老犬虚に吠えず

社会問題について考える場として

キャンセルカルチャーの危うさを考える・その『正しさ』はいつまで正しいのか

前回からの続きとして。

 

 

kuroinu2501.hatenablog.com

 

 自分がいわゆる『キャンセルカルチャー』つまり特定の人物や思想、価値観を『排除』して行く事によって『より良い社会』が作れるだろうという考え方を受け入れ難いのは、その何かを排除して行く、或いは規制して行くという方向性に対して危うさを感じるからだ。

 

 それは主に次の3点に集約される。

 

・キャンセルされたものは取り戻せない

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる

・キャンセルの効果は検証されない

 

 

<キャンセルされたものは取り戻せない>

 

 一例として、日本の刃物文化について語る。

 昭和に行われた『刃物追放運動』(刃物を持たない運動)の事をご存知だろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

 これは、1960年(昭和35年)に全国に展開された社会運動であり、当時社会問題化していた増加する少年犯罪の中でも、特に刃物を用いた暴力犯罪への対策として『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする運動』の事を指す。

 

 具体的には鉛筆削り器の普及推進や、少年に対する刃物販売の規制要求、更には青少年が刃物を持ち歩くことを助長するような内容の映画、テレビ、ラジオ、出版物、広告等についても関係業者に自主的規制を要望するという徹底した内容で、これによって主に『肥後守』と呼ばれる折りたたみナイフを製造する事業者等が販売不振による大打撃を受けた。

 

 なぜこの問題を取り上げるのかと言えば、この運動が一定の成果を上げた一方で、確実にそれまであった『刃物を身近に置き、使いこなす文化』をキャンセルし、社会のあり方を変えてしまった一例としてわかりやすいものだからだ。

 

 当時、非行問題を解決するにあたって、その非行の根本原因を追究するのではなく、非行に走る若者の教育に力を入れるのでもなく、ひとまず凶器になり得る刃物を子どもたちから取り上げるという対応がとられた事が良かったのか悪かったのかと言われれば、その判断は難しい。当時には当時の切迫した事情があったのだろう。ただどうしても、安易だという印象は残る。

 

 安全な刃物の使い方を習得させ、凶器となり得るものをみだりに他人に向けない様にと教育するよりも、刃物自体を取り上げてしまえば早く運動の成果が出る。それは現在のキャンセルカルチャーにしても同じで、扱いの難しい問題について議論し、意見を交換し、より良い方向性を模索するよりも、問題があるとされる個人、或いは行為や表現そのものを一方的にキャンセル=排除してしまった方が、より早く、確実な成果が見込めると思われている。

 

 ただそうした、言ってしまえば安易な排除を選択した結果、排除された側がどうなるのかという事を、自分達は考えてみる必要がある。

 

 刃物追放運動を振り返れば、刃物文化のキャンセルによってナイフは自分達の暮らしから遠ざけられ、社会からの理解が得られない、低い地位に追いやられてしまった。

 

 以後、日常での居場所を追われたナイフは、専らドラマ等で殺人犯の凶器として登場し、ナイフといえば非日常のもの、あるいは危険な凶器というイメージが定着する。何度か訪れたアウトドアブームによっても、その悪い印象を完全に払拭する事は叶わず、今でもナイフと言えば、その言葉だけでも単純に『怖い』という印象を抱く人が少なくない。

 

 挙句、実際の殺傷事件でもナイフはしばしば凶器として用いられ、あの秋葉原無差別殺傷事件以後は、銃刀法の改正により更にダガー(刃渡り5.5cm以上の剣)の所持禁止が盛り込まれる等、規制は強まる一方だった。「凶器となるナイフを規制するよりも、犯罪そのものを抑止する方法はないのだろうか」とか「犯人の動機を究明して、犯罪抑止に繋げる努力をすべきなのではないか」といった穏当な意見が聞き入れられる事はなく、度重なる規制強化に異議を唱えようにも、愛好家が規制推進派の決定を覆すほどの存在感を示す事はできなかった。既に社会の大半の人々にとってナイフは不要なものになっていた。つまり、これ以上規制されようが社会から消されようが何ら影響がないものになっていた。

 

 一度キャンセルされたものが再評価される事は稀だ。

 

 自分達はキャンセル後の社会を次の標準として生活して行く。子どもたちがナイフの代わりに鉛筆削り器をあてがわれた社会では、刃物も、刃物の安全な使い方も、刃物を自分で研ぐ技術も最早不要なのだ。不要になったものは評価されないし、捨てられて行く。それを取り戻す事はできないというよりも、その必要自体がなくなる。

 

 

ゾーニングは棲み分けにはならず、対象を傍流へと追いやる>

 

 キャンセルの手前にゾーニングというものがあるとして、自分がそれを今ひとつ信用できないのは、結局はそれが『対象を社会の隅に追いやる行為』なのではないかという疑念を持っているからだ。

 

 先に述べた様に、刃物については製造禁止とも販売禁止とも言わないが、『児童や生徒に不必要な刃物を持たせないようにする』『製造業者やメディアに自主的規制を要望する』というキャンセル=ゾーニングが行われた。

 

 その結果、子どもが刃物を持つ機会は減り、生活の中で刃物は不要なものになり、重要度が下がり、需要も減って行き、刃物文化は衰退した。

 ただ単に、子どもに刃物を持たせる事は危険なのではないか、犯罪を誘発しているのではないかという懸念で始めた運動、それも自主規制や指導といった法規制に至らないレベルのゾーニングの要求』で、ナイフは日本の刃物文化とともに傍流に追いやられた。

 

 結局、ゾーニングとは棲み分けでも共生でもない。

 

 ある『正しさ』によって、主流に置かれるべきではないとされたものは、ゾーニングによって社会の隅に追い詰められて行く。その『排除=キャンセル』を、ゾーニングという排除よりは優しく聞こえる言葉で周囲に納得させているだけだ。

 

 

<キャンセルの効果は検証されない>

 

 刃物追放運動後に行われた統計では、犯罪の減少など、一定の成果はあったとされている。ただそれは、刃物業界が受けた打撃(製造業者の廃業や労働者の解雇)、また刃物を使いこなす技術の喪失に見合った成果だったのだろうかという疑問は残る。

 

 また、記憶に新しい秋葉原無差別殺傷事件以後の銃刀法改正では、新たにダガーの所持が禁止されたが、ダガーの所持禁止が同種の事件の再発防止や、襲われた被害者が致命傷を負う様な事態を防止する観点でどれだけ有効だったのかという検証結果を、自分は寡聞にして知らない。

 

 秋葉原無差別殺傷事件以後にも大きな被害を出した無差別殺傷事件として、京都アニメーション放火殺人事件があるが、この時はガソリンを撒いて火をつけるという手段が取られ、以後ガソリンスタンドで携行缶にガソリンを給油する際の規制が強化されたものの、その後に発生した京王線刺傷事件では規制対象ではないライター用のオイルを大量に購入するという手段で電車内での放火が行われるなど、凶器となり得るものを規制する事によって犯罪を抑止する事がどれだけ可能なのかという点については検証が不十分だ。結果として犯罪者はどの様な手段を用いてでも加害を実行するのだから、その手段に対する規制の強化は大多数の人々に不便を強いるだけに終わっていないかという疑念も残る。

 

 そして、直接凶器として犯罪に結び付くナイフやガソリンといったものにまつわる規制でもその効果が検証できない(或いは規制そのものが回避される)のだから、『残酷描写のある作品を規制したら犯罪は減らせるか』『性的描写のある作品を規制したら性犯罪は減らせるか』という検証が成立するかどうかは疑問だ。

 

 ゾーニングやキャンセルは、ある目的のために対象を排除する。

 

 ただし前述の通り、その目的が達成されたかどうかの検証は、いつも不十分な形でしか行われない。そして検証が不十分だから、排除の見直しもできない。結果として一度排除されたものや強められた規制は、見直される事も緩められる事もなく継続して行く。

 

 だからこそ最初に述べた様に、『キャンセルされたものは取り戻せない』という事にも繋がって行く。

 

 

 さて、ここまで辛抱強く読んで頂けたとしても、恐らく自分がキャンセルカルチャーに対して持っている懸念については十分伝わらないだろうと思う。なぜならナイフや刃物文化は、それだけ今の日本では『取るに足らない』ものになってしまっているからだ。

 

 規制されても誰も困らない。このまま無くなっても不便を感じない。

 

 キャンセルされる、ゾーニングされるというのはそういう事だ。

 排除された結果、その存在は軽くなり、取るに足らないものという扱いを受ける様になる。

 

 「キャンセルされる様なものを大事にしているのが悪い」と、貴方は言えるだろうか。

 

 キャンセルされるものには理由がある。キャンセルされるべき瑕疵がある。危険だとか不道徳だとか、変化する社会の価値観や倫理観に対応できないとか。だからキャンセルされても仕方ない、諦めろと言えるだろうか。

 

 そう、その様に言えるからキャンセルやゾーニングが行われているのだ。

 

