老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

24時間テレビをぶっ壊されては困る理由②

 前回、自分は「24時間テレビには批判されるべき点もあるかもしれないが、番組自体が潰されると障がい者社会福祉に対する関心が薄れ、誰も障がい者に見向きもしない様な社会になってしまう」という趣旨の記事を書いた。

 

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 

 中には、「いや、そんな事は無いよ。日本人は志が高い人がいるから、きっと大丈夫だよ」という人がいるかもしれない。それが本当なら、自分の考えは杞憂という事になるし、そうなればいいと思っている。

 

 でも、本当のところはどうだろう。

 

 志が高い人も、優しい人も、思いやりがある人もいるだろう。でも、そういう人達も「常に高い志を持ち、常に優しく、常に思いやりを持って人に接する」なんていう事が出来るだろうか。

 

 例えばいつもは優しい両親でも、とても忙しい時に子どもが話し掛けて来たら、「今は時間がないから後にしなさい!」と言ったりしないだろうか。子どもが何度も同じ言葉を繰り返したら、つい「うるさい!」と言わないだろうか。

 

 電車やバスで、いつもは他人に席を譲る人でも、疲れ切っている時には、目の前に困っている人がいても(心の中で申し訳なく思いながら)「自分も今日はこのまま座っていよう」と思わないだろうか。

 

 決してそれが悪いとは言わない。誰でもそうだし、自分だってそうだから。

 

 でも思う。そういう『余裕の無さ』が今の社会全体に蔓延していないだろうか。

 

 実は介護の現場にも同じ事が言える。

 いつもは笑顔で優しくご利用者に接している生活支援員でも、疲れていたり、体調不良だったり、プライベートで悩みがあったり、職場環境や処遇に不満を抱えていたりすると、それはどうしても「相手に対する態度」の中に出て来る。

 

 注意する語気が必要以上に荒くなる。大きな足音を立てて不機嫌さをアピールする。必要以上の力で勢い良くドアを開け締めする。ご利用者と話をする時間が取れなくて先送りする。ご利用者が何かして欲しいという要求にすぐに応えられない。そんな危険信号が出て来る。それらを放置した先に、近年問題になっている「介護職員によるご利用者の虐待」という取り返しが付かない重大事故がある。

 

 それを防ぐ為に行われているのは、職場環境の改善ももちろんだが、日常的な職員同士の声掛けだったりする。

 

 きつい言葉でご利用者を注意している職員がいたら、「どうした? 体調悪い?」とさり気なく声をかける。何か不満があるのか、忙しいのか、疲れているのか、病気で体調を崩しているのか。原因は色々ある。常日頃その人が優しくない訳じゃない。今は他の人に分け与えられる優しさが少なくなっているだけかもしれない。仕事がキャパオーバーで辛いのかもしれない。

 

 そういう辛さ、余裕の無さ、言い換えれば『生き苦しさ』が、介護や福祉の現場だけではなくて、この日本中に蔓延している様な気がする。

 

 本当は優しい人が、誰かに優しく出来ないとしたら、それはその人が根本的に変わってしまったのではなくて、『生き苦しさ』に潰されそうになってしまっているからではないだろうか。

 

 余裕が無くて、将来が不安で、明るい見通しが立たない。

 頑張っていない訳じゃない。自分なりに努力だってしている。でも、その努力が報われる未来が見えない。

 

 逆に悪い意味で『先が見えている』様な感覚がつきまとう。どんなに努力しても、仕事に打ち込んでも、どうせこの辺りが関の山なんだろうという『破れない天井』があって、しかもそれが自分の頭のすぐ上に迫っている様な気がする。

 

 そういう社会全体に漂う『生き苦しさ』や『余裕の無さ』が、介護や福祉の現場なら虐待に当たる様な『弱者切り捨て』『過剰な自己責任論』『ヘイト的な言動』の根本原因である様に自分には感じられる。

 

 そんな見方をしていると、ヘイト等の極端な言動に走る人を見てまず思う事は、「彼は本当は辛いんじゃないだろうか」という事だったりする。

 

 疲れた介護職員がつい大声を出す様に、本当は身近にいる誰かが「どうした? 大丈夫?」と声掛けが出来れば良いのかもしれない。でも、社会全体が沈み込んで行くと、「誰もが何かしらの辛さを抱えている社会」が出来上がる。その中では誰もが辛く、苦しく、余裕がない生き方を強いられているが故に、『他者を助け、思いやる』という行動に移れない人々が徐々に増えて行く事になる。

 

 誰もが、誰かを助ける余裕をなくした社会。

 自分で自分を助けるしかない『自己責任型社会』の誕生だ。

 

 自分で自分を助けられない人間は努力が足りないとみなされる。どんなに酷い環境に追いやられても自己責任だと言われ、助けが得られない。自力で底辺から這い上がった人々は、まだ自分の下でもがいている人々を助けようとせず、むしろ見下す。「あいつらは努力が足りない」「自分はこんなに努力してここまで這い上がったんだ。奴らとはもう違うんだ。自分で努力できない奴が俺の足を引っ張るな。これ以上俺の重荷になるな」と、まるで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の様な事を言い出す。

 

 それって、辛くないか?

 

 何度でも繰り返し言うけれど、その生き方は辛いだけだ。誰かを傷付ける以上に、自分を傷付けている。だからその「誰もが辛いはずなのに辛いと言えない事」が、この狭量な社会を生んでしまったんだと気付くべきだ。

 かつてTHE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』の中で歌った様に、『弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく』社会。そういう社会でこれからもずっと生きていたいのか、自分に問うべきだ。

 

 仮に「そんな生き方はしたくない。じゃあどうする」という時に、自分も余裕がある生き方をしていないものだから上手い事が言えなくて、色々な言葉が頭の中をぐるぐる回った結果思い出すのが『愛は地球を救う』っていう例の言葉だったりする。

 

 多分、本当は愛だけで地球は救えない。地球どころか誰か一人を救うのだって大変だ。愛以外にも色々なものが必要だろう。心の余裕とか、教育とか、もっと即物的に言えばお金とか。でも、そういうあれこれの現実的な段取りを取り払って考える時、必要なものっていうのは、一言で言って『愛』みたいな、「他人と自分の弱さを認め合い、許し合う事」だったりする。

 

 嘘だと思うなら、自分より弱い人間の自己責任を追求して、自分自身が楽になったのか、幸せになったのか思い出すといい。きっと一時良い気持ちになった様な気がしただけなんじゃないかと思う。少なくとも自分の場合はそうだった。誰かを責めて、相手を棒で叩いた時に得られる気持ち良さは、長続きしない麻薬の高揚感みたいなものだ。その後に来るのは依存と禁断症状と自己嫌悪だ。

 

 そんな酷い社会に自分達はいる。

 

 そして同じ社会で、自分達の隣で、障がい者や高齢者といった社会的に弱い立場の人々も暮らしている。だったら、どうすればいい?

 

 気に入らないものをぶっ壊すと叫ぶよりも、自分はそんな事を考えていたいんだ。