老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

小泉進次郎氏が大臣に不適格である理由② 原子力防災担当大臣として

 自分は前回、小泉進次郎環境大臣は、与党内の反対派と戦えないが故に環境大臣として不的確なのではないか』という趣旨の記事を書いた。

 

kuroinu2501.hatenablog.com

  前述したのは小泉大臣個人の資質というか、覚悟の程に関する部分だった訳だが、後半として「今回の大臣就任が原発推進派による一種の挑戦なのではないか」という観点から、内閣府特命担当大臣原子力防災担当)としての側面について考えてみる。

 

 小泉大臣は、環境大臣であると同時に原子力災害担当の特命大臣でもあって、この兼務内容について、自分はある種の悪意を感じている。

 

 原子力発電は、環境問題、特に地球温暖化対策の優等生であるかの様に語られて来た。

 

 確かに原子力発電所は、火力発電などと比較して燃料の安定供給が可能であり、温室効果ガスを出さない事が利点だとされている。電気事業連合会のHPでも、原子力発電の特徴として、①燃料の安定供給 ②CO2を排出しない という2点が挙げられている。

 

 小泉大臣は、大臣就任前は「私だって、原発ゼロにすべきだと思ってます。自民党にもいろいろな考えがあるんです」とコメントする等、明確に脱原発を口にしていた。

 

 だが、環境大臣として、仮に「温室効果ガスの削減目標が達成困難だ」という問題が起きたと仮定すると、「原発の再稼働に慎重だからだ」という意見が、与党支持者を中心に広がって行く事になる。

 

 この場合、小泉環境大臣の取るべき道は、原発推進派から見れば2つしかない。

 ①「温室効果ガス削減の為」として、原発を次々再稼働させる。

 ②「原発ゼロ」という持論を堅持する為に、温室効果ガスの削減目指未達という結果を受け入れる。

 

 実はどちらに転んでも、安倍総理としては困らない。

 

 ①なら、小泉大臣は持論を曲げて安倍総理と同じ原発は重要なベースロード電源」という自民党の見解を踏襲する事になる。

 ②なら、小泉大臣の力不足という事で、「脱原発派は理想論ばかりで結果が伴わないではないか」という批判の口実を与える事になり、後任人事では原発推進派を大臣に指名するお膳立てが整うと同時に、より一層原発再稼働や新規の原発建設に道筋が付く事になる。

 

 つまり小泉大臣がどちらを選んでも、安倍総理の支持者や原発推進派は困らない『踏み絵』の様な構造になっている。恐らく原発推進派は「早く原発再稼働を受け入れて楽になれ」と思っている事だろう。

 

 でも、ここには本来第3の選択肢があってしかるべきだ。

 

 原発再稼働によらない方法で温室効果ガス削減に取り組む

 

 この選択肢が原発推進派に見えていないのは、「これまで誰も本気でそんな事に挑戦していないから」だ。そもそも誰も挑戦していないから、成功した者もいない。ではなぜ挑戦者が現れなかったのかと言えば、「原発は安全だ」と思われていた時には、そんな必要は無かったからだ。

 

 地元福島の原発事故が起こる前は、自分も含めた一般大衆は誰も原発の危険性に気付いていなかった。福島県では「福島の原発が作った電気は首都圏に送られて皆さんの生活の役に立っています」という趣旨の、福島県出身の著名人によるCMまで流されていたし、それを見ていた自分は「原発が国の役に立っている事」を好ましく思ってすらいた。事故前から原発安全神話に異議を唱えて警鐘を鳴らしていた人々は、本当に原発に関する専門知識を有した一部の有識者に限られていた。

 

 だから日本全国の、それも雇用が少ない地域の多くでは原発を受け入れたし、それによって一定の雇用が生まれ、地元経済が潤う事を喜んだ。原発を建設する側も、「危ないもの、厄介なものを地方に押し付ける」という考えよりは、むしろ「原発が出来る事が皆の為になる」という『善意』でそれを推進していたのだと思う。

 

 結果日本には(今となっては)過剰な原発があちこちに出来る事になった。それは高度経済成長期の日本にとっては、安定した電源の確保という意味で多大な功績をあげたが、少子高齢化で人口減少期に入った現在の日本では、今度は老朽化した原発と使用済み核燃料を安全に管理しなければならないという意味で負担になりつつある。