 でもここで最後に知っておいて欲しいのは、貴方が大事にしているものも、その意図があればキャンセルする事は今すぐにでも可能だという事だ。

 

 ある『正しさ』を基準に対象を『排除』するのがキャンセルカルチャーであるのなら、その『正しさ』に何を代入するかによってあらゆるものを排除する事ができる。

 

 厳しい環境基準という『正しさ』を用いればガソリン車を排除できる。

 子どもたちの健全育成という『正しさ』を用いればあらゆる表現を検閲できる。

 デモ活動や政権批判が国家の秩序を乱すという『正しさ』を用いれば今のロシアの様に抵抗勢力を締め出す事さえできる。

 

 自分達は『正しさ』を基軸にして、議論でも対話でもなく『キャンセル=排除』を行う事に慣れてしまう事ができる。次から次に『正しくないもの』を探し出し、正しい社会の実現のためにそれらを排除していく事が常態になってしまう。正しくないものを社会の中に残しておいてはならないという価値観に染まってしまう。

 

 そして最も恐ろしい事には、その『正しさ』は変わって行く。

 

 前回取り上げた『情況』の記事の中に、『東京音頭の波及力とキャンセル文化』という記事がある。あの東京音頭ですら、戦中戦後の価値観の変遷=変化する正しさに翻弄されたという記事だ。

 

 自分達が今キャンセルの基準にしている『正しさ』は、いつまで正しいのか。

 今自分が手にしている正しさで、目の前にあるものをキャンセルして良いのか。

 その判断は後悔に繋がらないのか。

 

 それをもう一度考えて欲しい。そして祈るべきだ。

 自分の大切にしているものが、誰かの正しさによって次にキャンセルされる事がありませんようにと。

キャンセルカルチャー=排除はより良い社会を作れるか

 

 

 『情況2022年 4月号』を興味があって、読んでみた。特集はキャンセルカルチャーについて。この問題について釈然としないものを感じている人、感じた事のある人は読んでみると良いかもしれない。

 

 キャンセルカルチャーという言葉について考えてみる時に、まあネット上でありがちな事ではあるのだけれど、語る人によって言葉の定義が結構曖昧で、また曖昧であるが故に複数の問題がごった煮になってしまっている気がする。

 その上、そこに絡んでいる諸問題、例えばポリティカル・コレクトネスやフェミニズムジェンダー論等が多数存在する事が、余計にこの問題をわかりにくくしているのではないかとも思う。

 

 本特集の冒頭、塩野谷恭輔氏の『キャンセル・カルチャー試論』の中で、同氏は『オックスフォード現代英英辞典』を引き、キャンセルカルチャーの定義を下記の様に引用している。

 

同意できない言動をとった人物に対して、人々がコミュニケーションを拒絶することで、その人物を社会生活や職業から排除すること。

 

 この定義通りであれば、話はもう少しシンプルだ。ただ、同氏は続けて以下の様にも述べている。

 

 また、管見の限りでは、排除されるのは対象となった人物だけでなく、しばしばその人物が関わった作品や周囲の人々にまで及ぶこともあるようだ。

 

 誰かがハラスメント等の問題を起こす。または差別発言をする。すると、その人物が関わった仕事、作品、出版物、その他諸々がキャンセルの対象になる。そして問題を起こした人物を擁護した人、価値観を共有すると思われる人、交友関係にある人等も同様に排除の対象になる。なぜなら上記の通り対象者とのコミュニケーションを拒絶する事、対象者を社会生活や職業から排除する事で、間違った価値観や倫理観(それを持つ人物や集団そのものを含む)を排除して、『正しい』価値観や倫理観によって構成される、より良い社会の実現を目指す事がキャンセルカルチャーという社会運動の目的だからだ。

 

 キャンセルカルチャーが『排除』をベースにしているというのは、この特集の原稿執筆者のひとりである藤崎剛人氏が、同じく原稿執筆者である山内雁琳氏を名指しして「山内雁琳に書かせるなどという暴挙」「もしも山内雁琳の文章が今号の『情況』に掲載されていたならば、私は『情況』の不買運動を呼びかけるつもりでいる」(その後藤崎氏は実際に自身のTwitter上で不買の呼び掛けを行った)等と書いている事で皮肉にも裏付けられている。

 

 ちなみに、その藤崎氏が寄せた原稿の題名は『キャンセルカルチャーは存在しない』であり、同氏はまたその冒頭で以下の様に述べている。

 

キャンセルカルチャーは存在しない。ただキャンセルされるべき者がいるだけである。差別やハラスメント、誹謗中傷の加害者はキャンセルされるべき人間である。しかし彼をキャンセルされるべき人間としたのはキャンセルカルチャーという文化ではない。差別者は文化のせいではなく自らの差別行為のせいでキャンセルされるのだ。何か悪しきことをした人間が、自分が批判されているのは自身の悪しき行為のせいではなく悪しき行為を批判する文化のせいだと言い出したら、ぞっとすることであろう。その人は全く罪の意識を覚えずに差別を行っていることになる。

 

 以下、記事中ではより強い言葉が、言ってしまえば糾弾が続く。

 

 自分は思う。確かにこの混沌とした社会の中から『間違ったもの』を排除して行き、『正しいもの』だけを手元に残して行けば、いつか正しいものだけで構成された『正しい社会』が出来上がるのではないかと考える人もいるだろう。でもその様に正しいものと間違ったものを切り分けていく者の『正しさ』は、一体誰が保証するのか。その判断が間違っていないという事を、どうやって納得させるのか。

 

 そしてそれ以上に、正しい社会の実現を目指す為の手段が『排除』をベースにしていて良いのか。

 

 確かにハラスメントは無くすべきだ。また人種にしろ性別にしろ、差別はない方がいい。誰に言われるまでもない。ただ、差別的だとされた人々と対話をするのでもなく、議論を交わすのでもなく、意見を交換するのでもなく、自らを『正しい側』だと認識している個人や集団がその力で相手を一方的に社会から排除して行くというやり方で、果たしてハラスメントや差別のない健全な社会は実現できるのか。

 

 間違ったものを排除して行けば、やがて正しい社会が出来上がるというのは、正しいようでいて、実は間違った方法論ではないか。

 

 藤崎氏の言う『キャンセルされるべき人間』という強い言葉に、自分は恐怖を抱く。なぜなら、自分がこれまで誰をも傷付けず、差別せず、間違わずに生きてきたなどと言える自信がないからだ。自分でも気付いていないだけで、自分は誰かを深く傷付けた過去を持っているかもしれない。いや、今この時も誰かを傷付けてしまっているかもしれない。

 

 自分は、『キャンセルされるべき人間』かもしれない。

 

 自分がキャンセルカルチャーと呼ばれる社会運動に感じる違和感とは、言ってみれば「なぜ彼等はそんなに自信があるのだろう」という事だ。そう、『自分が正しい』という事について。

 

「――ハラスメントは良くない事です」

「はい」

「人種差別は良くない事です」

「もちろん」

「性差による偏見や差別、加害も良くない」

「そうですね」

「良くない事、間違った事は社会にない方が良い」

「その通りかもしれません」

 

「――よろしい。でも貴方は、過去にこんな酷い発言をしていませんでしたか?」

 

 その『過去』は、5年前かもしれない。10年前かもしれない。もう覚えていないほど昔かもしれない。もしくは去年かもしれない。先月かもしれない。昨日かもしれない。

 

 キャンセルカルチャーによる批判には時効がない。

 

 昔は許されていたとか、時代が変わったとか、他の人だってやっていたとか、その場では誰からも咎められなかったなんていう言い訳をキャンセルカルチャーは許容しない。自分ですら忘れている様な過去の発言だって、SNSという地層を掘り返せばいくらでも発掘できるし第三者にだって発掘される。アカウントに鍵をかければいいってものでもないし、アカウントごと削除したってスクリーンショットだとかがどこかに保存されていないとも限らない。

 

 そんなつもりじゃなかったんですと言えば、どんなつもりだったんだと言われる。

 謝れば本心を疑われる。

 無視すれば一方的に断罪される。

 それも、一対一ではなく、一対多で。

 

 説明させる事が目的じゃない。対話が目的じゃない。価値観を改めさせる事が目的じゃない。改心させる事が目的じゃないし、更生させた上でもう一度社会に迎え入れる事が目的じゃない。ただ排除される。「こんな奴に二度と発言の場を与えるな」と平気で言われる。

 

 『排除』をベースにした社会運動というのはつまるところそういう事で、だからこそキャンセルカルチャーには危うさを感じる。そしてもうひとつ自分が疑問を抱くのは、そうした排除の要求に対して、『キャンセルされるべき人間』が所属する企業なり組織なりが、むしろ積極的に排除に加担して行く事だ。

 

 本人から辞意を伝えられて受理する場合もあれば、組織の側から引責辞任を求める場合もあるだろう。でもつまるところそれは単なる組織側のリスク管理に過ぎない様にも思う。批判の対象になっている個人を組織内部に抱えたままでいる事のリスク。任命責任や説明責任等を問われる事のリスク。適切な研修を受けさせる等、意識改革にかかる時間と経費。明らかに辞任なり辞職なり、いなくなってもらった方が楽だ。

