ範囲内ニ於テ(法律の範囲内において)』という一文が削除された。憲法で認められている表現の自由を、法律によって制限する事は認められないとした訳だ。

 

 ここまでが、長い前置きだ。まとめると

 

①検閲を行ってはならないとされるのは行政権の主体である内閣及び政府、行政機関である。

表現の自由憲法によって規定されている。立法府である国会が表現の自由を制限する法律を定める事は出来ない。

③政府が失政に対する批判を免れる為に、検閲等の手段を用いて反対意見の封じ込めを図った事は過去にもあり、同様の事はこれからも起こり得る。

 

 といった辺りだろうか。

 

 さて、今回の『表現の不自由展』に関して多い批判として、「補助金を出す国が内容を精査するのは当然」という「政府=出資者」的な見方がある。「お金を出してもらうなら政府(出資者)の意向に沿うのは当然であって、まして政府に批判的な内容を展示するなど何事か」「政権批判は自費でやれ」というものだ。これは一見もっともらしく聞こえるのだが、上記の前提を踏まえればわかる様に、文化庁は民間企業に業務を依頼する、同じく民間の出資者や消費者とは違って、「検閲をしてはならない」という事が「憲法によって規定されている」存在である。

 

 だから仮に文化庁が「補助金を出すにあたって、全ての展示作品を事前にチェックします。展示に不適当な作品があれば撤去を求めますし、撤去を拒むなら補助金は出せません」と言えば、それは検閲だとの批判を免れない。

 

 そして文化庁が「補助金を出す展示と出せない展示」というものを(特に展示内容によって)区別する事は、特定の思想や価値観を後押しする事に繋がるから、「補助金を貰えない人達だって発表そのものを禁じられた訳ではないのだから、今度は自費で開催すればいいだけの話」という単純な理解は危険だ。自分が「補助を受けられない側」になった時の事を想像すればいい。自分以外の人がサポートを受けられるのに、自分は受けられないとなったら、それは「マイナスからスタートしろ」と言われているに等しい。逆に言えば、時の政権におもねる様な内容なら下駄を履かせてもらえるという事で、これでは公平性が担保されない。

 

 「自分は芸術家でもなければ政治活動家でもないので政府に目を付けられる恐れは無いです。だから関係ありません」という人は、学術研究の分野でも「短期的な成果を出さない研究に予算は付けない」とか「特定の学問の予算は無駄だから削る」とか、そうした動きが既にある事を考えてみるべきだ。自分が大事にしている分野が、ある日突然不当に扱われたら誰だって怒るし不公平だと思う。公平性を有しない政府というのは、端的に言って害悪だ。

 

 一方、自分達民間人が、「『表現の不自由展』の展示内容が不快だ」と思ったとして、個人的に批評・批判するのは自由だと思う。ある表現に対して、批判を述べるという事もまた表現の自由だと思うから。ただこの場合も、「批判によって展示を止めさせる」とか「文化庁にクレームを入れまくって補助金を止めさせる」なんていう権利があるとは思わない。それは自分の権利を過剰に主張して、相手の権利を侵害する行為だと思う。

 

 そして今回の件でもあった様に「国会議員や政治家、地方自治体の長に告げ口して彼等を動かす」という行為は、自分はアウトだと思うし、陳情を受けた政治家も本来なら断らなければならなかっただろうと思う。そこから検閲まではあっという間だからだ。

 

 ここまでが、一般的な『表現の自由』と『検閲』の関係だと自分は思っている。ここまでの認識を共有できていないと、どんな議論をしても噛み合わない。

 

 では個別具体的に、『あいちトリエンナーレ2019』における、『表現の不自由展』のどこが問題だったのだろうとか、よく言われる「『表現の自由』と言っておけば何もかも許されるのか」という問題に入って行く。ここからが本題なのだけれど、長くなるのでまた次回。