 

 原発事故を経た現在の日本では、原発の耐用年数は40年と定められたが、原子力規制委員会の認可を受ければ、運転期間を「20年を超えない期間で、1回に限り延長できる」とされた。つまり1基の原発は最大60年稼働させる事が出来る。逆に言うと、原発が「稼ぐ」事が出来るのは60年だけであり、その後は安全管理をしながら廃炉処理しなければならない「負債」になる。そして延長の認可を出す原子力規制委員会環境省の外局である。

 

 こうした背景を持つ日本の原発推進の流れの中で、誰も挑戦しなかった脱原発について、小泉大臣に今すぐに結果を出せというのは酷だろうと思うし、こう言っては何だが罠だと思う。再生可能エネルギーの普及推進にしても、結局は「ビジネスとして成立する」から企業が投資をして技術開発と普及に取り組むのであって、政府が原発ありきで電力需要を満たそうと考えている内は、どんな企業も本腰を入れて取り組もうとは考えない。

 

 この辺りは前回取り上げた「バイオディーゼルが普及しなかった原因」とも重なるものがある。国が必要な旗振りをしなければ、結果は付いて来ない。旗も振らず、方向性を指し示す事もせずに結果だけを今すぐに要求し、「脱原発には具体案が無いではないか」と貶すのは、種を蒔かずに実を求めるのと何ら変わらず、もっと言えば種を蒔かなかった自分の責任を棚上げしている。

 

 この様に、一種の悪意を感じる人事によって、小泉進次郎氏は環境大臣内閣府特命担当大臣という役職に就いた。そういう意味でも、この人事を彼が受け入れるべきだったのか、自分は疑問に思っている。

小泉進次郎氏が大臣に不適格である理由① 環境大臣として

 自分は福島県在住で、今日は小泉大臣が来るというニュースを見て出勤した。彼が来ても来なくても、自分の暮らしは変わらない。今日も働くし、明日も働く。小泉大臣に会いに行く事は出来ないので、こうして思う所を書く。

 

 最初に断っておくと、自分は小泉進次郎氏個人に対してはいかなる悪感情も持っていないし、政治家としての資質に欠けるとも思っていない。

 

 それでも彼は環境大臣内閣府特命担当大臣原子力防災担当)という役職に対して不適格だと思う。理由はただひとつだ。それは、彼が戦わねばならない敵とは野党ではなく、政権の中枢にいるからだ。彼は同じ政権中枢にいる他の閣僚や、自民党の仲間と本気で戦えるだろうか。

 

 自分は思う。彼はまだ安倍総理とも、麻生副総理・財務大臣とも戦えない。

 

 なぜ環境大臣になると身内と戦う必要があるのか。それはひとえに、環境保護というものは利益追求型の経済活動と対立するからだ。そして環境負荷を軽減する為とはいえ、企業に負担を求める事は、自民党の支持基盤である財界が嫌う。つまり敵は常に身内にいる事になる。

 

 本気で地球温暖化対策を推進しようと思えば、単に温室効果ガスの排出量に削減目標を設定する程度の事では駄目で、税制の見直しも含めた抜本的な対策を講じなければならない。そしてそれを実現するには、麻生財務大臣と意見を戦わせ、相手を納得させなければならない。『戦う』とはそういう事だ。

 

 例えば環境省が過去何度も『環境税(炭素税)』の導入を検討していた事を覚えている方はいるだろうか。

 

 環境省のHPには、今でも『環境税の具体案(平成16年11月5日)』や『環境税の具体案(平成17年10月25日)』という形で当時の案が残されている。それらは現在『地球温暖化対策のための税』という形で一部実現しているが、この『地球温暖化対策のための税』が実際に導入されたのは平成24年10月1日からだった。最初の案から実に8年近くが経過している事になる。

 

 平成16年案の時点で既に『深刻化する地球温暖化問題への対応は待ったなしの状況であるにもかかわらず、我が国の温室効果ガスの排出量は 1990 年比約8%の増。本年は、現在の地球温暖化対策推進大綱の見直しの年であり、追加的対策・施策が不可欠であることは明らか。』と書かれていたのだが、『待ったなし』の状況から8年経たなければ税制改正に至らなかった訳だ。ただ、自分はこれでも不十分だと思う。