 

 ただこれも、まだかろうじて理解できなくもないと思えるのは、その排除の対象が人間だからだ。

 

 個人の資質によっては、正直これから考え方をあらためるのは難しいだろうと感じる人もいるし、自身の差別的な価値観を変えられないまま社会の中で長く活動して来た人もいる。差別的な言動があったとしても社会的地位や実績のために見逃されて来てしまった様な人や、むしろ差別的な言動が組織の中で逆に評価されてしまった様な人もいる。そういった人々は、少なくとも社会的に責任のある地位や職責からはもう退いてもらうしかないのだ、後進に席を譲ってもらうしかないのだと言われてもまだ納得できるかもしれない。

 

 ただ問題は、キャンセルの対象が人間だけではない事だ。

 

 ある特定の表現や作品。それは漫画だったり小説だったり、映画だったりゲームだったり芸術だったりするが、その表現そのもの、またそれを内包する、あるジャンル全てが不健全だ、不道徳だ、差別的だとしてキャンセルの対象になる事がある。

 

 それはもう藤崎氏が言う様な『キャンセルされるべき人間』個人の過失、自己責任の領域を超えてしまっている。明らかにキャンセルを求める側が、ある一定の尺度を持って、許されるものと許されないもの、社会に残すべきものと排除すべきものをジャッジし始めているし、そのジャッジには『法の不遡及』の様な理念も存在しないから、今現在の価値観で過去の作品が不可とされたり、思わぬ所にまでキャンセルの手が伸びていたりする。

 

 そうしたある種の文化とも言える大きな対象にキャンセルを求める時、自分達はその『排除』がどんな意味を持ち、後の社会にどんな影響を及ぼすかという事を、正しく評価できているだろうか。その影響の大きさを見据えた上で、それでもキャンセルするべきだという覚悟をもって批判していると言えるだろうか。

 

 自分には、今行われているキャンセル、つまり『社会からの排除』の要求が、そこまで熟慮した上で行われている様には思えない時がある。むしろもっと反射的に、個人や集団の『不快』や『不安』という感情からキャンセルの要求が立ち上がっている様に思えてしまう。

 

 こうした事を書くと、「そんなに何も考えずにキャンセルを求めているなんて事はあり得ない」「キャンセルを求められる側に瑕疵がなければ、キャンセルされる事などない」とお叱りを受けるかもしれない。ただ自分は、批判される側に何ら落ち度がなくとも行われてしまったキャンセル=社会からの排除を知っているし、その影響について語る事もできる。そして一度排除されたものが再び社会に受容される事の困難さも知っている。だからこそ排除をベースにした社会活動には慎重であって欲しいと言っている。一度社会から排除されたものが戻って来る事はほぼないのだから。

 

 そのキャンセルとは何だったのか。その排除によって社会はそれ以前よりも良くなったのか。排除によって失われたものは何だったのか。排除や規制の強化はより良い社会の構築に寄与するのかという事を次回書いてみたいと思う。

 

 

 

ウクライナ侵攻でさえ『感動ポルノ』にする自分達の『卑しさ』

 貴方は、2日で100kmを歩いた事があるだろうか?

 

 自分はある。20年以上前、自分が高校生くらいの時だった。

 なぜ? とか、何のために? といった理由は無い。しいて言えば、当時の自分はボーイスカウトで、その活動の一環だったというだけだ。ボーイスカウトではこの活動を『100kmハイク』と言う。

 

 やり方は色々あるのだろうけれど、自分達の場合は、ハイキングに行く様な軽装で、携行食や飲料だけを持ち、ひたすら歩くというものだった。短い休憩や仮眠は挟むけれど、夜通し歩き続ける。昼から歩き始めて翌日の夜にようやく帰って来る。そんな行程だ。

 

 最初に電車で出発地点に行き、そこから徒歩で帰って来るという道程なので、家に帰る為にはひたすら歩かなければならない。途中で諦めて引き返すという選択肢は無い。なぜなら、歩き続ける事が家に帰る唯一の方法だからだ。

 

 何でそんな活動が伝統的に存在するのかは知らない。こっちが教えて欲しい。

 100km歩く事に意味があるかと言われれば、無い。

 まあ、達成感とか思い出作りとか心身を鍛えるとか、もっともらしい理由はいくらでも後付けできる。でも、本質的に言えば、本当に意味は無いのだと思う。

 

 なぜ今、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ながらこんな事を語りだすのかというと、この戦争が、本当なら意味なんてない100kmハイクの意味を考えるきっかけになってしまったからだ。

 

 

 自分は、戦争を知らない。

 

 

 もちろん、テレビでもネット上でも、毎日ウクライナ侵攻のニュースが流れている。でもそれをただ見る事が、戦争を知る事になるのかと言われれば、違うんじゃないかと思う。

 

 ネットニュースのコメント欄やSNSでは、連日匿名の有識者達が軍師にでもなったかの様に戦況分析をしたり、「自分も『その時』が来たら、きっと銃を手に国を守るんだ」なんていう勇ましい言葉を書き連ねてみたりしている。愛国心の素晴らしさを説き、感動に瞳を潤ませている。

 

 でもそれは、あくまでも『想像』だ。

 『想像』には、いつだって『願望』が入り交じる。

 

 日本ももっと軍備を整えなければならない。

 保有する兵器の近代化。不足する自衛隊員の確保と処遇改善。憲法改正。核保有

 妥当な要求もあるし、荒唐無稽なものもあるけれど、基本的には願望混じりの想像が膨れ上がって行く。

 

 それはなぜかというと、自分達が願望混じりの想像をベースに戦争を考えているからだ。

 

 敵(誰?)がどこかから攻めて来る。

 自分達はそれを迎え撃たなければならない。自衛隊が敗走し、劣勢になった政府は今のウクライナ同様、総動員令を発令する。18歳から60歳までの男性が国外に退避する事が禁じられる。そして、自分達に武器を取って戦えと命じる。

 自分達は家族を、祖国を守る為に愛国心を奮い立たせ、敵が迫る街で相手を待ち伏せる。ここで退く事は仲間や家族の死を意味するからだ。

 後方から援軍が到着するまでの数日。家族が退避するまでの半日。虐殺が始まるまでの数時間。その時間を、自分達が命を賭して稼がなければならない。

 

 

 ――そんな、勇ましい願望。

 

 

 そこにリアルはあるんだろうかって思う。

 戦争はそんなにヒロイックな物語だろうか。

 戦争なんて、きっともっとろくでもない。

 もっと意味なんて無い。意義も無い。身も蓋もない。

 そこで起きる死には、意味なんてきっと与えられない。

 

 

 じゃあ、戦争を願望ベースで想像して終わらないためにはどうすべきか。

 

 とりあえず、みんな今週末にでも100km歩いてみればいいんじゃないかって、自分は思う。つまらない極論だけどね。

 高校生、それも文系で体育嫌いで体力がない自分にだって出来た事だ。予定さえ組めば、誰にだって出来る。貴方にだって出来る。

 

 それで得られるリアルっていうのは、ただ『歩き通す』っていう事がどれだけ辛いかっていう実感だ。

 

 最初の10kmで辛くなる。

 20kmで歩き始めた事を後悔する。

 30kmで両足のふくらはぎはもうパンパンだ。

 40kmで靴の中の足はマメだらけ。それを針で潰しまくる。

 50kmで体力の限界を超える。まだ半分しか来ていない事に絶望する。

 60kmでもう休憩したくなくなる。座ったら立ち上がる自信が無いから。

 70kmで精神力も尽きかける。歩きながら意識が遠くなる。

 80kmで両足が自動的になる。歩いている実感が失せる。時間が飛ぶ。

 90kmで希望が見える。でも何もしていないのに鼻血が吹き出したりもする。

 100kmで力尽きる。座ったら立ち上がれない。2度とこんな事するもんかと心に誓う。

 

 ほら、ろくでもない。意味もない。止めておいた方がいい。

 『歩く』っていう基本動作を繰り返すだけで拷問じみてくる。

 

 でも『戦争』を前にして自分達がするべき覚悟っていうのは、結局こういう事なんじゃないだろうか?

