老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

40代男性団体職員が今更はてなブログを始める理由

 まさか今更こんな文章を自分が書かなければならなくなるとは思ってもみなかった。

 

 自分はFC2ブログで読んだ本の感想を書くという事をずっとやって来た。FC2である事に特に理由は無い。無料で書けるブログサービスで最初に目に付いたのがそこだったというだけなのだが、それでも結構長い間続けて来られたのは、「自分が最初にその本を読んだ時に何を感じたか」という事をどこかに書き残しておきたかったからだ。自分は割といい加減だから、そうでもしないと大切な記憶をすぐに忘れてしまう。

 

 だから感想書きはあくまでも自分の為にやっている事で、人様に対して自分の感想を読んでもらおうというという意識は薄かった。文章を書く上で仮想の読者を想定する事はあるけれど、それは瓶に手紙を入れて海に流すとか、風船にメッセージカードを付けて空に飛ばすみたいな事であって、明確に誰かに届けようと思って書いている文章じゃない。もちろん反応があれば嬉しいとは思うけれど。

 

 そんな事を数年続けて来て、何で今更はてなブログに場所を移してまで何かを書こうと思ったのか。それは、『社会問題に対して何かを語る場を持ちたい』という事だ。

 

 これまでの自分のブログで、本の感想に紛れる様に社会問題や時事問題を語っても良いとは思うし、実際にそれらしい記事を書いた事もある。でも、何となく自分のプライベートな感想を書き連ねて来た場所に、異物の様にシリアスな問題提起が混じっている事に対する違和感があった。

 

 そもそも、なぜ社会問題について一介の市民が、それも中年男性が今になって語り始めなければならないかという事もある。でもその切実さを相手に理解してもらう事は難しい。そこには今の自分が置かれた現状や、私的な背景がある。

 

 明かせる範囲で書くと、数年前から自分はとある社会福祉法人で事務方として働いている。団体職員という立場で日々重度の知的障がい者と接している中、今の社会が向かっている方向性に疑問を持つ様になった。

 

 基本的に今の社会には、何かひとつ発言するだけでその言葉が大々的に取り上げられ、瞬く間に拡散される様な人々と、「その人がそこにいて、生きている」という事すら顧みられない人々とが一緒に暮らしている。自分は当然後者だ。でも、少なくともこうして何かを書いて発信する事が出来る。その言葉が誰の目にも留まらないものだったとしても。では、重度知的障がい者はどうだろう。

 

 自分の意志と自分の言葉で「私が今ここに生きている事」を主張する事が、彼等には出来ない。

 

 社会が「弱者切り捨て」や「過剰な自己責任論」といった誤った方向に向かう時、それに対して反対だと表明する事が出来ない。

 

 成人し、選挙権を持ってはいても、投票所に行き、適切な候補者を選んで投票するという事が出来ない。

 

 政府が障がい者の地域移行や自立を目指すと言ってみても、地域社会の中で自立して暮らす能力がない。理解者や支援者、地域の中の受け皿も数少ない。

 

 これが身体障がい者とは異なる、知的障がい者が独自に抱える問題点だ。身体障がい者であれば、社会がバリアフリー化されて行く中で活躍の場を広げて行く事が出来るかもしれない。でも「パパ」や「ママ」といったいくつかの単語しか喋れない、或いは単語すら喋れない重度知的障がい者は、自分の意志を誰かに伝える事すら生活支援員の助けを必要としている。

 

 そうした人々を、現在の日本社会はさして重視していない。

 

 積極的に虐げる様な事はしていないかもしれないが、助けようともしていない。

 そもそも彼等の存在が視界に入っていない。認知されていない。

 

 『生産性』という言葉で人間の価値を推し量って、「義務を果たさない者は権利を主張するな」という風潮がまかり通る様になっている。そしてその義務とは、「納税や出産育児といった形で国家や社会に対して目に見える形で貢献する事」を指している。それが出来ない者は口を閉じていろ、と言われている様にすら感じる。

 

 そうした中で、自分の様な人間が少しでもその流れに抗う事が出来るか。

 これはそうした『実験』なのかもしれない。『挑戦』と言える程の力は、自分にはまだ無い。

 

 だから自分はここから始める。

 

 少なくとも彼等が自分達と同じ社会に生きているという事が認知される様に文章で発信して行く。こうした弱い立場に置かれてしまっている人々が確かにこの「自分達の社会」の中に実在しているという事が、広く社会の中で認められて欲しい。「自己責任」と言うのも良いし、「生産性」という言葉で人を括りたければ括ったらいいが、その言葉を発する人達の視界の中に彼等の姿が映る様になればいいと思う。彼らがまた強い言葉で人を刺そうとする時に、社会的弱者の存在を思い出す様になればいいと思う。

 

 そして、障がい者の事だけではなくて、日々の暮らしの中でこれはおかしいんじゃないかと思える事にも少しずつこの場所で意見をして行きたい。自分ごときが、と思わなくもないけれど、自分が黙っている間も少しずつ社会が悪い方向に変質して行く事をただ見続ける事には正直疲れてしまった。

 

 いつまで、どこまでやるかは決めていない。途中で折れる事もあり得る。その時は誰かが骨を拾って欲しい。自分に出来る事は、きっとたかが知れている。それこそ自分がこうして書いている文章に、彼等が言うところの『生産性』がどの程度あるかなんて分からない。何の価値もないかもしれない。でも何の価値もなくても、自分はこれを必要だと感じている。だから始める。今日、ここで。