 

 話は東日本大震災が起こる数年前に遡るが、当時自分は運送会社で事務方として働いていた。

 実はその時「政府が今度こそ本格的に炭素税の導入に向けて動くらしい」という話があり、燃料価格の高騰も相まって、業界内部で「バイオエタノールを加えたバイオ燃料バイオディーゼル)の導入を本格的に検討する段階に来たか」という気運が一時高まった。

 

 中にはバイオエタノール製造プラントを作り、実際に試験販売する会社もあり、5%のバイオエタノールを加えた軽油でトラックを運行したり、100%バイオエタノールで走行可能な改造を施したトラックが試験走行したりしていた。

 

 結局その流れは様々な問題の発生(車両故障の際、自動車メーカーの保証がどこまで受けられるか分からない。長距離輸送時、復路で給油する事が出来ない等)と、環境税の導入見送り、燃料価格の一時的な下落等で下火になって行った。更には東日本大震災原発事故の発生で環境対策どころの話ではなくなり、自分が知る範囲では完全に立ち消えた。

 

 ただ、自分は思う。もしもあの時、日本が本気で温室効果ガスの削減に乗り出していたら。税制改革を断行して「通常のガソリン・軽油よりもバイオ燃料の方が安い」位の価格差を付けていたら、運輸・自動車業界は脱化石燃料の方向に本格的に舵を切る事が出来ていたのではないだろうか。

 

 別にバイオ燃料でなくとも良い。水素自動車でも電気自動車でも良いのだが、もし国が本格的に脱化石燃料の旗を振っていたら、日本企業は今頃環境分野で世界が取れていたのではないだろうか。

 

 だが実際は、脱化石燃料どころか再生可能エネルギーすら普及する事はなく、原発事故を経ても脱原発の方向に舵を切る事も無く、震災から数えても8年という時間を、政府と財界はドブに捨てた。なぜかといえば、目先の経済的利益を優先して数十年後の未来を捨てる選択をし続けて来たからだ。

 

 財界は常に利益最優先で動く。自民党政権でも、民主党政権でもそれは変わらない。増税には反対するし、短期的な儲けを産まない投資は渋る。人権問題を無視して外国人技能実習生を単純労働者として使い捨てる。環境負荷の軽減に取り組むのはイメージ戦略や広告宣伝の一環としてであって、本業を圧迫する程の負担や大幅な構造改革に耐える程の気概はない。

 

 だから、変化して行く世界に付いて行く事が出来なかった。

 遅れた制度や社会構造を変革する事も出来なかった。

 

 そして、まだ若い小泉進次郎大臣が本気で環境問題に取り組もうとするのなら、彼が戦わなければならないのは、こうした財界人とべったり付き合っている身内の抵抗勢力なのだろうと思う。抵抗勢力とは小泉大臣の父である小泉純一郎元総理が唱えた言葉だが、小泉大臣は抵抗勢力と戦う道を選べるだろうか。自分はまだ、そう思えない。

 

過剰な自己責任論が日本に蔓延する理由

 今の日本では、自己責任論が過剰に唱えられている様に思う。

 

 例えば生活保護受給者に対する批判は、本来裕福なのに所得を隠して不正受給する様な「批判されて当然」という様なものから、次第に「不正受給者でもない者をまとめて批判する」という様に、批判の矛先が移り変わって来た。

 

 何らかの理由で働けない。収入がない。そうした人々が生活保護を申請する事を過剰に批判し、「お前が働けないのは努力が足りなかったからで、お前が貧しいのは自己責任だ。真面目に働いて納税している自分達に負担を強いるな」という事がさも正論であるかの様に唱えられる様になった。

 

 この考えはどこから来るのか。許しておくべき事なのかを考える。

 

 結論から言うと、この主張を放置しておくと、自分が携わっている障がい者福祉の様に、弱い立場にある人々を「社会(或いは国家)にとっての『重荷』である」とみなして切り捨てて行く流れが強まる。だから許すべきではないのだが、残念な事に自己責任論者はその数を増やしている。

 