 

 武器を手に戦う覚悟じゃなく、自分に敵が撃てるかなんていう心構えの問題でもない。

 愛国心と恐怖心、戦意と良心のせめぎ合いなんていう人間ドラマよりももっと手前。

 

 ――街が燃える。

 家は失った。もう帰る場所はない。どこまで行けば安全な場所に出られるのかも分からない。

 自動車の燃料は尽きた。自分で背負えない荷物は車と一緒に捨てて来た。

 情報は入って来ない。ラジオは沈黙しているし、噂は錯綜している。

 あと数日で敵が押し寄せて来るぞという話が聞こえたかと思えば、既に隣の市が陥落したという話も流れて来る。

 

 そんな中で、ただ生きるためだけに歩く。

 少しでも戦場から遠くへ。

 逃げる? いいや、生き延びるために。

 

 

 自分は、ただ歩くという事の辛さを実感として知っている。

 だから戦地から避難するために、人々が列をなして歩いている光景を見ると胸が締め付けられる。特に、小さい子どもが歩いている時には。

 

 高校生の自分が意味もなく100kmを歩き通す事ができたのは、それが家へと続く『帰路』だったからだ。間違いなく、そう思う。

 

 こんな嫌な事は、やがて終わるんだ。

 ゴールに辿り着けば。100kmを歩き通せば。

 途中、空き地で仮眠しなければならなかったとしても、家に着いたら風呂に入れる。柔らかい布団で眠れる。そういう保証があって歩く100kmなんて、ゴールできて当然だ。子どもの遊びみたいなもの。ただ両足を動かせばいい。嫌な事を少しの間だけ我慢すればいい。

 

 家に辿り着くまで。

 

 でもね、戦地から逃げて来る人々には、もう家はないんだよ。当たり前だけど。

 ゴールもない。目標も見えない。100km歩いた後で、更に100km歩け、1,000km歩けって言われる可能性だってある。

 

 それがどんなに酷い事か、自分には分かる。実際にマメをいくつも潰しながら100km歩き通した過去があるから。

 

 自動車もバイクも自転車もある世の中で、自分の脚で100km歩くなんて無意味な事だ。無駄な事だ。でもその無駄だったはずの事を経験したお陰で、自分は戦争にまつわる『勇ましい願望』の手前に、無意味で無駄な、身も蓋もない辛さがある事を知る事ができた。

 

 銃を取って戦う事を心配する前に、自分が歩けるかどうかを心配した方がいい。

 自分が歩けるかどうかを心配する前に、自分にとって大切な人々がゴールの見えない道を歩かされる事を心配した方がいい。想像の中で愛国心を奮い立たせる前に。

 

 今のウクライナの惨状を見て、それでも彼らの『愛国心』に感心する、感動できるって言うのなら、それはその人が見ているのが戦争という現実じゃなく、自分にとって都合が良い様に頭の中で再編集した『感動ポルノ』だからだ。悪い言い方をすればね。

 

 人間は都合が良いから、自分が望む物語に寄せて現実を『解釈』して行く。

 

 逃げずに戦う事の尊さとか、自己犠牲や献身を伴う愛国心の素晴らしさだけを頭の中で膨らませて行く。国のために、仲間のために殉じる事が『意義ある生』をもたらしてくれるんじゃないか。この自分の人生にも意味を与えてくれるんじゃないかなんて虫がいい事を考える。

 

 でも、実際に戦争というものがもたらすのは、きっと『マメを潰しながら歩く、無意味で無駄な道程』みたいな身も蓋もない辛さでしかないんだ。しかもそこには、ゴールがない。

 

 そういうものなんだって自分は思う。実感として。

 

 逃げられれば逃げるよ、皆。

 生きられるなら当然生きたいって思う。

 こんな辛いばっかりの戦争、さっさと止めろよって誰もが思ってる。自分で汗や血を流さないで済む指導者以外は。

 

 そこに『愛国心』的なポルノを求めて感動したいのは、自分達外野の勝手で、都合が良い解釈でしかない。それもまた、自分で汗や血を流さないで済むから出来る事だ。画面の向こう側で、無味無臭に漂白された情報だけを得られる自分達だから出来る事。

 

 でもそういう『意味付け』は、結局のところ『卑しさ』なんじゃないだろうか。

 

 意味なんてない事に、意味を後付けして行く。

 

 ただの苦痛は意味ある『受難』に。

 ただの死は国家や民族に対する『殉死』に。

 

 無意味な事には意味が与えられ、讃えられ、崇められ――利用される。

 

 そうした『卑しさ』が自分の中にもありはしないか。

 それを疑う事は必要なんだと思う。それがどんなに――歩く度に痛む、潰れたマメの様に――不快であったとしても。

批評すること、論じること、そして背中を押すこと・『ライトノベルの新潮流』を読む

 

 

 唐突ですが、実は自分はライトノベルを読む人』だったのです。昔は。

 

 なぜ『昔は』と言わなければならないかというと、今はそれほど読めていないんですよね。決して「ライトノベルが嫌いになった」とか「最近のライトノベルは面白くない! 自分が若い頃はもっとこう――」みたいな事を言いたい訳ではないんですが、「毎月新刊を買い、折り込みの小冊子で来月の新刊をチェックして、発売日には必ず書店に行く」様な熱量のある読者ではなくなってしまいました。それは本読み界隈でたまに言われる作品の内容や質の問題ではなく、単純に自分の中での変化です。

 

 そんな自分ですが、趣味で『本の感想を書く』という事をずっとやっています。これも最近は滞りがちで、「感想書きです!」と声を大にして言える程のものではないですが、自分にとって『本を読む事』と『感想を書く事』は繋がっていて、どうしても書きたくなってしまうのです。不思議なもので。下記は自分の感想置き場になっているブログです。

 

dogbtm.blog54.fc2.com

 自分の友人には、自分の10倍はライトノベルを読んでいる奴がいて、一緒に書店に行く時など「それ本当に全部読むのか」という程買い込むので、隣にいる自分は目を白黒させてしまうのですが、彼には『書く』という欲求はあまり無いらしく、感想を書くとか、SNSで呟くとかいう事は一切しません。というかSNS自体を一切使っていません。本との向き合い方は、人それぞれです。

 

 ただ、自分は『感想を書く』側の人間だから思うのですが、『個人の感想』と『書評』は違うものだし、どんなに熱を込めて書いた『感想』であっても、それだけでは『批評』や『論』としての強度を持ち得ないという事には自覚的であるべきだと考えています。

 

 何かを『批評する』或いは『論じる』ためには、専門性が要求されるのはもちろんですが、その専門性のベースというのは、ライトノベルで言えば『網羅的に読む』という事でしか得られないですし、そこで得たものを自分の中で整理する事も求められます。言葉にすると一言ですが、それは大変な事です。図書館司書や博物館学芸員と同等以上の専門知識がまず求められます。そして自分は、それ以上に大事な事があると思いますが、こちらは後述します。

 

 まず、専門性についてですが、自分がやっている『感想』と、本著が成功させているライトノベル論』『ライトノベル史の整理』というものが根本的に異なるのは誰でも分かると思います。作品単体と向き合う事と、その作品の周辺にも広く目を向けて、ライトノベルというジャンル全体の中での位置付けや、一般文芸も含む業界全体の中での評価や位置付けを明確に『論じて行く』事は、その労力や必要とされる知識量がまるで違います。自分の様に個人で、自分が好きな作品だけと向き合うというやり方では、全体を俯瞰する視点は得られない訳です。自分の手の届く範囲の、自分が興味を持てる範囲の作品だけを読み、そこからジャンル全体を語ろうとすれば、それは作品論でも何でもなく『雑語り』になります。

 

 誤解がない様に言っておくと、自分は『感想』と『論』の間に優劣を付けようとは思いません。知識に裏打ちされた『論』にのみ価値があり、『感想』に価値がないという話ではないのです。『雑語り』にしても、書き手と読み手の間に「これはあくまでも雑語りの範疇なんだけど」という共通認識があれば、その雑な語りで盛り上がるのも楽しい事だったりします。

 自分が気を付けなければならないと思っているのは、自分の中の『感想』や『雑語り』を、あたかも『論』であるかの様に語ってしまいたくなる事が書き手にはあるという事です。自分にも、それはあります。

 

 自分に見えている景色が、他者にとっても正しいものだと思いたい。自分が書いたものを高く評価されたい。肯定的に受け止めてもらいたい。そういう『欲』は、どうしてもあります。だって『書く事』って、大変じゃないですか、実際。自分の頭で考えている事がだらだらっと勝手に文字になって出力されてくる訳じゃないんだから。自分が考えている事を、自分の中の想いを捕まえて、整理して、文章に落とし込んで行くのは骨が折れる事なんですから。

 

 それが正しいものであって欲しい。他者から認められるものであって欲しい。

 

 そういう『欲』は、常にまとわりついて来るんです。

 だから自分は、ある意味自覚的に「自分は『感想書き』だから」と自分自身に言い聞かせる事にしています。評論家でも専門家でもなく。まあ、たまに忘れるんですけど、それでも自戒を込めて。

 そして特に気を付けなければならないのは、自分がある作品を読んでネガティブな感想を持った時に、その自分の感想や価値観で作品をジャッジしないという事かなとも思います。自分個人の好みを、その作品へのネガな評価を正当化するためのものさしとして扱わない事。その時点での、自分の中のネガな部分を正しいものとしていつまでも残しておかない事。だって自分自身の価値観だって、時が経てば変わって行くのだから。

 

 そういう自分の中の『感想』という移ろいやすいものと、裏付けのある『論』というものを一緒にしてはいけないのだと知っておく必要があります。そして本著は正しく『ライトノベル論』であり、『ライトノベル史』です。そこにある差を(優劣ではなく)再確認できた事は、本著が優れた『論』である事の証左だと思います。

 

