老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

過剰な自己責任論が日本に蔓延する理由

 今の日本では、自己責任論が過剰に唱えられている様に思う。

 

 例えば生活保護受給者に対する批判は、本来裕福なのに所得を隠して不正受給する様な「批判されて当然」という様なものから、次第に「不正受給者でもない者をまとめて批判する」という様に、批判の矛先が移り変わって来た。

 

 何らかの理由で働けない。収入がない。そうした人々が生活保護を申請する事を過剰に批判し、「お前が働けないのは努力が足りなかったからで、お前が貧しいのは自己責任だ。真面目に働いて納税している自分達に負担を強いるな」という事がさも正論であるかの様に唱えられる様になった。

 

 この考えはどこから来るのか。許しておくべき事なのかを考える。

 

 結論から言うと、この主張を放置しておくと、自分が携わっている障がい者福祉の様に、弱い立場にある人々を「社会(或いは国家)にとっての『重荷』である」とみなして切り捨てて行く流れが強まる。だから許すべきではないのだが、残念な事に自己責任論者はその数を増やしている。

 

 例えば自由民主党衆議院議員杉田水脈氏が『新潮45』に寄稿した文章の『生産性』発言や、普段からの政治主張を追って行くと分かる事だが、これは典型的な「少数派や弱者を社会負担とみなして切り捨てて行く主張」だ。

 

 杉田議員は大きく問題になった「LGBT支援の度が過ぎる」という記事の数年前にも、同じ『新潮45』誌上に「『LGBT』支援なんかいらない」という記事を書いている。だから、炎上した記事がたまたま『生産性』という部分で言葉狩りにあって非難されたのだ、という主張は正しくない。それ以前から彼女の主張は一貫しており、要約すれば「生産性がない者に公的支援を受ける権利はない。もし彼等が権利を主張するならば、それは法で認められた『権利』を超えて『特権』を認めろという主張に他ならず、一部の人々の特権の為に国の予算が食い荒らされる事は『被害者(弱者)ビジネス』だ」というものだ。

 

 『被害者(弱者)ビジネス』という言葉から分かる事だが、結局これは日本人の倫理観や道徳観念、モラルの問題ではなく、経済問題なのだと言える。

 

 だから仮に「過剰な自己責任論を教育から是正しよう」「社会的弱者や少数派に対する思いやりや優しさを、道徳教育によって取り戻そう」という動きがあるとすれば、無駄ではないが回り道になるだろうと思う。残念だが。

 

 要するに、過剰な自己責任論者達は『金がない』と言っているのだ。

 

 日本経済が右肩上がりで、少子高齢化も起こらず、税収も伸びている様な「理想的な日本」(夢物語とも言う)が実現されていれば、その中に暮らす社会的弱者や少数派に救いの手が差し伸べられても、誰もそれを『特権』だとか『被害者(弱者)ビジネス』だと言って叩きはしない。金銭的余裕があるからだ。

 

 しかし実際には、真面目に働いても生活保護受給世帯よりも低い収入しか得られない『ワーキングプア問題』や、これこそ「言葉狩り」にあって消されそうになっている『非正規雇用』の問題があり、そうした不満を抱える社会全体に蔓延する『余裕の無さ』が、過剰な自己責任論と弱者切り捨て型社会の台頭を招いている。

 

 経済が好調なら助けられる人々を、金が無いから助けないというのは、倫理問題でもなければ道徳観念の問題でもない。単に日本が貧しくなったという事だ。ただ、杉田議員に代表される様な保守系の政治家にとって、言い換えれば安倍総理が唱える『美しい国、日本』を実現しなければならない人々にとって、日本が貧しくなったなどと認める事はあり得ない。それは政治の失敗であり、経済政策の失敗であり、彼等が唱える美しい国」と現実との乖離を認める事になるからだ。

 

 しかしながら、実際に金はないのである。

 

 麻生太郎副総理・財務・金融・デフレ脱却担当大臣が金融審議会市場ワーキンググループが作成した報告書を内容が気に入らないからと言って受け取らなくとも、国民が不安なく暮らせるレベルの老後資金を確保しようと思うなら、それこそ自己責任で資産運用をしなければならないという現実は覆らないのと同じだ。

 

 だから、自己責任論で弱者を切り捨てにかかる。

 

 彼等が唱える『生産性』とは、出産育児や納税といった目に見える形で「個人が国家に貢献できるか」という事だ。そして自分が日々接している重度知的障がい者は、彼等からすれば間違いなく『生産性がない』人々になってしまう。彼等は全く納税していない訳ではないが、納税額と障害者年金や社会福祉サービスの受給量を考えれば、当然受給が上回る。その負担を国家や国民が背負いきれなくなった時、今の自己責任論者の台頭を許しておく事は、自分にとって

 

『今、目の前にいる人々が社会に殺される』

 

という事を意味する。自分にとって彼等は名前も知らない他人ではない。そんな人達の暮らしを支えている障害福祉サービスの仕組みを、仮に年金制度と同じ様に国が維持できなくなった時、「金が無い」というこの上なく単純な、身も蓋もない理由で減額されたり、支給量を減らされたりした時に、杉田議員や麻生大臣、安倍総理といった責任ある人々が、障がい者を助けてくれるだろうか。自分達の方を向いて、彼等を気にかけてくれるだろうか。そうは思えない、というのが正直なところだ。

 

 そして、障がい者に代表される様な少数派・社会的弱者を、まるで不良債権の整理をする様に切り捨てて行った先に何があるかと言えば、「残った人々が安心して暮らせる社会」ではなく「残った人々の中で最下層にいる者が更に切り捨てられる社会」なのではないかと思う。

 

 そういう社会で、自己責任論を唱えていた者はいつまで生き残れるだろう。

 

 自分が辛いから、自分より下流に位置する人を助ける余裕がなくて、自己責任論に乗っかって弱者叩きをしていた人は、「次は君の番だよ」と肩を叩かれた時にどんな顔をするのだろう。

 

 そんな未来を、自分は見たくない。