 例えば自由民主党衆議院議員杉田水脈氏が『新潮45』に寄稿した文章の『生産性』発言や、普段からの政治主張を追って行くと分かる事だが、これは典型的な「少数派や弱者を社会負担とみなして切り捨てて行く主張」だ。

 

 杉田議員は大きく問題になった「LGBT支援の度が過ぎる」という記事の数年前にも、同じ『新潮45』誌上に「『LGBT』支援なんかいらない」という記事を書いている。だから、炎上した記事がたまたま『生産性』という部分で言葉狩りにあって非難されたのだ、という主張は正しくない。それ以前から彼女の主張は一貫しており、要約すれば「生産性がない者に公的支援を受ける権利はない。もし彼等が権利を主張するならば、それは法で認められた『権利』を超えて『特権』を認めろという主張に他ならず、一部の人々の特権の為に国の予算が食い荒らされる事は『被害者(弱者)ビジネス』だ」というものだ。

 

 『被害者(弱者)ビジネス』という言葉から分かる事だが、結局これは日本人の倫理観や道徳観念、モラルの問題ではなく、経済問題なのだと言える。

 

 だから仮に「過剰な自己責任論を教育から是正しよう」「社会的弱者や少数派に対する思いやりや優しさを、道徳教育によって取り戻そう」という動きがあるとすれば、無駄ではないが回り道になるだろうと思う。残念だが。

 

 要するに、過剰な自己責任論者達は『金がない』と言っているのだ。

 

 日本経済が右肩上がりで、少子高齢化も起こらず、税収も伸びている様な「理想的な日本」(夢物語とも言う)が実現されていれば、その中に暮らす社会的弱者や少数派に救いの手が差し伸べられても、誰もそれを『特権』だとか『被害者(弱者)ビジネス』だと言って叩きはしない。金銭的余裕があるからだ。

 

 しかし実際には、真面目に働いても生活保護受給世帯よりも低い収入しか得られない『ワーキングプア問題』や、これこそ「言葉狩り」にあって消されそうになっている『非正規雇用』の問題があり、そうした不満を抱える社会全体に蔓延する『余裕の無さ』が、過剰な自己責任論と弱者切り捨て型社会の台頭を招いている。

 

 経済が好調なら助けられる人々を、金が無いから助けないというのは、倫理問題でもなければ道徳観念の問題でもない。単に日本が貧しくなったという事だ。ただ、杉田議員に代表される様な保守系の政治家にとって、言い換えれば安倍総理が唱える『美しい国、日本』を実現しなければならない人々にとって、日本が貧しくなったなどと認める事はあり得ない。それは政治の失敗であり、経済政策の失敗であり、彼等が唱える美しい国」と現実との乖離を認める事になるからだ。

 

 しかしながら、実際に金はないのである。

 

 麻生太郎副総理・財務・金融・デフレ脱却担当大臣が金融審議会市場ワーキンググループが作成した報告書を内容が気に入らないからと言って受け取らなくとも、国民が不安なく暮らせるレベルの老後資金を確保しようと思うなら、それこそ自己責任で資産運用をしなければならないという現実は覆らないのと同じだ。

 

 だから、自己責任論で弱者を切り捨てにかかる。

 

 彼等が唱える『生産性』とは、出産育児や納税といった目に見える形で「個人が国家に貢献できるか」という事だ。そして自分が日々接している重度知的障がい者は、彼等からすれば間違いなく『生産性がない』人々になってしまう。彼等は全く納税していない訳ではないが、納税額と障害者年金や社会福祉サービスの受給量を考えれば、当然受給が上回る。その負担を国家や国民が背負いきれなくなった時、今の自己責任論者の台頭を許しておく事は、自分にとって

 

『今、目の前にいる人々が社会に殺される』

 

という事を意味する。自分にとって彼等は名前も知らない他人ではない。そんな人達の暮らしを支えている障害福祉サービスの仕組みを、仮に年金制度と同じ様に国が維持できなくなった時、「金が無い」というこの上なく単純な、身も蓋もない理由で減額されたり、支給量を減らされたりした時に、杉田議員や麻生大臣、安倍総理といった責任ある人々が、障がい者を助けてくれるだろうか。自分達の方を向いて、彼等を気にかけてくれるだろうか。そうは思えない、というのが正直なところだ。