 そして前述した『専門知識以上に大事な事』についてですが、自分はそれを『論じる対象に対する肯定感』だと思っています。ライトノベルであれば、個々の作品に対する読者としての好みや評価とは別に、ライトノベルというジャンルを肯定し、その発展を願ってくれているかどうかという事です。

 

 あくまでも個人的な体験の範疇で申し訳ないのですが、最近は『対象を否定するための論』を見る事が増えた気がしていました。

 

 文章を書く事に慣れている方には自明の事だと思うのですが、最初に対象を否定する事を決めて論拠を積み上げて行く事は可能です。平たく言えば「これはダメだ」と言うために、対象のダメな部分を探して、否定的に論じて行く。より過激に、より刺激的に。そういう『強い言葉』で論じる方が、より耳目を集めるという事があります。反論が集まる事も織り込み済みで、より人々の関心を集める事に特化した文章、言ってみれば『煽り』を含んだ文章を意図的に書いて行く。そして、そうした文章が求められる。

 個人的な感想ですが、自分は正直そうした『強い言葉』を目にする事に疲れてしまいました。

 

 刺激的な言葉を含んだ文章、特に強い否定を含んだ文章は、それを読む人の心を殴り付けます。より強い力で肩を叩く事で、対象を振り向かせる力がある。でもそれは、少なからず相手を傷付けます。肩を叩いて振り向かせるつもりの強い言葉が、相手の胸に突き刺さる事がある。相手に痛みを与えてしまう事がある。心を砕く事さえある。

 言葉を扱っている人が、その『強い言葉』の問題点に気付いていないという事はあり得ないだろうと自分は思っています。でも、知っていてなお、そうした強い言葉が使われる。なぜなら強い言葉は有効だから。より注目されるために。より支持を得るために。

 

 本著には、そういう強い言葉がありません。

 悪く言えば地味です。(ごめんなさい)でもそれは、本著の美点であると自分は思います。淡々と、ライトノベル史が語られ、ライトノベルの今とこれからの展望が綴られる。自分の様な人間にとっては懐かしい部分もあり、知らなかった『今』がある。そして将来的にはライトノベルというジャンルが盛り上がって行く事が願われている。

 

 こうした健全な言葉が、強い言葉を伴わない文章がもっと注目されて欲しい。そう自分は思います。ライトノベルサブカルチャーの分野だけではなく、あらゆる分野において。そして、できればそうした言葉によって何かが論じられる時、そこには今よりも、より良い将来を求める『祈り』があって欲しい。誰かの背中を押してくれるような力が込められていて欲しい。大袈裟かもしれませんが、自分はそう願っています。

 

 

物語に向き合えなくなった、ある本読みの話

 物語に向き合う力が、無くなったのだと思います。

 

 ひとつの物語を、その始まりから終わりまで追い続けるという事が出来なくなりました。それはライトノベルや漫画で言えば、1巻から最終巻まで読み続ける事ができなくなったという事だし、アニメやドラマなら第1話から最終話まで見る事が出来なくなったという事です。

 

 単純に『飽きた』とか『作品が自分の好みに合わなくなった』という事ではありません。1巻を読んでとても気に入った作品、続きを心待ちにしていた筈の作品でもそうです。続巻に手を伸ばす事が出来なくなりました。

 

 なら、小説の単行本の様に1冊で完結する物語だったらどうかというと、漫画ならかろうじて読み切れる程度、小説ならばそれでも持て余して途中で読むのを止めてしまう有様です。短編集も、収録作の全てを読み切るという事ができません。だから、巷で『鬼滅の刃』が大ヒットして盛り上がっていた時も、自分は原作を読もうとか、アニメを見ようとはしませんでした。途中で投げ出してしまうだろう事が最初から分かっていたからです。それは原作が面白いかどうかとは全く関係ない、受け手である自分自身の問題です。

 

 いつからそうなったのか、確かな記憶はありません。

 気付いたらこうなっていて、自分にとってはそれが凄くショックでした。

 原因は、自分でも分かりません。

 

 40代前半になって、今まで出来ていた事、それも自分では得意な方だとか、好きだとか思っていた事が出来なくなってしまった事を認めたくありませんでした。自分にとって数少ない取り柄を失ってしまう事は、杖を突く事でやっと歩いている時にそれを奪われてしまう様な不安感があります。

 

 これを失ったら、自分はどうなってしまうんだろうって。

 

 最近、ライトノベル原作のアニメが何作品か放送されています。自分はその原作を読んだ事があります。でも、途中までです。1巻か、2、3巻まで。それ以上追い切れなかった作品が評価されて、アニメになって、でも自分はそれを見ようとか、原作をもう一度追いかけようとは思えないんです。物語に向き合う為の熱量が足りない。

 

 最初は、これではまずいなと思って色々考えたりもしました。でも最近は現状に慣れてきてしまったのか、何か行動を起こそうという意欲も無くなりつつありました。丁度、コロナ禍で自由に外出や外食が出来ない生活に慣れてしまう様に。自分は今ではもう、昔なら必ずチェックしていた美術館や博物館の特別展の情報から目を背ける様になりました。どうせ行けないと分かっているのに、それらに目を向けるのは辛いからです。自分の職場は、福祉関係という仕事柄、県外への外出ができません。今は少し感染者数の増加傾向が落ち着いているので、頼み込めば許可は取れそうな気もしますが、それで何かあった時の事を考えるとやはり二の足を踏んでしまいます。そんな事をしている間に、県外に出られない生活が『普通』になって、自分の世界は以前よりも少し狭くなりました。

 

 不思議なもので、その狭くなった世界を窮屈だと感じる事も、次第に少なくなって行った気がします。その狭さ、窮屈さに自分自身が慣れてしまうのかもしれません。

 

 でも、『このまま本を読まなくなってしまうのか』と思うと、それはそれで胸の奥の方がチクチクとします。

 

 作家なら、『筆を折る』という言葉があります。でも読者の側には、本から離れる事を意味する言葉があるでしょうか? 栞を挟む? 本を伏せる? でも本を伏せておくと傷んでしまうから駄目だなぁとか、どうでもいい事ばかり思い浮かびます。でも胸のチクチクは消える事がありません。

 

 読みたい本が無くなったという訳でもなく、実物の本にしろ電子書籍にしろ、未読のまま積み上げてしまった本は数多くあります。途中まで読んで、最後まで読み切る事を断念してしまった本もあります。それはどこか自分の中で『宿題』の様になっていて、そのままにしておくのは物語に対して誠実な態度ではない気がします。

 

 だったら、自分はどうするべきか。

 

 色々と考えてみましたが、結局答えは見付かりませんでした。どこに正解があるのかも分かりません。ただひとつ試してみたい事があり、しばらくの間、Twitterから離れてみる事にしました。

 

 もともと自分はあまりSNSを活用しない人間なのですが、様々な人が自分の意見を述べ合う場としてのSNSは好きでした。自分とは異なる意見や視点が存在する事を気付かせてくれるものとして、助けになった事は数多くあります。ただ、『自分と同じ意見や価値観を持つ人々を選んで繋がる』という使い方をせず、『様々な意見が飛び交う場所』としてSNSを使っていると、やはり価値観が異なる者同士、意見の対立が起きます。その発言内容は先鋭化、過激化して行き、強い言葉に感情を揺さぶられて疲弊する事も多くなりました。

 

 SNS上では、個々のユーザーは平等な様でいて、そこには明確な格差があります。それは『声の大きさ』だと自分は思います。影響力≒フォロワーの数がそうです。大統領や総理大臣、芸能人や著名人、そんな人達と一般のユーザーが同じ『1アカウント』を使って交流するのがSNSですが、その1アカウントが社会に対して与える影響は同じではありません。当然の事ながら、そこには各々が行使できる影響力の差、『声の大きさの違い』が存在します。現実と同じですね。

 

 声の大きな人が発した一声は、自分の様な『声が小さい』発言者の言葉をかき消します。そして、そうした声の大きさを持っている人の言葉は、往々にして断定的で、異論や反論を許さないものです。「~かもしれない」と言うよりも、「~だ」と言い切る事ができる者に人は付いて行きます。その発言の正しさによらず。誰とは言いませんが、著名人に断定口調が多いのも偶然ではないのでしょう。

 

 本来、何かの問題について『話し合う』時、誰が正しいのか、何が正しいのかという事は容易に切り分けられるものではないのだと思います。AさんとBさんがいれば、Aさんが100%正しいという事もなければ、Bさんが100%間違っているという事もない。それぞれに至らない部分があり、気付いていない事柄があり、見えていない視界がある。それらを持ち寄る事で、よりよい結果を導き出そうとする事、それが『話し合い』である筈でした。

 

 でも今は『論破』がもてはやされる時代です。

 

 自分の正しさを相手にぶつけ、相手の粗探しをして矛盾を突き、相手の考えを潰して自分の考えを押し通す事ができる者が有能だという事になりました。そういう人物のもとに人が集まる様になりました。そして数多くの賛同者を得たその人が、『大きな声≒影響力』を手に入れる様になりました。

 

 極論すれば、SNSというのはそうした『声の大きさ』を持った人々の為の世界です。そこに自分の居場所はない様に思えます。自分の正しさを疑う事、相手の言葉の中に自分にはないものを見出そうとする事は、相手が発する鋭く硬い、自信に満ちた言葉、その『正しさ』によって柔らかい部分を突かれる事を覚悟しなければならないという事でもあります。

 

 それが嫌なら、柔らかな感受性を硬い殻で覆って行く様な生き方が求められるのかもしれません。よく言えば動じない、強い心を持つ事。悪く言えば、頑なな心のあり方を良しとする事。人為的に不感症になろうとする事。

 

 そしてその生き方は、『物語に向き合う』には合わないものの様に思えます。

 

 物語というのはそれが発表された時点で、開かれたものです。作者が描いた世界は読者によって受け止められ、様々に変化します。作者が描いた物語や価値観だけが『正解』ではない。ひとりひとりの読者の胸の中に、それぞれが想像する物語の世界があり、登場人物に対する思いがあり、その中から何を自分のものとして持ち帰るかが委ねられている。同じ本を読んだとしても、それによって何を思うかは読者によって異なる様に、正解などない、正しい答えなどないというのが物語の良さなのではないかと自分は思うのです。

 

 現実の世界でも、それは同じはずだと思って自分は生きて来ました。物事の正解は容易には見付からないし、仮に見付けたとしてもそれは刻一刻と形を変えて行く。そういう不確かな世界で生きている自分達にとって、様々な可能性を示唆し、気付きを与え、まだ到達していない視点から見える景色を与えてくれるものが物語である様に自分には思えます。

 

 そして、それと向き合えない自分がいるという事は、それだけ自分自身が変化を受け入れられず、自分自身が変わる事や、この世界が、社会が良い方向に変わり得るのだという可能性を信じられなくなっているという事なのかもしれないと思います。

 

 自分ごときが何をやっても、何を言っても無駄だという諦め。それに囚われた時に、物語が見せる可能性を信じる事は難しくなります。言ってしまえば全ての物語は、それが創作である限り絵空事です。そこで描かれる希望はご都合主義の産物かもしれない。嘘かもしれないし、本当は無価値なものかもしれない。

 

 でも、それを――物語を信じてみるという事が、『物語に向き合う』という事なのだとすれば、それは、この世界で物語と呼ばれているものは、すなわち『人の願い』でもあるという事ではないでしょうか。

 

 そして『願い』とは、『祈り』でもあります。

 

 何かを願う事を、祈る事を止めてしまっても良いのか。

 それが、自分が本を読む事を諦め切れない理由なのかもしれません。それは無駄な事かもしれないし、祈りは届く保証なんてないものです。でも、それでいい様な気もします。そもそも人が生きて行く事にしたって、成功が保証されているものではないのだし。

 

 と、ここまで書いたところで、結論には至らないのですが。

 

 だったら、自分はどうしたいんだろうという事を、今これから考えてみようと思います。自分の中に、もう一度物語に向き合ってみようという想いが持てるのかどうか。可能性というものをもう一度信じてみるつもりがあるのかどうか。正直まったく分かりません。

 

 SNSにしても、また帰って来るかもしれません。でも、もう二度と戻って来ないかもしれません。どっちに転ぶかは自分でも分かりません。もう諦めた方が楽な様にも思えるし、それでは寂しいとも思えます。だから少し、距離を置く事にしました。

 

 『さようなら』と言うのも『また今度』と言うのも何か違う気がします。約束できる事は何もないですし。だから何だか締まらないけれど、今日はここまでです。

 

 明日はどうなるかなんて、自分でも分かりません。

東京オリンピックとスケボーと『価値あるものだけが欲しい』社会

 久し振りに何か書こうと思いまして。ちなみに『正解』らしきものは自分でもまだ見えていませんので、これから先に書く事はあくまでも自分の『意見』だと思って下さい。

 

 さて、東京オリンピックパラリンピックも終わりましたね。『無事』終わったかどうかは意見が分かれる所だと思いますが。で、やっぱりスポーツの世界ではオリンピックの影響って凄いみたいで、「オリンピックを見て自分も始めました!」っていう方も結構いるらしいです。

 

 その中でも新種目のスケートボードでは男子ストリートで堀米雄斗選手が金メダル、更に女子ストリートでは西矢椛選手が金、中山楓奈選手が銅、そして女子パークで四十住さくら選手が金、開心那選手が銀と日本勢が大活躍しました。

 

sports.nhk.or.jp

 元々スケートボードがオリンピックの新種目に選ばれた辺りから、日本国内でも注目度は高くなり、スケボー関連の用品が品薄になる程売れ始めていたらしいのですが、メダルラッシュになった事で更に売れ行きは伸びた事でしょう。そういう力が、オリンピックにはあります。良くも悪くも。

 

 で、何を思ったか、自分も買ったんですスケボー。それも40代のオッサンが。まだ乗れないし、これから先乗れる様になるのかどうかも実際怪しいんですけど。

 

 自分はスケボーがオリンピックの種目になった事も知らなかったし、オリンピック自体はテレビ観戦すらしない程スポーツに興味がない人間です。コロナの件があろうがなかろうが、自国開催だろうが何だろうがその姿勢は変わりません。

 

 元々、中学の時は体育の成績で『1』を付けられるくらい運動神経もアレで、(筆記試験の点数だけではフォローできない程実技が壊滅的だと言われた)陸上競技から球技、水泳その他、スポーツと名が付くありとあらゆるものに対して苦手意識があり、実際まともにできた試しがないです。逆上がりも回れないし、泳いでいる姿なんか溺れているのかと勘違いされるレベルです。唯一、スキーの初心者コースだったら何とか滑れなくもない程度ですね。それも最後に行ったのは10年以上前だと思いますが。

 

 そういう人間がムラサキスポーツ等の通販でパーツ買ってスケボーを自分で組む(セットアップって言うらしいです)くらいにオリンピックは影響力があるんだぜ、という話かというと、実はこれが全く逆の話で、自分は未だにメダルを取った日本人選手の競技映像も見ていないし、世界レベルの選手の凄さみたいなものもよく分かってません。練習したからといって自分が乗れるようになるとも思ってません。

 

 じゃあ何で中年のオッサンが乗れもしないスケボーを触ってみようと思ったのかと言うと、なんとなく日本のスケーターのこれからと、オタク文化のこれからが重なって見えてしまったからです。何より、実際に自分で触ってもみないで外からあれこれ言うのはスケートボード文化に対して失礼ですから。

 

 さて、スケーターとオタクってそんなに共通点無いだろ、と思われるかもしれませんね。実際、ちょっとダボッとしたDickiesの874を履いて、足元はスケートボード用のシューズ(スケシュー)で固め、ラフなスタイルでストリートを活動の場にしているスケーターと、ちょっと前ならアキバ系とか言われた様な典型的インドア派のオタクってある意味対極に見えるかもしれません。でも実は、今はなき秋葉原の駅前広場が有名なスケボースポットだった事もありますし、何より自分には、こうしたスケボーやオタク文化に対する日本人(特に多数派の人々)の『都合の良い姿勢』と、それによる両者の扱われ方ってそっくりだなと思えるんです。

 

 ここからは順を追って説明します。

 自分がスケボーに興味を持ったきっかけは、『オリンピックで金メダルを取った事で、もうスケボーはストリートでは出来なくなるかもしれない』という話を聞いたからです。

 

 スケボーをする場所って基本的には『ストリート』と言われる位なので路上や公園、駐車場等なんですが、今は屋外、屋内ともにスケートボードパーク』と呼ばれる専用の場所も出来てきました。周囲をフェンスで囲ってあって、地面はコンクリート等で舗装され、中には競技用のセクションが置かれていて、ちゃんとヘルメットを着用した上で安全に配慮して遊んで下さい的な場所です。後はスノーボードで言うハーフパイプみたいなU字型のミニランプが置いてある所とか。

 

 パークが整備されるのは良い事です。それは業界内部にいる方々の地道な努力や、オリンピック種目になった事などが追い風になって進んで来た『良い流れ』です。スケーターが怪我をしたり、逆に歩行者等を怪我させたりする心配がない場所で練習ができる環境が全国に増えて行くのは望ましい事ですし、スポーツとしてのスケボーがより発展して行く上での拠点にもなります。ただ一方で、町中を自由に滑る移動手段としてのスケボーにとって、『パークの中だけがスケボーをして良い場所』になってしまう事は、自由を失う事でもあります。

 

 現在の日本の道路交通法的に言うと、スケボーは「必ずしも『公道禁止』ではない」というのが正解です。道路交通法第七十六条第4の三では、以下の様に記載されています。

 

第七十六条  何人も、信号機若しくは道路標識等又はこれらに類似する工作物若しくは物件をみだりに設置してはならない。

(中略)

4   何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

(中略)

三  交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

 