 

 そして、障がい者に代表される様な少数派・社会的弱者を、まるで不良債権の整理をする様に切り捨てて行った先に何があるかと言えば、「残った人々が安心して暮らせる社会」ではなく「残った人々の中で最下層にいる者が更に切り捨てられる社会」なのではないかと思う。

 

 そういう社会で、自己責任論を唱えていた者はいつまで生き残れるだろう。

 

 自分が辛いから、自分より下流に位置する人を助ける余裕がなくて、自己責任論に乗っかって弱者叩きをしていた人は、「次は君の番だよ」と肩を叩かれた時にどんな顔をするのだろう。

 

 そんな未来を、自分は見たくない。

24時間テレビをぶっ壊されては困る理由②

 前回、自分は「24時間テレビには批判されるべき点もあるかもしれないが、番組自体が潰されると障がい者社会福祉に対する関心が薄れ、誰も障がい者に見向きもしない様な社会になってしまう」という趣旨の記事を書いた。

 

 

 

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 中には、「いや、そんな事は無いよ。日本人は志が高い人がいるから、きっと大丈夫だよ」という人がいるかもしれない。それが本当なら、自分の考えは杞憂という事になるし、そうなればいいと思っている。

 

 でも、本当のところはどうだろう。

 

 志が高い人も、優しい人も、思いやりがある人もいるだろう。でも、そういう人達も「常に高い志を持ち、常に優しく、常に思いやりを持って人に接する」なんていう事が出来るだろうか。

 

 例えばいつもは優しい両親でも、とても忙しい時に子どもが話し掛けて来たら、「今は時間がないから後にしなさい!」と言ったりしないだろうか。子どもが何度も同じ言葉を繰り返したら、つい「うるさい!」と言わないだろうか。

 

 電車やバスで、いつもは他人に席を譲る人でも、疲れ切っている時には、目の前に困っている人がいても(心の中で申し訳なく思いながら)「自分も今日はこのまま座っていよう」と思わないだろうか。

 

 決してそれが悪いとは言わない。誰でもそうだし、自分だってそうだから。

 

 でも思う。そういう『余裕の無さ』が今の社会全体に蔓延していないだろうか。

 

 実は介護の現場にも同じ事が言える。

 いつもは笑顔で優しくご利用者に接している生活支援員でも、疲れていたり、体調不良だったり、プライベートで悩みがあったり、職場環境や処遇に不満を抱えていたりすると、それはどうしても「相手に対する態度」の中に出て来る。

 

 注意する語気が必要以上に荒くなる。大きな足音を立てて不機嫌さをアピールする。必要以上の力で勢い良くドアを開け締めする。ご利用者と話をする時間が取れなくて先送りする。ご利用者が何かして欲しいという要求にすぐに応えられない。そんな危険信号が出て来る。それらを放置した先に、近年問題になっている「介護職員によるご利用者の虐待」という取り返しが付かない重大事故がある。

 

 それを防ぐ為に行われているのは、職場環境の改善ももちろんだが、日常的な職員同士の声掛けだったりする。

 

 きつい言葉でご利用者を注意している職員がいたら、「どうした? 体調悪い?」とさり気なく声をかける。何か不満があるのか、忙しいのか、疲れているのか、病気で体調を崩しているのか。原因は色々ある。常日頃その人が優しくない訳じゃない。今は他の人に分け与えられる優しさが少なくなっているだけかもしれない。仕事がキャパオーバーで辛いのかもしれない。

 

 そういう辛さ、余裕の無さ、言い換えれば『生き苦しさ』が、介護や福祉の現場だけではなくて、この日本中に蔓延している様な気がする。

 

 本当は優しい人が、誰かに優しく出来ないとしたら、それはその人が根本的に変わってしまったのではなくて、『生き苦しさ』に潰されそうになってしまっているからではないだろうか。

 

 余裕が無くて、将来が不安で、明るい見通しが立たない。

 頑張っていない訳じゃない。自分なりに努力だってしている。でも、その努力が報われる未来が見えない。

 

 逆に悪い意味で『先が見えている』様な感覚がつきまとう。どんなに努力しても、仕事に打ち込んでも、どうせこの辺りが関の山なんだろうという『破れない天井』があって、しかもそれが自分の頭のすぐ上に迫っている様な気がする。

 

 そういう社会全体に漂う『生き苦しさ』や『余裕の無さ』が、介護や福祉の現場なら虐待に当たる様な『弱者切り捨て』『過剰な自己責任論』『ヘイト的な言動』の根本原因である様に自分には感じられる。

 

 そんな見方をしていると、ヘイト等の極端な言動に走る人を見てまず思う事は、「彼は本当は辛いんじゃないだろうか」という事だったりする。

 

 疲れた介護職員がつい大声を出す様に、本当は身近にいる誰かが「どうした? 大丈夫?」と声掛けが出来れば良いのかもしれない。でも、社会全体が沈み込んで行くと、「誰もが何かしらの辛さを抱えている社会」が出来上がる。その中では誰もが辛く、苦しく、余裕がない生き方を強いられているが故に、『他者を助け、思いやる』という行動に移れない人々が徐々に増えて行く事になる。

 

 誰もが、誰かを助ける余裕をなくした社会。

 自分で自分を助けるしかない『自己責任型社会』の誕生だ。

 

 自分で自分を助けられない人間は努力が足りないとみなされる。どんなに酷い環境に追いやられても自己責任だと言われ、助けが得られない。自力で底辺から這い上がった人々は、まだ自分の下でもがいている人々を助けようとせず、むしろ見下す。「あいつらは努力が足りない」「自分はこんなに努力してここまで這い上がったんだ。奴らとはもう違うんだ。自分で努力できない奴が俺の足を引っ張るな。これ以上俺の重荷になるな」と、まるで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の様な事を言い出す。

 

 それって、辛くないか?

 

 何度でも繰り返し言うけれど、その生き方は辛いだけだ。誰かを傷付ける以上に、自分を傷付けている。だからその「誰もが辛いはずなのに辛いと言えない事」が、この狭量な社会を生んでしまったんだと気付くべきだ。

 かつてTHE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』の中で歌った様に、『弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく』社会。そういう社会でこれからもずっと生きていたいのか、自分に問うべきだ。

 

 仮に「そんな生き方はしたくない。じゃあどうする」という時に、自分も余裕がある生き方をしていないものだから上手い事が言えなくて、色々な言葉が頭の中をぐるぐる回った結果思い出すのが『愛は地球を救う』っていう例の言葉だったりする。

 

 多分、本当は愛だけで地球は救えない。地球どころか誰か一人を救うのだって大変だ。愛以外にも色々なものが必要だろう。心の余裕とか、教育とか、もっと即物的に言えばお金とか。でも、そういうあれこれの現実的な段取りを取り払って考える時、必要なものっていうのは、一言で言って『愛』みたいな、「他人と自分の弱さを認め合い、許し合う事」だったりする。

 

 嘘だと思うなら、自分より弱い人間の自己責任を追求して、自分自身が楽になったのか、幸せになったのか思い出すといい。きっと一時良い気持ちになった様な気がしただけなんじゃないかと思う。少なくとも自分の場合はそうだった。誰かを責めて、相手を棒で叩いた時に得られる気持ち良さは、長続きしない麻薬の高揚感みたいなものだ。その後に来るのは依存と禁断症状と自己嫌悪だ。

 

 そんな酷い社会に自分達はいる。

 

 そして同じ社会で、自分達の隣で、障がい者や高齢者といった社会的に弱い立場の人々も暮らしている。だったら、どうすればいい?

 

 気に入らないものをぶっ壊すと叫ぶよりも、自分はそんな事を考えていたいんだ。

24時間テレビをぶっ壊されては困る理由①

 24時間テレビは毎年批判されている。

 

 「出演者にギャラが支払われているチャリティー番組って何なんだ」とか、「芸能人がマラソンを走る事と社会福祉に何の関係があるか分からない」とか「障がい者をダシに『感動ポルノ』で金儲けか」「もう日本テレビが番組製作費を全額寄付した方が有意義だ」みたいな批判だ。

 

 今年の24時間テレビも案の定批判の的になった。

 デーブ・スペクター氏は自身のTwitter

  

  

  

 等、24時間テレビ批判を繰り広げた。

 