 この『交通のひんぱんな道路』というのが、どの程度の交通量の事を言うのかという問題もあり、過去の判例では『1時間あたり、原付30台、自転車30台、歩行者20名程度の場合は、交通のひんぱんな場所とはいえない』というものがあるそうですが、問題はそこではなく、スケボーは日本では『遊び道具』であって、自転車等の軽車両の様な『移動手段』としては認められていないという事です。そもそもブレーキも付いていない様なものを、公道を走行する移動手段として認められない、という事でしょう。逆に最近話題の電動キックスケーター等は、ナンバーを取得して原付バイクと同じ扱いにすれば合法的に公道を走る事もできますが、スケボーで公道を滑れば、明確な基準が存在しない以上、それを見た警察官の判断次第で即座に取り締まりの対象になるという事です。

 

 海外でスケボーが道路交通法的にどんな扱いを受けているのかは分かりませんが、『クルージング』という移動手段としてのスケボーの楽しみ方があり、クルーザーと呼ばれるクルージングに適したスケボーの形があります。中には『Penny(ペニー)』の様に、ビーチの脇の舗装路をサンダル履きとか、何なら素足で乗っちゃう様なスケボーもあります。

 

pennyskateboardsjapan.com

 

 ですが、日本で本当にスケボーをストリートでやろうと思ったら、それは常に「道交法違反の可能性がある中で、自己判断で乗る」事を意味します。だからオリンピックでメダルを取る様な選手は、過去にストリートで滑っていた動画があれば、今後炎上の火種になりかねないそれらの動画を消し、少なくとも日本国内ではもう公道でスケボーに乗らない様にするしかないんじゃない? というのが今の流れです。

 

 ちゃんとスポーツ化して、少しでも違法性がありそうな事はせず、周囲に迷惑を掛けたり批判されたりする事がない様に、パークの中で行儀よくしている事。自分ではスケボーをしない、スケーターではない大多数の人々がこれからのスケーターに求めて行くのはそういう事です。それを今ストリートにいるスケーター達がどう受け止めて行くかという事でもあります。

 

 そしてそれは、スケボーの文化だけではなく、オタク文化にも求められている事です。

 

 オリンピックに関連して、安倍前首相がマリオのコスプレで登場したり、オリンピック開会式のBGMがゲームミュージックだったり、『クールジャパン』とか言われる中で、アニメ、漫画、ゲーム等のオタク文化『日本が世界に誇る文化芸術』であるかの様に位置付けられ、積極的にPRされて来ました。日陰者がいつの間にか陽のあたる場所に引っ張り出された様な感じです。でも、そうしてクールジャパン的な事をアピールしたい人達が評価してくれるオタク文化は、全体から見ればほんの一部分でしかありません。

 

 例えばアニメ映画なら、宮崎アニメの様なもの。宮崎駿新海誠細田守、最近では庵野秀明監督作品もその中に入るかもしれませんが、そういう『陽のあたる場所に出しても恥ずかしくない作品』だけを世間は評価します。漫画でもゲームでもコスプレでも同じ事です。

 

 そこではエログロに代表される様な『困った奴ら』『存在しないもの』として扱われます。例えばコスプレなら、外国のオタクが日本のアニメキャラに扮して「日本文化大好き!」みたいに言ってくれるタイプのコスプレは『良いコスプレ』であり、国会議員や地方自治体の長もそれに乗っかって慣れないコスプレをしたりしますが、『性的なプレイ』の方に近いコスプレや、『軍装マニア』みたいな一歩間違えたら思想的にヤバそうな『困った奴ら』は歓迎されないどころか無視され、場合によっては批判されます。

 

 本来はそうした『困った奴ら』も含んでいるからこそ成り立って来た文化というものがある訳です。でも、世の中が求めているのは、そうした文化全体がある事によって生み出された『成果物』だけです。

 

 それはスケボーならスポーツとしてのスケボーであり、日本人選手のメダルであり、オタク文化ならその中でも対外的に恥ずかしくないものです。一方でストリートにいるスケーターは、恐らく今現在も「スケボーを持ち歩いていた」というだけで警察官から職務質問を受け、デッキテープを切る為のカッターナイフやスケボーをメンテナンスする為の工具を持っていた事が原因で銃刀法違反で取り締まられたり、公道でのクルージングを咎められたり、公園や駐車場からキックアウト(追い出される事)されたりしています。オタクに関しては言わずもがなです。

 

 自分は「それってズルくね?」って、ちょっと思ってしまう訳です。

 

「オリンピック、新種目のスケートボードで日本人選手が金メダルです!」って喜ぶ一方で、ストリートにいるスケーターを狙い撃ちする様に職質したり、「日本のオタク文化良いですね! 海外でも大人気ですね!」って言いながら、エログロでもBLみたいなものでも、対外的に恥ずかしいコンテンツに対する評価は無視し、むしろ規制したりする姿勢。それって外野から「美味しいところだけをつまみ食いされてる」みたいな、「文化全体から上澄みの綺麗な所だけ吸い取られてる」みたいなズルさを感じる訳です。

 

 じゃあ、文化全体を評価するならスケーターがどこを滑ってようが不問にしろとか、オタクやクリエイターが何してようが規制をするなと言いたいのかというと、そんなものはただの『無法地帯』な訳で、あり得ない事だとは思います。ただ、横から美味しい所だけをつまみ食いするんじゃなくて、そういう『ダメな部分』が社会の中である程度許容されて来たからこそ今現在の成果があるんだっていう事はもう少し知られても良いし、その文化の裾野の方に困った部分があって、そういった文化に馴染みがない人達との間ではお互いに配慮が必要だよねっていう前提の中で、スケーターやオタクが何もしてこなかった訳じゃないっていう事はもう少し認められて良いと思います。それが「スケボースポットとして使わせてもらってる場所のゴミくらいは自分達で拾っておこう」とか、「外に出すとひんしゅくを買うだろうコンテンツは内々で楽しむに留めておこう」といった、ささいな気遣いに過ぎないものだったとしても。

 

 どんな文化にもそれを育むのに必要な『土壌』があって、そこに種を蒔くから実がなる訳ですが、もしかするとその土壌の中には肥やしみたいに臭いものもあるかもしれない。でもそれを取り除いてしまった土から花が咲く事は多分無いし、ましてや金メダリストみたいな実がなる事は無いんだろうなと自分は思う訳です。だったら自分達も「臭かろうが何だろうが作物を実らせる為に我慢しろ」と開き直るのでもなく、「臭いものは臭いんだから近くに寄るな。実だけをよこせ」と言うのでもない互いの立ち位置を探して行かなければならないんじゃないかと思うのです。それがある特定の文化や社会全体を『豊かにする』という事なのではないでしょうか。

 

 残念ながら、現在の日本は『価値あるものだけが欲しい』社会になっているし、臭いものは遠ざけられ、目先の価値を産まないものは切り捨てられる社会になってしまっていますが、それを続けて行った先に、どれだけ価値あるものを実らせる土壌が残って行くかは微妙な所だと思います。

 必要なのは対話と協調と歩み寄り、そしてある種の寛容さであって、それがないのなら、後は緩やかにこれまでの遺産を食い潰しながら衰退して行く道があるだけではないでしょうか。

 

 これが現時点での『正解』ではない、自分の『意見』です。

 

 そして個人的には、せっかくスケボーを組んだ訳なので、せめてプッシュ(片足をスケボーの上に載せて、反対の足で地面を蹴って前に進むやつ)はできる様にしたいなと思います。今はデッキの上に立つだけでもちょっと怪しいレベルですが。

 

 どちらも、今後の課題は山積の様です。

小山田圭吾氏の『障がい者いじめ』問題と、これからの障がい者の自立支援について

 

kuroinu2501.hatenablog.com

  先日、こんな記事を書いたばかりですが、今度は東京オリンピックの開会式に作曲担当として参加しているミュージシャンの小山田圭吾氏が、過去に雑誌のインタビューで障がい者をいじめていた』事を告白していた事が報じられ、その内容からいじめに対する反省や謝罪の意志が読み取れなかった事から炎上、その後Cornelius名義の公式Twitterアカウントで謝罪という事になったそうですね。

 

 

 

 この『いじめ』という言葉は厄介で、「たとえ善悪の分別がない未熟な子どもがした事だとしても、その悪質さを考えれば『傷害罪』『殺人未遂』等の、もっと重い言葉で伝えるべきだ」という意見もあります。いじめ以外にも「セクハラじゃなくて性的暴行だろ」とか、繰り返し語られたりもします。自分もどうするべきか悩みましたが、ここではあえて『いじめ』と呼ぶ事にします。

 

 小山田氏の『いじめ』は、障がい者だけではなく、朝鮮学校から転校してきたクラスメイトに対する『いじり』(というか嘲笑)もあった様で、それだって相手からしたらいじめの一種だったかもしれないと思う訳です。その詳細を記した記事を読んだのですが、正直暗い気持ちになりました。

 

 

koritsumuen.hatenablog.com

koritsumuen.hatenablog.com

  今現在、小山田氏本人が、自分の過去のいじめ行為を反省しているのかどうか。それはTwitter上の謝罪文を読んだだけでは分かりません。今回炎上したから急いで形だけ謝ったのか、それとも過去の雑誌インタビューの時点では笑い話として語ってしまった自身のいじめ行為を、今は心から申し訳ないと思っているのか。そんな事は直接彼を知る人でなければ判断ができないでしょう。