 中でも「NHKをぶっ壊す」を連呼して国政に進出した「NHKから国民を守る党(以下N国)」をネタにしたツイートに6万7千件の「いいね」が付いている辺りが笑えない。

 

 正直、自分も社会福祉法人の職員になる前は同じ様な『24時間テレビ不要論』を支持していた時期がある。

 でも最初に言っておくと、それは間違いだ。

 

 全ての批判が的外れだ、なんていう事は言わない。当然の批判も中にはある。でも24時間テレビを潰してしまうべきではない。

 

 結論から言うと、24時間テレビが無くなったら、日本人が1年の中で「障がい者社会福祉について少しでも考える日」は無くなるだろう。パラリンピックは4年に1回しかない)そして跡を継ぐチャリティー番組も生まれずに終わる。だって皆、本当は社会福祉に対する関心なんて無いんだから。

 

 繰り返すが、福祉関係者や福祉サービスの利用者以外の日本人は、皆社会福祉なんてどうでもいいと思っている。障がい者に対する関心なんて最初から無いのが普通だ。なぜなら、自分の視界に入らない事、自分にとって関係がない(と思っている)事に興味がないのは当たり前で、自分自身が福祉サービスのお世話にならない限りその必要性に気付く事は無いからだ。

 

 例えば「自分はNHKなんて見ない」という人はN国を支持するだろう。NHKがぶっ壊されて放送が停止しようが自分には関係がないからだ。でも、NHKを頼りにしている人は、勝手にそんな事をされては困る。24時間テレビも同じ事だ。仮にデーブ・スペクター党首が「24時間テレビをぶっ壊す」と連呼したとしても個人の自由だから構わないが、貴方が批判しているものを潰されると困る人間(「番組の利権で食っている人」という意地悪な意味ではなく)がいる事は前提として理解しておくべきだ。

 

 「24時間テレビをぶっ潰して、もっと良いチャリティー番組を自分が作る」というのなら別だが、では毎年批判されている24時間テレビを脅かす様な『真っ当な』チャリティー番組が、なぜ他局から生まれないのか。なぜチャリティー番組は日テレの専売特許の様になっているのか。その他大勢の日本人の社会福祉に対する『関心の無さ』が、24時間テレビを批判する人々の多さとは裏腹に、あの番組を長寿番組にしているのではないだろうか。

 

 結局、自分が24時間テレビをぶっ壊されると困るのは、あの番組が無くなる事で、今度こそ本当に誰も障がい者の事なんて見向きもしない様な世の中が出来上がるのが目に見えているからだ。

 

 

 ちなみに蛇足ではあるが、Google検索に『24時間テレビ 福祉車両』と書くと『24時間テレビ 福祉車両 見たことない』という候補が出て来るのだけれど、24時間テレビ福祉車両を街中で見かけないのは、福祉サービスを必要とする老人や障がい者が一般人が暮らす生活圏内から離れて暮らしているせいであって、この事からも障がい者が社会から阻害されているという事が分かると思う。

40代男性団体職員が今更はてなブログを始める理由

 まさか今更こんな文章を自分が書かなければならなくなるとは思ってもみなかった。

 

 自分はFC2ブログで読んだ本の感想を書くという事をずっとやって来た。FC2である事に特に理由は無い。無料で書けるブログサービスで最初に目に付いたのがそこだったというだけなのだが、それでも結構長い間続けて来られたのは、「自分が最初にその本を読んだ時に何を感じたか」という事をどこかに書き残しておきたかったからだ。自分は割といい加減だから、そうでもしないと大切な記憶をすぐに忘れてしまう。

 

 だから感想書きはあくまでも自分の為にやっている事で、人様に対して自分の感想を読んでもらおうというという意識は薄かった。文章を書く上で仮想の読者を想定する事はあるけれど、それは瓶に手紙を入れて海に流すとか、風船にメッセージカードを付けて空に飛ばすみたいな事であって、明確に誰かに届けようと思って書いている文章じゃない。もちろん反応があれば嬉しいとは思うけれど。

 

 そんな事を数年続けて来て、何で今更はてなブログに場所を移してまで何かを書こうと思ったのか。それは、『社会問題に対して何かを語る場を持ちたい』という事だ。

 