 また、オリンピック・パラリンピックに関わる人として、こうした経歴を持っている人物を起用する事が容認されるのかどうか。それもまた、彼に仕事を依頼した責任者の判断です。

 

 自分は彼の仕事や音楽については全く知りません。Corneliusの音楽をちゃんと聴いた事がないし、問題の雑誌インタビューが載った90年代のサブカルチャーや音楽シーンに詳しい訳でもない。だから彼が今オリンピック開会式に使用される楽曲に関わる事が許されるべきかという判断はできない気がしますし、「90年代のサブカルには、ああいういじめを武勇伝やエンタメの様に語ってしまう空気があったよね(だから仕方がない事だよね)」という様な雑な振り返り方もできないと思います。

 

 確かなのは、きっと当時いじめられた側の人達は、何十年経っても自分がされた事を忘れる事はないだろうという事です。自分をいじめた相手を許すとか、許さないとかいう以前の問題として。大便を食べさせられるとか、自慰を強制される様ないじめを忘れるのは無理だと思います。

 

 その上で今、社会福祉法人障がい者福祉の仕事をしている自分から見て、この件で何か言うべき事があるだろうかと考えました。

 

 真っ先に思い付くのは、小山田氏のいじめ行為を非難する事です。

 

 養護学校に通うダウン症の人達の顔付きを見て笑いものにしたり、跳び箱の中に閉じ込めたり、障がい故の行動を観察して面白がったり、下半身を露出させて校内を歩かせたり、そういったいじめ行為をする事はもちろん、大人になってから雑誌のインタビューで当時の事を笑って語れる様な神経、また周囲も同じ様に笑ってそれを聞き、雑誌記事にしてしまえる様な神経は、非難されて当然だと思います。

 

 でも一方で、自分自身の過去を振り返った時、そういったいじめ行為を積極的に行う事はなかったとしても、例えば誰かが同じ様ないじめをしているのを『横で見ていたけれど止める事ができなかった』という事を思い出したりもする訳です。学校でも、職場でも。いじめって何も未熟な子ども時代にだけある問題じゃないから。

 

 そういう自分が、自分自身の至らなさを棚上げして小山田氏を批判しても良いのかという事を考える時、ただ彼を非難してこの問題を終わらせてしまう事に何の意味があるのかと疑問に思うのです。そんな事は、自分がやらなくても既に多くの人達がやっているし、今から自分がその環の中に入らなくてもいいんじゃないかと思います。それは結局、自分自身が溜飲を下げる事にしか役立たないでしょう。

 

 誰かを非難するなら、それは自己反省とセットであって欲しい。

 少なくとも自分自身は、そうしようと思います。

 

 その上で、福祉の仕事をしている自分がこの問題を考える上で付け加えるべき事は、障がい者の人権』障がい者の地域移行』についての問題だろうと思います。簡単に言えば、自分達の社会は障がい者、特に知的障がい者を地域の一員として受け入れ、共に暮らして行くつもりが本当にあるのだろうかという事です。

 

 自分の勤務先は、障害者支援施設です。そこでは施設入所支援という福祉サービスを提供しています。詳しくない方にも伝わる様に言い換えるなら、老人ホームの様に入所者が施設の中でずっと暮らして行くタイプの福祉サービスです。

 

 施設入所支援を利用する障がい者は、同じ知的障がい者の中でも重度の方々です。

 障がい福祉サービスを利用するには障害支援区分という等級を市町村に認定してもらう必要があるのですが、区分1から区分6まである障害支援区分の中で、5や6といった最重度の区分に相当する方々が施設で暮らす事になります。

 

 彼等の多くは親元で家族と一緒に暮らし続ける事が困難です。

 自分が知る中で、彼等が具体的にどんな方々かという事は守秘義務上書けないのですが、一般論として書くならば、言葉による意思疎通が困難だったり、感情のコントロールが難しく自傷や他害の傾向があったり、自発的に食事や排泄ができなかったり、異食(本来食べられないものを口にしてしまう事)があったりと、24時間の見守りが必要な方々です。そうした方々の入所生活には、もちろん本人の意志や家族の同意が必要ですが、仮に同意があったとしても、それは広義での『人権の制限』にあたるとも言えます。それがどれだけ本人にとって必要な事だとしても。

 

 たとえば勝手に施設から外出する事はできません。他にも食事の時間、日中活動のスケジュール、入浴や排泄、就寝や起床の時間は施設が管理する事になります。お金の使い方も本人に任せてしまうと自己管理ができずに全て使い果たしてしまう等の問題がある為、金銭管理も細かく行います。

 

 それは必要な事ですが、彼等が本来(健常者であれば)自由に行使できる権利を一部制限しているという事でもあります。ですから現在、政府は『障がい者の自立』を目指す方向に進んでいます。具体的には施設入所者の中で、施設を出て地域の中で暮らせる見込みがある人達を、積極的に『地域移行』させて行こうと試みています。

 

 グループホームという言葉を聞いた事があるでしょうか?

 

 認知症の高齢者や、知的障がい者が数名で共同生活をする小規模施設の事です。世話係の職員がいるシェアハウスを想像すると良いかもしれません。

 世話人などと呼ばれる職員はいますが、日中のみの勤務で夜間は世話人が不在なグループホームもあり、入所施設に比べると行動の自由度も高くなります。グループホームで暮らす方々は、そこから日中活動系のサービスを提供する施設に通ったり、就職して通勤したりします。地域の人とのつながりもでき、交流しながら自立生活をする事になります。

 

 これは政府が推進する方向性です。よりご利用者の権利(人権)に対する制約が少なく、彼等が自立して暮らせる場所を増やして行きたい。でもどうでしょう。

 

 自分達には、彼等障がい者を地域の中で受け入れるつもりがありますか?

 

 今回のいじめ問題のように、障がい者を笑い者にしたり、痛めつけて面白がったりする気持ちが自分達の中にあるのだとしたら、政府=国がどんなに旗振り役をしたとしても、障がい者の地域移行や自立など夢のまた夢です。逆にそんな事はしない方がいい。地域の中で受け入れてもらえる事を信じて送り出した人が、心ない健常者にいじめられ傷付けられ、忘れられないダメージを負わされるのだとしたら、最初から地域移行になんて挑戦しない方がましです。

 

 ただでさえ、既に長年施設入所で暮らして来た方が地域移行に挑戦するのはハードルが高く、成功率が低いのが現状です。生活環境や、一緒に暮らす人達が変わる事で感情のコントロールが出来ずに他害等の問題を起こしたり、人間関係のトラブルが解決できずに入所施設に出戻りしなければならなくなったりと、失敗した地域移行の話をよく耳にします。

 

 でも地域移行の失敗は、障がい者本人だけの問題なんでしょうか?

 

 確かに入所施設で暮らす様な重度知的障がい者は、地域の中で自立して暮らす上での様々な問題を抱えています。彼等は自分達健常者がそうである様に無垢ではないし、悪意はないかもしれないけれど法を犯す事もあります。窃盗や暴行といった触法行為を繰り返してしまう人もいます。知的障がい者と接するという事は、健常者側からの善意の押し付けでカタがつく様な簡単な問題ではありません。不快にさせられる事もある。期待を裏切られる事もある。傷付けられる事だってある。それは事実です。

 

 でも一方で、彼等が地域で受け入れられないのは、自分達の心のどこかに、過去にいじめ行為を行っていた頃の小山田氏の様な部分があって、障がい者を気味悪がったり、一緒になんて暮らせない、あんな奴らは仲間じゃないと思ったり、できればどこか自分達の目に触れない所で、地域に出て来ない様に管理されて暮らしていて欲しいと願ったりしているせいなんじゃないか。自分達もまた程度の差はあるにしても小山田氏に近い所に立っているんじゃないか。そんな気もします。

 

 実際、以前にヤフー知恵袋か何かで目にした書き込みには『障がい者が外食をしている所に居合わせると、食事風景が騒がしく、食べ方も汚い。見ていると食欲を無くすので、意味のない外食は止めて施設から出て来ないでくれ』という主旨のものがありました。書き込んだ人は丁寧に『これは差別ではないんですが』と書いていた気がしますが、『それを差別と言うんだよ』という正論を返したところで何になりますか? 障がい者と同じ場所で食事をするなんてごめんだね、という健常者の気持ちを変える事ができますか?

 

 だから自分は思うんですが、自分達が小山田氏の障がい者いじめを批判する時、その批判に使ったエネルギーや怒りの100分の1でいいから、それを自分自身にも向けてみて欲しいと思うんです。それは当然不快です。場合によっては痛い事です。でもそうする事でしか変えて行けない現状というものがあります。そしてそうやって自分達が現状を少しでも変えてくれる事を、彼等障がい者は期待して待ってくれているのだと思います。その歩みがどんなに遅くても。遅々として進まなくても。

 

 いままでもずっと。これから先もきっと。

 

 その気持ちに、自分達は応えられるでしょうか?