 これまでの自分のブログで、本の感想に紛れる様に社会問題や時事問題を語っても良いとは思うし、実際にそれらしい記事を書いた事もある。でも、何となく自分のプライベートな感想を書き連ねて来た場所に、異物の様にシリアスな問題提起が混じっている事に対する違和感があった。

 

 そもそも、なぜ社会問題について一介の市民が、それも中年男性が今になって語り始めなければならないかという事もある。でもその切実さを相手に理解してもらう事は難しい。そこには今の自分が置かれた現状や、私的な背景がある。

 

 明かせる範囲で書くと、数年前から自分はとある社会福祉法人で事務方として働いている。団体職員という立場で日々重度の知的障がい者と接している中、今の社会が向かっている方向性に疑問を持つ様になった。

 

 基本的に今の社会には、何かひとつ発言するだけでその言葉が大々的に取り上げられ、瞬く間に拡散される様な人々と、「その人がそこにいて、生きている」という事すら顧みられない人々とが一緒に暮らしている。自分は当然後者だ。でも、少なくともこうして何かを書いて発信する事が出来る。その言葉が誰の目にも留まらないものだったとしても。では、重度知的障がい者はどうだろう。

 

 自分の意志と自分の言葉で「私が今ここに生きている事」を主張する事が、彼等には出来ない。

 

 社会が「弱者切り捨て」や「過剰な自己責任論」といった誤った方向に向かう時、それに対して反対だと表明する事が出来ない。

 

 成人し、選挙権を持ってはいても、投票所に行き、適切な候補者を選んで投票するという事が出来ない。

 

 政府が障がい者の地域移行や自立を目指すと言ってみても、地域社会の中で自立して暮らす能力がない。理解者や支援者、地域の中の受け皿も数少ない。

 

 これが身体障がい者とは異なる、知的障がい者が独自に抱える問題点だ。身体障がい者であれば、社会がバリアフリー化されて行く中で活躍の場を広げて行く事が出来るかもしれない。でも「パパ」や「ママ」といったいくつかの単語しか喋れない、或いは単語すら喋れない重度知的障がい者は、自分の意志を誰かに伝える事すら生活支援員の助けを必要としている。

 

 そうした人々を、現在の日本社会はさして重視していない。

 

 積極的に虐げる様な事はしていないかもしれないが、助けようともしていない。

 そもそも彼等の存在が視界に入っていない。認知されていない。

 

 『生産性』という言葉で人間の価値を推し量って、「義務を果たさない者は権利を主張するな」という風潮がまかり通る様になっている。そしてその義務とは、「納税や出産育児といった形で国家や社会に対して目に見える形で貢献する事」を指している。それが出来ない者は口を閉じていろ、と言われている様にすら感じる。

 

 そうした中で、自分の様な人間が少しでもその流れに抗う事が出来るか。

 これはそうした『実験』なのかもしれない。『挑戦』と言える程の力は、自分にはまだ無い。

 

 だから自分はここから始める。

 

 少なくとも彼等が自分達と同じ社会に生きているという事が認知される様に文章で発信して行く。こうした弱い立場に置かれてしまっている人々が確かにこの「自分達の社会」の中に実在しているという事が、広く社会の中で認められて欲しい。「自己責任」と言うのも良いし、「生産性」という言葉で人を括りたければ括ったらいいが、その言葉を発する人達の視界の中に彼等の姿が映る様になればいいと思う。彼らがまた強い言葉で人を刺そうとする時に、社会的弱者の存在を思い出す様になればいいと思う。

 

 そして、障がい者の事だけではなくて、日々の暮らしの中でこれはおかしいんじゃないかと思える事にも少しずつこの場所で意見をして行きたい。自分ごときが、と思わなくもないけれど、自分が黙っている間も少しずつ社会が悪い方向に変質して行く事をただ見続ける事には正直疲れてしまった。

 

 いつまで、どこまでやるかは決めていない。途中で折れる事もあり得る。その時は誰かが骨を拾って欲しい。自分に出来る事は、きっとたかが知れている。それこそ自分がこうして書いている文章に、彼等が言うところの『生産性』がどの程度あるかなんて分からない。何の価値もないかもしれない。でも何の価値もなくても、自分はこれを必要だと感じている。だから始める。今日、ここで。